※この作品はR-18です。

魔法の消える夜   作:霧里

1 / 5

【挿絵表示】


朝日ちゃん。イメージ。



17:00(残り7時間00分)──暗転する視界

 

 

下校中。陸と二人で歩いていた朝日は、公園の前で立ち止まる。

懐かしい。昔は彼ともよくここで遊んでいたっけ。鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり。まぁ、ほとんどは あたしの勝ち越しだ。

 

ただのかけっこ。

 

公園の端から端まで。どうせ今日も、あたしが勝つんだろう。

あと一歩でゴールだ。踏み込む足が、つい緩む。駆け抜けていく背中に気づいた時には、もう追いつけなかった。負けず嫌いめ。他の皆はとっくに諦めたのに。

ある日、あたしに挑んだ陸は、ふと勝ってしまった。いや、違う。あたしが負けたんだ。

 

自分が負けるだなんて思ってもいなかった。

 

だけど、同時に思い知る。傲慢だった自分のみっともなさや。本気で挑むことのカッコよさ。始めて陸に負けた日、一つ自分に約束をした。

 

「ねぇ、陸? ちょっとだけいい?」

 

返事を待たず、あたしは花壇の側へ駆け寄っていく。

そこには、赤い靴を履いていた女の子が一人。寂しそう、悲しそうだったのかもしれない。胸に浮かぶ灯火は薄青く、切なげに揺れていた。

 

「どうしたの? 亜音(あのん)ちゃん」

「あさひ お姉ちゃん? えっとね、このお花さん……元気なさそうで。大丈夫かなって」

「そっか。でも、大丈夫だよ。お姉ちゃんに任せて?」

「??」

 

亜音ちゃんの隣にしゃがみ込み、そっと花に手を触れた。

確かに、葉っぱも萎れて蕾のまま、明日にも枯れてしまいそうだ。このままならそうだけど、そういうのはあたしの得意分野だ。

 

「亜音ちゃんも一緒に。元気になぁれって? お願いしよ?」

「元気になぁれ?」

「そ、魔法のおまじない」

「うーん……と? 元気になぁれ?」

「うん、元気になぁれ」

 

元気になぁれ。元気になぁれ。

 

かわりばんこに呪文を唱えて、しばらくもしない内に、枯れ掛けた花が淡い光を帯びた。一枚、ニ枚と、花弁は開き、お礼を言うように葉を揺らす。

 

「うわ、すごい。お姉ちゃん魔法使いみたいっ♪」

「皆には内緒ね?」

「うんっ」

 

花の咲いたような笑顔に、心が温かくなる。

なんて名前のお花かな? なんだろうね? 顔を見合わせ笑い合う。赤いお花はチューリップ。黄色かったらタンポポだ。一つ、二つと、名前を言い合い、さきに種が尽きたのはあたしの方。得意げに笑う亜音ちゃんの頭をクシャリと撫でると、どうしてかあたしまで嬉しくなってくる。

 

 

*******

 

ポンッと弾んだボールが、花壇へ飛び込んだ。

 

亜音にボールがぶつかる寸前、それを受け止めた朝日は、飛んできた方へふり返る。

 

「すみませーん。ボール取ってもらえますかー?」

「こらー、アンタ達っ。もうちょっと周りをみなさいっ。危ないでしょうがっ」

「げっ!? 朝日だっ。逃げろ逃げろっ!」

 

男の子たちを追いかけて、朝日はダっと駆け出していった。

そこからは、鬼ごっこのはじまりだ。一人、二人、三人と、男の子たちは次々と捕まっていった。役を変わってみても、誰も彼女に追いつけない。数人がかりで、ようやく手が届くかどうか。

 

亜音の心配が先だろう。

 

溜息まじりに朝日を見送っていた陸は、ふと昔の自分を思い出す。

意地を張ってさ。あの背中を、よく追い越せたもんだ。

 

「ケガはないか、亜音?」

「うん。平気」

 

朝日に代わって、尻もちをついていた亜音に俺は手を差し伸べた。

引き上げた手は、ぐっと軽い。そのまま抱き上げられてしまいそうだ。勢いをつけて大げさに手を引くと、飛び跳ねた彼女は、嬉しそうにはしゃいでいた。

 

「ねぇ、りく兄ちゃん。ブランコ」

 

小さな指が真っ直ぐ伸びる。いつもは男の子たちが占領しているが、朝日に追い回されている今は、誰が座るでもなく風に揺れていた。ここぞとばかりに俺の手を引いた亜音は、ブランコへと駆けていく。

 

「わかった、わかった。押してやるから、座りな」

「やったっ♪」

 

亜音をブランコに座らせながら、朝日を横目で追っていた。

昔からそうだ。人の心に敏感というか。困ってる人がいれば、すぐに助けにいける。照れくさかったり、迷惑じゃないかとか、俺が余計な事を考えて内に彼女は先に進んでしまうんだ。勉強が出来て、運動が出来て。勘も良ければ、運も良い。

 

コイツに出来ないことなんて、ないんじゃないか?

