【公式不倫 R-18二次創作】消せないラスト・ノート 作:ひよこレモン
「それじゃ、行ってくるね」
1週間後の木曜日。
一泊分の荷物を入れた小さなキャリーケースをぶら下げて、史也さんは今日の仕事に出かける。昼過ぎまで会社で仕事をしたら、そのまま出張先へと直行し、帰ってくるのは明日の夕方になる。
「いってきまーす!」
なーくんは今日も元気いっぱい。仲のいいお友達が増えてからは、幼稚園に行くのが楽しみで仕方がない様子だ。お泊り用の着替えを入れたいつもより大きなカバンを持って、とてとてと小走りで車に乗り込む。幼稚園へは歩きだと少し距離があるので、朝はこうして史也さんが車で息子を送っていってくれる。
「ふふ、ふたりとも気をつけてね。なーくん、また夕方に幼稚園に行きますからね」
「うん!またあとでね!」
愛する夫と息子を乗せた車が遠ざかっていく。角を曲がってその姿が見えなくなるのを確認してから、私は家の中に戻り、玄関に鍵をかけて、朝ごはんの食器を片付け始める。それが終わると、息子が脱ぎ散らかしたパジャマを拾い上げ、他の洗い物と一緒に洗濯機に入れて、スイッチを押す。その間に家全体に掃除機をかけて回る。
いつもと同じ、いつも通りの穏やかな日常。
だけど、今日と明日は、私ひとり。
ひと通りの家事をこなすと、時計の針は9時を過ぎていた。しんと静まったリビングでソファに腰を下ろす。外の暑さが嘘みたいな、ひんやりとした空気。はぁっ、と一息つくと、その反響まで聞こえてくるみたいな気がする。
「…」
どのくらいそこにぼーっと座っていたのだろう。ひとりで何もせずにいると、いろいろなことが浮かんできて、頭の中でぐるぐると渦を巻き始めてしまう。
私はふるふると頭を振って立ち上がり、余計なことを考えずに済むよう、残りの家事を片付けることに没頭する。洗い終わった洗濯物を取り出してきて、ひとつひとつ丁寧にしわを伸ばしながら、物干しに吊るしていく。トイレの掃除も終わらせる。家中のゴミ箱の中身をひとつの袋にまとめ、口を縛り、外の置き場へと持っていく。夏の陽射しは眩しいほどに強く、じりじりと照りつけて私の肌を焼く。
ゴミ袋を置いて戻ってくると、隅々まで念入りに掃除をした家の中は、まるで新築みたいにぴかぴかで、すがすがしい匂いがする。
家族3人で暮らす、大切な空間。史也さんが毎日気持ちよく帰ってこられるように、いつもきれいにしておきたい。
私も、史也さんの妻として、いつもきれいな自分でいたい。
せめて、外見だけでも…きれいでいたい。
そう思うのは、ずるいことだろうか?
そうしている間に、時刻は12時に差し掛かっていた。昨夜の残り物と、小分けにして冷凍しておいたごはんを温めて、簡単な昼食をとる。
幼稚園へ息子の様子を見に行くのは夕方だ。まだだいぶ時間がある。明日も自分ひとりなので、今日はスーパーに食材を買いに出かける必要もない。私は寝室の本棚から、読まずに溜まっていた本を1冊選び、そのままベッドの上でぱらぱらとページをめくる。お気に入りの女性作家の小説。
50ページほど読み進めたところで、だんだんと瞼が重くなってくる。ときおり、かくん、と頭が落ちて、私は午睡のまどろみの中へと吸い込まれていく。
やがて私はぱちっ、と目を覚ます。取り落とした文庫本が、枕元でひっくり返っている。一瞬どきっとして、目覚まし時計に目をやると、針は15時を指していた。
よかった、どうやら寝坊はしなかったみたいだ。
そろそろ幼稚園に向かう時間になる。この寝室は北向きで比較的涼しいけれど、エアコンもつけずに寝落ちしていたせいで、私はちょっと汗ばんでしまっていた。出かける前にシャワーを浴び、服を着替えることにする。
「ええっと…」
クローゼットの前で少し悩んだ後、紺色のロングワンピースを選ぶ。この夏、家族で旅行するときのために買った、お気に入りの一着だ。幼稚園に行くだけの用事だけど、お友達のママに会うだろうし、適当な格好では出かけられない。
