深夜三時。家に突貫してきたミスに突如として叩き起こされ、連れてこられたのは例の高架橋の下。
まだ完全に目覚めていなかった脳も、三十分以上歩けば、さすがに意識は覚醒していく。
とはいえ、前を歩くミスを見ながらも、なぜか不思議と怒りは湧いてこなかった。喧嘩をして、その末に濃密な絡みまで待っているなら、確かにこの時間が適切。そうやって納得する部分が強かったからだろう。
家を出る前、着替えのついでに殴り書きしておいた紙をポケットから取り出し、ミスへと差し出す。
「ミス、これを」
「おー、なんだー、これはー」
「俺が勝った時の要求だ。……いいから持ってろ。それと、誰にも言うなよ」
高架橋には、やはりニャーが待っていた。相変わらず上半身は黒の革製ジャケットで飾り、下半身はデニムのホットパンツ。さらに、その腰からは細長い布が数本、足首の高さまで垂れている。
しかし、今日はそれ以外に二人、見知らぬ女性が立っていた。
一人は、いかにも関わってはいけない人物だと分かる風体で、上半身にはサラシを巻いただけ。下半身も、切れ布を最低限腰に巻いている。何より、猛獣のような顔つきが恐ろしい。
そしてもう一人は、それとは正反対に、リクルートスーツのようなものに身を包む清楚な女だった。眼鏡をかけ、手にはタブレット端末を持っていて、知的な印象を受ける。
「随分待ったぞ、変態。おい、おめーら、自己紹介しろ」
ニャーのその言葉を合図に、まず前へ出たのが猛獣女だった。その女はニヤリと笑みを湛えて舌を出すと、次いで唾をこちらへ吐き出してきた。
当然、避けた。
「おうおう、これを避けるたぁ、あんた、やるなぁ! 俺の名前はグーテイク。ニャー様お抱えの戦闘員だ。俺も猫人だが、よろしくな!」
弾丸のように真っ直ぐ吐き出された唾は、避けてもなお後方へと飛んでいき、やがて草木を湿らせる。その結末を見届けたあとで、グーテイクの顔を見る。
オレンジの髪に、全身傷だらけの褐色肌。左の腹には手術痕と思しきものもあり、よほど苛烈な歴史を持つ戦闘員なのだろうと、安直な感想を抱いた。
グーテイクは一歩下がる。入れ替わるように出てきたのは、眼鏡をかけた女だった。
「私の名前はティリテリス。ボスからはティリ、ミスからはテリスと呼ばれています。好きなようにお呼びください」
それだけ言って、体を後ろへ引っ込めてしまった。グーテイクに比べて自己紹介が淡白で、分かったのは名前だけ。しかも、覚えにくそうな。
「ティリは経理担当だ。金の全てはこいつが管理してる。人付き合いが得意じゃねぇから、大目に見てやってくれ」
グーテイクの後ろへ姿を隠したティリテリスを見ながら、ニャーがフォローする。ティリテリスは眼鏡をくいっと上げて反応していた。
「で、その初めましての二人がここにいる理由はなんだ」
「そりゃあ、てめぇとは最後の決闘になるからな。ニャーが勝って、てめぇはこいつらの仲間になる。それと、噂の真偽を確かめに。だからだ」
「なるほどな」
ニャーは自信に溢れている。わざわざ見届け人を増やすほどだ。自分が惨めにされることなど、これっぽっちも考えていない。むしろ、自分が俺を惨めにする場面しか想像していないのだろう。
恐らくニャーは、ここに至る経緯をこの二人に話している。ただ、ニャーやミスが語る、見ず知らずの噂だけの男を新入りと称して勝手に仲間へ加えるより、その顛末を直接示した方が手っ取り早い。
理屈としては正しい。ただ、どうしても訂正しなければならないことが一つある。
「勝つのは俺だけどな、残念ながら」
挑発的に顔を作り、そう言ってやる。ただ、ニャーはその挑発には乗らず、目を閉じて一つ息を吐くに留めた。これまで激情に流されるまま行動していたニャーの特性からして、この立ち回り方はまるで違う。
なるほど。確かに、今日のニャーはどこか手強そうだ。
「仕合う前に、一つ教えろ。てめぇ、悪童ヒル、だな?」
そうやって普段とは打って変わって冷静なニャーを分析しようとしたところ、奇襲されたのは俺だった。反射で眉がぴくりと動いたのが、自分でも分かる。
さすがに、最強を自負するニャーを二度打ち倒したことで、本腰を入れて調べでもしたか。部下主導か、ニャー主導か。どちらにせよ、まさに正解だ。
「随分懐かしい呼称だな。もう、二十年前になるか」
