一人称が「俺様」の褐色爆乳美女は好きですか? 作:ビジュゲイト推し
翌朝、ザビーダは食卓で最後のパンを口へ放り込みながら言った。
「今日ちょっと出てくるわ」
ミクリオが顔を上げる。
「どこへ?」
聞いてから、少しだけ止まった。
ザビーダも気づいたらしい。
「ん?」
「……いや」
ミクリオは手元の茶へ視線を落とした。
「夕食までには戻るのか?」
「たぶんな」
「なら君の分も用意してもらう」
「了解」
それだけだった。
行き先も、目的も、誰と会うのかも、それ以上は聞かれない。ザビーダは残った茶を飲み干し、立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
「ああ」
台所からミューズが顔を出す。
「いってらっしゃい、ザビーダ」
「おう」
玄関を出る。
扉を閉める。少し歩いてから、ザビーダは何となく振り返った。家は、変わらずそこにある。追いかけてくる者はいない。帰ってこいと命令する声もない。
「……」
何を確認したかったのか。
自分でも分からない。ザビーダは肩をすくめ。市場の方へ歩き出した。
***
目的があったわけではない。調査の報酬としてもらった金が、まだ残っている。それを何かに使ってみようと思った。昨日は串焼きを買った。ミクリオにも筆を買った。今日は自分のものを何か。市場は昼前から賑わっていた。野菜。果物。布。焼いた肉。菓子。酒。目に入るものを眺めながら歩く。
以前なら、値札を見ることすらほとんどなかった。欲しいものがあっても、自分で買うわけではない。必要だと判断されれば与えられる。必要でなければ与えられない。あるいは、誰かが機嫌良くなるなら、与えられることもあった。自分の金だから惜しい。自分の金だから迷う。その感覚は、まだ妙だった。
「……酒かなあ」
露店の棚を見る。
安いもの。高いもの。香りの強いもの。甘口。辛口。一本手に取る。値段を見る。
「たっか」
戻す。
別の一本。
「こっちは……安すぎんだよなあ」
また戻す。
何度か繰り返して、自分で笑った。
「俺様、めんどくせえ」
その時。
「……ザビーダ?」
背後から、名前を呼ばれた。
身体が僅かに固まった。振り返る。見覚えのある男。四十前後。身なりは悪くない。対魔士ではない。商人だったか。役人だったか。そこまでは覚えていない。ただ、何度か。会ったことがある。どこで、思い出すより先に男が笑った。
「やっぱりザビーダじゃないか」
「あー」
ザビーダも笑った。
いつものように。
「久しぶり」
「最近全然見ないと思ってたんだ」
「ああ」
「聞いたよ。ミクリオ特等に買われたんだって?」
「まあな」
「すごいじゃないか」
男は純粋に感心しているらしかった。
「特等対魔士の所有聖隷なんて、大出世だろ」
「俺様が?」
「前のところよりはいいんじゃないか?」
「……まあ」
嘘ではない。
比べるまでもなく、良い。
「今日は一人?」
「おう」
「珍しいな。所有者は?」
「家」
「一緒じゃないんだな」
「別に、ずっとついて歩いてるわけじゃねえよ」
「へえ」
男が少しだけ声を落とした。
「ならさ」
一歩近づく。
「少しくらい、いいか?」
それだけで、意味は分かった。
昔。何度も、同じように言われた。言葉が違っても、意味は同じ。だから、返す言葉もずっと同じだった。
「別に――」
口が、止まった。
男が首を傾げる。
「ん?」
別に嫌じゃない。
慣れている。どうせ時間もかからない。少しくらい何でもない。そう思おうとした。けれど、別の言葉が浮かんだ。――君は、僕としたいのか。あの夜、そう聞かれた。したくはなかったから、何も起きなかった。――行きたいかどうかの話をしている。そう言われて、港へ行きたくないと答えた。
本当に行かなくて済んだ。――君が読むなと言っただろう。読み上げられたくない名前、止めたら。本当に止まった。ザビーダは男を見る。
「……いや」
「え?」
思ったより、声が小さい。
それでも、聞こえた。
「今日はいいわ」
男が瞬きをする。
「今日はって……何かあったのか?」
「何も」
「じゃあ」
少し笑う。
「別にいいだろ?」
胸の奥が、きゅっと狭くなる。
「いや」
今度はさっきより少しだけ強く。
「俺様がしたくねえから」
言えた。
男はしばらくザビーダを見る。やがて、苦笑した。
「またまた」
「……何が」
「前はそんなこと言わなかっただろ」
その一言で、喉が少しだけ詰まる。
「昔は昔だよ」
「俺、何かした?」
「そういう話じゃねえ」
「嫌いじゃなかったよな?」
「……」
「なら少しくらい」
男がまた近づく。
悪意があるわけではない。怒ってもいない。きっと本当に今までと同じだと思っている。ザビーダが断ることの方が、おかしい。そう思っているだけ。
