「……っ」
重い瞼を持ち上げたシルフィの目に飛び込んできたのは、煤けた見知らぬ天井だった。
窓から差し込む斜陽は、すでに赤黒い夕方の光へと変わっている。
頭の芯に残る激しい偏頭痛を覚えながら、シルフィは自らの身体に走る強烈な違和感に気づき、跳ね起きるようにして起き上がった。
肌寒い空気。
――何も着ていない。
彼女の背筋に冷たい戦慄が走った。
隣を見る。
「あ……」
喉から小さな悲鳴が漏れた。
視線の先、そこには、同じく一枚の布すら身にまとわずに深い眠りに落ちている、ソマルの姿があった。
床を見れば、自分の服とソマルの服が、無惨に散らばっている。
――嘘、嘘でしょ……。
焦燥に駆られて寝台から立ち上がったその瞬間、自らの太腿を、どろりとした熱い液体が伝い落ちた。
彼女の身体の奥から床へと垂れ落ちる、ソマルの生々しい痕跡。
自分の白い肌のいたるところには、ソマルが付けた赤黒い痕が、いくつも残されていた。
「……私、……何をしてるの……っ!?」
混乱する頭を抱え、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
ソマルの部屋に入り、寝台に腰かけ――そして、二人ともまるで初めからそのために来たかのように、自然に結ばれた。
暴力を振るわれたわけではない。魔法や薬で理性を奪われたわけでもない。
狂いそうなほどの頭痛の中、シルフィは泣きじゃくりながら、床に散らばる自分の衣服をかき集めた。
ソマルが残した生々しい肌の痕を必死に隠すように、震える手で無理やり服を身に纏う。
――悲しいことに、それらの服を自らの手で進んで脱ぎ捨てた記憶さえも、鮮明に残っていた。
そして、ハッと息を呑み、シルフィは自分の左手を見つめた。
「指輪……がない……」
そこにあるはずの、緑の魔石の指輪が消えていた。
ルーデウスとの結婚の際、彼から贈られた、世界に二つとない大切な結婚指輪。
どんな時も肌身離さず着けていた、ルーデウスとの絆の証明だった。
「どこ……? なんで……っ!?」
頭の中が真っ白になる。
慌てて見渡すと床の上に落ちていた。
綺麗とは言えない床の上に落ちて汚れてしまった結婚指輪
隣でソマルが身じろぎをする。
「……ん、シルフィエット? どうしたんだよ、そんなところで……」
眠そうに手を伸ばしてくるソマル。それが恐怖でしかなかった。
シルフィはその手を振り払い、慌てて指輪を拾い上げると、鍵の開いた扉を乱暴に押し開け、夕闇に染まるシャリーアの街へと裸足のまま飛び出した。
身体の奥に残る他人の痕跡に耐えながら、彼女はただ、我が家へと向かって、泣きながら走り続ける。
**********
夕闇が完全にシャリーアの街を包み込む頃、シルフィは我が家の門をくぐった。
衣服の隙間からはソマルの付けた赤黒い痕が覗いている。
ルーデウスの名を心の中で幾度も叫びながら、彼女は屋敷の扉を押し開けた。
「……ただいま」
怯えながら声を絞り出す。
しかし、幸運にもルーデウスとロキシーは仕事から、エリスは修行からまだ戻っていなかった。
玄関で出迎えたのは、留守を預かるリーリャだった。
シルフィは必死に声を震わせ、あらかじめ考えていた嘘を口にした。
「ごめんね、リーリャさん……。アリエル王女のところに寄っているうちに、ちょっと遅くなっちゃった」
「左様でございましたか。すぐにお風呂を沸かせますね」
長年グレイラット家に仕える有能なメイドは、シルフィが抱えるあまりにも深い闇には気づかず、その言い訳をそのまま受け入れた。
ルーデウスたちが戻る前に、考える時間ができた。
それだけが、今のシルフィにとっての唯一の救いだった。
浴室へと向かい、お湯を汲む。
熱いお湯で、彼女は自分の身体を擦り洗い始めた。
ソマルの唇が触れた場所、
ソマルの手が触れた場所、
そのすべてを皮膚が赤く腫れ上がるほどに猛烈に洗う。
しかし、どれだけお湯を浴びせても、肌に焼き付いた赤黒い痕は消えてくれない。
シルフィは壁に背中を預け、ずるずると床にへたり込んだ。
彼女は震える手を自らの下腹部へとあてがった。
「ボク……ルディ以外の人と……」
声にならなかった。
お湯と共に足元へ流れていく、自身で汚した男の痕跡。
肉体に刻まれた既成事実は消えない。
愛する夫を裏切ってしまったという底知れない罪悪感が、シルフィの心をズタズタに引き裂いていく。
しばらくして…
「ただいま、シルフィ」
玄関の扉が開き、聞き慣れた夫の声が響いた。
その瞬間、自室に戻っていたシルフィの心臓がドクンと跳ね上がる。
(ルディに言わなきゃ。謝らなきゃ。離婚されちゃうとしても)
胸の奥に渦巻く恐怖と罪悪感を無理やり心の底へと押し込め、階下へ降りる。