桜は、自分の部屋のベッドで目を開けた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、見慣れた天井の染みを淡く浮かび上がらせている。
枕は少し硬い。掛け布団には、昨夜まで使っていた洗剤の匂いが残っていた。
いつもの部屋だった。
なのに、自分だけが、昨日までとは違う場所へ置き直されたような気がする。
「……夢?」
長い夢を見ていた。
そうとしか言えない感触だけが、胸の奥に残っている。
桜は枕へ頭を戻し、目を閉じた。
白い光。
重なる声。
身体の奥を満たした熱。
その三つが一瞬だけ浮かび、掴もうと手を伸ばした途端、水の底へ沈むように輪郭を失った。
誰の声だったのか。
どこにいたのか。
熱は何によるものだったのか。
思い出すための糸口さえ見つからない。
ただ、嫌な夢だったような気がした。怖かったのかもしれない。誰かへ必死に呼びかけていたような、呼びかけられていたような――その曖昧な感覚も、朝の静けさに溶けていく。
桜は布団をめくり、ゆっくり上体を起こした。
痛むところはなかった。
腕にも脚にも傷はない。寝間着やシーツを確かめても、目につく汚れはない。
「おかしな夢……」
胸元を押さえて息を吐く。
身体の芯にだけ、寝起きのぬくもりとは違う熱が静かに残っていた。
それ以上に気づいたことがある。
身体は、妙に軽かった。
床へ足を下ろす。立ち上がるつもりでわずかに力を入れただけなのに、身体が思ったより早く持ち上がり、桜は慌ててベッドの縁へ手をついた。
「え……?」
寝起きの怠さがない。
肩も腰も軽く、指先まで力が通っている。
右手を目の前で開き、そっと魔術回路へ意識を触れさせた。
魔力が細い水脈のように腕を走る。
五本の指先へ、まったく同じ速さ、同じ強さで満ちていった。以前なら小さく引っかかっていた箇所も、何の抵抗もなく通り抜ける。
「……おかしい」
声にすると、胸の奥へ小さな不安が生まれた。
けれど、魔力を閉じても何かが暴れる気配はない。身体にも痛みはない。時計へ目を向ければ、針はもう起きなければならない時間を示していた。
考えても答えの出ない夢より、今朝の献立が先に浮かぶ。
今日は先輩のところへ行こう。
そう決めると、桜は制服へ着替えた。鏡の前で髪を整え、通学鞄を手に家を出る。
玄関の扉を閉める頃には、白い光の夢はもう、遠い水面の下にしかなかった。
◇
衛宮家の台所に、包丁の音が響いていた。
とん、とん、とん。
桜は刻んだねぎを溶き卵へ落とす。
熱したフライパンへ油を引けば、じわっ、と小さな音がして、香ばしい匂いが立った。卵液を流し入れ、菜箸で形を整えながら、反対の手で味噌汁の鍋の蓋をずらす。
湯気が頬を撫でた。
いつもより手際がいい。
火加減を見て、焼き魚を返し、空いた時間に二人分の茶碗まで並べる。それぞれの動きが自然に次へ繋がり、少しも慌てない。
「もうできちゃった……」
思わず呟いたとき、背後で廊下の床が鳴った。
ぎしっ。
「おはよう、桜」
「おはようございます、先輩」
振り返った桜は、持っていた菜箸を止めた。
士郎は寝癖を直す余裕もなかったらしい。廊下から部屋へ入る手前で、片手で柱に触れていた。
顔色が悪い。
目の下には薄い影があり、肩も普段より落ちている。立っているだけで身体を支える場所を探しているようだった。
「先輩、大丈夫ですか? 顔色が悪いです。座ってください」
「いや、配膳くらいは――」
「今日は、わたしがします」
桜は菜箸を置き、士郎の腕へ手を添えた。