「やっぱりな。ここにいるティリに調べさせたらよ、分かったんだ。適当に絡んだおっさんが、まさかとんでもねぇ大物だった、てな」
「大物とは大げさだな。所詮、昔の話だ」
ここにいる奴らの顔を順番に見る。グーテイクは相変わらず不敵な笑みを湛えて牙を見せつけ、ティリテリスはタブレットの画面をこちらへ見せている。多分、俺のことが書かれた何かなのだろうが、まるで読めない。
ミスはさすがで、高架橋の柱へ背を預け、スマホに夢中。我が道を行く、だ。
そして最後に、ニャーを見た。他の猫人を見回しても何も思わないのに、こいつの顔を見ると、こう……ぐっとくる。
ずっと見ていれば、そのうち慣れるのだが。
「てなわけで、てめぇを倒して歴代最強の座を手に入れる。こいつらは、その生き証人だ」
「そうか。まぁ、気張れよ」
ここ数回ニャーと戦って思うことは、感覚こそ戻ったものの、当時に比べて体の切れや反応が大分低下しているということ。
当たり前だ。こちとら三十代。こんな若者と同列で戦えるわけがない。
だから、この戦いが最後というのはとても都合がいい。とっととこいつに負けを認めさせて、俺の日常を取り戻す。
「で、いつから開戦だ?」
「そう焦るなよ、おっさん。最後に一つ、聞きたいことがあっから」
「なんだ」
「てめぇ、なんで喧嘩師をやめた。頂点取って、あっさり姿くらませやがってよ。どれだけの輩がてめぇに憧れたと思ってんだ、こら」
口調は強く、瞳も鋭い。俺が活動していた時期なんて、こいつらはせいぜいママのおっぱいを吸っていた時代のくせに、やけに力説する。
なんで喧嘩をやめたって、そりゃあ、喧嘩する理由がなくなれば普通はしない。それだけのことだ。
「そうなると、俺が喧嘩してた理由も話す必要があるな。勿体ぶる必要はないが、ちょいと思想の話で恥ずかしいんだよ」
「思想だぁ?」
「だから、俺に勝てたら教えてやるよ」
握り拳を作り、自分の後頭部を痛くない程度にトントンと叩く。ニャーも両の手首をぷらぷらとさせ、準備運動はばっちりという様子。
そしてニャーの手が大人しくなると、空気が一変した。彼女の眉間が寄り、僅かに瞳が吊り上がる。
戦闘開始はすぐそこ。夜霧に当てられた肌が、梅雨の湿気と共にじめじめと不快だと主張する。
「おっさん、覚悟しな。ぶちのめしてやるからよ」
「そうか。なら、かかってこい」
俺は膝を折り曲げ、重心を落とした。ニャーの得意技は、神速からの派生技。だから、必要な動きだけを読み、迅速に回避することが何よりも大切だ。
だというのに、ニャーはいつまで経っても動こうとしない。まだ、やるつもりがないのか?
俺は姿勢を元に戻した。
「なんだ。来ないのか?」
「へっ。おっさんの考えなんかわかってんだ。だから、今日はニャーから仕掛けねぇ。てめぇから来いや」
「……面倒くせ」
ニャーは不敵な笑みを作ったまま、余裕綽々とでも言いたげに胸の前で腕を組んだ。今日は手強いとは察していたが、まさか戦い方そのものも変えてくるとは予想外。人を率いる頂点らしさも、また兼ね備えているということか。
ただ、動かないなら仕方がない。こちらから仕掛けるとしよう。
昔も、自分からは絶対に動かない喧嘩師が一定数いた。カウンターを生業とし、相手の隙を見つける能力に長ける。そして、そいつらは総じて手強い。
相手の攻撃を受け止める覚悟が、最初から備わっている。ダメージを受けることまで織り込んでいるやつは、並大抵の攻撃では揺らがない。
「じゃあ、行くぞ」
あえて宣言した。右足だけを前へ出して力を溜め、足裏を踏み込んで、跳躍するように走り出す。横に流れる視界は、とてもゆっくり。人間の俺では、ニャーの理不尽な突貫には遠く及ばない。
「なんだぁ? ちんけな攻撃だな、てめぇ」
事実、俺がニャーの攻撃範囲に近づく前に、ニャーは呆れたように言葉をこぼした。俺の耳にもしっかりと届くほどの余裕がある。
ただ、俺が拳に力を込めて振り抜いた時、ニャーは過剰に後方へと飛び退いていた。その拍子に、ニャーの腕がグーテイクの腹へ直撃し、哀れにも唾液を吐き出して悶絶する羽目に。
可哀想に。ニャーもあまり気にしている様子はないし。
「油断させておいて……てな作戦だろ。んなもん、効くか」
「そうか。無理か」
