※この作品はR-18です。

濁った宝石   作:湖畔R

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第17話 桜の残滓

 遠坂邸だけが、夜の住宅街で一枚の黒い穴のように沈んでいた。

 

 門の前に立った間桐桜は、カーテンの閉じた窓を端から端まで見上げた。

 

 一階も、二階も暗い。玄関灯さえ点いていない。

 

 最近の姉は、明らかに疲れていた。一度は顔色が戻り、学校で一緒に昼食も取れた。それなのに、その翌日、急に学校を休んだ。

 

 電話もメッセージも返らない。

 

 授業が終わってから、何度か時間を空けて送った。既読はつかない。夜になれば帰っているかもしれないと遠坂邸まで来たが、一つの窓にも明かりがない。

 

「姉さん……」

 

 門越しに呼んでも、返事はなかった。

 

 姉なら、一人で研究へ没頭して連絡を忘れることはある。けれど学校まで休み、夜になっても邸内を真っ暗にしたまま、桜からの連絡にも応じないことなどあるだろうか。

 

 胸の奥で、ばらばらだった違和感が一本に繋がった。

 

(姉さんがなにかに巻き込まれている)

 

 そう確信した途端、指先が冷たくなった。

 

 桜はスマホを取り出し、士郎へ電話をかける。呼び出し音が一度鳴っただけで、すぐに繋がった。

 

「桜?」

 

 聞き慣れた声に安堵しかけ、かえって喉が震えた。

 

「先輩……姉さんに、何かあったかもしれません。今、家の前にいます。来てもらえませんか」

 

「凛に? 何があった」

 

「昨日から学校を休んでいて、電話もメッセージも返ってきません。家も真っ暗で……」

 

「分かった。すぐ行く。俺が着くまで中には入るな」

 

「はい。待っています」

 

 通話が切れる。

 

 声が少し上ずっているのを、最後まで隠せなかった。

 

   ◇

 

 夜道を駆けてきた士郎は、桜の姿を見つけるなり足を速めた。

 

「桜。待たせた」

 

「先輩……すみません、急に」

 

「謝ることじゃない。凛から連絡は?」

 

 桜が首を横へ振ると、士郎は暗い遠坂邸を見上げた。玄関へ近づき、呼び鈴を押す。邸内のどこかで鈍い音がしたはずだが、人が動く気配はない。

 

「昨日、凛が休んだのは俺も知ってる。最後に会ったのは一昨日の夕方だ。ここで魔力制御の訓練をした」

 

「その時、姉さんに変わった様子は?」

 

「途中から顔が赤くなって、気分も悪そうだった。病院へ行こうって言ったんだけど、疲れが残ってるだけだって」

 

「昨日は、一度も?」

 

「ああ。何かあれば呼べとは言ったんだけど……昨日も今日も、連絡はない」

 

 士郎の返事が重く落ちた。

 

 二人は遠坂邸の玄関前に並んだ。鍵は掛かっている。桜は一度だけ周囲を見回してから、小さく息を吸った。

 

「内緒にしてくださいね」

 

「桜?」

 

「本当は、勝手に使ってはいけないんですけど」

 

 指先にわずかな魔力を集める。姉の家の錠へ意識を細く差し入れ、内部の構造を探る。複雑な防護を壊すのではなく、物理的な錠だけを動かす解錠の魔術。

 

 カチリ。

 

 玄関の扉が、わずかに内側へ開いた。

 

「……今の、魔術か?」

 

「はい。姉さんに怒られたら、先輩は何も知らなかったことにしてくださいね」

 

「怒ってくれるなら、その方がいい」

 

 士郎が先に扉を押し、暗い玄関へ身体を半分入れる。桜はその背後から邸内を窺い、二人で中へ入った。

 

 途端、強い芳香剤の香りが鼻を刺した。

 

「……っ」

 

 甘ったるく、濃すぎる匂いだった。一度吹いた程度ではない。廊下にも、居間にも、部屋中へ噴霧したように空気へ張りついている。

 

