メスに犯されし哀れなオス 作:かまいたいかまいたち
次は絶対書く。
玄関の扉を開いた先。
春を過ぎて間もない初夏の気配感じる陽気が体中を覆う。頬を通り過ぎるのは新緑の目立つ木々を揺らすそよ風。
二階建てのアパート。
築二桁は確実にいっているであろうそれの二階、下へと降りる階段から最も遠い一番奥が俺の住む部屋である。
扉を開いてまず目につくのは錆びに錆びれた無骨な鉄骨廊下。元の色が赤錆の赤褐色だったかさえ見分けのつかないその廊下は、果たして人の体重を支えることができるか怪しくて、だからこそ歩みを進めることが憚られる。
恐る恐る踏み出した片足に体重をかけると「ギギギギィ」と、仮にも人の住んでいる場所から鳴ってはいけないであろう鉄の擦れる金属音が響いた。
「…こっわ」
というか懐かしい。
曲がりなりにも高校3年間住んでいたこの住居。あの頃の愛着が、社会に揉み消された青春の彼方から蘇ってくる。
「崩れない……か………」
戦々恐々と足を玄関から踏み出していると。
「崩れないよ」
不意に聞こえるハスキーボイス。
微かに香るはタバコの副流煙。
「っ…?!」
声のした方向。
首が捩じ切れんばかりの勢いで振り向けばそこにいるのは、黒いヒートテックの魔女のような女の人。
色白の顔に乗っかる双眸は沼のように深く光がない。
不気味な雰囲気こそあれ、それでも美しく見えてしまうのは、彼女のポテンシャルの高さ故なのだが、だからこそ、ボサボサの手入れの怠った黒髪が残念に映る。
尤も、それを加味したとて彼女の美貌になんら影響はないのだが。
「やぁ…」
短くなったタバコを人差し指と親指でちょこんと摘み、軽く手を振ってニッコリと微笑む彼女。
見て取れるダウナー系の印象と、その印象と違わぬ一挙手一投足。
「うっす……」
軽く会釈。
見た目と体は高校生、されど中身は25の成人男性なのだが、得体の知れない目の前の女性の面妖さに、柄にもなくキョドッてしまう。
「………………へぇ…返事するんだぁ」
クスッと笑う彼女は意外そうにそう言う。
「返すのが普通でしょう…」
「いやいやいやぁ…」
彼女は、錆びれた鉄骨廊下の手すりに預ける体を持ち上げこちらに向ける。
「男の子でぇ…女に返事する人ってなかなかいないよぉ…?」
手すりに寄越していた体を立たせたからこそ分かったが、目の前の彼女、その出で立ちに似合わずかなり大きい。
190くらいはあるのではなかろうか。高校の時点で170を超えていた俺がわざわざ首を仰がないと顔を合わせられないのだから、身長の高さは相当なものである。
ハスキーボイスから奏でられる間延びしたような語尾は、甘ったるく俺の鼓膜にまとわりつく。
「なんなら…無視する男の子もいるからねぇ」
暗い瞳は全身を舐め回すようにこちらを射抜く。
品定めのような目つきだった。
頭のてっぺんから足元に至るまでくまなく注がれるその視線に、何故だろう、敏感に反応した体はびくりと身震いする。
「でも、君は無視しないんだねぇ」
キィ。
にじり寄るように踏み出された彼女の足。
ただでさえ脆い鉄骨廊下はそんな彼女の動きに敏感に反応して悲鳴をあげる。
「…………」
キィ。
一歩引く体。
無意識だった。
舐め回すような視線に含まれる得体の知れない感情。
その読めない彼女の感情を機敏に感じ取った俺の体は、本人の意識し得ない本能的な部分をもって、己の身を一歩引かせる。
「あのっ……」
「なぁに…?」
ゆったりとした足取りで、しかし距離は埋まってゆく。
「なんで近づくんですか」その一言が何故だろう、つっかえた小骨のように喉に絡まって上手く吐き出せない。気がつけば胸の内にあるのは、出処不明の、しかし確実にそこにある恐怖。
咄嗟に手に掴むは開いていた自室の玄関扉。
手が変色するくらいにノブを握りしめて離さない。
目に映る目の前の女性が、今は人を喰ってしまいそうな妖狐に見えて仕方がなかった。
「…………」
沈黙が場を支配して暫く。
俺は手に握っていたノブを引きつけるとともに、玄関を潜る。
彼女は、190の巨体であれば止められるだろうに、閉まって行く玄関をただ、その場に佇んで、先ほどから変わることのない舐め回すような目線でジッと見つめている。
すっかり縮んだタバコを最後にひと吸い。
彼女は言った。
「
クスクスと弾むような声色。
隙間を失ってゆく玄関に、彼女———蓮のハスキーボイスが滑り込んでくる。
「今度は我慢できないかもだからねぇ…」
玄関が閉じてゆく。
「ばいばい……」
————慎介君。
ゾワリ。
体中の皮膚を一瞬にして駆け巡る鳥肌。
声無き悲鳴とも言える絶句。喉が痙攣して上手く息を吸えない。声を出すというよりも喉を鳴らすようにカスカスと、声帯を揺らす空気の音が口から溢れる。
閉じた玄関扉。
緊張が解けた体は言うことを聞かず、その場にへなりと崩れ落ちるのであった。
□
「はぁ……はぁ……っ…」
動悸だろうか。発作だろうか。
その二者のどちらとも言えないこの鼓動は、未だ鳴り止むことを知らない。
