下校中。陸と二人で歩いていた朝日は、公園の前で立ち止まる。
懐かしい。昔は彼ともよくここで遊んでいたっけ。鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。まぁ、ほとんどは あたしの勝ち越しだ。
ただのかけっこ。
公園の端から端まで。どうせ今日も、あたしが勝つんだろう。
あと一歩でゴールだ。踏み込む足が、つい緩む。駆け抜けていく背中に気づいた時には、もう追いつけなかった。負けず嫌いめ。他の皆はとっくに諦めたのに。
ある日、あたしに挑んだ陸は、ふと勝ってしまった。いや、違う。あたしが負けたんだ。
自分が負けるだなんて思ってもいなかった。
だけど、同時に思い知る。傲慢だった自分のみっともなさや。本気で挑むことのカッコよさ。始めて陸に負けた日、一つ自分に約束をした。
「ねぇ、陸? ちょっとだけいい?」
返事を待たず、あたしは花壇の側へ駆け寄っていく。
そこには、赤い靴を履いていた女の子が一人。寂しそう、悲しそうだったのかもしれない。胸に浮かぶ灯火は薄青く、切なげに揺れていた。
「どうしたの? 亜音(あのん)ちゃん」
「あさひ お姉ちゃん? えっとね、このお花さん……元気なさそうで。大丈夫かなって」
「そっか。でも、大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せて?」
「??」
亜音ちゃんの隣にしゃがみ込み、そっと花に手を触れた。
確かに、葉っぱも萎れて蕾のまま、明日にも枯れてしまいそうだ。このままならそうだけど、そういうのはあたしの得意分野だ。
「亜音ちゃんも一緒に。元気になぁれって? お願いしよ?」
「元気になぁれ?」
「そ、魔法のおまじない」
「うーん……と? 元気になぁれ?」
「うん、元気になぁれ」
元気になぁれ。元気になぁれ。
かわりばんこに呪文を唱えて、しばらくもしない内に、枯れ掛けた花が淡い光を帯びた。一枚、ニ枚と、花弁は開き、お礼を言うように葉を揺らす。
「うわ、すごい。お姉ちゃん魔法使いみたいっ♪」
「皆には内緒ね?」
「うんっ」
花の咲いたような笑顔に、心が温かくなる。
なんて名前のお花かな? なんだろうね? 顔を見合わせ笑い合う。赤いお花はチューリップ。黄色かったらタンポポだ。一つ、二つと、名前を言い合い、さきに種が尽きたのはあたしの方。得意げに笑う亜音ちゃんの頭をクシャリと撫でると、どうしてかあたしまで嬉しくなってくる。
*******
ポンッと弾んだボールが、花壇へ飛び込んだ。
亜音にボールがぶつかる寸前、それを受け止めた朝日は、飛んできた方へふり返る。
「すみませーん。ボール取ってもらえますかー?」
「こらー、アンタ達っ。もうちょっと周りをみなさいっ。危ないでしょうがっ」
「げっ!? 朝日だっ。逃げろ逃げろっ!」
男の子たちを追いかけて、朝日はダっと駆け出していった。
そこからは、鬼ごっこのはじまりだ。一人、二人、三人と、男の子たちは次々と捕まっていった。役を変わってみても、誰も彼女に追いつけない。数人がかりで、ようやく手が届くかどうか。
亜音の心配が先だろう。
溜息まじりに朝日を見送っていた陸は、ふと昔の自分を思い出す。
意地を張ってさ。あの背中を、よく追い越せたもんだ。
「ケガはないか、亜音?」
「うん。平気」
朝日に代わって、尻もちをついていた亜音に俺は手を差し伸べた。
引き上げた手は、ぐっと軽い。そのまま抱き上げられてしまいそうだ。勢いをつけて大げさに手を引くと、飛び跳ねた彼女は、嬉しそうにはしゃいでいた。
「ねぇ、りく兄ちゃん。ブランコ」
小さな指が真っ直ぐ伸びる。いつもは男の子たちが占領しているが、朝日に追い回されている今は、誰が座るでもなく風に揺れていた。ここぞとばかりに俺の手を引いた亜音は、ブランコへと駆けていく。
「わかった、わかった。押してやるから、座りな」
「やったっ♪」
亜音をブランコに座らせながら、朝日を横目で追っていた。
昔からそうだ。人の心に敏感というか。困ってる人がいれば、すぐに助けにいける。照れくさかったり、迷惑じゃないかとか、俺が余計な事を考えて内に彼女は先に進んでしまうんだ。勉強が出来て、運動が出来て。勘も良ければ、運も良い。
コイツに出来ないことなんて、ないんじゃないか?