触れた体温は高くない。それでも腕には普段の張りがなく、桜が少し支えただけで素直に重みを預けてきた。
いつもなら、こんなことはない。
「ほら、座ってください。立っているのもつらいんですよね?」
「そこまでじゃないんだけどな」
「柱につかまって言っても、説得力がありません」
少し強く言うと、士郎は桜の顔を見て、困ったように苦笑した。
「分かった。じゃあ、甘える」
士郎は座布団へゆっくり腰を下ろした。膝へ手を置き、深く息をつく。その動作にも、いつもの力がない。
桜は台所へ戻って火を弱め、湯呑みに水を注いで先に差し出した。
「熱はありますか?」
「測ったけど、平熱だった。ただ、身体が重いんだ。風邪って感じでもないんだけどな」
「頭痛や吐き気は?」
「それもない。寝ても疲れが抜けなかった、って感じかな」
士郎は水を半分ほど飲み、もう一度息をついた。
「学校、お休みした方が……」
「立てないほどじゃないよ。昼まで駄目そうなら、早退する」
「でも――」
「約束する。無理だと思ったら、ちゃんと保健室へ行く」
士郎らしい答えだった。
桜は眉を下げたまま、それ以上は押し切らない。代わりに焼き上がった卵を皿へ移し、味噌汁と焼き魚も食卓へ運んだ。
自分は、こんなにも軽いのに。
同じ朝を迎えた先輩だけが、どこかへ大切なものを置いてきたように弱っている。
その考えが浮かんだ瞬間、白い光の残像がまぶたの裏で弾けた。
「……っ」
桜は味噌汁の椀を落としかけ、両手で持ち直す。
「桜?」
士郎が顔を上げた。
心配する声は、いつもの先輩だった。
光はもう消えている。
「……なんでもないです。朝ごはん、できましたよ」
「本当に?」
「はい。先輩こそ、食べられる分だけでいいですからね」
士郎は湯気の向こうで小さく笑った。
「ありがとう。助かる」
その一言がいつもどおりで、桜はようやく微笑んだ。
◇
遠坂邸では、凛が目覚まし時計の鳴る直前に目を覚ました。
目を開き、上体を起こす。
その一連の動作だけで、違和感に気づいた。
調子が良すぎる。
寝起き特有の鈍さがない。頭は冴え、全身へ無理なく力が通っている。
「……妙ね」
凛はベッドの上で両手を眺め、寝間着の袖をまくった。
魔術回路へ意識を触れさせる。
一つ一つが、以前より太く、安定して応じた。
指先へ魔力を集めても、痛みも滞りもない。余分な熱として漏れもせず、思った場所でぴたりと止まる。
出力をわずかに上げてみる。
それでも回路は軋まず、余裕を残して魔力を通した。
「……全然違う……なによこれ」
鏡を見れば、寝起きとは思えないほど顔色までいい。
身体の調子がいい。それ自体は悪いことではない。
問題は、理由を知らないことだった。
昨夜、何をしていた。
いつ眠った。
曖昧な夜の記憶を辿っても、異常な強化へ繋がる出来事は見つからない。
凛は制服へ着替え、簡単に朝食を済ませた。
鞄を持ち上げたところで、地下から音がする。
こつん。
硬いものが床を打ったような音だった。
凛は鞄を置き、地下の工房へ下りる。
床に、青い原石が一つ転がっていた。
棚の端で傾いた小箱から、蓋の隙間を抜けて落ちたらしい。
「音の原因は、これか」
拾い上げ、工房の灯りへかざす。
色も透明度も申し分ない。普段なら購入前に何度も状態を確かめ、財布の中身と何日も睨み合うような品だった。
「……こんないいやつ、持ってたっけ」
小箱を開く。
同じ水準の原石が、まだいくつも収まっていた。
机の上には研究ノートが開かれている。記された術式は自分の筆跡だった。計算にも覚えがある。途中式を追えば、どこで仮説を修正し、どの原石を使い、どの夜に結果を得たのかまで理解できた。
