読んでくださる方の脳に響く作品になれば嬉しいです。
全体プロットは完成しています。完結まで書き切る予定です。
2026/8/22 一部改稿しました。
宝石代。
その一語の下で、三本の数字が凛の未来を奪い合っていた。
触媒。遠坂邸の維持費。時計塔への渡航準備金。
手帳に引いた三列を、遠坂凛はもう一度だけ見比べる。今月使う宝石の質を落とせば、進行中の反応は鈍る。予定どおり触媒を揃えれば、来年の留学準備が痩せる。渡航費を守ろうとすれば、今度は屋敷のどこかを後回しにしなければならない。
どの列から数字を移しても、損失の名前が変わるだけだった。
「……ほんっと、燃費が悪いんだから」
誰にともなくこぼし、凛は手帳を閉じた。
冬木の夕方は冷えていた。穂群原学園から歩ける距離にある、静かで少し高級なカフェ。厚いカーテンが通りの音を遠ざけ、テーブルの小さなランプが琥珀色の光を落としている。
グラスの底には、オレンジジュースが少しだけ残っていた。指で回すと、氷がからりと鳴る。
聖杯戦争の後始末。学校の勉強。遠坂の魔術研究。そして、来年に控えた時計塔への留学。そのすべてを止めずに進めようとすれば、遠坂の魔術は容赦なく金を食う。
士郎には言っていない。
言えば、あいつは眉間にしわを寄せて、それから何でもないことのように言うだろう。
――俺が何とかする。
何ともできないとは思わない。できてしまうから困るのだ。自分のバイト代を差し出し、自分に必要なものを後回しにして、それでも足りなければ働く時間を増やす。衛宮士郎なら、本気でそうする。
凛が守りたい未来のために、士郎の未来を削らせるわけにはいかなかった。
「遠坂さん」
穏やかな声が、思考を断ち切った。
凛は顔を上げる。
向かいの椅子を引いたのは、ジェイクだった。最近、冬木で顔を合わせるようになった裕福そうな魔術師。仕立てのいいスーツに、隙のない身なり。時計塔関係者だとは聞いているが、それ以上の素性を凛は知らない。
「お待たせしました」
「いいわ。座って。用件を聞きましょう」
グラスから手を離し、背筋を伸ばす。
制服のまま来たことまで含めて、凛の選択だった。ここにいるのは困窮した小娘ではない。遠坂の当主だ。突然の呼び出しに応じても、主導権まで渡す気はない。
ジェイクは向かいに腰を下ろすと、世間話の一つも挟まずに口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。私は、あなたのパトロンになりたい」
「……は?」
「資金援助です。研究費、触媒代、それに生活費の一部。あなたが根源へ至るために必要な費用を、私に支えさせていただきたい」
凛の人差し指が、こつ、とテーブルを叩いた。
閉じたばかりの手帳が、肘のすぐ横にある。まるで中身を覗かれたような間の悪さに、警戒心が一段上がった。
「見返りは?」
「根源です」
迷いのない答えだった。
「私自身は、もう届かない。才能の限界を痛感しています。ですが、あなたなら――遠坂凛なら、可能かもしれない。私はその過程を近くで見守りたい。それだけです」
「それだけ、ね」
綺麗事だ。
魔術師が見返りもなく金を出すはずがない。まして時計塔に連なる人間なら、善意より先に利害を疑うべきだ。
「本気で言っているの?」
「ええ」
「だったら、わたしが何も確かめずに喜ぶような馬鹿に見えてる?」
「いいえ。むしろ逆です」
ジェイクは気分を害した様子もなく、薄いケースをテーブルへ置いた。留め具を外し、中から数枚の書類を取り出す。
「だから、契約書を用意しました。金額も記載してあります。どうぞ、納得のいくまでご確認ください」
差し出された紙を、凛はすぐには取らなかった。
ジェイクの顔を見る。微笑は穏やかで、焦りも、押しつけがましさもない。その整いすぎた態度が、かえって信用ならなかった。
やがて書類を手元へ引き寄せ、最初のページへ目を落とす。
「……ずいぶん出すのね」
想定していたより多い。
