遠坂邸だけが、夜の住宅街で一枚の黒い穴のように沈んでいた。
門の前に立った間桐桜は、カーテンの閉じた窓を端から端まで見上げた。
一階も、二階も暗い。玄関灯さえ点いていない。
最近の姉は、明らかに疲れていた。一度は顔色が戻り、学校で一緒に昼食も取れた。それなのに、その翌日、急に学校を休んだ。
電話もメッセージも返らない。
授業が終わってから、何度か時間を空けて送った。既読はつかない。夜になれば帰っているかもしれないと遠坂邸まで来たが、一つの窓にも明かりがない。
「姉さん……」
門越しに呼んでも、返事はなかった。
姉なら、一人で研究へ没頭して連絡を忘れることはある。けれど学校まで休み、夜になっても邸内を真っ暗にしたまま、桜からの連絡にも応じないことなどあるだろうか。
胸の奥で、ばらばらだった違和感が一本に繋がった。
(姉さんがなにかに巻き込まれている)
そう確信した途端、指先が冷たくなった。
桜はスマホを取り出し、士郎へ電話をかける。呼び出し音が一度鳴っただけで、すぐに繋がった。
「桜?」
聞き慣れた声に安堵しかけ、かえって喉が震えた。
「先輩……姉さんに、何かあったかもしれません。今、家の前にいます。来てもらえませんか」
「凛に? 何があった」
「昨日から学校を休んでいて、電話もメッセージも返ってきません。家も真っ暗で……」
「分かった。すぐ行く。俺が着くまで中には入るな」
「はい。待っています」
通話が切れる。
声が少し上ずっているのを、最後まで隠せなかった。
◇
夜道を駆けてきた士郎は、桜の姿を見つけるなり足を速めた。
「桜。待たせた」
「先輩……すみません、急に」
「謝ることじゃない。凛から連絡は?」
桜が首を横へ振ると、士郎は暗い遠坂邸を見上げた。玄関へ近づき、呼び鈴を押す。邸内のどこかで鈍い音がしたはずだが、人が動く気配はない。
「昨日、凛が休んだのは俺も知ってる。最後に会ったのは一昨日の夕方だ。ここで魔力制御の訓練をした」
「その時、姉さんに変わった様子は?」
「途中から顔が赤くなって、気分も悪そうだった。病院へ行こうって言ったんだけど、疲れが残ってるだけだって」
「昨日は、一度も?」
「ああ。何かあれば呼べとは言ったんだけど……昨日も今日も、連絡はない」
士郎の返事が重く落ちた。
二人は遠坂邸の玄関前に並んだ。鍵は掛かっている。桜は一度だけ周囲を見回してから、小さく息を吸った。
「内緒にしてくださいね」
「桜?」
「本当は、勝手に使ってはいけないんですけど」
指先にわずかな魔力を集める。姉の家の錠へ意識を細く差し入れ、内部の構造を探る。複雑な防護を壊すのではなく、物理的な錠だけを動かす解錠の魔術。
カチリ。
玄関の扉が、わずかに内側へ開いた。
「……今の、魔術か?」
「はい。姉さんに怒られたら、先輩は何も知らなかったことにしてくださいね」
「怒ってくれるなら、その方がいい」
士郎が先に扉を押し、暗い玄関へ身体を半分入れる。桜はその背後から邸内を窺い、二人で中へ入った。
途端、強い芳香剤の香りが鼻を刺した。
「……っ」
甘ったるく、濃すぎる匂いだった。一度吹いた程度ではない。廊下にも、居間にも、部屋中へ噴霧したように空気へ張りついている。
「芳香剤がきついな」
士郎が眉を寄せる。
桜は返事をせず、浅く息を吸い直した。
作られた香りの下に、別のものがある。
湿って、生臭い。男の人の、あれの匂い。精液の匂い。
胃の奥がきゅっと縮んだ。
蟲蔵で蟲に犯し抜かれた桜の身体は、その匂いを嫌でも覚えている。普通の人なら芳香剤に紛れて気づかないほど薄くても、記憶が先に拾い上げてしまう。
(どうして、姉さんの家に……)
誰のものなのか。ここで何があったのか。姉がその場にいたのかさえ、匂いだけでは分からない。
「先輩。芳香剤の下に、別の匂いがしませんか」
「別の?」
士郎はもう一度空気を嗅ぎ、首を横へ振った。
「……いや、俺には分からない」
精液、と口にするには喉が狭くなった。
「男の人の……体液の匂いだと思います。ただ、誰のものかまでは……」
士郎の表情が変わる。
「凛は?」
「分かりません。人の気配はないです。ほかの部屋も見ます」
二人で居間と廊下を確かめ、浴室へ向かう。荒らされた様子はない。だが浴室へ入った桜は、洗面台の横で足を止めた。
「先輩……これ」
畳まれたタオルの脇に、見慣れない白いものが置かれている。
