激しい情愛の嵐が過ぎ去った後、閉ざされた扉の向こう、ランプの光が夜の静寂へと溶けていく部屋の中で、二人は静かに寄り添い合っていた。
お互いの肌の温もりを確かめ合う。
そこには、ルディの隣にいるときにシルフィを苛んでいた、あの引き裂かれるような嫌悪感やパニックは欠片もなかった。
ただ、ずっと遠い場所からようやく自分の巣へと帰ってきたような、深い、深い安らぎだけが満ちていた。
ソマルの大きな手が、シルフィの髪を優しく梳く。
その手が触れるたびに、穏やかな心地よさが身体を浸した。
ソマルの胸に顔を埋めるシルフィの、かつて白く染まっていたはずの髪は、いつの間にか、昔のような瑞々しい緑髪へと完全に戻っていた。
己のすべてを受け入れてくれた愛する女性を強く抱き締めながら、ソマルは低く問いかけた。
「本当に、俺と一緒に来るのか」
その腕の中で、シルフィは小さく頷いた。
「……うん」
少し考えてから、シルフィはソマルの腕の中で静かに言った。
「……荷作りはもう終わっているよね」
「ああ。いつでも出られる」
「なら、朝まで待たず、すぐにシャリーアを出ましょう」
「何故だ。朝発つ予定の商隊と一緒の方が安全だぞ」
「朝になったら、追手が来るわ」
シルフィの頭の中には、今やソマルこそが自分の最愛の夫であるという、絶対的な確信が満ちていた。
しかし、それと同時に「ルーデウスの妻」として生きてきた数年間の記憶も、消されることなくそのまま脳裏に残されていた。
シルフィ自身には本当の歴史とか間違った歴史とかの知識はない。
ただ、二つの矛盾した記憶の狭間で、彼女の精神は完全に反転していた。
彼女の目には、圧倒的な魔力を持ち、自分を屋敷へ連れ戻そうとするルーデウスが、「自分とソマルの愛を引き裂きにやってくる男」のように映っていたのだ。
見つかれば、ソマルが殺されてしまうかもしれない。
その本能的な恐怖だけが、彼女を突き動かしていた。
「追手って……。だけど、こんな真夜中じゃあシャリーアの門が締まっているじゃないか。外には出られないぞ」
「こういう時、夜でも外に出られる口(ルート)を、私は知っているのよ」
衣服を身に纏い、ソマルの荷物を抱え、二人は静かに薄暗い貸し部屋を後にした。
ルーデウスという強大な男への恐怖に怯えながら、
しかし自らの愛する相手を守るため、
二人は夜のシャリーアの闇へと消えていく。
**********
いきなり家を飛び出したシルフィが一晩、家に戻らなかった。
嫌な予感に胸を締め付けられながら、ルーデウスはロキシーやエリス達と共に、シルフィを探す。
必死の聞き込みの末、昨日屋敷に荷物を運んだ食料品店の若い男を捕まえた。
ルーデウスの放つ凄まじい威圧感に、男はガタガタと震えながら白状した。
「お、俺は頼まれて奥様に手紙を渡しただけで……!」
「頼まれてって、誰だ」
「ソマルという男だよ」
ソマルの名を聞いた瞬間、ルーデウスの脳裏に以前、オルステッドから聞かされた言葉が帰ってきて、心臓が凍りついた。
さらに街を探すと、度々ソマルとシルフィが親し気に話していたところを目撃していた者もいた。
ルーデウスは教えられたソマルが住んでいた部屋へと走り、その扉を乱暴にこじ開けた。
しかし、そこは既に空っぽだった。
呆然と立ち尽くすルーデウスの前に、階下に住む家主のおばさんが不審そうに顔を出した。
「ああ、そこの住人なら昨晩急に出て行ったよ。そういえば最後の夜、女の人が訪ねてきたみたいだね」
家主のおばさんは、ルーデウスの青ざめた顔にも気づかず、下世話なにやけ顔を浮かべながら言葉を続けた。
「若い人たちはいいねぇ。真夜中まで盛んにやっていたものだから、すっかり寝不足になっちまったよ」
その言葉が、ルーデウスの脳内で鋭い刃となって突き刺さった。
あの薄暗い部屋で、自分の愛した妻が、他の男と何度も肌を重ね、そして自分の意志でその男を選んで逃げ出した。
世界の修正力という圧倒的な現実の前に、ルーデウスはただ崩れ落ちるしかなかった。
主を失い、部屋にぽつんと取り残されていた緑の魔石の指輪だけが、彼らの決別を証明していた。
その後、ルーデウス・グレイラットが妻に逃げられたという話は、瞬く間に噂となってシャリーア中に広まったのだ。
**********
果てしない喪失感と絶望に叩き落され、深い眠りとも気絶ともつかない意識の底に沈んでいたルーデウスは、気がつくと見覚えのある場所に立っていた。
一面が真っ白な、上下も左右も分からない、果てのない空間。
「やあ、元気にしてたかい、寝取られ旦那のルーデウス君」
久しぶりに、あの不快極まりない声が響いた。
振り返れば、そこにいるのはモザイクのように姿がブレる、胡散臭い笑顔を浮かべた存在――ヒトガミだった。
彼はこれ以上ないほど愉悦に満ちた様子で、ルーデウスを指差してケラケラと笑っている。
「いやあ、傑作だったよ! まさかオルステッドの小賢しいループの知識を教えてもらった矢先に、自分の愛するシルフィに、かつてのいじめっ子の男の腕の中へ自ら飛び込まれて逃げられるなんてさぁ!」
ルーデウスは拳を強く握りしめた。
奥歯がガタガタと鳴り、全身から怒りと屈辱の魔力が吹き出しそうになる。
しかし、ヒトガミの言葉は冷酷にルーデウスの心を抉り続けた。
「言っておくけど、これ、僕の罠じゃないからね?
