桜が店へ入ってから、衛宮士郎はスマホの時計を何度見たか分からなかった。
派手な看板が明滅するたび、数字だけが進んでいく。扉が開くたびに顔を上げる。出てくるのは酔った客か、見送りに出た女ばかりだった。
約束した十五分は、もう過ぎている。
「……桜」
桜は戻ってこない。
電話をかける。一度。二度。耳へ押し当てたスマホから呼び出し音だけが続き、応答がない。
待っていろと言われたわけじゃない。十五分経っても戻らなければ入ってきてほしいと、桜自身が頼んだのだ。
士郎は通話を切ると、迷わず扉へ手を掛けた。
「待て。男は入れないと言っただろ」
入口の黒服が胸を押し返す。
「約束の時間は過ぎた。桜を出してくれ!」
「そんな女は知らねえよ。帰れ」
「さっき、あんたが中へ通しただろ!」
押し返されても退かない。士郎は黒服の腕を外へ払い、開いた隙間へ肩をねじ込んだ。
「桜! いたら返事をしろ、桜!」
濁った音楽と笑い声がぶつかってくる。赤紫の照明。酒と煙草と香水の混じった空気。奥へ続く通路が一瞬だけ見えた。
そこへ踏み出す前に、黒服が三人集まった。
「桜を――」
ゴッ、と頬を殴られた。
視界が横へ流れる。よろめいた腹へ、二発目の拳がめり込んだ。
「ぐっ……!」
息が潰れ、膝をつく。直後、背へ靴先が食い込んだ。鈍い衝撃が背骨を駆け上がる。腕で頭を庇えば、空いた脇腹を横から蹴り抜かれた。
「が、あっ……!」
反撃すれば、一人くらいは倒せるかもしれない。だが、その間に奥へ進む道を塞がれる。桜へ届くために身を起こそうとした判断ごと、数の差に押し潰された。
「客でもない男が入ってくるな」
「待て……桜が、中に……!」
左右から両腕を掴まれる。靴底が床を擦り、次の瞬間、身体が宙へ放り出された。
士郎は店の外の舗道へ肩から落ちた。
「か、はっ……」
肺が空になり、声が出ない。閉じた扉の向こうで、音楽だけが何事もなかったように鳴っている。
立たなければならない。桜を連れ戻さなければならない。
そう思って肘をついたが、頬も腹も背も脇腹も、ばらばらの方向から痛みを返してくる。右肩へ力が入らず、身体は舗道へ崩れた。
「……ちょっと。あんた、大丈夫?」
別の声がした。
顔を上げると、隣のスナックの前に女が立っていた。三十代の終わり頃に見える。薄いコートの前を片手で押さえ、もう片方の手を士郎へ伸ばしている。
「今、あそこから投げられたよね。ちょっと、誰か手ぇ貸して!」
女が通行人を呼び止めた。士郎は左右から肩を支えられ、ほとんど足を引きずるように隣のスナックへ運ばれた。
店内は暗く、カウンターの奥に小さな灯りが一つだけ点いていた。女は士郎を壁際の長いソファへ寝かせる。
「今夜は客が一人もいないからね。もう閉めるよ」
女は通行人へ礼を言い、入口を施錠した。カチャン、と鍵の音がする。扉の内側へ閉店の札を下げると、濡らした布と水を持って戻ってきた。
「口、切れてる。沁みるよ」
「……っ」
「ほら、ゆっくり飲んで。咳き込むから」
女は傷を拭き、水を飲ませ、最後に毛布を掛けた。頬に当たる布は冷たく、その手つきは慎重だった。
「こんな夜に、あの店の前で何してたの。若いのに、あそこの娘に惚れちゃった?」
士郎は息を整えながら、途切れ途切れに答えた。
「彼女が……消えたんだ。それで、後輩の子が、そのことを知ってる人間から情報を聞くために、あの店へ入った。十五分で戻る約束だったのに……戻ってこない」
「……」
「桜だけでも、早く……出してやらないと……」
女は黙って、士郎の裂けた口元を拭った。濡れた布が赤く染まる。
「若いのに大変だねえ。でも無理やりはダメよ。あの店の黒服、みんな腕っぷしが良すぎるから」
女は子どもを叱るような柔らかさで言った。
「惚れた女のためってのは感心だけどね。うらやましい」
「くそ……どうすれば」
「まあでも、悪い噂は聞かないよ、あの店。女の子は大事にされてるし、捨てられたって話も聞かない」
納得はできない。それでも士郎は、黙って続きを聞いた。
「その子も、終われば連絡してくるかもしれないだろう? すぐ迎えに行けるように、ここで休んで待つといいさ。朝までいてもいい」
「でも、中で何されてるか分からな――……っ!」
起き上がろうと肘をついた瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
「ほら、やめなさい。見たところ、今すぐ病院って感じでもないし、しばらく寝とけばマシになるよ」
「……くそ……そうだな」
納得したわけではない。ただ、今の身体でもう一度あの扉へ飛び込んでも、桜へ届く前にまた舗道へ投げ出される。その現実だけは、痛む背中が嫌というほど教えていた。
