冬木の朝は、澄んでいた。
風は冷たいが、空は高く晴れている。通学路へ斜めに差し込む光が、隣を歩く衛宮士郎の赤みがかった髪を照らしていた。
遠坂凛は、その横顔をちらりと見て、唇の端を上げる。
研究は順調だ。
新しい触媒は安定して反応を返し、留学前の計画も一段先まで見通せるようになった。昨夜の映画館で交わした言葉と体温も、胸の奥にまだ甘く残っている。
何もかもが、うまく回り始めたように思えた。
「今日の授業、午前中で終わりだろ」
士郎がいつもの調子で言う。
「そうね。わたしは終わったらすぐ帰る予定だけど」
「いつもの研究か? 俺も手伝うよ」
「いいわよ。アンタも自分の訓練をしておきなさい。来年の留学までに間に合わせることが、山ほどあるんだから」
「遠坂こそ、根を詰めすぎだ。昨日だって、帰ってからもやってただろ」
「一時間だけよ」
「いや、その顔は二、三時間やった顔だ」
凛は足を止めかけた。
「……なんで分かるのよ」
「勘」
「そんな曖昧な根拠で、遠坂の当主を断定しないでくれる?」
「じゃあ、外れか?」
「…………」
「当たりだな」
士郎が小さく笑う。
その笑顔が朝の光に溶けた。昨夜の温度が胸へ戻り、凛は悟られないよう前を向く。
(……調子に乗ってるわね、わたし)
研究も、留学も、士郎との時間も。全部、自分なら手放さずに進められる。
そんな万能感さえ、今朝は少しだけ許される気がした。
「姉さんと先輩、おはようございます」
前方から、柔らかい声が届いた。
見ると、間桐桜が立っていた。紫がかった長い髪を朝風になびかせ、制服の裾をきちんと揃えている。控えめな微笑みも、いつもどおりだった。
「おはよう、桜」
士郎が自然に返す。
凛はほんの少し遅れて、頷いた。
「……おはよう。今日は朝練ないのね」
「はい。姉さんたちと一緒に行けるかと思って」
三人で歩き始める。
桜の声は穏やかだった。けれどその目は、並んでいた凛と士郎を一度見て、すぐに前へ戻る。微笑ましく思っているだけではない、薄い寂しさが一瞬だけ滲んだように見えた。
凛は、それを見なかったふりをした。
「研究、順調なんですか?」
「ええ、まあね。新しい触媒がいい感じよ。来年の留学までに、もう少し形にできそう」
「よかったです。姉さん、頑張ってますね」
「当然よ。やるからには徹底的に、だもの」
胸を張った凛へ、士郎が横から口を挟む。
「遠坂、最近機嫌はいいけど、頑張りすぎなんだよ」
「うるさいわね。アンタのせいでもあるけど」
「俺のせい?」
「……何でもない」
桜が口元を押さえ、小さく笑った。
「姉さんと先輩、本当に仲、いいですね」
「べ、別に普通よ」
「はい。では、普通ということにしておきます」
「桜まで何よ、その言い方」
問い詰めても、桜は微笑むばかりだった。
朝の通学路は、生徒たちで少しずつ混み始めている。三人で並ぶには狭くなり、桜が半歩後ろへ下がった。
士郎はそれに気づいたのか、自然に話を振る。
「桜も最近どうだ? 部活とか」
「弓道部は、いつもどおりです。先輩が来てくれると、みんな喜ぶんですよ」
「俺は、たまにしか行けないけどな」
「それでも十分です。先輩がいるだけで、雰囲気が違いますから」
桜は優しい。
士郎に対しても、凛に対しても。姉として慕い、二人の幸福を心から喜ぼうとしてくれている。
だからこそ、その優しさの奥にある寂しさへ、凛はうまく踏み込めなかった。
来年、凛と士郎は冬木を離れる。
桜は、ここに残る。
(……姉として、ちゃんとしないと)
何をすれば「ちゃんと」なのか、まだ言葉にはできない。それでも、距離を見ないふりだけはしたくなかった。
「桜。今日の午後、空いてる?」
「はい。どうかしましたか?」
「ちょっと遠坂の家に寄らない? 簡単な実験を見せてあげるわ」
桜の青紫の目が、わずかに輝いた。
「いいんですか?」
「いいわよ。アンタも遠坂の血を引いてるんだから、少しは見ておきなさい。ただし、基礎部分だけ。危険なところには触らせないわよ」
「……ありがとうございます、姉さん」
桜の返事は、いつもより少しだけ弾んでいた。