始めて彼女の背中を追い越した日。嬉しかった。その場で思わずガッツポーズ。
俺でもちゃんと追いつけるんだ。呆然と立ち尽くす、朝日の様子に気づきもしない。昂った感情をそのままに、大きな歓声さえ上げていた。
最初はただの負けず嫌い。
何でも出来る朝日の鼻を、明かしてやりたくなっただけ。
「な、んで……うそ? ず、ズルしたんでしょっ、絶対そうだっ!」
「ズルなんかするかっ。お前に勝つために、一杯練習したんだよっ!」
ムキになって、意地になって。取っ組み合いの大ゲンカは、後にも先にもこれっきり。負けず嫌いをぶつけ合った結果は、引き分けだ。ボロボロになった俺達は、お互いの両親にこっぴどく叱られてしまった。
今じゃとても出来ないな。
対等な関係を築けていると思う。けど、いつも朝日の背中を追いかけているのは俺の方。一人で行くなと言いながら、本当は置いていかれたくないだけ。かけっこ一つで、ケンカ出来てた頃がなつかしい。
「あさひ お姉ちゃん……すごいよね」
「そうだな。あ、でも、亜音はあんな風になるなよ? 女の子はおしとやかなくらいでいいよ」
「りく兄ちゃん。それ、ぜんじだいてきっていうんだよ?」
「あははっ。難しい言葉知ってるんだな」
ブランコに座る亜音の背中を押すと、宙を舞うように滑り出す。
「ねぇねぇ? まだ告白してないの?」
素直な問いかけに口ごもった。走り回る朝日の背中から、視線を逸らす。
最近の子は……ませているというか。そんな訳ない。強がってもいい。けれど、女の子相手にムキになるのもなんだ。どうせ聞こえやしないだろう。決意を固める為に、誰かに言っておくのも良いかもしれない。
「来週っ。あいつの誕生日になっ!」
「きゃはっ♪ がんばれ、がんばれ」
「なんだよ、それ」
「おまじないなんだって。秘密なんだから♪」
亜音の細い足が、夕焼け空に真っすぐ伸びる。
赤い靴がクルクル回って、明日はきっと晴れるんだろう。
******
嫌な感じだ。
いつもの下校時間。陸との帰り道は、少し慌ただしい。
誘拐事件があったとかで、生徒達は早めの帰宅を促される。怖い怖いと言いながらも、本気で受け止めている子たちはどれだけいたか。そのほとんどが、怪談話しの延長だ。
公園の前で、足が止まる。
亜音ちゃんが、寂しくしてるならまだよかった。今度は男の子たちも一緒に遊んでやろう。そう、居てくれるだけで全然いいんだ。なのに、そこに居たのはあの子の母親だった。
胸に浮かぶ灯火は、嵐の前に消えてしまいそう。
泣きそうな顔をしながら、男の子たちに何か話している。その声音は、だんだんと詰まっていって、今にも手を上げそうだった。
「あの、どうかしたんですか?」
「あっ……朝日ちゃん。いえ、その」
声をかけると、亜音ちゃんのお母さんは、バツが悪そうに目を逸らした。
あまりの剣幕に驚いたのか、助けを求めるような男の子たちの視線が あたしに集まってくる。
「朝日……。いや、違うんだよ俺達。ちゃんと亜音のこと、送っていって。ちょっと遊んでいこうぜって、そしたら。先に帰るっていうから。家、すぐそこだし……それで」
うろたえる母親に変わり、男の子の一人が答えをくれた。
誰が悪い話じゃない。強いて言うなら、真っ直ぐお家に帰りなさいってくらいだ。
その場に崩れ落ちかけた母親を、陸が抱きとめてくれた。「迎えに行ってあげればよかった」後悔の混ざる恨み言。自責の念に囚われた母親は、この場にいる誰より小さく見える。
「あたし、探してくるっ! 陸はお母さんの事お願い」
「あ、おい。待てよ朝日っ。また一人でっ!?」
また一人で。
そうだね。悪い癖だと思う。
追いすがる陸に荷物を投げ渡して、足を止めさせた。
でも、今回ばっかりは一人のほうが絶対早いし、早くしなきゃいけない。
「荷物お願いねっ♪」