「でも、いいね。その真っすぐさ」
傷を拭いていた指が止まる。
「あたし、こんな商売やってるからってのもあるけど、けっこう男運がなくてさ。……でも、お兄さんは」
そう言いながら、女の布を持たないほうの手が頬から首へ、首から胸へと、必要以上にゆっくり下りてきた。
「……何を」
「こんなときに不謹慎だけどさ」
女の声が低くなる。顔を寄せた吐息が、妙に熱い。
「お兄さん、結構あたしの好みなんだよね。見た目もそうだし、その真っすぐさ……ちょっと我慢できないかも」
「やめてくれ……俺には、彼女がいるんだ」
胸を這う手首を掴もうとする。だが、右肩が鋭く痛み、指先が女の袖を掠めただけで落ちた。
「動かなくていい。痛いところは触らないから。私が動く」
「そういう意味じゃない。やめろ」
「大丈夫。お姉さんに任せて」
女はソファで仰向けになった士郎へ覆いかぶさった。顔を背けるより早く唇を塞がれる。
「やめ――んっ!」
抗議の声が、女の口の中へ潰れた。
唇の隙間を舌先でこじ開けられる。ぬるい舌が歯列の内側へ入り込み、逃げる士郎の舌へ絡みついた。
ちゅっ、くちゅっ、ちゅぷっ。
「ん……ぅ、やめ……!」
息を継ごうと顔を横へ向けても、女は頬を追って唇を重ね直す。舌を吸い、口内を舐め回しながら、毛布を剥いだ手を胸から腹へ滑らせた。
ベルトの金具が、カチャ、と鳴る。
前を緩めたズボンの上から、手のひらが股間を包んだ。
「っ……触るな……!」
身を捩って逃れようとした瞬間、背と脇腹へ痛みが走る。腰がソファへ落ちたところを、女の指が萎えた形に沿ってゆっくり撫で上げた。
さわっ、さわっ、と布越しの刺激が往復する。根元から先端まで握られ、親指で先を擦られるたび、拒絶とは無関係に血が集まっていく。
「ほら。ちゃんと大きくなる」
「違う……離せ……っ」
女は硬くなったものを服の上からもう一度握ると、ようやく唇を離した。二人の間で、唾液の糸が細く伸びて切れる。
「口でも、気持ちよくしてあげる」
女の顔が胸から腹へ下りていく。緩めたズボンと下着の前をずらし、その隙間から、勃ち上がったものを取り出した。
熱い口が股間へ這い、硬くなったものを唇で挟んだ。
じゅるっ。ちゅぱっ。じゅぽっ。
湿った舌が裏筋を這い、先端を舐め上げる。そのまま深く咥え込まれ、喉の奥が亀頭をきつく包んだ。
「んっ……やめろ……こんなこと、している場合じゃ……あ、ぐっ……」
腰を引こうとした途端、蹴られた背がソファへ擦れて息が止まる。身体は逃げる方向を失ったまま、口の熱だけに反応して硬くなっていく。
だが、拒絶が変わったわけではない。
「駄目だ……離してくれ……!」
女は口を離し、濡れた唇で笑った。
「かわいい。こんなにしてるのに、説得力ないよ?」
「これは……違う」
「中に入れてもいい? 動かなくていいからね」
「駄目だ。やめ――」
返事を最後まで聞かず、女はスカートをたくし上げて跨ってきた。
騎乗位のまま片手で士郎を支え、濡れた入口へ押し当てる。
ぬぷっ……ぬちゅっ。
「あっ……!」
女が自分から腰を落とし、根元まで一息に咥え込んだ。熱い内壁が竿全体へまとわりつき、脈打つたびにきつく締め付けてくる。
「あ、やっぱりいい。思ったより、ずっと相性よさそう」
「抜け……俺は、嫌だって……!」
「あたしね、店じゃ毎晩、男の愚痴を聞いてるの」
女は世間話でもするように笑い、腰をゆっくり回した。
「でも、こっちの愚痴を聞いてくれる男には、ちっとも当たらない。顔がよければ話を聞かないし、話を聞くやつは口ばっかり」
ぱんっ、ぱんっ。ぬちゅっ、ぬちゅっ。
尻が太腿へ当たるたび、湿った音が無人の店に響く。女が腰を浮かせれば、熱い内壁が先端まで擦り上げ、また深く落ちてくる。
「やめろ……!」
士郎は両手を女の腰へ当て、押し戻そうとした。
力を入れた瞬間、蹴られた脇腹が内側から裂けるように痛んだ。
「ぐ、ぁっ……!」
右腕が落ちる。残った左手へ指を食い込ませても、女に手首を握られ、ソファへ押し戻された。
「お兄さんは、人のためにこんなになるまで殴られたんでしょ。馬鹿だけど、悪くないね」
女が少しだけ寂しそうに笑う。その顔が、すぐまた軽い笑みに戻った。
身体は熱に晒され続けている。けれど、拒絶は一度も消えていない。
(桜を出してやらなきゃならない。凛も探さなきゃならない。俺は、こんなところで――)
「駄目だ……止まれ……!」
「もう射精しそうな顔してるよ」
女は腰を深く沈め、根元を締め付けた。先端へ集まった熱が、逃げ場をなくして膨れ上がる。
「出して……中に出して。いい子だから」
「やめ――っ、あ……!」
びゅるっ、びゅるるっ……!
