【公式不倫 R-18二次創作】消せないラスト・ノート 作:ひよこレモン
少しずつ陽が傾き始めた、真夏の夕方。
ちょっとだけ涼しくなった風が、ノースリーブのワンピースの中を吹き抜けていく。
タカヒロさんの家を出ると、もう時刻は16時を回っていた。こつん、こつんと、サンダルのかかとを鳴らしながら、私は帰路につく。
その足音は軽やかなのに、私の歩みはのろのろとして重苦しい。
まだ、脚にうまく力が入らない。
ときおりふらふらとよろめきながら、ゆっくりと、家への歩みを進める。
そんな私の横を、後ろから高校生の男女が自転車で追い抜いていく。真っ白なカッターシャツとセーラー服の背中が眩しい。カップルだろうか、それともただの友達同士だろうか。大きな笑い声を上げながら、その後ろ姿が遠ざかっていく。
爽やかな風にそよぐ街路樹の緑。
真っ青に晴れわたった空と、もくもくと盛り上がる入道雲。
道を行く車のエンジン音。
どこからともなく聞こえてくる、子どもたちのはしゃぐ声。
何もかもが、いつも通りの夏で。
何も変わらない、平和な時間が流れていて。
あの家の中で起こったことが、全部悪い夢みたいに思えてくる。
あんなにも夢中になって、互いを求め合い、欲望のままに快楽を貪って、もうこれ以上何もいらないように思えたのに。
通り過ぎてしまえば、あの満たされた時間は儚い幻のように霧散し、ただひとときの慰めでしかないことを思い知らされる。
タカヒロさんといくら熱く交わったところで、私のもとには、何も残らない。
いや、残るものがあるとすれば、この身体に焼き付いた生々しい記憶と、蒸れたようなあの濃密な情交の残り香。
そして、心にずしりとのしかかる、できもののような、この感情。
これは、不安?
それとも、後悔?
…あるいは、罪悪感?
彼との秘密の逢瀬を終えて、この帰り道をてくてくと歩くたびに、いつもそんな思いにとらわれる。
でも、この心を覆うどんよりとした黒い雲も、時間とともに薄らいでいき、きっと私はまたこの道をたどって、吸い寄せられるように彼のもとを訪ねてしまうのだろう。
これまでもずっとそうだったように。
人間が決めたルールとか、常識とか、そんなちっぽけなものでは…もう自分を抑えるなんてできそうもない。
不意に、ぐぅぅっ、とおなかが鳴る。
そういえば、今日は朝ごはんにパンとヨーグルトを口にした以外、何も食べていなかった。
少食な私でも、それじゃさすがに、おなかが空いてしまう。
私はもう少し歩いたところで、途中にあるコンビニに立ち寄る。喉も渇いていたので、小さなサイズのペットボトルのお水と、カロリー補給用のゼリー飲料をひとつずつ選ぶ。
セルフレジで会計を済ませ、日陰になった駐車場の車止めに寄りかかって、ゼリー飲料のキャップを開け、口に含む。左手でパウチを潰しながら、口をすぼめて、その中身をごくごくと胃に流し込む。マスカット味のゼリーが、どろりと、喉の粘膜の上を這いずりながら流れ落ちていく。
その感触に、ほんの一瞬、頭をよぎる、さっきまでの情事。
私ははっと息を呑んで、周りを見渡す。
そこにあるのは、変わらない、青く澄んだ夏の景色。
大丈夫。私はちゃんと、
ふぅーっと、長く息を吐き、気持ちを落ち着ける。
ゼリー飲料の残りを飲み干し、空になったパッケージをコンビニのゴミ箱に捨てる。
そこでまた、ふと思い出す。
私は左手にぶら下げたバッグから、口を固く縛ったコンビニのレジ袋を取り出す。
その中には、昨夜から続いた爛れた宴の残滓が、ティッシュに何重にも包まれて眠っている。
「…」
私はその袋を親指と人差し指でつまみ、ぽい、とゴミ箱に投げ入れる。
私たちの家に。
私たちの平穏な毎日に。
これを持ち帰るわけにはいかない。
さっき買ったお水のペットボトルをバッグから取り出そうとして、私はもうひとつ、ここに捨てていくべきものに気づく。
避妊具の入っていた、箱。
