※この作品はR-18です。

濁った宝石   作:湖畔R

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最終話 濁りのない朝

 桜は、自分の部屋のベッドで目を開けた。

 

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、見慣れた天井の染みを淡く浮かび上がらせている。

 

 枕は少し硬い。掛け布団には、昨夜まで使っていた洗剤の匂いが残っていた。

 

 いつもの部屋だった。

 

 なのに、自分だけが、昨日までとは違う場所へ置き直されたような気がする。

 

「……夢?」

 

 長い夢を見ていた。

 

 そうとしか言えない感触だけが、胸の奥に残っている。

 

 桜は枕へ頭を戻し、目を閉じた。

 

 白い光。

 

 重なる声。

 

 身体の奥を満たした熱。

 

 その三つが一瞬だけ浮かび、掴もうと手を伸ばした途端、水の底へ沈むように輪郭を失った。

 

 誰の声だったのか。

 

 どこにいたのか。

 

 熱は何によるものだったのか。

 

 思い出すための糸口さえ見つからない。

 

 ただ、嫌な夢だったような気がした。怖かったのかもしれない。誰かへ必死に呼びかけていたような、呼びかけられていたような――その曖昧な感覚も、朝の静けさに溶けていく。

 

 桜は布団をめくり、ゆっくり上体を起こした。

 

 痛むところはなかった。

 

 腕にも脚にも傷はない。寝間着やシーツを確かめても、目につく汚れはない。

 

「おかしな夢……」

 

 胸元を押さえて息を吐く。

 

 身体の芯にだけ、寝起きのぬくもりとは違う熱が静かに残っていた。

 

 それ以上に気づいたことがある。

 

 身体は、妙に軽かった。

 

 床へ足を下ろす。立ち上がるつもりでわずかに力を入れただけなのに、身体が思ったより早く持ち上がり、桜は慌ててベッドの縁へ手をついた。

 

「え……?」

 

 寝起きの怠さがない。

 

 肩も腰も軽く、指先まで力が通っている。

 

 右手を目の前で開き、そっと魔術回路へ意識を触れさせた。

 

 魔力が細い水脈のように腕を走る。

 

 五本の指先へ、まったく同じ速さ、同じ強さで満ちていった。以前なら小さく引っかかっていた箇所も、何の抵抗もなく通り抜ける。

 

「……おかしい」

 

 声にすると、胸の奥へ小さな不安が生まれた。

 

 けれど、魔力を閉じても何かが暴れる気配はない。身体にも痛みはない。時計へ目を向ければ、針はもう起きなければならない時間を示していた。

 

 考えても答えの出ない夢より、今朝の献立が先に浮かぶ。

 

 今日は先輩のところへ行こう。

 

 そう決めると、桜は制服へ着替えた。鏡の前で髪を整え、通学鞄を手に家を出る。

 

 玄関の扉を閉める頃には、白い光の夢はもう、遠い水面の下にしかなかった。

 

   ◇

 

 衛宮家の台所に、包丁の音が響いていた。

 

 とん、とん、とん。

 

 桜は刻んだねぎを溶き卵へ落とす。

 

 熱したフライパンへ油を引けば、じわっ、と小さな音がして、香ばしい匂いが立った。卵液を流し入れ、菜箸で形を整えながら、反対の手で味噌汁の鍋の蓋をずらす。

 

 湯気が頬を撫でた。

 

 いつもより手際がいい。

 

 火加減を見て、焼き魚を返し、空いた時間に二人分の茶碗まで並べる。それぞれの動きが自然に次へ繋がり、少しも慌てない。

 

「もうできちゃった……」

 

 思わず呟いたとき、背後で廊下の床が鳴った。

 

 ぎしっ。

 

「おはよう、桜」

 

「おはようございます、先輩」

 

 振り返った桜は、持っていた菜箸を止めた。

 

 士郎は寝癖を直す余裕もなかったらしい。廊下から部屋へ入る手前で、片手で柱に触れていた。

 

 顔色が悪い。

 

 目の下には薄い影があり、肩も普段より落ちている。立っているだけで身体を支える場所を探しているようだった。

 

「先輩、大丈夫ですか? 顔色が悪いです。座ってください」

 

「いや、配膳くらいは――」

 

「今日は、わたしがします」

 

 桜は菜箸を置き、士郎の腕へ手を添えた。

 