士郎も満足そうに頷く。
「いいな。俺もあとで行く」
「士郎は台所」
「なんでさ」
「終わったら夕飯を三人で食べるの。役割分担よ」
「先輩のお料理、楽しみです」
「桜、甘やかさないで。こいつ、頼まれると際限なく作るんだから」
「凛が一番食べるだろ」
「成長期なのよ」
「三年生でもですか?」
珍しく桜まで乗ってくる。
凛が振り返ると、妹は少しだけ肩をすくめた。それでも笑みは消えない。
「二人とも、いい度胸ね」
「俺は事実を言っただけだぞ」
「わ、わたしもです」
笑い声が、朝の雑踏へ溶けていく。
桜の表情がほどけたことに安堵する一方、凛は留学までの時間が思っていたより短いことも感じていた。
校門が見えてくる。
「姉さん、先輩と一緒に留学するんですよね」
桜が、今度はまっすぐ尋ねた。
「ええ。決まってるわ」
「……よかったです。少し、寂しいですけど」
「会える時間が減るだけよ。なくなりはしないわ」
凛は歩調を緩め、桜と肩を並べる。
「帰ってくるし、連絡もする。遠坂の家だって、アンタが来たいなら来ればいい」
「……はい」
「桜こそ、こっちに残るんだから。ちゃんとやりなさいよ」
「はい。わたしも頑張ります。姉さんたちが帰ってくるまで、冬木を守っておきますね」
「大げさよ」
「でも、本当です」
校門をくぐる前、凛は桜の横顔を見る。
(……大事な妹、だもの)
離れることと、失うことは違う。
その当たり前を守れる未来にしたかった。
そのとき、道路脇に停まった黒い車の窓が朝日を返した。
濃いガラスに、校門と制服姿の三人が歪んで映っている。助手席側に、カフェで見たものと似た淡い色の袖があった――ような気がした。
「凛?」
士郎に呼ばれ、凛は意識を戻す。
「何でもない。行きましょ」
魔力の気配はない。
誰かの送迎か、近くへ来た営業車だろう。わざわざ足を止めて調べるほどの根拠はない。朝の日常には、意味のない雑音もいくらでも混じる。
三人が校舎へ入る直前、背後で低いエンジン音がした。
凛は振り返らなかった。
放課後に桜へ見せる触媒と、士郎に何を作らせるかで、頭の中はもう満ちていた。
その日の実験は、予定どおり行われた。
凛が危険な工程を引き受け、桜には基礎部分だけを見せる。実験を終えれば、台所から士郎の声が飛んできた。三人で食卓を囲み、桜は何度も楽しそうに笑った。
◇
その実験と夕食から、三週間が過ぎた。
夜の遠坂邸。
自室の机に向かった凛の前で、新しい触媒が淡く光っている。
研究は次の段階へ進んだ。その証拠として、触媒の中央には髪の毛ほど細い亀裂が走っている。
成功の印であり、同時に期限の印でもあった。
来週までに同質の宝石を追加できれば、術式は安定する。間に合わなければ、ここまで蓄えた魔力は亀裂から抜け、最初からやり直しになる。
凛は注文票と口座残高を見比べた。
次回送金に含まれる上乗せ分を前提にすれば、必要な宝石へ届く。
計算を確かめ終えたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
ぶぶっ、ぶぶっ。
表示された名前は、ジェイク。
凛は一度だけ触媒を見てから、通話を取った。
「……はい」
「遠坂さん。夜分に失礼します」
いつもの穏やかな声だった。
けれど挨拶のあとに落ちた間が、いつもより長い。
「どうしたの。こんな時間に」
「報告がありまして。少し、都合の悪い話です」
凛の指が、スマートフォンを握り直す。
「都合の悪い話?」
「私の事業の一部が、うまくいっていません。資金繰りが一時的に厳しくなりまして……次回の上乗せ分を、予定どおりには実行できなくなりました」
部屋の空気が、すっと冷えた気がした。
「……は?」
凛は椅子から腰を浮かせる。
「どういうことよ」
「申し訳ありません。援助が完全に止まるわけではありませんが、裁量分の額を大幅に減らさざるを得ない状況です。研究に支障が出るかもしれません」
「契約違反よ」
「最低保証額は履行します。ですが、初回と同等の上乗せは契約上、任意です」
反論しようとして、言葉が止まった。
契約書の条文が、頭の中に浮かぶ。