ニャーが作戦を変えてきたとはいえ、もともと待ちの戦法など経験として少ないはず。だから、その隙を突こうと思ったのだが、無理だった。
伸ばしていた拳を、腰の横へ収める。
さて、どうしたものか。こちらとしては、長期戦は避けたいところ。喧嘩には、喧嘩独自の体力を使う。いくら営業マンとして炎天下を走り回る経験があるとはいえ、そんなものは当てにできない。
考えても、まぁ答えは一つか。
ゆっくりと右足を前へ。次いで、左足も前へ。交互に、大股でニャーの方へ歩いていく。
「な、なんだ、そりゃ」
さすがの正々堂々さに呆れたか、ニャーは警戒を強め、さらに後ずさっていった。もう高架橋の影からも出て、野晒し。こんな時間に出歩いている人は少ないだろうが、この喧嘩を見つけられれば、下手をすれば通報される。
ただな、ニャーよ。喧嘩で大事なのは、緩急なわけで。
俺が気に入ったのはな。戦闘狂で考えなしと思わせて、その実、戦いの中で貪欲に成長していくニャーの姿なのだよ。
だから、臆病なほど慎重になった今のニャーは、到底受け入れられたものではない。
だから――
「なっ!!?」
大股で力なく足を出す中で、突発的に踏み込み、前へと体重を押し出した。ニャーは猫人らしい動体視力でそれすらも回避したが、それだけ。
後ろをちらちらと確認しながら安全を把握するには、俺の詰めは早い。
結局、ニャーは逃げるのを諦め、伸ばされた俺の手首を掴んで拘束した。極めて消極的な判断で、後手。
掴まれた手首を返す。しかしニャーはさすがで、持ち前の力でそれを押さえ込んでくる。ニャーの目が、俺の手首へ吸い込まれている。
隙だらけだ。
掴んでくるニャーの腕の力を借り、それを支点に両足を蹴り上げた。狙うは、ニャーの首。
ニャーは当然、反射神経で迫る両足へ視線を合わせるも、対応はできず、虚しくも俺の脚に首を挟まれることになった。
そのまま背中から地面へ倒れ込み、挟んだ首ごとニャーの重心を引きずり落とす。
「ニャーさんや、お前の戦い方はこんなんじゃないだろ」
「う、うる……せぇ」
地面へニャーを倒し、降参の合図を出すまで首を締め上げる。次第に、ニャーの顔色が赤く変わっていく。
意識が落ちるのも時間の問題だろう。今は、意地だけがニャーを支えている。
とはいえ、だ。
俺の脚に挟まれ、苦悶に歪むニャーの顔は、なかなかにいける。できることなら、この脚を解いて、その口に肉棒を……いかん。
下半身に熱がこもった。
首を正面から絞める関係上、ニャーの視界の前には、徐々に迫り上がる俺のズボン。
しっかりと、ニャーはその盛り上がりを視界に収めた。絞める脚の力が弱まるのを感じる。
あ、やばい。
「ざけんな、てめぇ!!」
ニャーは緩んだ拘束の隙を突き、首をぐるりと回して余白を作ると、飛び退いて距離を取った。
ニャーは肩で息をしながら、絶叫を上げる。
俺は体中についた土埃を払いながら、邪念を誤魔化すように、あえて笑みを作ってやった。
「悪い。お前のやられ顔が、あまりに魅力的なんで、ついな」
「へ、変態がぁ……ふざけんじゃねぇ!」
ニャーは両手の爪を立てると、一瞬でこちらへ迫った。その神速は、視界で捉えてから対応したのでは手遅れだ。だから、彼女が動き出す前に回避運動を取る。
ニャーの姿が再び現れた時、やはり俺のいた場所に、その爪を突き立てていた。あれにやられれば、文字通り病院送り。
容赦のない苛烈な攻撃。どうやら、ニャーは自分本来の戦い方を取り戻したようだ。
「ああ、そうさ。おっさんの言う通り、少し日和ってたのは認める。だがな、もうそんな真似はしねぇ。今度はこっちから行くぜ、変態さんがぁ!」
ニャーは片足をゆっくりと天へ上げた。突き出された靴底が、月明かりの中に浮かぶ。
驚いた。ニャーはどうやら、体もかなり柔らかいようだ。
ニャーは片足を上げたまま、地についた片足を少し折り曲げる。そして、それを軸にくるりと回った。
何をするつもりか。
途端、ものすごい速さで何かが飛んできた。それを視界に捉えた時には、すでに腹部へ衝撃が走り、息が一気に肺から漏れ出していた。
ニャーの靴だった。遠心力を使った、器用な攻撃。
そして案の定、ニャーはすでに目の前にいて。
俺の顔面へ拳を叩き込んだ。
「ぐっ……はっ!」
鼻を突き抜けるような、あまりの激痛。俺は地面へ倒れ込むしかなかった。