 触れた体温は高くない。それでも腕には普段の張りがなく、桜が少し支えただけで素直に重みを預けてきた。

 

 いつもなら、こんなことはない。

 

「ほら、座ってください。立っているのもつらいんですよね?」

 

「そこまでじゃないんだけどな」

 

「柱につかまって言っても、説得力がありません」

 

 少し強く言うと、士郎は桜の顔を見て、困ったように苦笑した。

 

「分かった。じゃあ、甘える」

 

 士郎は座布団へゆっくり腰を下ろした。膝へ手を置き、深く息をつく。その動作にも、いつもの力がない。

 

 桜は台所へ戻って火を弱め、湯呑みに水を注いで先に差し出した。

 

「熱はありますか?」

 

「測ったけど、平熱だった。ただ、身体が重いんだ。風邪って感じでもないんだけどな」

 

「頭痛や吐き気は?」

 

「それもない。寝ても疲れが抜けなかった、って感じかな」

 

 士郎は水を半分ほど飲み、もう一度息をついた。

 

「学校、お休みした方が……」

 

「立てないほどじゃないよ。昼まで駄目そうなら、早退する」

 

「でも――」

 

「約束する。無理だと思ったら、ちゃんと保健室へ行く」

 

 士郎らしい答えだった。

 

 桜は眉を下げたまま、それ以上は押し切らない。代わりに焼き上がった卵を皿へ移し、味噌汁と焼き魚も食卓へ運んだ。

 

 自分は、こんなにも軽いのに。

 

 同じ朝を迎えた先輩だけが、どこかへ大切なものを置いてきたように弱っている。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、白い光の残像がまぶたの裏で弾けた。

 

「……っ」

 

 桜は味噌汁の椀を落としかけ、両手で持ち直す。

 

「桜?」

 

 士郎が顔を上げた。

 

 心配する声は、いつもの先輩だった。

 

 光はもう消えている。

 

「……なんでもないです。朝ごはん、できましたよ」

 

「本当に?」

 

「はい。先輩こそ、食べられる分だけでいいですからね」

 

 士郎は湯気の向こうで小さく笑った。

 

「ありがとう。助かる」

 

 その一言がいつもどおりで、桜はようやく微笑んだ。

 

   ◇

 

 遠坂邸では、凛が目覚まし時計の鳴る直前に目を覚ました。

 

 目を開き、上体を起こす。

 

 その一連の動作だけで、違和感に気づいた。

 

 調子が良すぎる。

 

 寝起き特有の鈍さがない。頭は冴え、全身へ無理なく力が通っている。

 

「……妙ね」

 

 凛はベッドの上で両手を眺め、寝間着の袖をまくった。

 

 魔術回路へ意識を触れさせる。

 

 一つ一つが、以前より太く、安定して応じた。

 

 指先へ魔力を集めても、痛みも滞りもない。余分な熱として漏れもせず、思った場所でぴたりと止まる。

 

 出力をわずかに上げてみる。

 

 それでも回路は軋まず、余裕を残して魔力を通した。

 

「……全然違う……なによこれ」

 

 鏡を見れば、寝起きとは思えないほど顔色までいい。

 

 身体の調子がいい。それ自体は悪いことではない。

 

 問題は、理由を知らないことだった。

 

 昨夜、何をしていた。

 

 いつ眠った。

 

 曖昧な夜の記憶を辿っても、異常な強化へ繋がる出来事は見つからない。

 

 凛は制服へ着替え、簡単に朝食を済ませた。

 

 鞄を持ち上げたところで、地下から音がする。

 

 こつん。

 

 硬いものが床を打ったような音だった。

 

 凛は鞄を置き、地下の工房へ下りる。

 

 床に、青い原石が一つ転がっていた。

 

 棚の端で傾いた小箱から、蓋の隙間を抜けて落ちたらしい。

 

「音の原因は、これか」

 

 拾い上げ、工房の灯りへかざす。

 

 色も透明度も申し分ない。普段なら購入前に何度も状態を確かめ、財布の中身と何日も睨み合うような品だった。

 

「……こんないいやつ、持ってたっけ」

 

 小箱を開く。

 

 同じ水準の原石が、まだいくつも収まっていた。

 

 机の上には研究ノートが開かれている。記された術式は自分の筆跡だった。計算にも覚えがある。途中式を追えば、どこで仮説を修正し、どの原石を使い、どの夜に結果を得たのかまで理解できた。