成果も正しい。
研究した記憶はある。
だが、この量の宝石をいつ、何の金で買ったのかが出てこない。
「……わたし、寝ながら盗んできた?」
冗談のつもりで口にしたのに、声は半分も笑っていなかった。
凛は端末を開き、銀行の記録へ接続する。
最近まで繰り返された高額の入金。
名義欄に、見覚えのない名前が並んでいた。
ジェイク。
凛は声に出さず、唇だけでその名をなぞった。
何も浮かばない。
会った顔も、聞いた声も、その人物から金を受け取る理由も。
「誰よ、あんた」
端末へ問いかけても答えは返らない。
メールの受信履歴を遡る。通話履歴を日付順に確かめる。契約書をまとめた書類棚から、領収書と購入記録まで引っ張り出す。
入金額と宝石の量は繋がる。
その間を埋める契約だけがない。
研究の手順は覚えている。失敗も成功も、自分が夜を重ねて積み上げた感覚として残っていた。
その研究を可能にした金と時間の経緯だけがない。
「気味が悪いわね」
凛は自分の頬をつねった。
「痛っ……」
当然、痛い。夢ではない。
鏡へ近づき、青い瞳を覗き込む。魔力を細く流し、意識の表層を探る。
分かりやすい催眠の痕跡も、表層に残る暗示の澱も見つからない。
少なくとも、朝の数分で見抜けるほど雑な細工ではなかった。
視線を巡らせた凛は、工房の隅で眉を寄せる。
いつ買ったのか記憶の薄い芳香剤が、いくつも置かれていた。甘い香りが、今朝はやけに鼻につく。
宝石。口座。契約。芳香剤。そして、この不自然に強くなった回路。
一つずつ調べるべきだ。
だが時計を見れば、今から始めれば確実に遅刻する。
凛は拾った原石を小箱へ戻し、蓋を閉じた。
「……まあ、いいか」
良くはない。
放っておくという意味ではなく、学校から帰るまで保留するだけだ。
机の上のものも動かさず、帰宅した自分がすぐ調査を再開できるようにしてから、凛は工房を出た。
◇
校門の手前で、凛は見慣れた二人の背中を見つけた。
「おはよう、士郎。桜も」
「おはようございます、姉さん」
「よう、凛」
返ってきた声が弱い。
凛は足を速め、士郎の前へ回り込んだ。そのまま顔を覗き、眉をひそめる。
「ちょっと、どうしたのよ。顔色、真っ青じゃない」
「朝からこうなんです。熱はないみたいなんですけど」
桜がすぐに答えた。
士郎は心配を打ち消すように片手を上げる。けれど、上がった手には普段の勢いがなく、途中でだらりと下りた。
「大丈夫だって。ただ、ちょっとだるいだけだ」
「その台詞、倒れる人間がよく言うのよね」
凛は腰へ手を当てた。
自分は一晩で生まれ変わったように軽い。隣の桜も頬の色がよく、立ち姿に疲れがない。
その二人の間で、士郎だけが少し前屈みになっている。
三人とも同じ朝を迎えたはずなのに、差だけが不自然に際立っている。
凛は胸の内で首を振った。因果を結ぶ材料がない。
代わりに、わざと明るく口角を上げる。
「仕方ないわね。私の元気、少しくらい分けてあげよっか?」
「どうやって」
「そこはアンタが考えなさいよ」
即座に返した士郎へ、凛は満足そうに鼻を鳴らした。
その横で桜が、ほっとしたように笑う。
「わたしも今日は、なんだか身体が軽いんです。部活もお休みですし、夕食を作りに行きますね」
「朝も作ってもらったのに、悪いな」
「いいんです。先輩は、帰ったら休んでいてください」
「そうしなさい。桜を手伝おうなんて考えたら、私が止めるから」
「二人とも大げさだって」
口ではそう言いながら、士郎は逆らわなかった。
