「オルステッド様。一つ、教えてほしいことがあります」
事務所の机に山積みにされた書類から顔を上げ、ルーデウス・グレイラットは対面に座る「龍神」を見つめた。
オルステッドは無言で視線を返す。
今やその恐るべき威圧感に恐怖することはなくなっていたが、社長と部下、そして世界を救うための盟友としての深い敬意は常に持ち続けていた。
「……何だ」
「もしも……俺がこの世界に産まれてこなかったとしたら。俺のいない歴史(ループ)で、シルフィはどうなっていたんですか?」
ふと思い浮かんだ疑問だった。
自分という異物が混ざる前の、本来の歴史。
オルステッドはわずかに目を細め、何百回と繰り返した記憶を辿るように少しの間を置いた。
「シルフィエットか。……彼女は本来の歴史において、ノルンやアイシャの教師としてグレイラット家に雇われたロキシー・ミグルディアに師事し、その魔法の才を開花させた」
オルステッドの口から語られた、全く異なるもう一つの「過去」。
ルーデウスはその言葉に目を見張り、思わず書類を握る手に力を込めた。
「ロキシーが……シルフィの先生に……?」
「そうだ。お前がいない世界では、ロキシー・ミグルディアは、後に生まれたノルンとアイシャの家庭教師として、パウロに雇われる。そして、その村で孤独にくすぶっていたハーフエルフの少女の才能を見出し、自らの弟子としたのだ」
オルステッド様は微動だにせず、淡々と歴史の糸を解き明かしていく。
「お前という先駆者がいなかったため、彼女は無詠唱こそ習得しなかった。
だが、ロキシーの熱心な指導によって、最終的には水聖級、あるいはそれ以上の魔術師へと成長する。
やがて一時期師匠のロキシーと共に冒険者として世界を回って暮らしていた。
俺が二人の名前を知っているのはその時の付き合いからだ」
「……え?」
ルーデウスは思わず素っ頓狂な声を上げた。
オルステッドがシルフィとロキシーの名前を最初から知っていた理由。
それはただの知識としてではない。かつてのループで、オルステッド自身が二人と直接関わっていたからだ。
「その後シルフィエットは故郷のブエナ村に戻って結婚した。
村の幼馴染の男性だったそうだ。
子供にも恵まれ、波乱はなくとも、平穏で、それなりの幸福に満ちた生涯だったろう」
ルーデウスの脳裏に、かつてブエナ村でシルフィをいじめていた連中の顔が浮かぶ。
もし自分が助けなければ、彼女はロキシーに救われて世界を回り、最後はあの村に戻って、かつて自分をいじめていた男と結婚して、子供まで産んでいた。
その事実に胸の奥が妙にざわついたが、オルステッド様の次の言葉が、その思考を完全に吹き飛ばした。
「だが、気を付けた方がいい。世界には正しい歴史に修正しようとする力が働く。
むしろお前が産まれたことによる変更が間違った歴史であり、それを正そうとする力が働くやもしれん。
本来の因果から外れた存在や出来事は、世界の平穏を脅かすバグのようなものだ。
世界はその歪みを嫌い、元の形へ戻そうと圧力をかける。
お前という異物がもたらした今の幸福な現実(いま)は、世界から見れば『間違った歴史』そのものなのだ。
今はお前の傍で微笑んでいるシルフィエットも、あるいはロキシーやエリスも、世界の修正力によって、本来あるべきだった運命へと引き戻される可能性がある。
それがどのような形で現れるかは分からん。突発的な事故か、病か、あるいは人神(ヒトガミ)の手引きか……。
だが、無詠唱を操り、アリエルを支え、お前を世界で一番に愛している今のシルフィエットは、お前がいたからこそ存在している。
私の知るどのループの彼女よりも、今の彼女が最も強く、そして幸福なのは間違いない」
ルーデウスの背筋に、冷たい戦慄が走った。
あの温かい日常が、世界そのものから「間違い」だと否定され、奪われようとするかもしれない。
「……世界がそれを間違いだと言うなら、俺は世界を相手にしても、今の歴史を守り抜きます。俺が産まれて、必死に生きて、シルフィたちと掴み取ったこの人生が、俺にとっては唯一の『正しい歴史』ですから」
「フン……。その意気込みは良し。だが過信はするな。だからこそ、我々はあらゆる可能性を潰し、人神を、そして世界の悪意を打倒せねばならんのだ」
「はい。分かっています、オルステッド様。そのためにも……まずは目の前の仕事を片付けます。早く終わらせて、愛する妻たちの待つ家に帰ります!」
「……好きにしろ。家族を待たせるな」
ルーデウスは顔を上げ、再びペンを握った。
世界がどれほど元の歴史へ引き戻そうと、この手で変えた最愛の妻たちの運命は、絶対に手放さない。
胸に灯った新たな覚悟を燃やしながら、ルーデウスは猛然と書類に向かい直した。