「あなたは、一体――」
立香がそう口にした瞬間、背後からバンバンバンバンバン!! と扉を叩く音が響いた。数多の手の平が、扉に力任せに打ち付けられているような音だった。分厚い扉の板がビリビリと振動するほどの威力に、立香はか細い悲鳴を漏らす。
「ひっ……!」
追いつかれたのだ。あの幽霊たちに。それに気が付いてしまった立香の全身は、恐怖でガタガタと震え始めた。乱雑に扉を叩く音は止まない。
次第に拳で扉を殴るような重たい音へと変わり始め、屋敷全体がみしり、と軋んだ。貴族風の男は美しい形をした眉を少し歪めると、
『チ、ここまで追いかけてくるとは、余程執心しているようだな』
と言って扉を見た。その時、
「何事だ」
と、あの金色の瞳の男性が屋敷の奥から姿を現した。荒れる波の如くうねる白銀の髪。月の如き怜悧な輝きを放つ金の眼。
紛れもない、あの人だった。彼は立香を一瞥してから、自らに瓜二つである貴族風の男の方へと目線を投げた。
「……説明してもらおうか」
そう言い放った彼に、貴族風の男は、さも愉快そうに
『厄介事だぞ、〈エドモン〉』
そう口にすると、ヒラリと階段から身を乗り出した。ふわり、と重力を無視して、エドモン――金の眼をした男性――の下へと紅い瞳の男が降り立つ。
その時、立香ははっきりと目にしてしまった。紅い瞳の男には影も、重さもない、ということを。
立香が目を見開いたのと同時に、エドモン、と呼ばれた男が顔を上げる。傍に降り立った貴族風の男の姿を、その金色の瞳で睨みつけると
「……何を企んでいる?」
と、警戒した様子で問いかけた。
「貴様が策を弄して、厄介なことにならなかったことがあったか? ……よもや、それすらも忘れるほどに耄碌したか? 〈伯爵〉」
『何、そう喚くな』
伯爵はエドモンの侮蔑をさらりと受け流して、クツクツと笑みを漏らす。
紅い瞳に愉悦を浮かべたまま、〈伯爵〉と呼ばれた存在はエドモンの顎をくい、と指先で持ち上げた。そのまま、伯爵の指先がエドモンの顎先から喉へと滑り落ちていく。
『手元が狂って、貴様を殺してしまうやもしれん。なァ? 我が末裔よ』
喉仏の上を伝う指先が、踊るようにして柔い首筋に流れていく。淫靡な空気の中に混じる研ぎ澄まされた気配が、傍観者となっている立香の鼓動を速めていく。
伯爵は、フ、と吐息で笑うと、エドモンの首筋を彩る――あの時、立香が彼に貼った――絆創膏に触れた。
白い首筋に貼り付けられている、パステルカラーの可愛らしい絆創膏。伯爵の指先は躊躇うことなく、エドモンの肌からそれを引き剝がしてしまった。
絆創膏が剥がれ、露わになった白い首筋。鮮血の跡も生々しいそこに、伯爵は容赦なく噛みついた。
「!?」
立香は息を呑んだ。伯爵は彼女の方に一瞬目線を投げると、ニィ、と瞳を歪ませて笑む。
ぶつ、っという音と共に、牙が傷口を抉るようにして皮下へと侵入してくる。塞がり始めていた傷が広がり、止まりかけていた血がこんこんと溢れ出す。
ズキン、ズキン……と、首筋から走る痛みが指先を痺れさせる。それを堪えるように目を伏せたエドモンは、僅かに眉を顰めて息を詰める。
「っ、ぐぅ、う……ッ」
押し殺したエドモンの吐息が酷くいやらしいものに聞こえて、立香は思わずドキリとしてしまう。
なんだか、見てはならないものを視てしまったような、そんな気配が漂っている。戸惑いつつも、立香はその淫靡な世界から目を逸らせないでいた。
エドモンの首筋から溢れた血を飲み干した伯爵は、口の端についた紅を指で拭った。そして、
『十四の石よ、我が血に応えよ』
そう伯爵が口にした瞬間、轟、とエドモンの影が炎のように燃え上がる。蒼い閃光を残して揺らめく影は、さながら冥府にて罪人を灼く焔のように見えた。
『破滅の運命の前に踊るがいい、我が末裔よ』
伯爵が指を鳴らすと、屋敷の扉がひとりでに開かれる。それと同時に、片手では数えきれない程の数のヒトガタが屋敷の中に雪崩れ込んできた。
「――!?」
先程までは、鏡越しにしか見えなかった霊たちの姿。それが、今は朧ながらもしっかりと立香の目にも視えている。視えてしまっているために、追いかけてきた霊の数を明確に認識できてしまう。
片手では足りないだろう霊の数が、立香目掛けて迫ってくる。執念を燃やして追いかけてきた亡者の姿に圧倒され、立香は昏倒してしまいそうになる。
あれだけの数の霊に捕まりでもしたら、もう、逃げることも抵抗することも出来ないだろう。
怯え始めた立香の側に、伯爵が姿を現す。
『なァに、そう怯える必要はあるまいよ』
「……え?」
伯爵の目線の先を追えば、エントランスホールの中央に立つエドモンの姿があった。彼は押し寄せてくる霊たちの前に立ちはだかると、
「そうだな。その点については、アレの言う通りだろう」
そう伯爵の言葉を肯定した。それから、彼は目線だけをこちらに投げかけて、立香に向かって不敵に笑ってみせる。
「この程度、追い払うなど造作もない」
その言葉と共に踵を一つうち鳴らすと、彼の影がぶわ、と床一面に広がった。湖面のように、黒い影がエントランスの床を満たしたかと思うと、屋敷に踏み込んできた霊たちの身体を瞬時に串刺しにしてしまった。
地面から突き出した炎の杭。それに縫い留められた亡霊たちが、呻き声を上げる。
「な、何が……」
困惑している立香の前で、エドモンがもう一度踵を打ち鳴らせば、凄まじい音と共に霊たちが燃え始めた。文字通り、内側から燃やし尽くす業火に苛まれた霊たちの叫びが、屋敷の中に響き渡る。
『――クク、阿鼻叫喚、とはこのことだな』
それを、まるで戯曲でも観ているかのように、伯爵はくすくすと笑みを浮かべて眺めている。
亡霊の魂ごと灼く炎の、蒼い閃光。嘆き叫ぶ苦悶の声。そして、この世ならざる美貌の幽霊の微笑。その全てが、立香の常識というものを塗り替え、毀していく。
余りに色々なことが起こりすぎて、立香の脳はキャパシティーを超えてしまったらしい。先ほどまで走り回っていたせいだろうか、それとも、この異様な光景に脳が過度の疲労を覚えたからだろうか。全身の力が抜けて、意識が遠のいていくのを感じていた。
「……っ、ぁ、……」
日常が崩れ落ちていく音を聞きながら、立香の身体が倒れゆく。
意識が途切れる直前。エントランスの中央からこちらへと振り返った男の、金の瞳の輝きに――酷く、安堵したような……そんな気がした。