――理性を失ってしまったり、するんじゃないかな?
この男は…本当に何を知っている…?
さっきまでの質問とは違う。
年齢。
種族。
利き手。
食べ物。
ピアノ。
答えを知っているのか。
知らないから聞いているのか。
関係がなさそうな質問まで混ざっていて、それすら判断出来ない。
毒ガス吸引がどうたらの時には、話が脱線して私を放置したくらいだ。
でも今のは―――
(……何故、知っている?)
反射的に呼吸が止まりそうになる。
やらかした。これでは何かあると言っているようなものだろ…
それに、ゼノの言い方は断定的じゃなかった。
ゼノがこちらを見ているかどうかなんて、わからない。
分からないが、見られている感覚だけは強くなった気がする。
「…………」
多少反応はしてしまった。
でも答えたわけじゃない。
反応からある程度は推測できるとしても。
それは確定情報じゃない。
「……ふむ」
小さな声。
「まあ、答えなくともいいさ」
ゼノの声は相変わらず軽い。
反応からなにか読まれたか…?
「君は…BARで客から何かを得ていたね」
「そう、恐らくピアノがキーだろう」
…………。
「だが――」
「ここにピアノは無いね」
「君は一体どうやってその"何か"を得る?」
(…………)
一般家庭だってピアノが無い場合も多い。
ましてや私を捕えておくための環境だ。
最初から期待なんてしてない。
何を…今更?
「他にも方法があるだろうと予想はしているがね」
「もし――君がその"何か"を得られなかった時」
「今、理性を失うまでに一体どれ程の時間が残っている?」
私にだって正確な時間が分かるわけでは無いが…
感覚的には…そう、三日持てばいいほうか…
だがそれをこいつに答えてやる義理は無い。
「…ふむ」
嫌に間を置いて、口を開いた。
「まあ、構わないさ」
「たとえ君が理性を失おうと」
「――君の観察が出来なくなるわけじゃないからね」
今度こそ私は…息をのんだ。
息をのんだまま、言葉が出てこなかった。
理性を失っても構わない?
(……いや)
違う。
構わないと言ったわけじゃない。
観察が出来なくなるわけじゃない、と言っただけだ。
「理性消失までの過程だって観察したい」
(…)
「理性を失った後の君がどうなるのか」
「もちろんそこも気になっているんだ」
場違いにも柔らかい声が響く。
何故やつはこんなにも余裕でいられる…?
…本当に、どちらに転んでも困らないと思っているのか。
今の私と。
理性を失った私。
そのどちらにも――興味を持っている。
「…………」
三日。
持っても、その程度…
そこを越えれば――
いつ理性を失うかは分からない。
能力の制御だって、保証はない。
何をしでかすか。
何を口走ってしまうのか。
私自身にも分からない。
それでは意味がないだろう。
私がここで黙っているのは、
こちらの情報を渡さないためだ。
黙り続けた結果が、
もっと致命的なものを自分から晒すことになったら――
本末転倒…か。
「……随分」
思ったより、かすれた声が出た。
「効率の悪い研究をするんだな」
わずかに間が開く。
「…ほう?」
少し、愉しそうな声。
……本当に癪に障るな。
「理性を失ったものを眺めたいだなんて、奇特な趣味だな」
「会話はもちろん、問いかけに返すことも出来ない」
「意思疎通が出来る今の私と比べれば――」
一度、言葉を切る。
「死体を解剖するのと、大して変わらないと思わないか?」
「それは少々極端な比較だね」
即答か。
「理性を失った君も、君だ」
「それに…」
「君に会話をする気があったとは驚きだね」
今までずっと黙っていた私に、
本当に嫌な言い方をする…
「…現に今、会話をしているだろう」
「ふむ…果たしてこれは本当に会話と呼べるだろうか?」
(決して和やかでは無いが、十分会話と呼べる範疇だろうに…)
「理性を失っていく君が」
「どう変化するのか」
「失った後には」
「何が失われ、何が残るのか」
「能力に変化はあるのか」
「そこに観察する価値が無いとは、僕は思わないね」
(……なるほど)
駄目か。
こいつは本当に。
何処まで行っても困らないな…
「…………」
なら。
全部話すつもりは無いが…
少し、賭けてみるか。
「……もって三日」
「…三日?」
部屋が、妙に静かになった。
「三日――いや、下手したら二日で限界が来る」
「……ふむ」
「想定より…期間が短いな…」
小さく呟くような声が、静かな空間に響く。
(こいつにとって…理性が残った私にも、価値が無いわけじゃない)
「先ほど…お前は理性を失った私にも観察価値があると言ったがな」
「本当にそれだけでいいのか?」
「理性が残った私には?」
「興味が無いわけではないだろう?」
「なら――」
「最低限、食事を与えるべきだと」
「そうは思わないか?」
こいつが何をもって、私の理性消失までの期間を想定したのかは分からない。
分からないが、私の正確なリミットは知らなかった。
BARでの観察から?それとも仲間の情報を握っている可能性…?