オムツだった。しかも大人用の。
姉さんが使うはずのないもの。
桜は触れずに屈み、包装と置かれた位置だけを確かめた。芳香剤の匂いは浴室にも残っている。
「凛が使ったのか?」
「分かりません。でも、姉さんはいません。あの匂いも、これも……やっぱり何かあったんです」
桜は立ち上がり、士郎を見た。
「姉さんの魔力が残っていないか、調べてみます」
「追えそうか?」
「残っていれば。ただ、どこまで追えるかは……」
「頼む」
迷いのない声だった。
桜は頷き、玄関へ戻った。
◇
二人は遠坂邸を出た。
屋外へ出ると、芳香剤も、その下にあった生臭さもすぐ風へ散った。匂いは屋外へ出るとすぐに薄れ、方向を決める根拠にはならない。
桜は玄関前で目を閉じ、遠坂邸の敷地へ染みついた魔力を基準にする。姉の魔力の残滓を主な手掛かりに、細い糸を一本ずつ選り分けた。
「……一番強いものは、ここで消えています」
「ここで?」
「はい。歩いて出たなら、外へ続くはずです。車に乗せられたんだと思います」
桜は目を閉じたまま、強い線の周囲を探った。すぐそばに、別の細い糸が残っている。いつのものかまでは分からないが、門を抜け、夜の街へ伸びていた。
「もう一つ、薄いものが残っています。街の方へ続いています」
「追えそうか?」
「ちょっと薄いですが、行ってみましょう」
住宅街を抜け、大通りへ出る。士郎は桜の半歩後ろを歩き、曲がり角ごとに周囲へ目を配っていた。
駅へ向かう道との分岐で、桜は足を止めた。右手には駅前の明かりが見える。だが、姉の細い線はそちらへ曲がらず、さらに夜の街へ伸びている。
「駅の方には続いていないみたいです」
「こっちは……歓楽街か」
赤や紫の看板が連なる方角を見て、士郎が表情を曇らせる。
「はい。いつのものかは分かりませんけど、他に追えるものはありません」
「行こう」
士郎は即座に言った。
桜も頷き、薄い線を追った。
◇
冬木の歓楽街は、夜が深くなるほど明るかった。
赤や紫の看板。客を呼ぶ男の声。路地から流れる酒と煙草と香水の匂い。ソープランドやピンサロ、キャバクラが肩を寄せるように並んでいる。
姉さんが自分から来るはずのない場所だった。
(ここで……働いていた?)
胸を過ぎった考えを、桜はすぐに否定した。
理由も知らないまま決めつけてはいけない。この薄い残滓がいつのものかは分からず、今夜の行き先とも限らない。けれど、それでも足は重くなる。
「桜、まだ追えるか?」
「はい。薄いですけど、まだ」
残滓は、黒と金の看板を掲げた一軒のキャバクラで途切れていた。
「お、おい、桜。ここって……」
「……ここで途切れています。今いるかは分かりません。でも、姉さんが来たことはあるはずです」
二人で入口へ近づく。
扉の前に立っていた黒服が、すぐに一歩進み出た。
「ご予約の名前は?」
「客じゃない。人を探してる。少し話を聞かせてほしい」
士郎が答えると、黒服は士郎と桜を順に見た。それから片手を上げ、士郎の胸を押さえるようにして進路を塞ぐ。
「予約も紹介もない男は入れられない。話を聞きたいなら、女だけ来い」
「桜一人で入れるわけにいかない。俺も一緒だ」
「なら二人とも帰れ」
黒服の声には、取り合う余地がなかった。
士郎の肩が強張る。ここで押し通ろうとすれば、騒ぎになる。店が姉の手掛かりを隠してしまうかもしれない。
桜は不安を呑み込み、士郎の袖を引いた。
「先輩。私だけで行きます」
「駄目だ」
「でも、このままでは二人とも追い返されます。入口の近くで話を聞くだけですから」
「だからって、桜一人で――」
「十五分だけです。戻らなかったら、入ってきてください」
言いながら、守れる保証のない約束だと桜自身にも分かっていた。
士郎は黒服を睨み、それから桜を見た。納得できない顔のまま、ゆっくり頷く。
「……分かった。十五分だ。何かあったら、その前でもすぐ呼べ」
「はい」
桜だけが扉をくぐった。
◇
甘い香りと薄暗い照明が、外の夜気を背後で断ち切った。
黒服へ姉の髪型、瞳の色、年頃を伝える。男は「客のことは話せない」と一度は断った。
「お願いします。昨日から連絡がつかないんです。ここへ来たことがあるかどうかだけでも」
「知らねえな」
桜は魔術のことを口にしかけ、呑み込んだ。
「姉がここへ来た手掛かりがあるんです。確かに、ここまで。お願いします」