条件の後付けは防いだ。研究成果と生データの所有権も守った。最低保証と裁量分も、混同しないよう分けて書かせた。
だからこそ分かる。
ジェイクの言葉は、契約上は正しい。
上乗せが継続するとは、どこにも書かれていない。見落としたのではない。初回と同じだけ続くと、凛が期待したのだ。
その期待を前提に、研究を先へ進めた。
「具体的に、どれくらい?」
「現状では、これまでの半分以下になる可能性があります。回復の見込みはありますが、時間がかかります」
「半分以下……」
視線が注文票へ落ちる。
届かない。
宝石にも、触媒にも。来年までに研究を形にする計画にも。
「……何か、方法は?」
口にしたあとで、凛は唇を噛んだ。
自分から訊いた。
ジェイクが沈黙する。
ほんの数秒の間が、ひどく長く感じられた。
「一つだけ、あります」
「言いなさい」
「その方は、大きな資産を持つ資産家です。私よりもはるかに余裕があり、魔術についても知識をお持ちです。そして、あなたのような才能ある方へ、特別な関心を示しておられます」
特別な関心。
選ばれた言葉が、凛の背筋を冷たく撫でた。
「その資産家と会えば、金を出すってこと?」
「直接お会いして、お話しする機会をいただければ。その方の支援が得られれば、資金の問題は一気に解決します。これまで以上に潤沢になる可能性もあります」
「……何をすればいいのよ」
「その方の望む形で、少しお付き合いをしていただく。それだけです」
沈黙が落ちた。
凛はスマートフォンを耳へ当てたまま、目を閉じる。
昨夜の映画館。
今朝の登校。
士郎の手。桜の笑顔。三人で囲んだ食卓。
全部、綺麗なままの日常だった。
「……『付き合う』って、どういう意味よ」
「遠坂さんなら、お分かりかと」
「あんたの口から言いなさい」
声が硬くなる。
「その男の性的な望みに応じて、身体を差し出せ。そういう話なのね」
受話口の向こうで、ジェイクは否定しなかった。
「先方は、あなたとの親密な時間を望んでいます」
「言い換えて誤魔化さないで」
「……はい。あなたが理解されたとおりです」
「嫌よ」
考えるより先に、言葉が出た。
「当然のお気持ちです。私としても、あなたへ無理をお願いするつもりはありませんでした」
「なら、この話は終わりね」
「ですが、このままでは研究が止まります」
声は穏やかなままだった。
だからこそ、その一言が逃げ道を塞ぐ。
「他に手段がありません。あなたの才能を、無駄にしたくないのです」
「止めたくないから、こんな話まで聞いてるんじゃない」
「はい。ですから、判断に必要な情報はすべてお伝えします」
綺麗事だ。
けれど、その裏に現実がある。
資金がなければ研究は止まる。期限に間に合わなければ、今ある成果も消える。士郎へ困っていると知らせれば、あいつはきっと、自分のために貯めた金も時間も差し出す。
――困ったときまで、一人で片づけるな。
優しい約束が蘇る。
同時に、その約束を口にした士郎の未来まで浮かんだ。
(……嫌だ。あんな顔、させたくない)
身体を差し出すのも嫌だ。
士郎に自分を差し出させるのも嫌だった。
「そいつは、どういう人なの」
口から出た質問に、凛自身が息を詰める。
拒絶したはずなのに、条件を聞いている。
違う、と内心で言い聞かせた。これは受け入れるためではない。他に道がないと決める前に、危険の形を把握するためだ。
「初老の紳士です。礼儀正しく、交渉も誠実です。ただ、好みが少し特殊なところがあります」
「特殊、ね」
「あなたのような、若く美しく、強い力を持った方に惹かれるそうです」
「魔術師が好みの変態、ってこと?」
「……魔術そのものは使えませんが、知識はお持ちです。遠坂さんの価値を、正しく理解しておられる」
価値。
今度は、その言葉が何を指すのか分かった。
遠坂の魔術ではない。
才能でも、研究成果でもない。
凛の身体へ付けられた値段だ。
胃の奥が重く縮む。凛は唇を噛み、声だけは震わせまいと息を整えた。
「……期間は」
「四回です。その方は、四度の奉仕と引き換えに、必要額を補填すると約束してくださいます」