「ザビーダ?」
手が伸びる。
触れられる前に足が半歩下がった。嫌なら嫌だと言えばいい。もう一度言えばいい。さっき。言えた。でも、今度は、出ない。喉が固まる。嫌だ。したくない。そう言えば、それでいいはずなのに何度も押されたら。自分の言葉が急にひどく弱いものに思えた。その瞬間、口から、別の言葉が飛び出した。
「……ミクリオ様に禁止されてんだよ」
男の手が止まった。
「え?」
「だから」
ザビーダは笑った。
いつもの。何でもないような笑い方。
「他の奴とはすんなって。所有者サマのご命令」
嘘だった。
そんな命令。一度もされていない。むしろ、本当に自分が望むなら。止める権利はないとミクリオなら。そう言う。けれど、男の態度は、一瞬で変わった。
「……ミクリオ特等が?」
「ああ」
「それは」
一歩。
下がる。
「まずいな」
「だろ?」
「悪かった」
今度は本当に距離を取った。
「特等の所有聖隷に勝手なことしたって知られたら、洒落にならない」
「そーいうこと」
「じゃあ、またな」
「おう」
男はそれ以上何も言わず。
人混みへ消えていった。ザビーダはしばらくそこに立っていた。
「……」
断った。
最初は、自分の言葉で、したくない。そう言えた。でも、最後まで、それだけでは通せなかった。結局。ミクリオの名前を使った。所有者。命令。自分を縛るために何度も使われてきたもの。それを今度は、自分から、盾にした。
「……何だかなあ」
笑う。
少し情けない気がした。ミクリオがいなければ、自分一人では、まだ駄目だった。そんな気もした。でも、一緒には行かなかった。嫌なのに耐えなかった。それは確かだった。ザビーダは先ほど戻した酒瓶を見る。少し高い。迷っていた方。手に取る。
「……今日はこっちにすっか」
硬貨を払う。
今までより、少しだけ胸を張って。
***
帰宅したのは、夕方だった。玄関を開ける。
「ただいまー」
言ってから、少し止まった。自然に出た。奥から。
「おかえり」
ミクリオの声が返ってくる。
居間へ入る。ミクリオは机に向かい。先日ザビーダが贈った筆を使っていた。
「それ、使ってんじゃん」
「使いやすいと言っただろう」
「律儀だねえ」
「なぜ使わないと思うんだ」
ザビーダは買ってきた酒を机に置いた。
ミクリオが見る。
「買ったのか」
「俺様の金でな」
「そうか」
「ちょっと高かった」
「気に入ったならいいんじゃないか」
「一緒に飲む?」
「少しなら」
「お。珍しい」
「君が一人で全部飲みそうだからな」
「信用ねえ」
「飲酒量についてはな」
ザビーダが笑う。
ミクリオも少しだけ口元を緩める。その顔を見て、何となく昼間のことを言ってみようと思った。
「なあ」
「何だ」
「今日さ」
「うん」
「昔の客に会った」
筆が、止まった。
ほんの一瞬。
「……そうか」
平静な声。
でも、ザビーダには分かる。少しだけ硬い。
「誘われた」
今度は完全に止まった。
ミクリオが顔を上げる。
「それで?」
ザビーダは椅子を引いて座る。
「最初は断った」
ミクリオの眉が僅かに寄った。
「最初は?」
「俺様がしたくねえからって」
「……そうか」
「二回くらい言った」
「それで?」
「ちょっとしつこくされてさ」
ミクリオの表情が露骨に険しくなる。
「触られたのか」
「いや。その前」
「そうか」
短い。
けれど、少しだけ息を吐いたのが分かった。ザビーダは頬杖をつく。
「それで」
「うん」
「お前に禁止されてるって言った」
「……僕に?」
「ああ」
「何を」
「他の奴とすんなって」
沈黙。
ミクリオが本気で困惑している。
「僕は」
「知ってる」
「そんな命令をした覚えはない」
「だから嘘ついたんだよ」
「……なぜ」
「使えるもん使った」
ザビーダは笑う。
「『俺様が嫌だから』じゃあ引かなかったけど、『ミクリオ特等の命令』って言ったら一発だったぜ」
ミクリオは何も言わなかった。
ザビーダは少しだけ笑いにくくなる。
「……怒った?」
「何に」
「お前の名前、勝手に使った」
「それで相手は引いたのか」
「ああ」
「ならいい」
「……いいの?」
「ああ」
ミクリオはあっさり頷いた。
「次も必要なら使え」
今度はザビーダが黙る番だった。
「お前」
「何だ」
「所有制度嫌いなんじゃなかった?」
「嫌いだ」
「即答かよ」
「君を物として扱うために使われるなら嫌いだ」
ミクリオは少しだけ考える。
「でも」
ザビーダを見る。
「今の制度では、僕の所有権が君を守る盾になることもある」
「……」
「君が嫌なことから逃げるために必要なら、僕の名前でも、特等の地位でも、所有権でも使えばいい」