予想していれば、恐らく耐えられた。だが、容赦なく叩き込まれた顔への攻撃は、負けを悟るほどに鋭い。
うつ伏せに転がった俺を、ニャーは足で仰向けにする。その腹部へ、ニャーは跨ってきた。
「終わりだな、おっさん。最強の座は、このニャーこそが相応しい」
ニャーによる勝利宣言。俺の頬には、鼻から出たであろう、温かくも不快なものが流れている。
「負けを認めろよ。鼻、折れたろうしな」
俺はニャーの顔を凝視し続けた。確かに、こいつの言う通り、俺の鼻は折れている。そしてニャーは、本気で勝ちを確信している。
……前にもあった。ニャーが俺に跨り、油断したところを逆転したことが。
だというのに、こいつはまた油断している。
鼻が折れたら喧嘩に負ける。そんな理屈、喧嘩師には存在しない。
前から薄々勘づいてはいたが、多分ニャーは長期戦をしたことがない。持ち前の速さで速攻し、相手を沈める。沈められた相手は降参し、勝負が決着する。
もしそうだというなら、温い。極めて愚かだ。
喧嘩というのは、もっと悪意があって、恐ろしいものだ。腕が折れても、指が壊れても、それでも戦いをやめないやつもいる。背負っている肩書きを守るために、死すら覚悟するやつもいる。
だから、教えてやらないとな。
本当の喧嘩ってやつを。
「……ぺっ」
「なっ!?」
俺は血を吐いた。ニャーの目の付近に、血の塊が付着する。せっかく鼻血を出したんだ。使わなければ、もったいない。
ニャーが目の粘膜を守るため、反射で瞳を閉じた隙を突き、右半身だけを力任せに跳ね上げた。
跨っていたニャーの体勢が崩れる。その腹部を太ももで押し返しながら体を入れ替え、今度はこちらがマウントを取った。
ニャーの両腕を巻き込み、そのまま地面へ押さえつける。
「て、てめぇ、汚ねぇぞ!」
「喧嘩だろ。そんなもんだ」
俺とニャーの顔の間で、ゆっくりと握り拳を作った。見せびらかすように、手首を揺らしてやる。
ニャーの額から、汗が一筋垂れていた。
「ニャー、降参しろ。そうすりゃ、怪我しない」
「誰がするか! ……くそ、離せよ!」
じたばたするニャー。これもデジャブだが、俺は作った拳を、真っ直ぐニャーへ振り下ろした。
この、可愛い顔に。
「なに、してんだ。てめぇ」
俺の拳は、ニャーの顔の横の土を抉った。
普通に考えて、無理だった。
ニャーの顔を殴る?
無理無理、無理だ。
拳を地面へ叩きつけた拍子に、押さえ込んでいた体がわずかに浮いたのだろう。気づけばニャーは、ちゃっかり片腕を拘束から抜いていた。
「ざけんじゃねぇ! ニャーの顔に見惚れてんのか、あぁ!?」
きっと、俺は敗北する。顔面目掛けて迫り来る拳の影に気づきつつも、それを避ける気はしない。
俺の頬を、ニャーの拳が撃ち抜いた。
⭐︎⭐︎
「ったく、勝った気がしねーぜ」
俺は高架橋の柱まで移動させられ、それを背に、ティリテリスとミスによる治療を受けている。対面では、胡座をかいたニャーが、グーテイクに全身をマッサージされていた。
「まぁ、勝ちは勝ちだな。おっさん、約束通り、お前の人生はニャーがもらう」
俺は折れた鼻の痛みに顔を歪めながら、その美貌をただ眺めた。
「ご主人様。このおっさんに、何なりとご命令を」
「……やめろよ、気持ち悪い」
ニャーはグーテイクの腕を掴むと、それを払いのけた。よっこらせ、と立ち上がり、ふらふらとこちらへ歩いてくる。
そしてミスとティリテリスすらもその場から退かせると、俺と目が合うように深くしゃがみ込んだ。
「ニャーと結婚しろ。当然、拒否権はねぇ。分かってんだろうな」
ニャーの唇が迫る。俺は動かず、それを受け入れた。
唇に触れる、柔らかい感触。僅かに血の味がするものの、舌の介入がない、極めて清楚な口づけだ。
ニャーは儀式的な口づけをやめて、口を離す。少し顔を赤くしたニャーが、こちらの反応を待つかのように、じっと見つめてきた。
拒否権がないと言いながら、その不安そうな顔はずるい。
俺はニャーから視線を外し、つまらなそうにスマホを見るミスへ言葉をかけた。
「ミス。それを渡してくれ」
「あいよー」
ミスはジャケットのポケットに入れていた紙切れを、ニャーへ渡す。
ニャーは、その紙切れに視線を落とした。
『結婚しろ、ニャー』
未回収のメイド服や主人公の過去などは番外編で書く予定です。