 

始めて彼女の背中を追い越した日。嬉しかった。その場で思わずガッツポーズ。

俺でもちゃんと追いつけるんだ。呆然と立ち尽くす、朝日の様子に気づきもしない。昂った感情をそのままに、大きな歓声さえ上げていた。

 

最初はただの負けず嫌い。

 

何でも出来る朝日の鼻を、明かしてやりたくなっただけ。

 

「な、んで……うそ? ず、ズルしたんでしょっ、絶対そうだっ!」

「ズルなんかするかっ。お前に勝つために、一杯練習したんだよっ!」

 

ムキになって、意地になって。取っ組み合いの大ゲンカは、後にも先にもこれっきり。負けず嫌いをぶつけ合った結果は、引き分けだ。ボロボロになった俺達は、お互いの両親にこっぴどく叱られてしまった。

 

今じゃとても出来ないな。

 

対等な関係を築けていると思う。けど、いつも朝日の背中を追いかけているのは俺の方。一人で行くなと言いながら、本当は置いていかれたくないだけ。かけっこ一つで、ケンカ出来てた頃がなつかしい。

 

「あさひ お姉ちゃん……すごいよね」

「そうだな。あ、でも、亜音はあんな風になるなよ? 女の子はおしとやかなくらいでいいよ」

「りく兄ちゃん。それ、ぜんじだいてきっていうんだよ?」

「あははっ。難しい言葉知ってるんだな」

 

ブランコに座る亜音の背中を押すと、宙を舞うように滑り出す。

 

「ねぇねぇ? まだ告白してないの?」

 

素直な問いかけに口ごもった。走り回る朝日の背中から、視線を逸らす。

最近の子は……ませているというか。そんな訳ない。強がってもいい。けれど、女の子相手にムキになるのもなんだ。どうせ聞こえやしないだろう。決意を固める為に、誰かに言っておくのも良いかもしれない。

 

「来週っ。あいつの誕生日になっ!」

「きゃはっ♪ がんばれ、がんばれ」

「なんだよ、それ」

「おまじないなんだって。秘密なんだから♪」

 

亜音の細い足が、夕焼け空に真っすぐ伸びる。

赤い靴がクルクル回って、明日はきっと晴れるんだろう。

 

 

******

 

嫌な感じだ。

 

いつもの下校時間。陸との帰り道は、少し慌ただしい。

誘拐事件があったとかで、生徒達は早めの帰宅を促される。怖い怖いと言いながらも、本気で受け止めている子たちはどれだけいたか。そのほとんどが、怪談話しの延長だ。

 

公園の前で、足が止まる。

 

亜音ちゃんが、寂しくしてるならまだよかった。今度は男の子たちも一緒に遊んでやろう。そう、居てくれるだけで全然いいんだ。なのに、そこに居たのはあの子の母親だった。

 

胸に浮かぶ灯火は、嵐の前に消えてしまいそう。

泣きそうな顔をしながら、男の子たちに何か話している。その声音は、だんだんと詰まっていって、今にも手を上げそうだった。

 

「あの、どうかしたんですか?」

「あっ……朝日ちゃん。いえ、その」

 

声をかけると、亜音ちゃんのお母さんは、バツが悪そうに目を逸らした。

あまりの剣幕に驚いたのか、助けを求めるような男の子たちの視線が あたしに集まってくる。

 

「朝日……。いや、違うんだよ俺達。ちゃんと亜音のこと、送っていって。ちょっと遊んでいこうぜって、そしたら。先に帰るっていうから。家、すぐそこだし……それで」

 

うろたえる母親に変わり、男の子の一人が答えをくれた。

誰が悪い話じゃない。強いて言うなら、真っ直ぐお家に帰りなさいってくらいだ。

その場に崩れ落ちかけた母親を、陸が抱きとめてくれた。「迎えに行ってあげればよかった」後悔の混ざる恨み言。自責の念に囚われた母親は、この場にいる誰より小さく見える。