笑顔で手を振って、不安を振り払ったあたしは、夕日の伸びる路地へと駆け出した。
いつからだったかな。
この力を魔法と呼ぶようになったのは。
最初はただ、運が良いだけだと思ってた。
トランプの引きが良かったり。サイコロの出目が良かったり。私が願うと、世界が少しだけ気にかけてくれた。意識的に力を使うようになると、もっといろんな事が出来る事に気づく。
感情が色で見えたり。なくしたものを探せたり。皆より、ちょっとだけ早く走れるようになったりだとか。マンガのように派手な力じゃ全然ない。細やかな願いを叶える小さな魔法。
それでも、かけっこで陸に負けた時は、本当に悔しかった。
真正面からあたしに勝った彼のことが、本当にかっこよくみえた。同時に、ズルまでして負けた自分がみっともなくて、そのやるせなさを ぶつけてしまったり。
もう、ズルなんてやめよう。
意地悪なんてしないんだ。
そんなことより、本気でやるほうが何倍も楽しい。この力は、もっと良いことに使おう。例えば、困ってる人を助けるだとか。小さな幸せを守れる自分が、ますます好きになる。
本音を言えばさ。
ちょっとだけ、下心はあった。
「朝日は凄いなって」褒められる事を、期待していなかった訳がない。陸の前ではどうしても、大げさに張り切ってしまう。きっと今日も。ふり返った時には、恥ずかしくなったりするんだろう。
「亜音ちゃん……」
見えないはずのものを目で追った。
亜音ちゃんの気配を追いかけて、路地を曲がる。普通なら手は届かない。あたしにはそれが出来た。このまま追いかけていけば、きっと見つかるはずだと信じて、だけど……。
*******
「なんで……」
たどり着いたのは、あたしでも知ってるような製薬会社の建物だった。
守衛の人に女の子を見なかったかと訪ねても、首を振られてしまう。胸に浮かんだ灯火も困ったように揺れるばかりで、少なくともこの人は嘘をついてる様子はない。
「受付の人に、呼び出して貰おうかい?」
「あ、えと、まだ……。もう少し探してみますね。ありがとうございます」
その場から離れて建物の裏へ回る。
搬入口だろうか? 横に長い門と大きなシャッター。間違いない。亜音ちゃんの気配は、その奥へと続いていた。
ぱっと見た感じ、見張りの人はいなさそう?
ごめんなさい。誰に謝るでもなく門を飛び越えた。
何処か、入口は? 中に入れる場所はないかと探っていると、シャッターの隣に通用口を見つける。抜き足、差し足。鼓動の音が煩すぎて、周りの音が聞こえない。何だか、変な感じだ。悪い奴らのアジトに入ろうっていうのに、ちょっとだけ、気分が高揚しちゃってた。拐われた女の子を助けるなんて、マンガの中のヒーローみたい。
一世一代の晴れ舞台。
最後の人助けとしては、ちょうど良いかも。
自分になら出来る。それが、当たり前のように思えていた。鍵の掛かった扉なんて障害にもならない。電子キーなんだ? 古ぼけた見た目の割に随分と厳重だ。不審に思ってもそれだけ。これから忍び込もうっていうのに、あんまりに無警戒なのはあたしの方。
鍵を開ける魔法。
それが鍵であるのなら、あたしに開けられないことはない。
「……おじゃましまーす」
バッチリ。開いた扉から中を覗き込む。
蛍光灯に照らされた白い廊下は、真っ直ぐに伸びていて、何処までも続いてるみたいだ。流石に、ちょっと躊躇うな。深と静まり返った廊下は、悪人たちのアジトにしては、綺麗過ぎて気味が悪い。
大きく息を吸って、不安を吐き出す。
廊下の向こうの気配を探ろうとして……影が、ぬっと伸びてきた。
足がすくむ。気持ちばっかり前のめりで、周りを全然見れていなかった。
大丈夫、大丈夫。
迷ったとか適当に言い訳して、今はこの場を離れよう。
「ごめんなさい、あたし……え?」
ガンッ!
