一人称が「俺様」の褐色爆乳美女は好きですか? 作:ビジュゲイト推し
市場へ出たのは、特に用事があったからではなかった。研究用の紙と、ミクリオが切らしかけていたインク。それから自分用に、何か甘いものでも買おうかと思っただけだ。最近は一人で出歩くことにも慣れてきた。財布を持って、好きな店を見て、欲しいものがあれば買う。誰かに許可を取る必要はないし、帰る時間も自分で決められる。
そういうことを、一つずつ覚えている途中だった。
「……ん?」
菓子屋の前で立ち止まった時、聞き覚えのある声がした。
「やっぱザビーダじゃん」
振り向く。
男が一人、こちらへ歩いてくる。顔を見て、少しだけ考えた。
「あー……」
「忘れた?」
「いや、見覚えはある」
「ひでえな」
男は笑った。
昔の客だった。名前までは覚えていない。何度来たかも、いつ頃だったかも曖昧だ。ただ、顔を見れば「あの店に来ていた人間だ」ということだけは分かる。嫌な相手だった記憶もない。むしろ、あの頃の基準なら扱いやすい方だった気がする。
「まだミクリオ特等のところ?」
「ああ」
「へえ。長いな」
「そう?」
「お前、あちこち移ってたじゃん」
言われてみればそうだった。
所有者が変わったことも、置かれる場所が変わったことも、一々数えていない。どれも似たようなものだったから、男はザビーダの顔を見て、少し笑った。
「前より顔色いいな」
「そうか?」
「店いた頃、もっと眠そうだっただろ」
「覚えてねえ」
「お前いっつもそう言うな」
悪意のない笑い方だった。
だからザビーダも普通に笑った。
「まあ、元気ならいいけどさ」
「おう」
そこで別れれば、それで終わるはずだった。
けれど男は何かを思い出したように振り返った。
「そうだ、ちょっとこっち来いよ」
言いながら、ザビーダの手首を掴んだ。
昔なら。多分、そのままついていった。どこへ行くのか聞くことすらしなかったかもしれない。掴まれること自体、珍しくもなかった。だから、ザビーダ自身にも、何が起きたのか分からなかった。
「――触んな」
腕が動いた。
考えるより先に強く振り払う。ぱし、と乾いた音がして、男の手が離れた。二人とも止まった。
「……え?」
男が目を丸くする。
ザビーダも自分の手を見た。心臓が妙に速い。掴まれていた手首が、まだそこだけ熱いような気がする。
「何だよ」
男が困ったように笑った。
「前は平気だったじゃん」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
平気。また、その言葉だ。
「……知らねえ」
「何が?」
「今の」
ザビーダは手首を押さえた。
嫌だった。そう思う。でも、いつから?昔から?それとも今だけ?分からない。だから、分からないまま言った。
「今のは、嫌だった」
男の顔から笑いが消えた。
「……ああ、そう」
少し気まずそうに手を上げる。
「悪かった」
「ん」
「連れてこうとしただけなんだけど」
「分かってる」
「そういうつもりじゃなくて」
「それも分かってる」
男は少しだけ困った顔をしたあと、素直に一歩下がった。
「じゃあ、もう触らない」
「……おう」
「悪かったな」
もう一度そう言って、今度こそ男は去っていった。
ザビーダはしばらく、その場に立ったままだった。手首を見る。何も残っていない。痛くもない。けれど。
「……嫌だったんだな」
小さく呟く。
自分で言った言葉なのに、妙に重かった。昔なら、掴まれても平気だった。少なくとも、そういうことにしていた。今は、違った。
***
帰宅すると、ミクリオは書斎にいた。最近ずっとそうだ。机の上には研究資料が積み上がり、その横にはザビーダが贈った筆がある。
「ただいま」
「おかえり」
ミクリオは書類から顔を上げる。
「買えた?」
「紙とインク。あと菓子」
「菓子?」
「俺様の」
「そうか」
「お前にも一個やる」
「ありがとう」
ザビーダは買ったものを机に置いたあと、そのまま椅子へ座った。
ミクリオが少し首を傾げる。
「何かあった?」
「何で分かんの」
「顔」
「俺様そんな分かりやすい?」
「最近は」
「前は?」
「全部笑っていたから分かりにくかった」
ザビーダは少し黙った。
「……そっか」
それから、自分の手首を見た。
「今日さ」
「うん」
「昔の客に会った」
ミクリオの表情が僅かに固くなる。
「何をされた?」
