立香の言葉を聞いたエドモンは、脳内で状況を整理しにかかった。
……立香が嘘をついているとは思えない。彼女の反応を見るに、彼女は自らが置かれた状況を理解できていないのだろう。
(そうでなくば、このような〈忌まわしき地〉へと足を踏み入れようなどとは思うまいよ……)
憎悪に燃える魂を削って作り出され、揺らがざる精神によって支配された異界。それがこの屋敷なのだ。
……常人でも、体感温度の低下として異変を察知出来てしまうほどに、この屋敷は異様な場所だった。
僅かばかりでも霊感が働くのであれば、この場所に進んで訪れようとは思わないはずだ。
しかし、立香はここから逃げるのではなく、〈霊たちから逃げるために〉この屋敷へと自ら足を踏み入れた。
それはまるで、何者かに招かれているかのようで――……
そこまで考えたエドモンは、眉を顰めた。
地獄の具現に等しいこの場所へ、伯爵は立香を招いた。それには、何か思惑があるに違いない。
彼は立香に気づかれないように溜息を吐き出すと、彼女の背後に揺蕩っている伯爵を睨んだ。
伯爵は余裕ある表情を崩さぬまま、エドモンの視線を受け止めて見せた。そして、彼が何かを言うよりも先に、
『――それにしても、あれ程の数の霊に追われるとはな。よほど、おまえの魂が欲しいと見える』
と、立香に声をかけたのであった。
突然、背後にいた伯爵から話しかけられた立香は、物騒な発言にギョッとしてしまった。
「魂が、……欲しい?」
『そうとも。死者は生者に執着するのが常だ。……生者しか魂に熱を持ちえないが故に、その熱に死者は永劫に焦がれ続ける。その熱を穢し、凍えゆく過程を眺め恍惚に耽る愉悦を、奴らは常に欲しているのだとも』
立香の前に再び現れた伯爵は、紅い瞳で立香の瞳を覗きこんだ。言葉の裏に隠された意味。それを仄めかすような眼差しを向けられた立香は、思わず息を詰める。
このままでいたら、幽霊たちに魂を弄ばれて命を落とすかもしれない。想像するだけで、背筋がぞわり、と震える。そんな立香を見かねたエドモンは、二人の間に割って入ると
「戯れに恐怖心を煽るような真似は止めろ」
そう伯爵に警告をした。そして、立香の方に向き直ると、
「……先ほどの話だが、霊の姿が〈突然〉視えるようになった、と言ったな?」
と問いかけてきた。立香が頷くと、彼はこう続けた。
「霊感がこうも急速に覚醒するというのも、甚だ疑問ではある。何か、思い当たることはあるか?」
そう聞かれた立香は、ふと、この街に引っ越してきたばかりのことを思い出していた。
「そういえば、一か月前に引っ越してきてから、その、変な夢を見るようになったんです……もしかしたら、それが関係あるのかも……?」
そう口にした立香であったが、〈変な夢〉が淫らな夢であることは伏せてしまった。
「引っ越し、……か、土地の影響もあるやもしれんが、」
そう真面目に考えるエドモンとは対照的に、伯爵は何もかも知っているような素振りを見せつつ、敢えて問いかけて来た。
『変な夢、とは?』
敢えて伏せていたことを引っ張り出されてしまった立香は、顔を赤らめて言い淀んだ。
エドモンが真剣に考えてくれている以上、口にしないで誤魔化すことは避けるべきだろう。そう考えた立香は、恥ずかしさで消え入りそうな気持を押して、
「え、……っちな、夢、」
何とかそう口にすると、二人から目を逸らした。エドモンは僅かに動揺した素振りを見せたが、伯爵は泰然とした笑みを浮かべたまま、立香を追及するように
『なるほど? では、毎晩霊に身体を弄られていた、と』
と問いを重ねていく。毎晩悩まされた行為は非常に恐ろしい事なのだが、それを二人の前で肯定するのが恥ずかしくて、つい俯いてしまう。そこに助け舟を出したのはエドモンだった。
「俺と衝突した時、コレが見えていたな?」
そう伯爵を指さすので、立香はコクリと頷いた。
「伯爵……? と目があってから、鏡越しで幽霊みたいなのが見えるようになって……」
「その後、霊に襲われたのだろう?」
エドモンの返答に立香が驚くと、
『知っているとも』
と答えた伯爵はうっそりと嗤って
『おまえを助け出したのは、私の力を使った我が末裔なのだからな』
そうエドモンの方に目線を投げかけた。
「! じゃあ、あの時の炎は……!」
トイレで捕まった時、立香が逃げ出すきっかけを作ってくれた炎。あれは、エドモンが助けてくれたのだということを理解した。視線を彼に向けるも、
「……」
エドモンは腕組みをしたまま、何も答えない。しかし、伯爵の話からすると、立香が霊に尾けられていることに気付いたエドモンが、伯爵の力を行使したのだという。
一度ならずも二度までも助けてもらってしまった。心の底から湧き上がる感謝の念をどうしても彼に伝えたくて、立香は彼の前で頭を下げると
「あ、ありがとうございます!」
と礼を述べた。立香が余りに仰々しくお礼を述べるので、エドモンは苦笑しつつそれを受け入れた。それから、少し口元を緩めて、
「フ、……そう堅苦しくなる必要もあるまい」
と、もっと気を楽にしろ、と申し出てくれた。立香はそれに甘えることにしたのであった。