振り返ろうとした瞬間、目の前がグラリと傾いた。
バカだな、あたし……。悪い奴らのアジトだって分かってたのに。話す前に逃げるべきだった。不意を打てば、倒すことだって出来たかもしれない。
「……り、く」
ごめん、だったのか。助けて、だったのか。
彼の名前を呼んだあたしは、そのまま意識を手放した。
*******
__チクリ
注射針を刺すような痛みだった。
薄っすらと、まぶたを開いたあたしの視線は定まらない。頭がボンヤリとしていた。急に襲われて、気を失って、ここはどこ? 施設の中だろうか?
__ギィ
何かが軋む音がした。覗き込むような人影が、天井からの明かりを遮る。
何? 誰? 問いかけようにも、言葉は出ない。あたしの体の上に跨って、腰をぐっと入れる度、あたしの体もぐっと沈み込んだ。
何度も、何度も繰り返される。
船を漕ぐような心地よさに包まれていた。寝ぼけ眼が、ユラユラ揺れる。
粗末なベッドが軋みを上げて、そこに寝かされているんだと、ようやく気づく。
お腹が温かい。胸が苦しい。喉元まで迫り上がってきた何かが息をつまらせ。
__クチュリ
絡んだ水音に、吐息が漏れた。
甘い痺れがさざ波となって、背筋を伝っていく。歓喜、悦び、恍惚。見上げた男の人の胸には、赤い火が灯っていた。腰を入れる度大きく揺れて、火の粉を散らすほど勢いを増す。
そっか、嬉しいんだ。
陸があたしに勝った時と同じ。その火を見ていると、何だか悔しくなる。
次は負けないから。意地を張って、何度も陸と勝負した。テストの点でも、かけっこでも。陸との勝負に魔法を使わなくなった あたしの勝ち越しは、だんだんと差が縮まって、今じゃ五分五分。明日にはきっと、追いかけているのはあたしの方だ。
ギュッと、手を握る。
悔しかったんじゃない。置いていかれたくなかった。
もう、ズルはしないと決めたのに、ごめんね。あたしに向けられた恋心。彼の秘めていた感情を盗み見る。全然フェアじゃない。みんなそれぞれ勇気を出しているのに。陸だってきっと……。
「り、く」
呟きは、ため息に染まる。
ふと、鼻をくすぐったのはお父さんの匂いだった。煙に混じる、深い苦み。頬を撫ぜる痒みに、胸がざわついた。唇を割り開き、ぬっと何かが口の中に入り込んでくる。思わず引っ込めた舌に追いついて、根本から抱きしめられた。
首を振っても、離れてくれない。押し返そうとする腕に力は入らず、甘えるように爪を立てるだけ。肉厚で、重みのある塊が、形を変えて頬の内へと届く。歯茎の裏を、喉の奥を、口内で響く水音は次第に泡立って、舌に甘苦い痺れが広がった。
何が起きているのかも分からない。
こんがらがる頭は、置いていかれないようにするので必死だった。砂糖の全然入ってないチョコレートが、口の中に溶けていく。コクリ……。喉を鳴らして、それを一つ飲み込んだ。胸を締め付けるような息苦しさは、すっと解けて、波に揺られるような心地良さに変わっていく。
しあわ、せ?
そうすることが何だか自然に思えて、そうしていると何だか気持ちがいい。
男の人の動きに任せて、あたしも腰を揺めかせていた。それ以外はどうでもいいとさえ。相手が陸ならもっと良かったのにな。
アレ?