「四回を終えれば、それ以上はない?」
「その条件で先方へ伝えます」
「伝える、じゃない。最初から書面に入れて」
凛は机へ戻り、メモを引き寄せた。
ペンを握る。
これは契約交渉だ。
そう形を与えなければ、声を保てそうになかった。
「避妊は」
「必須にできます」
「『できる』じゃない。避妊は必須。撮影、拘束、第三者の同席はなし。要求は四回を超えない。わたしが中止を告げたら、その時点で終わり」
紙の上へ、一項ずつ書きつける。
「条件の追加と変更は、双方が書面で再合意した場合だけ有効。それ以外は拒否できるようにして」
「承知しました」
「破ったら、その場で全部終わりよ」
「先方も、無理強いは望まないでしょう」
「あんたの予想は聞いてない。書面にしなさい」
「……はい」
ジェイクは苛立たない。
最初の契約交渉でもそうだった。凛が条件を挙げれば、穏やかに受け入れ、こちらが主導権を持っているように見せる。
その従順さに安心しかけた自分を、凛は奥歯を噛んで止めた。
「遠坂さんなら、問題なく終えられると思います」
「問題あるに決まってるでしょう」
身体を差し出す。
士郎へ隠して。
遠坂の誇りを、四回に切り分けて売る。
何が問題ないものか。
「……考えるわ」
「できるだけ早く、お返事をいただけると助かります。触媒の期限も近いですね」
凛の視線が、亀裂へ戻る。
細い裂け目の奥で、淡い光が揺れていた。
「……どうして知ってるの」
「先月の進捗報告に、反応周期が記載されていました。急かす意図はありません。ただ、判断材料は正確であるべきですから」
「親切ね」
「あなたの研究を止めたくないだけです」
「分かった。時間をちょうだい。本当に他に道がないのか、一晩かけて調べる」
「もちろんです。では、失礼します」
通話が切れた。
つう、と短い電子音がして、部屋へ静けさが戻る。
凛はスマートフォンを机へ置いた。
すぐには動けなかった。
指先が冷たい。胃の奥へ沈んだ重さは、呼吸をしても消えない。
それでも両手で顔を覆ったのは、ほんの数秒だけだった。
感情を脇へ押しやる。
まだ、受けると決めたわけではない。
代替策を探す。
凛は手帳、口座残高、注文票を並べた。
「預金は……足りない」
声に出し、最初の案を消す。
「手持ちの宝石を売れば、必要な触媒は買える。でも、別の術式が半年止まる」
次の案も消す。
「注文を延期すれば――」
触媒の亀裂を見る。
来週を越えれば、蓄えた魔力が抜ける。ここまで積み上げた成果は失われ、最初からやり直しだ。
延期は、延期ではない。
現在の研究を捨てる選択だった。
「……やるしか、ないのかしら」
誰に問うでもなく、独り言が落ちる。
違う。
まだ一つ、残っている。
凛はスマートフォンを手に取り、士郎とのメッセージ画面を開いた。
『少し相談がある』
そこまで打って、指が止まる。
――困ったときまで、一人で片づけるな。
昨夜の声が、今度はさっきより鮮明に蘇った。
送信すれば、士郎は来る。
事情を聞き、来年のために貯めた金を出す。足りなければ働く時間を増やす。自分の訓練も睡眠も削って、それを大したことではないように言う。
目に見えるほど、想像できた。
自分の身体を差し出すか。
士郎の未来を差し出させるか。
凛には、二つしか残っていないように見えた。
親指を動かす。
入力した文字を、一文字ずつ消した。
四回で終わる。
避妊は必須にする。撮影も、拘束も、第三者も認めない。中止権がある。条件を増やすには、書面での再合意が要る。
自分なら管理できる。
そう結論しなければ、選べない。
スマートフォンが一度だけ震えた。
ジェイクからホテル名と契約書が届いた。
まだ返事をしていない。
それなのに、準備だけはもう整えられている。
凛は添付を開かず、スマートフォンを伏せた。
ぴし、と微かな音がした。
机上の触媒を見る。
中央の亀裂から、蓄えた魔力が細い光となって漏れていた。
来週までの研究期限。
明日までの回答期限。
二つの時間が、同じ亀裂の上で重なる。
「……明日、答えを出す」
誰もいない部屋で、凛は自分に言い聞かせた。