宝石を惜しまず使える。進行中の研究を止めずに済む。五大元素を自在に操り、遠坂の転換を極めるための試行回数を増やせる。留学前の一年を、節約だけで浪費せずに済む。
そして――士郎に心配をかけずに済む。
その考えが、ほかのどれより早く胸に浮かんだことが、凛自身にも引っかかった。
「怪しいわよ」
書類から目を離さないまま、率直に告げる。
「こんなに都合のいい話、普通はない。あんた、何を企んでいるの?」
「疑うのは当然です。私は時計塔の人間で、あなたは遠坂の当主だ。別の利害がないはずがない、とお考えでしょう」
「分かってるじゃない」
「ですが、私に残された道はこれしかない。自分で届かないのなら、届く可能性のある者に託す。そのほうが、まだ希望がある」
真摯な声だった。
真摯に聞こえるよう作った声かもしれない。
凛は紙を一枚めくった。言葉ではなく、条文を見る。魔術師の胸中など読めなくても、契約の穴なら探せる。
「期間は?」
「あなたが根源へ至るまで。もしくは、あなたが私を不要と判断するまでです」
「つまり、解除権はわたしにある?」
「いつでも解除できます。拘束する意図はありません」
凛は該当箇所をペン先で示した。
「なら、そう読める、じゃなくて、そうとしか読めない文に直して。解除に理由は不要。あんたの同意も不要よ」
「承知しました」
「報告義務は?」
「進捗を月に一度ほど。内容の詳細は、あなたにお任せします。研究の邪魔をするつもりはありません」
「『ほど』も『お任せ』も契約書じゃ役に立たないわ。頻度と、報告に含める情報の上限を明記して」
ジェイクは端末を開き、凛の指摘を打ち込み始めた。
「途中で条件を変える場合は?」
「双方の合意なしには変更しません」
「口約束を、あとから義務だったことにされても困る。条件の追加と変更は、書面で再合意した場合だけ有効。研究成果と生データの所有権は、契約中も解除後も、すべてわたしに帰属する」
かつ、かつ、と端末のキーが鳴る。
反論はなかった。
凛は送金予定表へ移り、初回分を指で叩く。
「ここ。基礎援助と追加の前渡しが混ざってる。最低保証額と、あんたの裁量で上乗せする分を分けて記載して。上乗せ分がなくても最低額は動かないように」
「分かりました」
「送金はあなた個人の口座から。第三者を挟まない。研究を担保に借り入れるのも禁止。解除後の守秘義務、事故が起きた場合の責任範囲も曖昧にしないで」
ジェイクがようやく顔を上げた。
「慎重ですね」
「褒め言葉として受け取るわ」
凛は顎を上げる。
「他人のお金で魔術をするのよ。慎重すぎるくらいで、ちょうどいい」
「まったく、そのとおりです」
また、反論しない。
凛が差し出した条件を、ジェイクは一つずつ文面へ落としていく。こちらに条文を選ばせ、契約を支配しているという感覚まで惜しげなく渡してくる。
親切とは思わなかった。
普通のパトロンなら、もう少し自分の都合を押し出す。あまりに従順な相手は、譲ったものとは別の場所に目的を隠しているのではないか――そう疑いたくなる。
「他の魔術師にも援助してる?」
「いいえ。現時点では、あなただけです」
「なぜ、わたしなの?」
初めて、ジェイクの指が止まった。
ほんの短い間を置いて、彼は答える。
「才能です。そして、意志の強さ。遠坂の当主として、ここまで来た実績。私はそれを見ていました」
「それだけ?」
「それだけでは、足りませんか」
「足りないわ。魔術師が大金を出すときは、必ず欲しいものがある」
ランプの光を挟み、二人の視線がぶつかった。
「では、こう言いましょう」
ジェイクの微笑が、わずかに薄くなった。
「私は、あなたに根源へ至ってほしい。それが私の、最後の執着です」
答えになっているようで、なっていない。
それ以上に気になったことを、凛はぶつけた。
「士郎のことは、知っているの?」
「ええ」
ジェイクはためらわなかった。
「あなたのパートナーだと承知しています。お二人の邪魔をするつもりはありません」
胸の奥の棘が、わずかに深く刺さる。