そんな二人のやり取りを眺めていた伯爵は、おもむろに口を開いたかと思うと、
『おまえには、元より霊感に近いものがあったようだが。ここ最近、強引に拓かれているようだな』
そう指摘した。伯爵はマンションの構造や位置を詳しく聞き出すと、立香に図面を描かせた。
「……見た所、この国でいう所の鬼門にあたる位置に部屋がある。それに加え、霊道の上にベッドを置いている……か。毎晩霊の通る道の上で寝そべれば、過敏にもなるというものだろう」
エドモンは立香の書いた部屋の図面を見ると、そんな事を言い出した。伯爵は何やら思う所がありそうな素振りだが、概ねエドモンの言葉に同意してみせる。
「ええと……。部屋の場所が良くないってこと?」
立香の言葉に、二人は首肯して見せた。
……つまり、マンションの部屋が偶然にも鬼門の通る場所にあり、たまたま鬼門の上にベッドを置いてしまったので、中途半端に目覚めていた霊感が覚醒してしまった――ということらしい。
俄かには信じがたい話だが、この世の物理法則を無視して見せる伯爵の姿を前にしてしまえば、どれほど疑わしくとも受け入れざるを得ない。そんな立香の胸中を知らないエドモンは、真剣な面持ちで
「大方、霊感が目覚めたことで、この洋館にも立ち入れるようになったということだろうな」
そう立香の状況を考察した。そして、一度溜息に似た吐息を漏らすと
「霊感が目覚めたばかりで、感覚に狂いが生じているのだろうよ。……そうでなくば、このような悍ましい場所に立ち入ろうなどとはすまい」
そう口にしたエドモンに、立香はふと、気になったことを問いかける。
「そう言えば、その……二人は一体何者なの?」
今更ながらの問いとは承知しているが、この問いを口にせずにはいられなかった。
好奇心と探求心に似た感情から問いを口にした立香を弄ぶように、伯爵は今度こそ妖しく蠱惑的に嗤った。そして、その空気に透過してしまいそうな青白い手でエドモンの頬に触れると、
『私は復讐の半ばに死した――所謂幽鬼でな。人ならざる身に堕ちた、神になり損なったモノだ。生半な霊と同じにされては困る。……ああ、此れは私の末裔にあたる。この家系で稀に起こる、〈先祖返り〉の影響を強く受けているのだとも』
と言った。エドモンは伯爵の手を払うと、続けてこう説明してくれた。
……伯爵はその執念の炎により、死して尚、霊としてこの世を彷徨い続けているのだという。伯爵の血を継いだ一族は、先祖返りを起こす者が稀に出るそうなのだが、エドモンがその一人なのだという。
先祖返りにより、エドモンは伯爵に血を与えることで彼の力を借り受けることができるらしく、それで霊を追い払えるのだとか、何とか。
他にも色々と話していた気がするが、難解な言い回しが多く、立香が理解できたのはここまで。それと、あと一つ――自分の運命を決める話だけ。
『……これ以上私たちのことを詮索したとて、おまえ自身の問題が解消するわけでもあるまいよ』
そう口火を切った伯爵は、立香に思わし気な目線を送ると
『それで、……おまえは霊に困っているのだったな?』
囁くように問うた。人を惑わす、甘く妖しい色香を孕んだ声に、立香の背筋がぞくり、と震える。
……答えによっては、自らの破滅を招いてしまうのかもしれない。
そんな予感さえ抱かせるほどに、伯爵の言葉は不思議な魔力を持っていた。
「わたし、は……」
伯爵の問いに答えようと、立香は薄く唇を開く。……この先は、自分の言葉で口にして、望まなくてはならない。それを、立香は本能的に理解していた。
今まで夢だと思っていた、霊たちからの肉体への接触。それは夢ではなく、現実に起こっている悪夢そのものだった。……最早、霊の姿をこの目に捉えられるようになってしまった今、あのマンションに帰ったらどうなるのかは、火を見るよりも明らかだった。
立香はぶる、と悪寒に身体を震わせてから、決意を宿した瞳で伯爵とエドモンを見た。立香の望みに対して、二人が何を対価として求めてくるかは分からない。しかし、このまま何もせずに屈辱と死を受け入れるよりは、ずっといい。
「お願い、助けて! どんな手段でもいいから……!」
そう思い切って告げた立香の覚悟を試すように、
『ほう、言ったな?』
ニィ、と笑った伯爵に押し倒された。
「きゃっ……!?」
ぐるん、と視界が回って、天井を仰ぐ。背中に触れたマットレスの感覚で、押し倒された、とワンテンポ遅れて理解する。
驚いて目を丸くする立香の隣に腰かけたエドモンは、神妙な面持ちのまま瞳を覗き込んで来た。真っ直ぐにこちらを見つめる金色の瞳は、立香を案じるような気配を宿していた。
立香は瞬きのうちに、気遣う彼の気持ちを受け止める。それから、覚悟を示すようにして、頷き返して見せる。それを見たエドモンは、一つ息を吐き出すと、慎重にこう告げた。
「――おまえが、助かりたいと真に願うのならば」
エドモンの言葉を継ぐように、立香の耳元に口を寄せた伯爵はこう囁く。
『私たちに身を委ねることだ。……意味は、分かるな?』
そう告げた伯爵の唇が、立香の唇を塞いだ。