全部君がこの世界に産まれたバグを直そうとした、『世界の意思』がやったことなんだ。
君がどれだけあがこうと、世界は正しい歴史に戻りたがっている。
君の周りのすべてが、本来あるべき別の男の元へ帰っていくのを見るのが、今から本当に楽しみだよ!」
ヒトガミはそこで言葉を区切り、ブレるモザイクの身体をルーデウスの顔のすぐ近くまで寄せると、さらに酷く歪んだ笑みを深めて囁いた。
「ところで君、奥さんの行方を知りたくはないかい。そのために僕を呼んだんだろ」
怒りで顔を歪め、ヒトガミの胡散臭い笑顔を睨みつけながら、ルーデウスは地を這うような低い声で言葉を絞り出した。
「……わかるのか」
するとヒトガミは、待っていましたと言わんばかりに両手を広げ、さらに愉快そうに肩を揺らして笑った。
「君の家族である間は僕の力は及ばないけど、もう彼女は君の家族ではないからね」
その言葉は、もはやシルフィが完全に自分のものではなくなったという、容赦のない死刑宣告のようだった。
ルーデウスの心に、さらに深い絶望の楔が打ち込まれていく。
「……いや、やっぱり、いい」
ヒトガミは意外そうにモザイクの身体を歪ませ、不思議そうに首を傾げた。
「何故だい、気にならないのかい」
ルーデウスは拳を血が滲むほどに強く、強く握りしめ、魂の底から絞り出すような声で告げた。
「……知ったら俺はシルフィもソマルも殺してしまう」
「僕としてはその方が面白いけど、そんな顔するなよ、君の意に反したことなどしないさ。でも最後に、今二人が何をしているかだけは見てよ。大事な事だからね」
ヒトガミは肩をすくめ、くすくすと笑った。
その直後、白の世界の一角が切り抜かれたように、色彩を持った立体的な「映像」が映し出された。
映し出されたのは、シャリーアを抜け出し、旅を続ける二人の今の姿だった。
今まさに移動している旅路の宿で、すっかり元の瑞々しい緑髪に戻った今の姿のシルフィが、ソマルと深く肌を重ね合っているリアルタイムの光景だった。
聞き慣れた声、夜毎ルーデウスの体の下で上げていた声、それを彼女は他の男の下で上げていた。
緑の髪を乱したシルフィは恍惚とした表情で応え、法悦の声を上げた。
「ああ、ソマル、私、ソマルの奥さんになれて、本当に嬉しい。ずっと、こうなるべきだったんだよね」
ルーデウスしか知らなかった場所、ルーデウスにしか許さなかった場所を今彼女はソマルに許していた。
「ああ、俺のシルフィが」
ルーデウスが血を吐くような呻きを漏らすと、ヒトガミはさらに嘲笑を深めた。
「ちなみに予言すると、この二人の間に子供が出来るよ。ただの村人のように見えたこの男も、君と同じラプラス因子の持ち主でね、産まれた男の子は君の子と将来戦うことになる」
しかしそんなヒトガミの声も尻目に、ルーデウスいやルーデウスの中の太った男は、自分の伴侶が他人の腕に抱かれる光景を前に、自らの下半身に手を伸ばしていた。
襲いかかる怒りも絶望も、そして不気味な予言さえも忘却の彼方へと追いやられる。
ただ目の前の光景に狂おしいほどの執着を抱き、自責と倒錯のなかで自慰にふけっていく。
引き裂かれるような胸の痛みと狂気的な怒りの絶頂でありながら、同時にその倒錯した快楽に意識を深く侵食され、ルーデウスは強引に現実の世界へと意識を引き戻されるのだった。