桜が退かずに頼み続けると、黒服は面倒そうに舌打ちした。それでも桜の顔を改めて見て、制服の上から身体つきまで一度だけ確かめる。
「普通なら、ここで帰すんだがな」
「では――」
「お前なら、オーナーが話を聞くかもしれない。普段はこんなことで取り次がねえが、あの人が興味を持ちそうな女だ。奥で自分で聞け。相手にされる保証はないぞ」
外で待つ士郎の心配そうな顔が浮かぶ。
十五分の約束が頭をよぎる。ここで立ち止まってはいられない。
桜は礼を言い、奥の部屋へ向かった。
扉を開けた先には、金髪の男がいた。
男は大きなソファへ腰を沈め、入ってきた桜を靴先から顔まで眺めた。
「ん? 見ねぇ顔だな。嬢ちゃん、ここで働きたいのか?」
「違います。人を探しているんです」
桜は姉の特徴を伝えた。長い黒髪。青い瞳。自分より少し年上に見える女性。
金髪の男が、興味深そうに目を細める。
「どういう関係だ?」
一瞬、言葉が止まった。
姉妹だと明かしていい相手なのか分からない。
「学校の先輩です」
「ふーん……まあ、そこに座れよ」
出口に近い位置を選び、桜は高そうなソファの端へ腰掛けた。膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。
「見たことはある。あれだろ、結構口調強めで、お高くとまってそうなやつだろ」
「……っ! そ、そうです! 今どこにいるんですか!?」
身を乗り出した桜を見て、男は口の端を上げた。
「情報ってのはただじゃねぇんだ。嬢ちゃん。いくらまで出せる?」
金を要求されるとは思わず、桜は息を詰めた。
財布に入っている額では、男が満足するはずがない。
「今は……ほとんど持っていません。家へ戻れば用意できます」
「じゃあ帰んな」
「待ってください。必ず持って戻ります」
「……と言いたいところだが」
金髪の男の視線が、桜の顔から胸元へ落ちた。制服の上から腰、揃えた膝へと、値札をつけるようにゆっくり下がっていく。
桜は両手を胸元へ上げかけ、途中で止めた。怯えを見せれば、相手が喜ぶだけだと思った。
「嬢ちゃん、なかなかの顔と身体してるな。いまから少し働いてくれれば、教えてやってもいいぞ」
言葉の意味が身体へ届いた瞬間、背中が冷たくなった。
「ふ、ふざけないでください! 家に帰ってお金を持ってきますから」
「情報ってのは時価でね。嬢ちゃんが戻る頃には、値段も、そいつの居場所も変わってるかもしれない。どうする?」
「そんな……」
姉の居場所。
男は知っているように言った。嘘かもしれない。けれど、嘘だと切り捨てられる材料もない。
「……外に待たせている人が……」
「うちのやつに帰らせるように言っとくよ。さあ、今すぐ決めろ。5、4、3……」
カウントが落ちる。
桜の呼吸が浅くなった。
(姉さんを見つけなければ)
この男が何かを知っているなら、今ここで掴むしかない。金を工面している間に情報が消えるかもしれない。姉がもっと遠くへ連れていかれるかもしれない。
「二……」
(先輩を呼べば、止めてくれる)
扉の外へ駆け、店の入口まで戻ればいい。まだ十五分は経っていない。士郎なら、桜にこんな取引を選ばせない。
けれど、男たちは二人を追い出すだろう。
姉の手掛かりも失うかもしれない。
怖さは消えなかった。胸の奥も、重ねた指も震えている。
それでも桜は、震えを隠すために座り続けるのではなく、自分で立つ方を選んだ。
ソファから立ち上がり、金髪の男をまっすぐ見る。
「……分かりました。働きます」
自分の声が、遠く聞こえた。
「ですから、約束してください。姉さんの居場所を教えると」
姉さん、と言ってしまった。
男の目が一瞬だけ細くなったが、問い返しはしなかった。
「取引成立だな。まずは着替えな。情報は稼いでからだ」
「先に、少しだけでも教えてください。本当に無事なんですか」
「稼いでからだと言っただろ」
金髪の男が、部屋のさらに奥にある扉を指差した。
「着替えはあっちだ。早くしろ」
桜は深く息を吸った。
外で待っている先輩の顔が、一瞬、脳裏をよぎる。約束した十五分は、まだ過ぎていないはずだ。
それでも桜は立ち上がったまま、着替えを命じられた奥の扉へ歩いた。
取っ手へ手を掛ける。掌に汗が滲んでいた。
先輩へ相談することも、取引を伝えることもできないまま、桜は奥の扉をくぐった。