 

「あたし、探してくるっ! 陸はお母さんの事お願い」

「あ、おい。待てよ朝日っ。また一人でっ!?」

 

また一人で。

 

そうだね。悪い癖だと思う。

 

追いすがる陸に荷物を投げ渡して、足を止めさせた。

でも、今回ばっかりは一人のほうが絶対早いし、早くしなきゃいけない。

 

「荷物お願いねっ♪」

 

笑顔で手を振って、不安を振り払ったあたしは、夕日の伸びる路地へと駆け出した。

 

いつからだったかな。

 

この力を魔法と呼ぶようになったのは。

 

最初はただ、運が良いだけだと思ってた。

トランプの引きが良かったり。サイコロの出目が良かったり。私が願うと、世界が少しだけ気にかけてくれた。意識的に力を使うようになると、もっといろんな事が出来る事に気づく。

 

感情が色で見えたり。なくしたものを探せたり。皆より、ちょっとだけ早く走れるようになったりだとか。マンガのように派手な力じゃ全然ない。細やかな願いを叶える小さな魔法。

 

それでも、かけっこで陸に負けた時は、本当に悔しかった。

真正面からあたしに勝った彼のことが、本当にかっこよくみえた。同時に、ズルまでして負けた自分がみっともなくて、そのやるせなさを ぶつけてしまったり。

 

もう、ズルなんてやめよう。

 

意地悪なんてしないんだ。

 

そんなことより、本気でやるほうが何倍も楽しい。この力は、もっと良いことに使おう。例えば、困ってる人を助けるだとか。小さな幸せを守れる自分が、ますます好きになる。

 

本音を言えばさ。

 

ちょっとだけ、下心はあった。

「朝日は凄いなって」褒められる事を、期待していなかった訳がない。陸の前ではどうしても、大げさに張り切ってしまう。きっと今日も。ふり返った時には、恥ずかしくなったりするんだろう。

 

「亜音ちゃん……」

 

見えないはずのものを目で追った。

亜音ちゃんの気配を追いかけて、路地を曲がる。普通なら手は届かない。あたしにはそれが出来た。このまま追いかけていけば、きっと見つかるはずだと信じて、だけど……。

 

 

*******

 

「なんで……」

 

たどり着いたのは、あたしでも知ってるような製薬会社の建物だった。

守衛の人に女の子を見なかったかと訪ねても、首を振られてしまう。胸に浮かんだ灯火も困ったように揺れるばかりで、少なくともこの人は嘘をついてる様子はない。

 

「受付の人に、呼び出して貰おうかい?」

「あ、えと、まだ……。もう少し探してみますね。ありがとうございます」

 

その場から離れて建物の裏へ回る。

搬入口だろうか? 横に長い門と大きなシャッター。間違いない。亜音ちゃんの気配は、その奥へと続いていた。

 

ぱっと見た感じ、見張りの人はいなさそう?

 

ごめんなさい。誰に謝るでもなく門を飛び越えた。

何処か、入口は? 中に入れる場所はないかと探っていると、シャッターの隣に通用口を見つける。抜き足、差し足。鼓動の音が煩すぎて、周りの音が聞こえない。何だか、変な感じだ。悪い奴らのアジトに入ろうっていうのに、ちょっとだけ、気分が高揚しちゃってた。拐われた女の子を助けるなんて、マンガの中のヒーローみたい。

 

一世一代の晴れ舞台。

 

最後の人助けとしては、ちょうど良いかも。

自分になら出来る。それが、当たり前のように思えていた。鍵の掛かった扉なんて障害にもならない。電子キーなんだ? 古ぼけた見た目の割に随分と厳重だ。不審に思ってもそれだけ。これから忍び込もうっていうのに、あんまりに無警戒なのはあたしの方。

 

鍵を開ける魔法。

 

それが鍵であるのなら、あたしに開けられないことはない。

 

「……おじゃましまーす」

 

バッチリ。開いた扉から中を覗き込む。

蛍光灯に照らされた白い廊下は、真っ直ぐに伸びていて、何処までも続いてるみたいだ。流石に、ちょっと躊躇うな。深と静まり返った廊下は、悪人たちのアジトにしては、綺麗過ぎて気味が悪い。

 

大きく息を吸って、不安を吐き出す。

 

廊下の向こうの気配を探ろうとして……影が、ぬっと伸びてきた。

足がすくむ。気持ちばっかり前のめりで、周りを全然見れていなかった。

 

大丈夫、大丈夫。

 

迷ったとか適当に言い訳して、今はこの場を離れよう。

 

「ごめんなさい、あたし……え?」

 

ガンッ!

