(あの人に……会いたい)
今日もシルフィはシャリーアの街の方角を見ながら、思いにふけっていた。
あの日、古びた部屋で肌を重ねてしまった、あの男。
頭では「裏切りだ」「忘れるべき大罪だ」と激しく自分を責め立てている。
けれど、街の方角を見つめる彼女の胸の奥からは、言葉にできないほど強烈な切なさと、恋焦がれるような熱い情動が、止めどなく溢れ出してくるのだ。
夢の中で見た、緑の髪の私を愛おしそうに抱きしめてくれたソマルの笑顔。
あの腕の温もり。
世界の因果がもたらす『本来の夫への思慕』が、今の彼女の心をじわじわと、確実に支配しようとしていた。
(だめ……だめだよ。ボクはルディの奥さんなのに……どうして……!)
だが、ルディの妻である自分がそんなことを考えてることを知られてはいけない。
もし、世界で一番優しくて、自分のすべてを包み込んでくれたルディに、今の自分の醜い本心が知れてしまったら。
彼を拒絶する身体の理由が、別の男への恋情だと気づかれてしまったら。
そう想像するだけで、シルフィは恐怖のあまり息ができなくなる。
会えるわけはない。
会ってはいけない。
私はグレイラット家の妻で、愛しいルーシーの、たった一人の母親なのだから。
あの部屋でのことは、何かの間違いだったのだと、そう自分に言い聞かせる。
(でも、ソマルは今もあの街にいて……私を待ってくれているかもしれない。もし、もう一度だけ会えたら――)
「……っ、違う! 違うよ……っ!」
シルフィは自分の頭を両手で強く抱え込み、その場にしゃがみ込んだ。
ルディへの絶対的な愛と、世界の力によって強制的に湧き上がらせられるソマルへの恋しさ。
二つの巨大な感情が彼女の内側で激しく衝突し、シルフィの心は散り散りに乱れた。
壊れてしまいそうだった。
本当の自分がどちらなのか、誰を愛しているのが正しいのか、もう境界線が歪んで分からなくなっていく。
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この屋敷にはシャリーアの店から食料などを運んでくる人々がいる。
いつもは彼らの応対にリーリャが当たっていたのだが、その日はシルフィが当たっていた。
たまたまリーリャが他の家事で手を離せず、少し気分転換になるかもしれないと、シルフィが自ら勝手口へと向かったのだ。
出入りの食料品店の店員が買った食料などを家の中に運び込む。
「では、また注文お願いします」
「ありがとう」
シルフィは代金を支払い、いつも通りの、少し無理をした笑顔で見送ろうとした。
店員が荷車へ戻ろうと、背中を向けたその時だった。
「あ、そうだ、そういえば奥さんに手紙を預かっていたんだ」
「え」
シルフィの身体が、一瞬で凍りついた。
店員は何も疑うことなく、懐から一通の、素朴な紙で折られた手紙を取り出した。
「ほら、うちの店によく出入りしてる旅の護衛の男だよ。奥さんに、どうしても渡してくれって頼まれてさ。なんでも、同じ村の幼馴染なんだろ? 」
「は、はい……。ありがとう、ございます」
震える指先で、シルフィはその手紙を受け取った。
店員は「じゃあまた!」と快活に笑い、荷車を引いて屋敷の敷地を出ていく。
残されたシルフィは、勝手口の扉を閉めると、その場に力なく背中を預けてへたり込んだ。
手元にある手紙。
それはルディの妻である自分が、決して受け取ってはならないものだ。
読んではいけない。
今すぐ破り捨てて、暖炉の火に投げ入れるべきなのだ。
(でも……)
手紙を見つめるシルフィの胸の奥から、またしても、あの狂おしいほどの情動が溢れ出してきた。
頭の奥がジンと痺れる。
破り捨てろと命じる理性を嘲笑うかのように、彼女の指先は、吸い寄せられるように手紙の折り目を丁寧に開き始めていた。