「芳香剤がきついな」

 

 士郎が眉を寄せる。

 

 桜は返事をせず、浅く息を吸い直した。

 

 作られた香りの下に、別のものがある。

 

 湿って、生臭い。男の人の、あれの匂い。精液の匂い。

 

 胃の奥がきゅっと縮んだ。

 

 蟲蔵で蟲に犯し抜かれた桜の身体は、その匂いを嫌でも覚えている。普通の人なら芳香剤に紛れて気づかないほど薄くても、記憶が先に拾い上げてしまう。

 

(どうして、姉さんの家に……)

 

 誰のものなのか。ここで何があったのか。姉がその場にいたのかさえ、匂いだけでは分からない。

 

「先輩。芳香剤の下に、別の匂いがしませんか」

 

「別の?」

 

 士郎はもう一度空気を嗅ぎ、首を横へ振った。

 

「……いや、俺には分からない」

 

 精液、と口にするには喉が狭くなった。

 

「男の人の……体液の匂いだと思います。ただ、誰のものかまでは……」

 

 士郎の表情が変わる。

 

「凛は?」

 

「分かりません。人の気配はないです。ほかの部屋も見ます」

 

 二人で居間と廊下を確かめ、浴室へ向かう。荒らされた様子はない。だが浴室へ入った桜は、洗面台の横で足を止めた。

 

「先輩……これ」

 

 畳まれたタオルの脇に、見慣れない白いものが置かれている。

 

 オムツだった。しかも大人用の。

 

 姉さんが使うはずのないもの。

 

 桜は触れずに屈み、包装と置かれた位置だけを確かめた。芳香剤の匂いは浴室にも残っている。

 

「凛が使ったのか?」

 

「分かりません。でも、姉さんはいません。あの匂いも、これも……やっぱり何かあったんです」

 

 桜は立ち上がり、士郎を見た。

 

「姉さんの魔力が残っていないか、調べてみます」

 

「追えそうか?」

 

「残っていれば。ただ、どこまで追えるかは……」

 

「頼む」

 

 迷いのない声だった。

 

 桜は頷き、玄関へ戻った。

 

   ◇

 

 二人は遠坂邸を出た。

 

 屋外へ出ると、芳香剤も、その下にあった生臭さもすぐ風へ散った。匂いは屋外へ出るとすぐに薄れ、方向を決める根拠にはならない。

 

 桜は玄関前で目を閉じ、遠坂邸の敷地へ染みついた魔力を基準にする。姉の魔力の残滓を主な手掛かりに、細い糸を一本ずつ選り分けた。

 

「……一番強いものは、ここで消えています」

 

「ここで?」

 

「はい。歩いて出たなら、外へ続くはずです。車に乗せられたんだと思います」

 

 桜は目を閉じたまま、強い線の周囲を探った。すぐそばに、別の細い糸が残っている。いつのものかまでは分からないが、門を抜け、夜の街へ伸びていた。

 

「もう一つ、薄いものが残っています。街の方へ続いています」

 

「追えそうか?」

 

「ちょっと薄いですが、行ってみましょう」

 

 住宅街を抜け、大通りへ出る。士郎は桜の半歩後ろを歩き、曲がり角ごとに周囲へ目を配っていた。

 

 駅へ向かう道との分岐で、桜は足を止めた。右手には駅前の明かりが見える。だが、姉の細い線はそちらへ曲がらず、さらに夜の街へ伸びている。

 

「駅の方には続いていないみたいです」

 

「こっちは……歓楽街か」

 

 赤や紫の看板が連なる方角を見て、士郎が表情を曇らせる。

 

「はい。いつのものかは分かりませんけど、他に追えるものはありません」

 

「行こう」

 

 士郎は即座に言った。

 

 桜も頷き、薄い線を追った。

 

   ◇

 

 冬木の歓楽街は、夜が深くなるほど明るかった。

 

 赤や紫の看板。客を呼ぶ男の声。路地から流れる酒と煙草と香水の匂い。ソープランドやピンサロ、キャバクラが肩を寄せるように並んでいる。

 

 姉さんが自分から来るはずのない場所だった。

 

(ここで……働いていた?)