止めようとした腹が痙攣し、精液が膣内へ吐き出された。ドクン、ドクンと竿が脈打つたび、女は奥で受け止めるように腰を押しつけてくる。
これは同意ではない。
そう分かっていても、士郎の脳裏には凛の顔が浮かんだ。知らない女の中に出しているという事実が、罪悪感になって胸を焼く。
「くそ……ごめん……」
「ほら、相性ばっちり。彼氏になってくれない?」
女は腰を上げなかった。
冗談めかして士郎の顔を覗き込み、答えがないと「あはは」と一人で笑って肩をすくめる。
「なんてね。今のあんたに聞いても、好きな女の名前しか出てこないか」
「抜け……もう、終わっただろ……」
「まだ硬いじゃん。もう一回だけ、付き合ってよ」
再び腰を動かし始める。
内壁を満たした精液が掻き回され、くちゅくちゅ、ぬちゅぬちゅと粘った音を立てた。溢れた白濁が根元を伝い、女の太腿と士郎の下腹を汚していく。
「う、ぐっ……やめて……もう出ない……頼む……」
「身体は正直だね。無理に動かなくていいから、あたしに任せて」
「違う……っ」
女はブラウスの胸元を緩め、前屈みになった。こぼれた乳房が士郎の顔へ押しつけられる。息を塞がれ、首を振るたび、柔らかな肉が頬と唇を擦った。
「そんな怖い顔しないでよ。ほら、ここも舐めて。お姉さんの話も少しくらい聞いてさ」
「ん、む……やめ……ろ……!」
首を逸らしても、女は胸を追わせるように腰の角度を変える。浅く速い反復から、深く押し潰す動きへ変わるたび、士郎の喉から苦い喘ぎが漏れた。
「あっ……ぐ、ぅ……!」
「ほら。また来る」
くちゅっ、くちゅっ。ぬちゅっ。
二度目の熱が、力の抜けた身体から搾り取られた。
「――っ、ああっ!」
女は接続を解かない。痙攣が収まる前に腰を回し、敏感になった先端を内側から擦り続ける。
「桜が……店の扉の向こうに……」
「あと一回。ね?」
「頼む、やめてくれ……!」
返事の代わりに、深く腰が落ちた。
視界の端で、閉店札を下げた扉が揺れている。その向こうにあるキャバクラの入口と、そこへ一人で入った桜の背中だけが、暗くなっていく意識へ焼きついていた。
三度目の痙攣に身体が跳ねる。
「……ごめん……凛……こんな……俺……」
声が途切れ、士郎はそのまま気絶した。
◇
朝の光が、スナックの薄いカーテンを通して差し込んでいた。
目を開けた士郎は、息を吸っただけで顔をしかめた。脇腹も背も肩も痛む。口の中には血の味が残り、下半身は乾きかけた精液と体液でべっとりと濡れている。
長いソファの中央では、女が士郎と頭を突き合わせるように眠っていた。二人並んで横になれる幅はない。身体は互いに逆方向へ伸びている。
昨夜の一方的な勢いが嘘のように、女は無防備な寝息を立てていた。
士郎は濡れた衣服を直した。ソファの背へ左手をつき、歯を食いしばって身体を起こす。傷は呼吸のたびに痛んだ。
スマホの画面を確かめる。
桜からの着信はない。メッセージもない。
胸の奥へ冷たいものが沈んだ。昨夜、自分がここで意識を失っている間も、桜は戻らなかった。
「まず桜を探す。次に凛を探す」
声に出すと、混線していた焦りが一本の順番になった。
立ち上がる。右肩を庇い、腹を押さえ、それでも扉まで歩く。
すぐ近くのテーブルには、女の名前と連絡先、それから「また連絡してね」と書かれたメモが置かれていた。
士郎はそれを手に取らず、眠った女を起こさず、鍵を開けて店を出た。
白み始めた街の先に、昨夜の派手な看板が消え残っている。
傷ついた身体を引きずり、士郎は朝のキャバクラへ戻った。