 

振り返ろうとした瞬間、目の前がグラリと傾いた。

バカだな、あたし……。悪い奴らのアジトだって分かってたのに。話す前に逃げるべきだった。不意を打てば、倒すことだって出来たかもしれない。

 

「……り、く」

 

ごめん、だったのか。助けて、だったのか。

彼の名前を呼んだあたしは、そのまま意識を手放した。

 

 

*******

 

__チクリ

 

注射針を刺すような痛みだった。

薄っすらと、まぶたを開いたあたしの視線は定まらない。頭がボンヤリとしていた。急に襲われて、気を失って、ここはどこ? 施設の中だろうか?

 

__ギィ

 

何かが軋む音がした。覗き込むような人影が、天井からの明かりを遮る。

何? 誰? 問いかけようにも、言葉は出ない。あたしの体の上に跨って、腰をぐっと入れる度、あたしの体もぐっと沈み込んだ。

 

何度も、何度も繰り返される。

 

船を漕ぐような心地よさに包まれていた。寝ぼけ眼が、ユラユラ揺れる。

粗末なベッドが軋みを上げて、そこに寝かされているんだと、ようやく気づく。

お腹が温かい。胸が苦しい。喉元まで迫り上がってきた何かが息をつまらせ。

 

__クチュリ

 

絡んだ水音に、吐息が漏れた。

甘い痺れがさざ波となって、背筋を伝っていく。歓喜、悦び、恍惚。見上げた男の人の胸には、赤い火が灯っていた。腰を入れる度大きく揺れて、火の粉を散らすほど勢いを増す。

 

そっか、嬉しいんだ。

 

陸があたしに勝った時と同じ。その火を見ていると、何だか悔しくなる。

次は負けないから。意地を張って、何度も陸と勝負した。テストの点でも、かけっこでも。陸との勝負に魔法を使わなくなった あたしの勝ち越しは、だんだんと差が縮まって、今じゃ五分五分。明日にはきっと、追いかけているのはあたしの方だ。

 

ギュッと、手を握る。

 

悔しかったんじゃない。置いていかれたくなかった。

もう、ズルはしないと決めたのに、ごめんね。あたしに向けられた恋心。彼の秘めていた感情を盗み見る。全然フェアじゃない。みんなそれぞれ勇気を出しているのに。陸だってきっと……。

 

「り、く」

 

呟きは、ため息に染まる。

ふと、鼻をくすぐったのはお父さんの匂いだった。煙に混じる、深い苦み。頬を撫ぜる痒みに、胸がざわついた。唇を割り開き、ぬっと何かが口の中に入り込んでくる。思わず引っ込めた舌に追いついて、根本から抱きしめられた。

 

首を振っても、離れてくれない。押し返そうとする腕に力は入らず、甘えるように爪を立てるだけ。肉厚で、重みのある塊が、形を変えて頬の内へと届く。歯茎の裏を、喉の奥を、口内で響く水音は次第に泡立って、舌に甘苦い痺れが広がった。

 

何が起きているのかも分からない。

 

こんがらがる頭は、置いていかれないようにするので必死だった。砂糖の全然入ってないチョコレートが、口の中に溶けていく。コクリ……。喉を鳴らして、それを一つ飲み込んだ。胸を締め付けるような息苦しさは、すっと解けて、波に揺られるような心地良さに変わっていく。

 

しあわ、せ?

 

そうすることが何だか自然に思えて、そうしていると何だか気持ちがいい。

男の人の動きに任せて、あたしも腰を揺めかせていた。それ以外はどうでもいいとさえ。相手が陸ならもっと良かったのにな。

 

アレ?