 

 胸を過ぎった考えを、桜はすぐに否定した。

 

 理由も知らないまま決めつけてはいけない。この薄い残滓がいつのものかは分からず、今夜の行き先とも限らない。けれど、それでも足は重くなる。

 

「桜、まだ追えるか?」

 

「はい。薄いですけど、まだ」

 

 残滓は、黒と金の看板を掲げた一軒のキャバクラで途切れていた。

 

「お、おい、桜。ここって……」

 

「……ここで途切れています。今いるかは分かりません。でも、姉さんが来たことはあるはずです」

 

 二人で入口へ近づく。

 

 扉の前に立っていた黒服が、すぐに一歩進み出た。

 

「ご予約の名前は?」

 

「客じゃない。人を探してる。少し話を聞かせてほしい」

 

 士郎が答えると、黒服は士郎と桜を順に見た。それから片手を上げ、士郎の胸を押さえるようにして進路を塞ぐ。

 

「予約も紹介もない男は入れられない。話を聞きたいなら、女だけ来い」

 

「桜一人で入れるわけにいかない。俺も一緒だ」

 

「なら二人とも帰れ」

 

 黒服の声には、取り合う余地がなかった。

 

 士郎の肩が強張る。ここで押し通ろうとすれば、騒ぎになる。店が姉の手掛かりを隠してしまうかもしれない。

 

 桜は不安を呑み込み、士郎の袖を引いた。

 

「先輩。私だけで行きます」

 

「駄目だ」

 

「でも、このままでは二人とも追い返されます。入口の近くで話を聞くだけですから」

 

「だからって、桜一人で――」

 

「十五分だけです。戻らなかったら、入ってきてください」

 

 言いながら、守れる保証のない約束だと桜自身にも分かっていた。

 

 士郎は黒服を睨み、それから桜を見た。納得できない顔のまま、ゆっくり頷く。

 

「……分かった。十五分だ。何かあったら、その前でもすぐ呼べ」

 

「はい」

 

 桜だけが扉をくぐった。

 

   ◇

 

 甘い香りと薄暗い照明が、外の夜気を背後で断ち切った。

 

 黒服へ姉の髪型、瞳の色、年頃を伝える。男は「客のことは話せない」と一度は断った。

 

「お願いします。昨日から連絡がつかないんです。ここへ来たことがあるかどうかだけでも」

 

「知らねえな」

 

 桜は魔術のことを口にしかけ、呑み込んだ。

 

「姉がここへ来た手掛かりがあるんです。確かに、ここまで。お願いします」

 

 桜が退かずに頼み続けると、黒服は面倒そうに舌打ちした。それでも桜の顔を改めて見て、制服の上から身体つきまで一度だけ確かめる。

 

「普通なら、ここで帰すんだがな」

 

「では――」

 

「お前なら、オーナーが話を聞くかもしれない。普段はこんなことで取り次がねえが、あの人が興味を持ちそうな女だ。奥で自分で聞け。相手にされる保証はないぞ」

 

 外で待つ士郎の心配そうな顔が浮かぶ。

 

 十五分の約束が頭をよぎる。ここで立ち止まってはいられない。

 

 桜は礼を言い、奥の部屋へ向かった。

 

 扉を開けた先には、金髪の男がいた。

 

 男は大きなソファへ腰を沈め、入ってきた桜を靴先から顔まで眺めた。

 

「ん? 見ねぇ顔だな。嬢ちゃん、ここで働きたいのか?」

 

「違います。人を探しているんです」

 

 桜は姉の特徴を伝えた。長い黒髪。青い瞳。自分より少し年上に見える女性。

 

 金髪の男が、興味深そうに目を細める。

 

「どういう関係だ?」

 