ザビーダは瞬きをする。
「勝手に命令作っても?」
「内容による」
「細けえな」
「僕の名義で国を転覆させるなよ」
「しねえよ」
「なら、今日みたいなことなら構わない」
「……そっか」
「むしろ」
ミクリオの目が少し険しくなる。
「今度その男を見かけたら――」
「待て待て待て」
ザビーダが手を上げる。
「そこまでしなくていい」
「だが」
「最終的には引いたから」
「君が僕の名前を出さないと引かなかった」
「まあ」
「それは」
ミクリオが何か言いかける。
ザビーダが先に笑った。
「怒ってんなあ」
「当然だろう」
「俺様のことで?」
「君以外の誰の話をしているんだ」
あまりにも、迷いなく返ってきた。
ザビーダは少しだけ視線を逸らした。
***
「でもさ」
少しして、ザビーダが言った。
「ん?」
「最初はちゃんと」
自分の指先を見る。
「俺様がしたくねえって言えたんだぜ」
ミクリオの表情が少しだけ柔らかくなる。
「ああ」
「二回」
「聞いた」
「そこは」
ザビーダが口を尖らせる。
「もうちょい褒めてもよくね?」
ミクリオは一瞬。
目を瞬いた。
「……褒めてほしいのか?」
「今のはそういう流れだろ」
「そうか」
少し考える。
「よく言えたな」
「急に素直!」
「褒めろと言ったのは君だろう!」
「いや、言ったけどよ」
ザビーダが笑う。
ミクリオも少し呆れた顔になる。
「それに」
ミクリオが続ける。
「最後に僕の名前を使ったことも、失敗ではないと思う」
笑いが、少し止まる。
「……そう?」
「ああ」
「俺様一人じゃ通せなかったぜ?」
「それでも、嫌なことを受け入れずに済んだ」
「……」
「最初から全部、自分だけでできる必要はないだろう」
その言葉が少しだけ胸に残る。
ザビーダは机の上の酒瓶を見る。
「じゃあ」
「何だ」
「しばらくは借りるわ」
「何を」
「ミクリオ特等のご威光」
「好きにしろ」
「所有者サマ、他の男とは寝るなって怖いんだぜー、って」
「余計な脚色をするな!」
「効きそうじゃん」
「僕が妙な噂を立てられるだろう!」
「でも」
ザビーダがにやりとする。
「嫌なんだろ?」
ミクリオが止まる。
「何が」
「俺様が他の男と寝んの」
「……」
「あれ?」
「……嫌だとは思う」
小さく。
でも、はっきり。ザビーダの眉が上がる。
「へえ」
「何だ」
「お前もちゃんと嫌って言えるんだな」
「僕だって言う」
「でも俺様に命令するの避けてるじゃん」
「ああ」
「だからさ」
少し考える。
「お前自身の嫌なことまで、言わなくなんのかなって」
ミクリオが黙った。
「それは」
「うん」
「……困るな」
「だろ?」
ザビーダが笑う。
「俺様ばっかり嫌だって言えて、お前は全部我慢しろってのも変だ」
「そうだな」
「じゃあ」
ザビーダは少しだけ真面目な顔をする。
「嫌なら嫌って言えよ」
「でも」
「命令なのか、お前の気持ちなのか」
少し間。
「そのうち俺様もちゃんと分かるようになるだろ」
ミクリオが目を細める。
「そのうち?」
「ああ」
「今は?」
「……ちょっと怪しい」
「正直だな」
「だから今は」
笑う。
「『これは命令じゃない』って付けといてくれ」
「面倒だな」
「繊細なんだよ、俺様」
「初耳だ」
「また言った!」
今度は二人とも笑った。
***
夕食後。買ってきた酒を開けた。ミューズも少しだけ飲み。ミケルは一口で顔をしかめた。
「強いな」
「導師サマ弱っ」
「放っておけ」
「ミクリオは?」
「僕はもう少し平気だ」
「さすが俺様の所有者サマ」
「その呼び方をやめろ」
「命令?」
「……これは僕の希望だ」
ザビーダが笑った。
「じゃあ保留」
「なぜだ!」
大したことのない。
普通の夜だった。少しして、ミクリオが酒瓶を持ち上げる。
「もう一杯?」
ザビーダは杯を見る。
昼間のことを少しだけ思い出した。嫌だと言った。一度。二度。でも、最後は、誰かの力を借りた。それでも、戻らなかった。耐えなかった。今日はそれでいい。
「……いや」
ミクリオの手が止まる。
「ああ」
それだけ、酒瓶を置く。
理由を聞かない。もう一度勧めない。ザビーダはその動きを見て、少しだけ笑った。
「何だ」
「別に」
「今日はそれが多いな」
「何でもねえよ」
「怪しい」
「ほんとほんと」
今日、三度目の。
「いや」。
一度目は自分の言葉だけでは、最後まで通らなかった。
二度目も押し返すためにミクリオの名前を借りた。でも、今は、一度で、止まった。世界全部が、こんなふうになるわけではない。明日。別の誰かに同じように言えるかも分からない。それでも、少なくとも、帰る場所では、嫌だと言えば、そこで終わる。そのことをザビーダは少しずつ。
覚え始めていた。