昨日ここを通り過ぎるときには、封も切られていない新品だったのに、たった1日で、それはもう空っぽになってしまった。
その空箱に、何だか浅ましい自分を詰られているような気持ちになる。
そして、さっきまでの艶めかしい情交の記憶がしつこく追いかけて来るような気がして、私はそれから逃れるように、空箱をゴミ箱へと投げ込む。
私は何とか肉欲の足枷を振りほどき、夏の陽射しを浴びながら、ふたたび家路をたどり始める。
私たちの家まで、ここからだいたい20分。周りの景色をきょろきょろと見回しながら、自分のペースで歩みを進める。
今日は湿度もそれほど高くないみたいだ。
そよそよと肌を撫でる風が心地良い。
私は両手で大きく伸びをして、身体いっぱいにその空気を吸い込む。
突き当たりの丁字路を右へ曲がると、そこは、家までまっすぐに続く、素敵な並木通りだ。
私は、一歩ずつ、一歩ずつ、いつもの平穏な日常へと舞い戻っていく。
*
「ただいまー」
「ただいまー!!」
外が薄暗くなり始めた頃、史也さんがなーくんを連れて帰ってくる。
息子はよほどお泊り会が楽しかったのか、聞き取れないほどの早口で、あんなことがあって、こんなふうにみんなとあそんで、と、ずっと史也さん相手にまくし立てている。
ちょっとだけ騒がしい、でも、たまらなく愛おしい、私たちの日常。
「いやー、道が混んでてちょっと遅くなっちゃいました。ごめんなさい、ちなみさん」
「あ、いえ…お迎え、ありがとうございます。出張帰りで疲れてるのに」
「そんな、帰り道だから大丈夫ですよ。なお、すっごく楽しかったみたいです。心配することなかったですね」
「よかったね、なーくん…って、こら! 幼稚園のかばん、ちゃんと自分でお部屋に持っていきなさい」
史也さんの話す様子も、とっても楽しそうで、思わず私まで嬉しくなってしまう。
史也さんは出張用のキャリーケースを自室のクローゼットにしまうと、代わりに大きな紙袋を持ってきて、どさっとダイニングテーブルに置く。
「そうそう。はい、これ、約束してたお土産です」
「まぁ、お菓子、こんなにたくさん…ふふっ、これじゃ太っちゃいますね」
私はキッチンでレタスをちぎって冷水にさらし、夕ごはんのサラダを作っている。
コンロではことことと鍋が湯気を吐き、食欲をそそるスパイスのいい匂いが漂っている。
「お、今日はカレーかぁ」
「カレー!? やったぁ」
「うふふ、なーくんはカレー大好きだもんね…すみません、冷蔵庫のあり合わせになっちゃって」
「そんなそんな! ちなみさんのごはんが食べられるだけで十分です」
史也さんはネクタイを解き、上から3つ目までYシャツのボタンを外し、胸元を手であおぐ。
「ごはんの前に、シャワー、浴びてきてもいいですか?」
「大丈夫ですよ。カレーは逃げませんから」
誰が聞いても幸せそうな、何の変哲もない、夫婦のやり取り。
胸の中に、優しくて、あたたかい気持ちが、じんわりと広がってくる。
つい数時間前まで、私の中で妖しく口を開けていた内なる欲望を、清らかなヴェールのように、少しずつ覆い隠していく。
「ちなみさん、昨夜はひとりで大丈夫でしたか?」
「…えっ?」
そんな穏やかな心に、突然、鋭い針が突き刺さる。
それはきっと他意のない問いかけでしかないはずなのに、ぴくり、と料理の手が止まってしまう。
「えっと…はい。大丈夫でしたよ」
「ちゃんと、ぐっすり眠れました?」
「…はい」
「ひとりで、寂しくなかったですか?」
「ちょっと、だけ…淋しかった、です」
私は、ひとつだけ、嘘をついた。
「そういう史也さんこそ…昨夜はちゃんと寝たんですか?」
「えっ? あぁ、はい、ゆっくりと」
「私がいなくて、淋しかったですか?」
「…寂しかったです。とっても」
史也さんは、はにかむように、そして少し困ったように笑いながら、そう答える。
…そこに、嘘はあったのだろうか?