今は分からない事も情報になる。
少しの沈黙の後。
「――確かに」
「理性的な状態の君からしか得られない情報もあるだろう」
「意思疎通が可能であることも、当然その一つだね」
賭けた事は間違いじゃなかった。
私の理性の価値をこいつの中で少しでも上げられた。
そう、思った。
「君は…」
「BARでは、客から"何か"を得ていた」
こいつは愉しそうに声を弾ませ、
「そして」
「君は今――」
「"食事"」
「確かにそう、言ったね?」
……今度こそ本当にやらかした。
そうだ、こいつは。
私が"何か"を得ていて、それが無ければ理性を失う可能性がある。
そこまでしか、情報を出していなかった。
あの"何か"が、私にとって"食事"にあたるものだと。
こちらから教えてしまうとは。
「なるほど」
「BARではピアノを介していた可能性は高いが…」
「当然それ以外にも方法があるだろう?」
「君が"食事"と、呼んだくらいだからね」
当然、そうくるか。
…今やつが掴んでいる情報はなんだ?
"食事"と言ってしまった。ピアノで間接的に摂取している事も、理性を失うこと、リミットまで知られている。
そしてこいつはコミュニティを知っていた。
私が人間じゃない事も、当然知られている。
事前に随分と、調べられていた。
人間に残っている私たちの伝承くらい、辿られていてもおかしくない。
なら――
今となっては正しくない知識だったとしても、他の方法など予想は出来るだろう。
それなら、そのリスクも…
そう考えればこいつら自身が"食事"に…って話にはならないはず。
ここに来てからこの2人の気配しか感じ取れていない。
人員不足か、私の近くに居るのがこの2人だけなのか、そもそも個人か……
もし、こいつら以外の人間をここへ呼ぶことが出来れば。
少なくとも、この部屋に一度は誰かが出入りする。
人員が増えれば、2人だけでは分からなかったことも見えるかもしれない。
こいつらが個人で動いているのか。
組織で動いているのか。
外から誰を、どうやってここへ連れてくるのか。
逃げる隙も出来ればいいが…まあ難しいだろうな。
「他の方法…か」
「ある程度の予測はしているんだろう」
「人間を――」
「連れてくればいい」
部屋に沈黙が落ちる。
「ほう?」
「…なるほど」
「人間を連れて来る…か」
「――その必要は、ないよ」
(何…?)
この男…相変わらず愉しそうだな…
「わざわざ外から、人間を連れてくる必要はない」
…理性がある私の価値を少しは、上げられたと思っていたが。
まあ人間に残っている伝承を思えば、リスクが大きいか…
人間は仲間意識が強いからな…
「もう居るだろう?」
……?
「ここには人間が」
「おお、2人も」
……どうしてそうなるんだ?
部屋のどこかで。
煙草の臭いと、微かに何かが燃える音がした。
※補足
本作における「夢魔」「サキュバス」は、もともと同一の存在に対して、人間側がそれぞれの時代に用いた呼称です。
人間社会に残る伝承は、古い時代の実態を基にしています。
伝承には、活力や生命力を奪い、ときには人間を死に至らせる危険な存在としての記述も残っていますが、何世代も経た現在の彼らの実態とは異なる部分があります。