凛は士郎の名を出しただけだ。それをジェイクは、確認もせずにパートナーだと言い切った。
「……よく調べてるのね」
「大切な資金をお預けする相手ですから」
「お金を出すのは、そっちでしょう」
「だからこそ、です」
穏やかな受け答え。そのどこにも、明白な綻びはなかった。
凛は修正された契約書を最初から読み直した。
解除は自由。報告は最低限。条件追加には書面での再合意が要る。成果も生データも凛のもの。最低保証額は上乗せ分から切り離され、送金経路にも、研究を利用した借入にも制限をかけた。
大きな穴は、見当たらない。
それでも、疑念は消えなかった。
消えないなら、消す必要はない。
(利用してやればいい)
胸の内で、凛は言い切った。
信用するから契約するのではない。信用できない相手だから、文面で縛る。少しでも妙な動きを見せたら、その時点で切ればいい。
今の自分に必要なのは資金だ。
宝石を惜しまず、研究を進めるための資金。時計塔へ持っていける成果を、一つでも増やすための資金。そして士郎に「遠坂が困っている」と悟られ、あいつ自身を差し出させないための資金。
ジェイクを利用して、すべてを守る。
そう並べれば、答えは一つしかなかった。
凛はグラスへ指を添えた。結露の冷たさが指先に移る。小さなランプの光が、残ったジュースの表面で揺れていた。
「……いいわ」
ペンを取る。
「契約する」
ジェイクの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「ありがとうございます、遠坂さん」
署名欄へペン先を置く。
さらさらと紙を擦る音が、妙に大きく聞こえた。最後の一画で指先に力が入り、遠坂凛という黒い文字が紙の上に残る。
これで研究を止めずに済む。宝石を惜しまなくていい。士郎の時間も、留学資金も削らずに済む。
胸を撫で下ろしていいはずなのに、インクの匂いだけがいつまでも鼻に残った。
契約書をケースへ戻すジェイクを見ながら、凛はもう一つの決断をした。
士郎には、パトロンが付いたことだけを伝える。
相手が誰かも、どんなやり取りをしたかも、詳しくは話さない。話せば、きっと「どんな奴なんだ」「俺も会ってみる」と言い出す。そうなれば余計な心配を増やすだけだ。
凛は席を立ち、制服の裾を整えた。
「送金は明日だったわね」
「はい。手続きが整い次第」
「そう。なら、確認しておくわ」
最後まで事務的に言い切り、背を向ける。
扉を開けた途端、カフェの暖気が背後へ引き、湿った夜気が頬を刺した。凛はコートの襟を立てる。
ガラス越しに振り返ると、ジェイクはまだ同じ席にいた。琥珀色のランプの向こうから、穏やかな顔でこちらを見ている。
疑念は消えていない。
それでも、危険は条文で縛った。解除権もある。信用する必要はない。利用すればいい。
一つずつ胸の内へ並べ直すと、自分の選択はひどく合理的に見えた。
凛は踵を返し、穂群原の方角へ歩き出す。
数歩も行かないうちに、制服のポケットでスマートフォンが震えた。
画面に出た通知を見て、足が止まる。
――初回送金、入金完了。
「早……」
明日だと聞いたばかりだった。
表示された額に間違いはない。これで触媒を注文できる。研究を止めなくていい。士郎の予定も、留学資金も削らずに済む。
喜ぶべき知らせだ。
凛はメッセージ欄を開き、士郎の名前を選んだ。
『研究のパトロンが見つかった。詳しくは帰ってから』
そこまで打って、親指が止まる。
――詳しくは帰ってから。
その一文だけを見つめ、やがて削除した。
『パトロンが付いたの。資金の心配はもういらないわ』
送信。
すぐに既読がついた。間を置かず、返信が届く。
『よかった。でも、どんな人かは教えてくれ』
まっすぐで、士郎らしい言葉だった。
凛は答えを打たず、画面を伏せた。
士郎には心配をかけない。
それが誠意だと、自分に言い聞かせる。
けれど凛は、安心の証拠であるはずの入金通知を、なぜか士郎へ見せる気にはなれなかった。