三人は並んで校門をくぐった。
朝の光の下では、いつもと変わらない登校風景に見える。
桜が士郎の左、凛が右を歩く。士郎が躓かないよう、二人とも意識せず歩幅を狭めていた。
それでも、凛と桜の足取りは軽く、士郎だけが半歩遅い。
誰も、その差の理由を知らなかった。
◇
一限目の教室へ向かう廊下で、凛は背後から名を呼ばれた。
「遠坂」
振り返ると、美綴綾子が窓際に立っていた。
腕を組み、凛の顔を確かめるように見ている。いつもの遠慮のない視線なのに、今日はどこか慎重だった。
「何よ」
「この間のあれ、ほんとうに解決したの?」
凛の足が止まった。
この間。
あれ。
指し示す先が、頭の中に一つもない。
「……なんの話よ」
「なんの話って……あの……」
美綴は言いかけ、口を閉じた。
窓から差す光の中で、凛の目をまっすぐ覗き込む。冗談で誤魔化しているのか、それとも本当に何も知らないのかを確かめるように。
「美綴?」
呼ばれると、美綴はふっと肩の力を抜いた。
「ま、いいや。いつもの遠坂凛になったみたいだし」
「は?」
「その顔ができるなら、少なくとも今は大丈夫そうだ」
「だから、何の話をしてるのよ」
「忘れてるなら、私から蒸し返すのも違うだろ。じゃあな、遅刻すんなよ」
美綴は片手を上げ、先に廊下を曲がった。
凛は追いかけようとして、一歩だけ踏み出す。
だが、予鈴が鳴った。
廊下を急ぐ生徒たちが二人の間へ流れ込み、美綴の背中を隠していく。
「……気味の悪い朝ね」
凛は小さく呟いた。
◇
窓のない部屋で、資産家はソファへ深く腰を下ろしていた。
手元の端末には、日付ごとに整理された映像ファイルが並んでいる。
資産家は日付の並びを指でゆっくり送り、壁際に立つジェイクへ尋ねた。
「今回は結局、君のやりたいことはできなかったのかね?」
「ええ。根源へ届くことはできなかった。惜しいところまでは行ったと思うのですが」
ジェイクの声は、失敗を悔やんでいるようには聞こえなかった。
「集めたものの大部分は、術式が終わると散逸しました。ですが、あの姉妹にはしっかりと残りました」
「昨夜の光か」
「正確には、矛盾した魔力です。欲情と絶頂を刻み、定着させるところまでは成功した」
「なら、まるきり無駄ではなかったわけか」
「はい。結局、世界は応えなかった。まだ足りないピースがある。見つかれば、またご協力をお願いすると思います」
資産家は端末から目を上げた。
「また彼らを?」
「ええ。まだ、あの三人には利用価値がありそうです」
ジェイクは乱れのない袖口を整え、穏やかな声のまま続ける。
「その時のためにも、次にこちらからお願いするまでは、余計な痕を残すようなお楽しみは少し我慢していただけますか」
「ふむ。彼らは、昨夜のことを?」
「具体的なことは覚えていません。元の生活へ戻っています」
「店で手を貸した連中は?」
「同じです。何も、覚えていませんよ」
「そうか」
資産家は再び端末へ目を落とした。
指先でファイルの一覧を送り、資産家は満足そうに口元を緩めた。
「……かまわんよ。映像も流すつもりはない。まあ、個人的に保管はさせてもらうが」
「ええ。そのくらいなら」
資産家は端末を閉じた。
小さな音とともに画面が消え、窓のない部屋へ二人の影だけが残る。
ジェイクは根源到達の失敗を語ったあとだというのに、焦りを見せない。資産家も、三人が日常へ戻ったことに不満を示さなかった。
次の可能性が、失われていないからだ。
閉じられた端末の中には、三人が忘れた時間だけが、鮮明なまま残っていた。