 

 成果も正しい。

 

 研究した記憶はある。

 

 だが、この量の宝石をいつ、何の金で買ったのかが出てこない。

 

「……わたし、寝ながら盗んできた?」

 

 冗談のつもりで口にしたのに、声は半分も笑っていなかった。

 

 凛は端末を開き、銀行の記録へ接続する。

 

 最近まで繰り返された高額の入金。

 

 名義欄に、見覚えのない名前が並んでいた。

 

 ジェイク。

 

 凛は声に出さず、唇だけでその名をなぞった。

 

 何も浮かばない。

 

 会った顔も、聞いた声も、その人物から金を受け取る理由も。

 

「誰よ、あんた」

 

 端末へ問いかけても答えは返らない。

 

 メールの受信履歴を遡る。通話履歴を日付順に確かめる。契約書をまとめた書類棚から、領収書と購入記録まで引っ張り出す。

 

 入金額と宝石の量は繋がる。

 

 その間を埋める契約だけがない。

 

 研究の手順は覚えている。失敗も成功も、自分が夜を重ねて積み上げた感覚として残っていた。

 

 その研究を可能にした金と時間の経緯だけがない。

 

「気味が悪いわね」

 

 凛は自分の頬をつねった。

 

「痛っ……」

 

 当然、痛い。夢ではない。

 

 鏡へ近づき、青い瞳を覗き込む。魔力を細く流し、意識の表層を探る。

 

 分かりやすい催眠の痕跡も、表層に残る暗示の澱も見つからない。

 

 少なくとも、朝の数分で見抜けるほど雑な細工ではなかった。

 

 視線を巡らせた凛は、工房の隅で眉を寄せる。

 

 いつ買ったのか記憶の薄い芳香剤が、いくつも置かれていた。甘い香りが、今朝はやけに鼻につく。

 

 宝石。口座。契約。芳香剤。そして、この不自然に強くなった回路。

 

 一つずつ調べるべきだ。

 

 だが時計を見れば、今から始めれば確実に遅刻する。

 

 凛は拾った原石を小箱へ戻し、蓋を閉じた。

 

「……まあ、いいか」

 

 良くはない。

 

 放っておくという意味ではなく、学校から帰るまで保留するだけだ。

 

 机の上のものも動かさず、帰宅した自分がすぐ調査を再開できるようにしてから、凛は工房を出た。

 

   ◇

 

 校門の手前で、凛は見慣れた二人の背中を見つけた。

 

「おはよう、士郎。桜も」

 

「おはようございます、姉さん」

 

「よう、凛」

 

 返ってきた声が弱い。

 

 凛は足を速め、士郎の前へ回り込んだ。そのまま顔を覗き、眉をひそめる。

 

「ちょっと、どうしたのよ。顔色、真っ青じゃない」

 

「朝からこうなんです。熱はないみたいなんですけど」

 

 桜がすぐに答えた。

 

 士郎は心配を打ち消すように片手を上げる。けれど、上がった手には普段の勢いがなく、途中でだらりと下りた。

 

「大丈夫だって。ただ、ちょっとだるいだけだ」

 

「その台詞、倒れる人間がよく言うのよね」

 

 凛は腰へ手を当てた。

 

 自分は一晩で生まれ変わったように軽い。隣の桜も頬の色がよく、立ち姿に疲れがない。

 

 その二人の間で、士郎だけが少し前屈みになっている。

 

 三人とも同じ朝を迎えたはずなのに、差だけが不自然に際立っている。

 

 凛は胸の内で首を振った。因果を結ぶ材料がない。

 

 代わりに、わざと明るく口角を上げる。

 

「仕方ないわね。私の元気、少しくらい分けてあげよっか?」

 

「どうやって」

 

「そこはアンタが考えなさいよ」

 

 即座に返した士郎へ、凛は満足そうに鼻を鳴らした。

 

 その横で桜が、ほっとしたように笑う。

 

「わたしも今日は、なんだか身体が軽いんです。部活もお休みですし、夕食を作りに行きますね」

 

「朝も作ってもらったのに、悪いな」

 

「いいんです。先輩は、帰ったら休んでいてください」

 

「そうしなさい。桜を手伝おうなんて考えたら、私が止めるから」

 

「二人とも大げさだって」

 