じゃあこの人は誰だろう? なんで あたしは陸以外とこんな事……。
違和感が、冷や汗に変わって吹き出した。吐き出した息は熱くて重い。唾液がつぅっと糸を引いて、プツリと途切れる。離れているのが切なくて、自分から舌を伸ばしていた。
しあわせ。
なら、もう良いんじゃないか。
しかたがないと、一つ諦める度、夢見心地は深くなる。のぼせたみたいに顔が熱い。頭が霞んで、視界がボヤケた。
現実逃避、だったのかも。
それを正しく認識したら、あたしはきっと耐えられない。だから、目を逸らす。
全身を覆う快感に抗うでもなく、流された。
幸せ。
頭の中が、それだけに埋め尽くされる。
赤から白に。男の人の胸に浮かぶ灯火が、ゴウと音を立てた。初めて見る色に息を飲む。腰が勝手に浮き上がり、お腹の奥にまで熱い何かが食い込んだ。
太い腕に抱かれて、強く求められる。愛情に任せて抱き返すと、白い灯火はあたしの肌に燃え移り、焼かれたように染まっていく。
鼓動が一つ、胸を打つ。
真っ白い砂浜に爪を立てた。感情の跡だけを残して、後には何にも残らない。悲鳴すら波に飲まれて消えていく。白波が泡立つように、溢れる涙。その意味さえ判然としないまま、温かくなるお腹から、あたしはそっと目を背けた。
____
__ギィ
また、この音だ。
不自然に軋んだベッドの上で、ぼんやりと目を覚ます。寒気を感じて、肌が粟立った。体が酷く重い。何か、ひどい夢を見ていたような。きっとそう。
体を起こしてようやく、裸のままの自分に気づく。
ベッドの下には、散らかされている服と、転がるスニーカー。脱がされたショーツとスポーツブラが、そこに折り重なっていた。
__ズキリ
打たれた後頭部が、今になって痛みだす。
背中を丸め、見てしまった。手垢のように残る肌の赤み。胸の膨らみに、お腹に、太ももの内側に。陸ですら、触れたことのないような場所にまで残る跡。
吐息は重たく、煙臭い。
こびり付いた苦みに、舌先がピリピリと痺れだした。タバコの残り香を確かめるように、唇をそっと撫でる。何も無いはずだ。何でもないはずだ。そのはずなのに、息が苦しい。早鐘を打つ鼓動に押されて、伸びた舌が指先を舐めた。
何を、やって?
そうすることが正しいように思えた。手垢をたどりながらゆっくりと、濡れた指先があたしに向かって落ちていく。いやだ。ダメ。来ないで。寄せた太ももの内側から、乾いた何かが剥がれ落ちる。
全部が、手遅れ。
何も無かったことにはならない。お股が、白く濁っていた。黒ずんだシーツとまばらになって、酷く汚らしい。
__チクリ
針を刺すような痛みが、お腹に刺さる。
据えた匂いが広がった。濡れたアスファルトと土の匂いよりも、まだ青臭い。思わずお腹に力が入ると、押し出されてくるサビ臭さが鼻についた。
真っ赤な線が糸を引き、白く解けて、ピンクに染まる。
同時に襲ってくる寒気と吐き気に、口元を抑えた。肌に残った手垢は熱を思い出し、頭を振って余計に目が回る。まるで、焦げ付いた砂糖みたい。お腹に感じた痛みはベタリと張り付き、甘い疼きに変わっていく。
自分が信じられなかった。
手繰り寄せたシーツでお股を拭う。白い汚れと、鉄さびの匂いは拭い去れても、シーツの黒ずみは消えてくれない。後から後から透明な汁が滲んで、甘やかな痺れがお腹を包む。朧気な記憶に指が掠めた。腰が浮き上がるほどの心地よさに、視界が歪んでいく。
どうして、気持ちがいいなんて。
快感を求めて指が動く。残る手垢の真似をして、あたしを慰めようとする自分を噛み殺した。ギリっと、音がするほど奥歯を噛み締め、乱れる呼吸を抑え込む。
慌てて服を着込んで、汚れた自分の体を覆い隠した。「似合ってる」陸が褒めてくれたお気に入りのお洋服が、少しだけいつものあたしを取り戻してくれる。
心を落ち着ける魔法。
何もない。何もなかったんだ。胸に手を当て強く願うと、肌に残っていたイヤな熱は、嘘のように引いていく。スニーカーの靴底で、床に転がっていた注射器を踏み潰した。漏れた液体から漂う甘い香りに、喉が鳴る。こんなのが、きっと。全部、薬のせいだ。砕けたガラスの感触が砂に変わるまで、足を上げられなかった。