象牙色の厚紙に、金箔で船名だけが箔押しされていた。
差出人の名もなければ、出航時刻も、行き先すら記されていない一枚の招待状。
届いた当初は、手の込んだ宣伝広告か、さもなくば質の悪い悪戯の類いだろうと机の隅に放置していた。
だが、連日の激務に追われて神経をすり減らし、予定表を埋め尽くす義務と数字に溺れかけていたあなたにとって、その白紙のような余白は、日を追うごとに奇妙な引力を持って意識の底へ沈殿していった。
日々の生活は、いつの間にか色彩を失っていた。
朝になれば機械のように身支度を整え、満員電車に揺られ、他人の期待と責任を肩代わりし、深夜に冷めきった自宅へ帰っては泥のように眠る。
何のために働き、何のために呼吸しているのかすら曖昧になりかけていたあなたの指先に、その招待状の重みだけが確かな手触りとして残っていた。
一枚の紙にこれだけの金と上質な紙質を注ぎ込む相手が、安っぽい騙し討ちを仕掛けるとは思えない。
何より、理由もなく日常のすべてを投げ出してしまいたいという乾いた衝動が、あなたの足を深夜の港へと向かわせる最後の一押しとなった。
深夜の埠頭は、静まり返っていた。
街灯の届かない工業港の暗がり、海面を鈍く揺らす潮騒の中に、その巨大な船は静かに巨躯を横たえていた。
超豪華客船《ステラ・マリス》。
見上げるほどの船体は純白に塗り込められ、幾重にも積み重なった甲板の階層は、夜霧の向こうへと霞んでいる。
通常の大型客船であれば当然あるはずの乗船ゲートも、行き交う港湾作業員の姿も、案内板すら見当たらない。
ただ一本、磨き抜かれた真鍮の手すりを備えたタラップが、あなたの足元へと静かに伸びていた。
踏み出すたびに、靴底が吸い付くような重厚な赤絨毯の感触が足裏に伝わる。
タラップの頂上、乗下船口の淡い照明の下に、一人の女性が背筋を正して立っていた。
純白のスーツに、肩口を飾る金色の肩章。
膝下まで伸びたタイトスカートと、埃一つない黒の革靴。
乱れなく夜会巻きに結い上げられた艶やかな黒髪の下から覗く顔立ちは、彫像のように端正でありながら、どこか近寄りがたい厳格さと気品を漂わせていた。
あなたが足を止めるのと同時に、彼女は寸分の狂いもない優雅な角度で深々と頭を下げた。
「ようこそ、客船《ステラ・マリス》へ。お待ち申し上げておりました」
透き通るような、しかし低く落ち着いた声音だった。
差し出された白手袋の両手にあなたが招待状を手渡すと、彼女は金箔の刻印を指の腹で静かになぞり、満足そうに目を細めた。
「確かに拝見いたしました。……ご案内いたします。今宵より、ここがお客様の新しいお部屋でございます」
完璧な所作と慇懃な案内に、あなたが戸惑いの眼差しを向けると、彼女は静かに名乗りを上げた。
「本船のパーサー長を務めております。どうぞ、こちらへ」
パーサー長は身を翻し、音もなく船内へと歩き出した。
足を踏み入れたDeck 3のロビーは、息を呑むほど豪奢でありながら、驚くほど静まり返っていた。
高い吹き抜けの天井から下がる硝子細工のシャンデリアが、鏡のように磨かれた大理石の床に淡い幾何学模様の光を落としている。
だが、フロントにもラウンジにも、他の客の姿は影一つ見当たらない。
出航前だとしても誰一人見かけない静けさを不審に思い、あなたが他の乗客はどうしたのかと尋ねると、パーサー長は当然であるかのように穏やかに微笑んだ。
「本船にお迎えする乗客は、お客様、ただお一人でございます」
たった一人なのかと、あなたが思わず確かめるように視線を投げかけると、彼女は専用エレベーターの押しボタンに白手袋の指を添えた。
真鍮の扉が滑らかに開き、あなたを奥へと促す。
「左様でございます。この広大な船の全施設、そして全クルーの時間は、すべてお客様お一人のためだけに用意されております。誰の目を気にすることもなく、心ゆくまで寛いでいただくための特別な空間――それが本船の存在意義にございますれば」
エレベーターが音もなく上昇を始めた。
階数表示の針が、三から四、六、十と滑らかに上がっていく。
全十六層の頂点、最上層を示すインジケーターが点灯するまで、密閉された空間の中にはかすかな機械油の匂いと、彼女の纏う白檀の香水の気配だけが満ちていた。
あなたの視線が、パーサー長の引き締まった横顔に注がれる。
完璧な姿勢、一切の無駄を削ぎ落とした立ち振る舞い。
彼女の表情からは、悪戯や狂言の気配など微塵も読み取れない。
チーン、と澄んだ電子音が鳴り、扉が開いた。
そこに広がっていたのは、客室という言葉の印象を遥かに超えた広大な空間だった。
Deck 16の最上層に位置する、ペントハウス・ロイヤルスイート。
三方向を囲む全面ガラス窓の向こうには、夜の海と漆黒の水平線が一望のもとに広がっている。
足元には深く沈み込むシルク混の絨毯。
中央には大人四人が優に横たわれるキングサイズの天蓋付きベッドが鎮座し、奥には海を見下ろす大理石造りのプライベートジャグジーが湯気を立てていた。
「お客様のお部屋でございます。ご滞在中、この区画へ立ち入ることを許されるのは、専属の許可を得たクルーのみとなります」
パーサー長はあなたの背後に回り込むと、流れるような手つきで肩から重いオーバーコートを受け取った。
クローゼットへ丁寧に収める所作の一つ一つに、長年培われた確かな気品が宿っている。
彼女はサイドボードへ歩み寄ると、氷の入った銀のクーラーからシャンパンボトルを引き抜き、静かに抜栓した。
細身のフルートグラスに注がれた黄金色の液体が、細かな泡を立ち上らせながらあなたの手元へと運ばれる。
「まずは喉を潤してくださいませ。長旅でお疲れのことと存じます」
冷えたグラスを受け取りながら、あなたは丁重な歓迎には感謝しつつも、まだ状況が呑み込めないと率直に告げた。
なぜ自分が選ばれたのか、そしてここで何を求められているのかを問いかける。
パーサー長は両手を前で揃え、まっすぐにあなたの視線を受け止めた。
その瞳には、侮りも媚びもなく、ただ職務に対する絶対的な誇りだけが宿っていた。
「お客様が選ばれた理由につきましては、招待状をお送りした船の総責任者のみが知るところでございます。ですが、お客様がここで何をなさるべきかについては、わたくしから明確にお答えできます」
続きを促すようにあなたが黙って見つめると、彼女は落ち着いた声音で答えた。
「何もしないこと。そして、ご自身を縛る日頃の義務やお仕事の重圧から、完全に解放されることでございます」
彼女は一歩、あなたへと歩み寄った。
白手袋に包まれた彼女の指先が、あなたの麻のシャツの第一ボタンへと静かに伸ばされる。
「まずは、日常の重たい鎧をお脱ぎ捨ていただきましょう」
彼女の指が、胸元のボタンを一つずつ外していく。
外気に触れた胸板に涼やかな夜風が触れ、露わになった素肌へと、彼女の白手袋の手のひらがそっと添えられた。
清潔な布地のさらりとした感触と、その奥にある女性の確かな体温が、あなたの皮膚を通して心臓へと伝わってくる。
日常のすべてから解き放たれる至福の夜が、静かに幕を開けようとしていた。