 口ではそう言いながら、士郎は逆らわなかった。

 

 三人は並んで校門をくぐった。

 

 朝の光の下では、いつもと変わらない登校風景に見える。

 

 桜が士郎の左、凛が右を歩く。士郎が躓かないよう、二人とも意識せず歩幅を狭めていた。

 

 それでも、凛と桜の足取りは軽く、士郎だけが半歩遅い。

 

 誰も、その差の理由を知らなかった。

 

   ◇

 

 一限目の教室へ向かう廊下で、凛は背後から名を呼ばれた。

 

「遠坂」

 

 振り返ると、美綴綾子が窓際に立っていた。

 

 腕を組み、凛の顔を確かめるように見ている。いつもの遠慮のない視線なのに、今日はどこか慎重だった。

 

「何よ」

 

「この間のあれ、ほんとうに解決したの?」

 

 凛の足が止まった。

 

 この間。

 

 あれ。

 

 指し示す先が、頭の中に一つもない。

 

「……なんの話よ」

 

「なんの話って……あの……」

 

 美綴は言いかけ、口を閉じた。

 

 窓から差す光の中で、凛の目をまっすぐ覗き込む。冗談で誤魔化しているのか、それとも本当に何も知らないのかを確かめるように。

 

「美綴?」

 

 呼ばれると、美綴はふっと肩の力を抜いた。

 

「ま、いいや。いつもの遠坂凛になったみたいだし」

 

「は?」

 

「その顔ができるなら、少なくとも今は大丈夫そうだ」

 

「だから、何の話をしてるのよ」

 

「忘れてるなら、私から蒸し返すのも違うだろ。じゃあな、遅刻すんなよ」

 

 美綴は片手を上げ、先に廊下を曲がった。

 

 凛は追いかけようとして、一歩だけ踏み出す。

 

 だが、予鈴が鳴った。

 

 廊下を急ぐ生徒たちが二人の間へ流れ込み、美綴の背中を隠していく。

 

「……気味の悪い朝ね」

 

 凛は小さく呟いた。

 

   ◇

 

 窓のない部屋で、資産家はソファへ深く腰を下ろしていた。

 

 手元の端末には、日付ごとに整理された映像ファイルが並んでいる。

 

 資産家は日付の並びを指でゆっくり送り、壁際に立つジェイクへ尋ねた。

 

「今回は結局、君のやりたいことはできなかったのかね?」

 

「ええ。根源へ届くことはできなかった。惜しいところまでは行ったと思うのですが」

 

 ジェイクの声は、失敗を悔やんでいるようには聞こえなかった。

 

「集めたものの大部分は、術式が終わると散逸しました。ですが、あの姉妹にはしっかりと残りました」

 

「昨夜の光か」

 

「正確には、矛盾した魔力です。欲情と絶頂を刻み、定着させるところまでは成功した」

 

「なら、まるきり無駄ではなかったわけか」

 

「はい。結局、世界は応えなかった。まだ足りないピースがある。見つかれば、またご協力をお願いすると思います」

 

 資産家は端末から目を上げた。

 

「また彼らを?」

 

「ええ。まだ、あの三人には利用価値がありそうです」

 

 ジェイクは乱れのない袖口を整え、穏やかな声のまま続ける。

 

「その時のためにも、次にこちらからお願いするまでは、余計な痕を残すようなお楽しみは少し我慢していただけますか」

 

「ふむ。彼らは、昨夜のことを?」

 

「具体的なことは覚えていません。元の生活へ戻っています」

 

「店で手を貸した連中は?」

 

「同じです。何も、覚えていませんよ」

 

「そうか」

 

 資産家は再び端末へ目を落とした。

 

 指先でファイルの一覧を送り、資産家は満足そうに口元を緩めた。

 

「……かまわんよ。映像も流すつもりはない。まあ、個人的に保管はさせてもらうが」

 

「ええ。そのくらいなら」

 

 資産家は端末を閉じた。

 

 小さな音とともに画面が消え、窓のない部屋へ二人の影だけが残る。

 

 ジェイクは根源到達の失敗を語ったあとだというのに、焦りを見せない。資産家も、三人が日常へ戻ったことに不満を示さなかった。

 

 次の可能性が、失われていないからだ。

 

 閉じられた端末の中には、三人が忘れた時間だけが、鮮明なまま残っていた。

 

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