史也さんの妻として、いつでも、少しでも、素敵な女性だと思われたいから。
新しい下着をつけ、ワンピースに着替える。バッグも夏らしい籐編みのものを選んで、財布、ポーチ、お出かけに必要なものをその中にひとつずつ入れていく。冷たい麦茶を入れた、小さな水筒も持っていくことにする。
首周りから腕の先まで日焼け止めを塗り込み、つばの大きな麦わら帽子を頭にぽん、と乗せる。ストラップにひまわりのあしらわれたかわいいサンダルを履いて、私は家を出る。
この時間になっても、真夏の陽射しはじりじりと容赦なく照りつけている。私は帽子を右手で押さえながら、左手に籐編みのバッグをぶら下げて、幼稚園までの道をこつこつと歩き始める。もう学校は夏休み。走り回る小学生たちの元気な声が、あちらこちらから聞こえてくる。
しばらく歩くと、左に分かれた丁字路に差し掛かる。ここは車の往来が多い。赤信号の変わるタイミングを待って、私は横断歩道の手前で立ち止まる。
「…」
幾度となく通ったこの道。真っ直ぐ進めば、息子の通う幼稚園へと続いている。ここからはあと数分とかからない。
左に曲がればコンビニがあり、その先には…
…タカヒロさんの住む家がある。
真夏の気温のせいか、それとも内側でくすぶる熱のせいか、思わず身体が上気するのを感じ取り、私はごくりと息を呑む。
…もう何度、この道を左に外れ、彼のもとを訪ねたことだろう。もう何度、彼と身体を重ね、行き場のない欲望を互いにぶつけ合ったのだろう。
子どもが産まれてからというもの、私たち夫婦の間の性生活はまたしぼんでしまった。あの「実験」が終わり、再び夫婦ふたりの暮らしに戻った頃は、毎晩のように情熱的に抱いてもらえたのに。
確かに育児も大変だったけれど、それ以上に、史也さんの欲望の炎がすっかり消えてしまったみたいで、私がどんなにがんばっても、何を試しても、史也さんの昂りを取り戻すことはできなかった。
それでも、家族3人で過ごす日々はとても幸せで、私は身体の関係なんてなくても、ずっと満たされた生活を送ることができると、そう思っていた。
そんな頃だった。タカヒロさんから突然連絡が届き、再び会うようになったのは。
タカヒロさんが同じ街に引っ越してきてからというもの、定期的に彼の家を訪ねるのが習慣になってしまった。初めの頃は自分を抑えようと、もがきもした。元の生活に戻ろうと、何度も何度も彼の誘いを断り、抗おうとしたこともあった。
だけど、肌と肌の触れ合い、肉欲の引力はあまりに強く、そこから抜け出そうとする私の試みはことごとく失敗した。結局、私はいつも彼の腕の中へと舞い戻り、快楽の海の中に身を投じてしまうのだった。
タカヒロさんとのセックスは、気持ちいい。決して抜け出すことができないほどに。
そして、あの雨の日。
なるせさんと史也さんの関係を目の当たりにしてからは、もうがまんが効かなくなった。
愛する人に抱いてもらえない淋しさ。
セックスの不在から生まれた隙間。
それは、セックスでしか埋められなかった。
今も私たちは、お互いパートナーが不在の平日の日中を使って、週に1、2回は会い、熱にあてられたかのようにただ肌を重ねている。
そこで繰り広げられる本能むき出しの情事。タカヒロさんの与えてくれる、めくるめく快楽。それを思い出すだけで、私の下半身は自然にひくひくと動き出してしまう。
「…!」
どのくらいそこに立ち尽くしていたのだろう。鳴らされたクラクションで現実に引き戻される。
ダメ、今日はちゃんと母親としての務めを果たさないと。
ぶんぶんと首を振り、よこしまな追憶から逃げ出すかのように、私はまた幼稚園への道をまっすぐに歩き始める。7月の陽射しは遠慮がなくて、せっかくシャワーを浴びてきたのに、私の全身からはもう汗が染み出してきて、ワンピースを肌に張りつかせている。
下着がじっとりと濡れてしまっているのは、決して汗のせいだけではなかったけれど、私はそれに気づかないふりをした。