「いや、そんな怖い顔すんなって。別に大したことじゃねえよ」
言って、止まった。
「……別に、じゃねえな」
ミクリオは何も言わない。
急かさない。ザビーダは続けた。
「手、掴まれた」
「手首?」
「ああ。ちょっとこっち来いって」
「それで?」
「振り払った」
ミクリオが少し目を見開く。
「君が?」
「俺様が」
「……そうか」
「自分でもびっくりした」
ザビーダは笑おうとしたが、あまりうまくいかなかった。
「考える前に身体動いたんだよ。触んな、って」
ミクリオは静かに聞いた。
「嫌だった?」
ザビーダはすぐには答えなかった。
少しだけ自分の中を確かめる。さっきの感覚。掴まれた瞬間のざわつき。離れたいと思ったこと。
「……ああ」
今度は、はっきり言えた。
「嫌だった」
「そうか」
「前は平気だったのにな」
「前も本当に平気だったかは、今の僕には分からない」
「俺様にも分かんねえ」
「なら、今は今のことだけでいいんじゃないか」
ザビーダが顔を上げる。
「今?」
「今日、触られて嫌だった。それは分かったんだろう」
「ああ」
「なら、それで十分だ」
ザビーダは少し笑った。
「お前、最近『十分』ってよく言うな」
「君が何でも全部分かろうとするからだ」
「研究者サマに言われたくねえ」
「僕は分からないものを分からないと記録している」
「そこ自慢するとこ?」
「大事だ」
ザビーダは笑った。
少しだけ胸のざわつきが軽くなる。それから、ふとミクリオの手を見た。机の上。筆を持っていた手。ザビーダは少し迷ってから、その手に自分の指を触れさせた。ミクリオが止まる。
「……ザビーダ?」
「ん」
そのまま、手を取る。
今回は、迷わない。掌を重ねて、自分から握った。ミクリオはすぐには握り返さなかった。いつものように待っている。
「握っていい」
「……本当に?」
「いいって」
ようやく指が閉じる。
ミクリオの手が自分の手を包む。さっき。あの男に掴まれた時は、身体が勝手に拒んだ。でも、今は、むしろ落ち着く。ザビーダは繋いだ手を見ながら、少し考えた。
「これ」
「何だ」
「これは平気」
言った瞬間、違うと思った。
「あー……いや」
「何?」
「また平気って言った」
ミクリオが少しだけ笑う。
「言ったな」
「違うんだよな」
「何が」
ザビーダはミクリオの手を、少し強く握った。
「平気だから触ってるんじゃねえ」
「……」
「俺様が触りたい」
ミクリオの顔が、分かりやすく赤くなる。
「ミク坊」
「何だ」
「また固まってる」
「君がそういうことを急に言うからだ!」
「だって事実じゃん」
「僕が君を好きだと知っているだろう!」
「知ってるよ」
ザビーダは少し笑った。
「でも、今のはお前を喜ばせようと思って言ったんじゃねえぞ」
「……分かってる」
「俺様がそう思ったから言った」
ミクリオは何も言わなくなった。
その代わり、繋いだ手に少しだけ力が入る。ザビーダも離さない。
「何かさ」
「うん」
「他の奴に触られんのは嫌だったのに、お前には触りてえんだよな」
「……」
「変じゃね?」
ミクリオは少し考えたあと、首を振った。
「変ではないと思う」
「そう?」
「誰に触れられても同じでなければならない理由がない」
「まあ、それはそうか」
「君が決めていい」
「またそれ」
「大事だからな」
ザビーダは笑って、少しだけ椅子を近づけた。
肩が触れる。今度はミクリオも離れなかった。
「なあ、ミク坊」
「何だ」
「俺様、ちょっとずつ面倒になってね?」
「何が?」
「誰でもいい、何でもいい、平気、別に。そういうので済まなくなってきた」
ミクリオは一瞬だけ黙って、それから言った。
「僕はその方がいいと思う」
「何で」
「君が君のことを決めているから」
ザビーダはその言葉をしばらく聞いていた。
「……そっか」
昔は、誰に触れられても同じだった。
正確には、同じことにしていた。嫌かどうかを考えない。相手を選ばない。自分の身体を、自分のものとして扱わない。そうすれば楽だった。今は違う。触られたくない人がいる。触れてほしい人がいる。自分から触れたい人もいる。面倒だった。でも。
「……悪くねえな」
「何が」
ザビーダはミクリオの肩へ寄りかかった。
「こういう面倒」
ミクリオが少し笑う。
「ああ」
「ミク坊は?」
「僕も悪くない」
「そっか」
そのまま、しばらく手を繋いでいた。
今度は、平気だからではなく、そうしたかったから。