 一瞬、言葉が止まった。

 

 姉妹だと明かしていい相手なのか分からない。

 

「学校の先輩です」

 

「ふーん……まあ、そこに座れよ」

 

 出口に近い位置を選び、桜は高そうなソファの端へ腰掛けた。膝の上で重ねた手が、わずかに震えている。

 

「見たことはある。あれだろ、結構口調強めで、お高くとまってそうなやつだろ」

 

「……っ! そ、そうです! 今どこにいるんですか!?」

 

 身を乗り出した桜を見て、男は口の端を上げた。

 

「情報ってのはただじゃねぇんだ。嬢ちゃん。いくらまで出せる?」

 

 金を要求されるとは思わず、桜は息を詰めた。

 

 財布に入っている額では、男が満足するはずがない。

 

「今は……ほとんど持っていません。家へ戻れば用意できます」

 

「じゃあ帰んな」

 

「待ってください。必ず持って戻ります」

 

「……と言いたいところだが」

 

 金髪の男の視線が、桜の顔から胸元へ落ちた。制服の上から腰、揃えた膝へと、値札をつけるようにゆっくり下がっていく。

 

 桜は両手を胸元へ上げかけ、途中で止めた。怯えを見せれば、相手が喜ぶだけだと思った。

 

「嬢ちゃん、なかなかの顔と身体してるな。いまから少し働いてくれれば、教えてやってもいいぞ」

 

 言葉の意味が身体へ届いた瞬間、背中が冷たくなった。

 

「ふ、ふざけないでください! 家に帰ってお金を持ってきますから」

 

「情報ってのは時価でね。嬢ちゃんが戻る頃には、値段も、そいつの居場所も変わってるかもしれない。どうする?」

 

「そんな……」

 

 姉の居場所。

 

 男は知っているように言った。嘘かもしれない。けれど、嘘だと切り捨てられる材料もない。

 

「……外に待たせている人が……」

 

「うちのやつに帰らせるように言っとくよ。さあ、今すぐ決めろ。5、4、3……」

 

 カウントが落ちる。

 

 桜の呼吸が浅くなった。

 

(姉さんを見つけなければ)

 

 この男が何かを知っているなら、今ここで掴むしかない。金を工面している間に情報が消えるかもしれない。姉がもっと遠くへ連れていかれるかもしれない。

 

「二……」

 

(先輩を呼べば、止めてくれる)

 

 扉の外へ駆け、店の入口まで戻ればいい。まだ十五分は経っていない。士郎なら、桜にこんな取引を選ばせない。

 

 けれど、男たちは二人を追い出すだろう。

 

 姉の手掛かりも失うかもしれない。

 

 怖さは消えなかった。胸の奥も、重ねた指も震えている。

 

 それでも桜は、震えを隠すために座り続けるのではなく、自分で立つ方を選んだ。

 

 ソファから立ち上がり、金髪の男をまっすぐ見る。

 

「……分かりました。働きます」

 

 自分の声が、遠く聞こえた。

 

「ですから、約束してください。姉さんの居場所を教えると」

 

 姉さん、と言ってしまった。

 

 男の目が一瞬だけ細くなったが、問い返しはしなかった。

 

「取引成立だな。まずは着替えな。情報は稼いでからだ」

 

「先に、少しだけでも教えてください。本当に無事なんですか」

 

「稼いでからだと言っただろ」

 

 金髪の男が、部屋のさらに奥にある扉を指差した。

 

「着替えはあっちだ。早くしろ」

 

 桜は深く息を吸った。

 

 外で待っている先輩の顔が、一瞬、脳裏をよぎる。約束した十五分は、まだ過ぎていないはずだ。

 

 それでも桜は立ち上がったまま、着替えを命じられた奥の扉へ歩いた。

 

 取っ手へ手を掛ける。掌に汗が滲んでいた。

 

 先輩へ相談することも、取引を伝えることもできないまま、桜は奥の扉をくぐった。

 

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