「おかえりなさい、ルディ。今日も遅くまでお仕事お疲れ様……あのね、後で」
ルーデウスは笑い、愛おしそうに、シルフィの細い肩に手を伸ばした。
ぽんと、ルーデウスの大きくて温かい手が触れた瞬間、シルフィの身体が一瞬だけ、硬直した。
その時シルフィを襲ったのは、まるで知らない男に身体を触れられた時のような嫌悪感であった。
相手は愛する夫のルーデウスだというのに。
(なんで……? なんでボク、ルディに触られて、こんな……)
頭が真っ白になる。
いつもなら、彼の大きな手の温もりは、シルフィにとって何よりも心地よく、安心できる場所だったはずだ。
それなのに、今の彼女の身体は、ルーデウスの手を「見知らぬ他人の、拒絶すべき手」だと認識し、鳥肌が立つほどの拒絶反応を示していた。
「シルフィ……?」
一瞬の硬直と、微かな身震い。
ルーデウスの眉が、怪訝そうにほんの少しだけ動いた。
その真っ直ぐな瞳が、シルフィの瞳の奥を覗き込もうとする。
「あ、ううん! なんでもないの!」
シルフィは引き攣りそうになる表情を必死に抑え、ルーデウスの手から逃れるように、一歩後ろへ。
「ちょっと、冷えちゃったみたい。すぐに温かいお茶、淹れてくるね!」
背中を向けてキッチンへと駆け込むシルフィの心臓は、壊れた鐘のように激しく鳴り響いていた。
起きたことを夫に話すという覚悟は、完全に霧散していた。
夕食の後、体調が悪いと言い訳をして寝室へ逃げ込み、一人ベッドの中で声を殺して泣き続けた。
やがてシルフィは、涙に暮れたまま自室のベッドで眠り込んでしまった。
夢の中のシルフィは、なぜか緑色の長い髪をしていた。
白い髪の「守護術師フィッツ」としての記憶も、ラノア魔法大学でルーデウスと再会した記憶も、今のきらびやかな我が家の記憶もそこにはない。
ロキシー先生と共に冒険者として世界を旅し、頼もしく成長していく自分。
多くの戦いを経験し、けれど最後には、懐かしい故郷のブエナ村へと帰っていく。
村の入り口で、一人の男が待っていた。
――ソマルだった。
「おかえり、シルフィエット」
そう言って笑うソマルに、夢の中の自分は、なんの躊躇いもなくその胸へと飛び込んでいく。
彼に抱きしめられる瞬間、シルフィの身体を満たしたのは、吐き気をもよおすような嫌悪感などではなかった。
心からの安らぎと、満ち足りた幸福感。
やがて二人は結婚し、素朴な家を建て、子供を授かった。
子供の手を引きながら、ブエナ村の穏やかな緑の平原を歩く。
ソマルが隣で優しく微笑み、自分の頭を撫でてくれる。
(ああ、幸せだな……)
夢の中のシルフィは、心からそう思っていた。
そこにはルーデウス・グレイラットという男の影はどこにもない。
初めから存在しない男。
彼と出会わなかった自分の人生は、こんなにも静かで、穏やかで、満たされていた。
(でも、ボクは――)
「シルフィエット、愛してるよ」
ソマルの声が、耳元で優しく響く。