久方ぶりに心地よい微睡みに浸っていた立香は、ふと、意識が表層に浮かび上がっていくのを感じていた。
何故か、唇に柔らかさを感じる。ほんの些細な違和感だったが、眠ったままでいたがる億劫な自分を突き放すには、十分な力を持っていた。眠気に引っ張られる気持ちを振り切るように、薄っすらと目を開ける。
「ん、んんー……んっ、んぅっ?!」
目を開けてすぐ、視界に飛び込んできたのは伯爵の顔だった。時が凍り付いてしまいそうなほどの美貌が眼前にあるどころか、薄く整った形の唇が、立香自身の唇を塞いでいる。
(な、何!? どういうこと……!? というより、わたし、なんで……き、キスして……!?)
動揺して目を見開くと、伯爵とバッチリと目線が合ってしまった。伯爵はその紅い瞳だけを歪ませて笑うと、重ねていた唇を離した。彼はぺろ、と自らの唇を舐めると、
『ん、……っは。何だ、もう目が覚めてしまうとはな。面白味に欠ける』
なんてことを言いだした。
「な、なっ……!!」
目覚めたばかりであることと、状況が分からないことのへの混乱とで、立香は文句も言えないまま、固まるばかりであった。
見知らぬ天井と、身体を受け止めていてくれる上質なベッド。深く煙の奥に隠された甘さを幻視させるような香り。そして、目の前にいる〈伯爵〉と呼ばれる存在と、彼がした接吻の意味。その全てが立香を戸惑わせていた。
その上、伯爵は何を考えているのか、立香の上に覆い被さったまま退く気配がない。
ベッドの上に押し倒されているような形になってしまって、逃げ場を失ったような錯覚に陥る。まんじりともせず、伯爵と立香は無言で視線を交し合った。その時、
「目が覚めたようだな」
ベッドの天蓋を押しのけ、外からエドモンが声をかけて来た。
彼の手にはミネラルウォーターのボトルが握られていたので、心配して様子を見に来てくれたらしい。……のだが、立香の上にのしかかっている伯爵を見るや否や、
「おい、……何をしている?」
と、眉間に皺を寄せて厳しい視線を投げてきた。伯爵が
『貴様が手を出す前に、手籠めにしてしまうも一興かと思ってな』
火に油を注ぐようなことを言い出したので、エドモンの表情はより一層険しいものになった。しかし、寝ぼけまなこで二人を交互に見つめる立香の様子から、エドモンはすぐさま事情を察したらしい。
「……はぁ。…………眠りを妨げたことは詫びよう」
エドモンが深い溜息を漏らすと、伯爵は興醒めした様子で立香の上から退いた。それから、立香にミネラルウォーターのボトルを手渡したエドモンは、ベッドの縁に腰掛けるなりこう問いかけた。
「単刀直入に問おう。何故、此処へ来た?」
立香は困ったように、
「それが、よく分からなくて」
そう素直に返してから、自分の身に起こったことを説明した。
突然幽霊の姿がはっきりと視えるようになったこと。幽霊に追いかけられたこと。公衆トイレで伯爵の炎が助けてくれたこと。……それから、無我夢中で幽霊から逃げ回っているうちに、ここに辿り着いたこと。
それを黙って聞いていてくれたエドモンは、立香があらかた話し終えたのを確かめると、
「……なるほどな、」
と小さく呟いた。