 

じゃあこの人は誰だろう? なんで あたしは陸以外とこんな事……。

違和感が、冷や汗に変わって吹き出した。吐き出した息は熱くて重い。唾液がつぅっと糸を引いて、プツリと途切れる。離れているのが切なくて、自分から舌を伸ばしていた。

 

しあわせ。

 

なら、もう良いんじゃないか。

しかたがないと、一つ諦める度、夢見心地は深くなる。のぼせたみたいに顔が熱い。頭が霞んで、視界がボヤケた。

 

現実逃避、だったのかも。

 

それを正しく認識したら、あたしはきっと耐えられない。だから、目を逸らす。

全身を覆う快感に抗うでもなく、流された。

 

幸せ。

 

頭の中が、それだけに埋め尽くされる。

赤から白に。男の人の胸に浮かぶ灯火が、ゴウと音を立てた。初めて見る色に息を飲む。腰が勝手に浮き上がり、お腹の奥にまで熱い何かが食い込んだ。

太い腕に抱かれて、強く求められる。愛情に任せて抱き返すと、白い灯火はあたしの肌に燃え移り、焼かれたように染まっていく。

 

鼓動が一つ、胸を打つ。

 

真っ白い砂浜に爪を立てた。感情の跡だけを残して、後には何にも残らない。悲鳴すら波に飲まれて消えていく。白波が泡立つように、溢れる涙。その意味さえ判然としないまま、温かくなるお腹から、あたしはそっと目を背けた。

 

____

 

__ギィ

 

また、この音だ。

不自然に軋んだベッドの上で、ぼんやりと目を覚ます。寒気を感じて、肌が粟立った。体が酷く重い。何か、ひどい夢を見ていたような。きっとそう。

 

体を起こしてようやく、裸のままの自分に気づく。

ベッドの下には、散らかされている服と、転がるスニーカー。脱がされたショーツとスポーツブラが、そこに折り重なっていた。

 

__ズキリ

 

打たれた後頭部が、今になって痛みだす。

背中を丸め、見てしまった。手垢のように残る肌の赤み。胸の膨らみに、お腹に、太ももの内側に。陸ですら、触れたことのないような場所にまで残る跡。

 

吐息は重たく、煙臭い。

 

こびり付いた苦みに、舌先がピリピリと痺れだした。タバコの残り香を確かめるように、唇をそっと撫でる。何も無いはずだ。何でもないはずだ。そのはずなのに、息が苦しい。早鐘を打つ鼓動に押されて、伸びた舌が指先を舐めた。

 

何を、やって?

 

そうすることが正しいように思えた。手垢をたどりながらゆっくりと、濡れた指先があたしに向かって落ちていく。いやだ。ダメ。来ないで。寄せた太ももの内側から、乾いた何かが剥がれ落ちる。

 

全部が、手遅れ。

 

何も無かったことにはならない。お股が、白く濁っていた。黒ずんだシーツとまばらになって、酷く汚らしい。

 

__チクリ

 

針を刺すような痛みが、お腹に刺さる。

据えた匂いが広がった。濡れたアスファルトと土の匂いよりも、まだ青臭い。思わずお腹に力が入ると、押し出されてくるサビ臭さが鼻についた。

 

真っ赤な線が糸を引き、白く解けて、ピンクに染まる。

 

同時に襲ってくる寒気と吐き気に、口元を抑えた。肌に残った手垢は熱を思い出し、頭を振って余計に目が回る。まるで、焦げ付いた砂糖みたい。お腹に感じた痛みはベタリと張り付き、甘い疼きに変わっていく。

 

自分が信じられなかった。

 

手繰り寄せたシーツでお股を拭う。白い汚れと、鉄さびの匂いは拭い去れても、シーツの黒ずみは消えてくれない。後から後から透明な汁が滲んで、甘やかな痺れがお腹を包む。朧気な記憶に指が掠めた。腰が浮き上がるほどの心地よさに、視界が歪んでいく。

 

どうして、気持ちがいいなんて。

 

快感を求めて指が動く。残る手垢の真似をして、あたしを慰めようとする自分を噛み殺した。ギリっと、音がするほど奥歯を噛み締め、乱れる呼吸を抑え込む。

慌てて服を着込んで、汚れた自分の体を覆い隠した。「似合ってる」陸が褒めてくれたお気に入りのお洋服が、少しだけいつものあたしを取り戻してくれる。

 

心を落ち着ける魔法。

 

何もない。何もなかったんだ。胸に手を当て強く願うと、肌に残っていたイヤな熱は、嘘のように引いていく。スニーカーの靴底で、床に転がっていた注射器を踏み潰した。漏れた液体から漂う甘い香りに、喉が鳴る。こんなのが、きっと。全部、薬のせいだ。砕けたガラスの感触が砂に変わるまで、足を上げられなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。