私には、それを知る術はないし、知る資格もなかった。
「じゃ、急いでシャワー浴びてきますから」
「はい…あっ、なーくんも一緒にお願いできますか? お泊り会では、お風呂入れてないはずなので」
史也さんはにこりと頷き、脱衣所に入って服を脱ぎながら、大きな声で、なおー、と息子を呼ぶ。
名前を呼ばれたなーくんが、リビングの片隅から勢いよく飛び出してくる。
「こらこら、お家の中で走ると危ないよ」
弾丸みたいに走り回る息子を優しくたしなめる。
どたどたと足音を立てながら、なーくんがお風呂へと駆け込んで行ったかと思いきや、くるりと向きを変え、キッチンにいる私の足元に飛びついてくる。
「ママ、ママ」
「あらあら、甘えんぼさんね。どうしたの?」
「ぼくね、ママのこと、だいすきだよ」
「まぁ、うれしい。ありがとう」
なーくんもお泊りでちょっと寂しかったのかもしれない。いつもよりも強めに抱きついてくる息子の頭を、よしよしと優しく撫でる。
こんな私だけれど、息子はいっぱいの愛情を返してくれる。
胸の奥から愛おしさがあふれ出してきて、小さな身体をぎゅっ、と抱き締め返す。
「お泊り会、おりこうさんにできたね。えらかったね」
「えへへ、せんせいやおともだちと、いっぱいあそんだよ。しーちゃんとも、いっぱいあそんだの」
しーちゃん。その名前を耳にして、私は一瞬、びくっ、と身をこわばらせる。
「…そっかそっか、よかったね。なーくん、しーちゃんと仲良しだもんね」
「うん、しーちゃん、すっごいなかよしなの」
「うんうん」
「あれっ? きょうのママ、しーちゃんとおんなじにおいがするね」
暗転。
何気なく発せられた息子の無垢な一言が、突然、鋭利な刃となって、私の心に突き刺さる。
「…っ!」
雷に打たれたようなショック。私は思わず息子の腕を振りほどく。
慌てて後ずさりし、バランスを崩して尻餅をついてしまう。
驚愕に目を見開いた私のことを、無邪気な息子が不思議そうに見つめている。
「ママ、だいじょうぶ…?」
すべてを見透かしているかのような、純真な子どもの瞳に射抜かれて、私はたじろぐ。
目の前の世界がぐるぐると回転する。
息が詰まり、咄嗟に返事ができない。
「…ごめんね、びっくりしたね。大丈夫、だから」
やっとのことでどうにか言葉をひねり出す。
私はのっそりとその場で立ち上がり、息子の方を見ることなく、紺色のワンピースのお尻を手でぱんぱんと払う。
「…ほら、パパが待ってるよ。一緒にお風呂、行ってらっしゃい」
「うん!」
何も知らない息子が元気にお風呂場へと駆け込んでいく。
やがて、シャワーの音をかき消すくらいに大きなふたりの笑い声が、お風呂の中から聞こえてくる。
愛する息子と、愛する夫の、楽しそうに遊ぶ声。
私はそれを聞きながら、キッチンに呆然と立ち尽くし、ぽろぽろと流れ落ちる涙を止めることができずにいた。
(了)