激しい心臓の音がバクバクと、耳の奥から聞こえてくる。落ち着かせようと忙しなく動く胸の上に手を添えるが、今のところ徒労に終わっている。
うっすら滲む手汗が服に染みた。
玄関扉の前にへたり込んでだいぶ時間が経つ。
縦に並んだ二つの鍵のツマミは両者とも真横に傾き、いつもはぶら下がっているだけのチェーンがこの時ばかりは溝の奥まではまっている。
———慎介君。
脳内で思い出すは蓮とか言う女のハスキーボイス。
彼女は何故俺の名前を知っていたのだろうか。
コミュニケーションに対する自信が塵ほどもない俺は高校生の頃、近所付き合いなんてしてこなかったし、だからこそ近所の住人も進んで俺と関わるようなことはしてこなかったはず。
ましてや名前を聞かれることも、名前を教えられることもあるはずがなかった。
「……なんなんだよ…」
溢れる声は若干の困惑と怒気を孕む。
蓮という女。
えもいえぬ恐怖がそこにはある。
「っ……はぁ…」
ため息を一つ。
心臓に持って行かれた血液のせいで手薄になった頭。軽く目眩がするそれをさすりながら立ち上がった。忙しなかった心拍も幾分か落ち着きを取り戻しつつある。
喉が渇いた。
主に精神的で消耗していた体は水分を欲していた。
リビングに横付けされた台所からコップを見繕い、蛇口を開いて水を注ぐ。思ったより勢いのある水流がコップを満たして程なく、俺はそれを一気に煽る。
喉を通るぬるい水道水。
半分飲んだあたりで一度口を離し、手癖で取ったリモコンの赤いボタンを押してテレビをつける。
時刻は昼前。
テレビに映し出されるは番組間に挟まる10分程度のニュース番組。
ソファ代わりのベッドに腰掛け、半分残ったコップの水をもう一度煽りながら、それを見る。
『次のニュースです』
画面の中、ハキハキとした声で時たま台本に目を落としながら告げる美人のニュースキャスター。
『SNSで知り合った男子高校生に性行為を強要したなどとして、〇〇市警は今週、〇〇市在住の会社員女性(32)を逮捕・書類送検しました』
………珍しい。
わいせつ系の事件を引き起こすのは、悲しきかな、脳みその在処が股間である生物種の男性だと相場が決まっている。
基本女性から手を出すことはないため、その珍しさに首を傾げる。
『次のニュースです』
女性ニュースキャスターはさも当たり前と言うように淡々と告げる。
『厚生労働省は今日、男性人口の減少化について日本における男女比が「1:50」を超えたと発表しました』
ブホッ…。
水が飛び散る。
「ゴッホゴホッ…ゴホッ……」
口の中に含んでいた水を盛大に咽せかえらせる。
珍妙なニュースが流れたと思ったら、その先にあるのは珍妙を超えてもはや摩訶不思議の域に達するニュースであった。
「はぁっ…?」
困惑する。
男性人口の減少化?男女比?
突如として昼前のニュースで告げられた、理解に苦しむ言葉の連鎖。間違うことを許されない天下のマスメディアからそのような言葉が発させるとは露ほども思っていなかった。
俺の困惑を置き去りにして、テレビの中のニュースキャスターは淡々と告げていく。
男性への性被害の増加。先進国における少子化と男性人口の減少。男性既婚者への給付金。
エロ漫画の世界だろうか。今年の除夜の鐘は107回しか鳴っていなかったのではなかろうか。
正気を疑う衝撃の事実の連続。ニュースの流れる間、夢かと疑って頬を叩いた回数は既に片手に収まりきらない。
しかしその混乱の最中。
————男の子でぇ…女に返事する人ってなかなかいないよぉ…?
————なんなら…無視する男の子もいるからねぇ。
ふとよぎる蓮の言葉。
思い返せば疑問を持たざるを得ないそれらの言葉だが、今、こうして真実を目の当たりにした後だと合点がいく。
なるほど「1:50」というあまりにも極端かつあからさま過ぎる男女比が故に、返事もされず無視すらされると言う現象が横行しているのか。
そして恐らく。
「…………っ…」
この世界においての男性は、俺の知っている世界の女性と同じポジション。かつて読んだ官能小説の言葉を借りるのであれば「貞操観念逆転」とも言うべきか。
男尊女卑ならぬ女尊男卑がこの世界の
事実、女性もとい蓮のほうが身長という体格差的有利を手にしている。
女性が圧倒的に多いと言う夢にまで見た状況であれば興奮の一つや二つするものだが、現状俺は全くもって興奮していない。
むしろ、蓮とかいう女に詰められてからと言うもの、女性へのトラウマにも似た恐怖が胸の底に居座って離れない。
今の俺ならば、たとえ女性に性行為の類を誘われたとて、首を横に振るだろう。
全ては、男性の立場が俺のいた世界と逆転しているから。だからこそ、先ほどのニュースのようなことがさも当たり前に起きて、男女比、男性人口の減少化というワードが飛び交う。
「………マジか…」
あの3トントラックはデ◯リアンではなく、パラレルワールドへ入り口だったか。
朝、やかましかった目覚まし時計には「12:00」と書かれている。
ニュースはとっくに終わっていて、テレビに映るは昼下がりのバラエティ番組。タレントは案の定、おしなべて顔も名も知らぬ女性ばかりだった。