深夜零時を回った頃、あなたはふと眠れなくなって廊下へ出た。最上層のペントハウスから下りたエレベーターの扉が開くと、Deck 8の中央回廊は外洋の静寂に満ちていた。
昼間は乗客の姿こそないものの、クルーが常に行き交い、空気が微かに動いている。深夜は違う。厚いカーペットが足音を吸い込み、長い廊下の先に何もない。壁に等間隔に並ぶ小さなウォールランプだけが、橙色の点として廊下を区切っていた。エンジンの重低音が、床を通して足の裏にかすかに届いてくる。
あてもなく歩いていると、廊下の端、観音開きの大扉の隙間から、光が漏れているのに気づいた。グランドサロンだった。
扉を押して中に入ると、広い空間は薄明かりだけで満たされていた。天井の高さが船内の他の区画とは別格で、漆喰細工の白い天井が、壁際に並ぶ間接照明の光を受けてうっすらと輝いている。全面を占めるガラス窓の外には、月光だけが静かに波の上に広がっていた。昼間は白いテーブルクロスのかかった円卓が並び、船の食事係たちが行き届いたサービスをしている。今は何もない。磨き抜かれた床が、間接照明を鈍く反射している。
サロンの奥の一段高くなった場所に、一台のグランドピアノがあった。黒く磨かれた蓋は開かれていて、その艶やかな鏡面に月の細い光が反射している。ピアノの傍らには楽譜台だけがあった。楽譜は乗っていない。
そして、ピアノの前に、一人の女性が座っていた。
本船の専属ピアニスト。夕食時のステージでは常に黒のイブニングドレスを纏い、背筋を伸ばして演奏し、終わればさりげなく退場する。あなたに目を合わせたことはほとんどなかった。演奏の間も、曲と曲の間のわずかな時間も、彼女の視線はいつも鍵盤の方向を向いていた。
今は違う格好をしていた。薄手の白いブラウスに、細身の濃紺のスラックス。仕事着でも部屋着でもない、出かけるでも帰るでもない、その境目のような服装だった。首元は開いていて、細い鎖骨の線が見えている。彼女は鍵盤を前に少し猫背になり、指先を鍵盤の上に置いたまま、ぼんやりとそこを見ていた。
「……起きていらしたんですね」
あなたが入り口に立った気配を感じて、彼女が振り返らずに言った。声は低く、驚いた様子がない。
あなたは黙ってうなずき、段差を上がり、ピアノの横に置かれた椅子を引き寄せて腰を下ろした。ピアノの胴体を挟んで、彼女と並ぶような位置になる。
「私もです」
彼女が言った。
それきり、しばらく何もなかった。鍵盤の白と黒が、月明かりと照明の中で静かに光っている。ガラス窓の外で波が低い音を立て、船が変わらず一定の速度で外洋を進んでいく。彼女はまっすぐ前を向いたまま、指先を鍵盤の面にそっと乗せていた。押してはいない。ただ触れているだけだ。
彼女は指先で低い一音をそっと押した。丸みのある音が、広いサロンに一粒だけ広がり、消えた。
「弾こうとすると、すぐ仕事になってしまって」
あなたは何も言わず、ただ鍵盤を見た。彼女はその視線に気づいたのか、肩の力がわずかに落ちるのが見えた。ゆっくりと両手を鍵盤に置き直し、何の前置きもなく弾き始めた。
曲名のわからない、短い曲だった。右手が高い音域で細い旋律を弾き、左手がそれより低いところで和音を支える。技術的に難しいわけではなく、ただ静かに続いていく。演奏中の彼女は、昼間のステージとは別の姿勢だった。背筋を伸ばさず、やや前に傾いて、鍵盤に顔を近づけるようにして弾いている。腕全体が柔らかく、肘が浮かず、重さが指先へと自然に流れているのが、横から見ていると分かった。
音はサロンの天井へと上がり、四方の鏡の中に入り込んで、少しずつ消えていく。広い空間が、一人の演奏者のためだけに使われていた。
彼女の右手が旋律の最後の音を押し、そのまましばらく指を鍵盤に乗せていた。音は余韻を残しながら遠くへ消え、やがて静寂だけが残る。あなたは黙って聞いていた。
「自分のために弾くのは、久しぶりです」
「お客様はピアノを弾いたりしますか」
あなたは少し間を置いて、右手の人差し指で白鍵の一つを、音が出ないほど軽く触れた。
「昔、ですね」
彼女が小さく笑った。あなたは思わず彼女の手元に目をやった。細くて節張った、よく動く指。毎日何時間も鍵盤を叩き続けてきた手が、静かに膝の上に降りる。あなたはゆっくりと手を伸ばし、彼女の左手を掌の側から持ち上げた。
指の付け根の皮が、ほんの少し硬くなっている。爪は短く、切りそろえてある。爪の根元の白い三日月が、照明の光の中で清潔に見えた。
「弦楽器の人と違って、タコはあまりできないんです。でも皮は厚くなります」
説明しながら、彼女は自分の指先を逆の手でそっと触れた。あなたは彼女の指を一本ずつ、付け根から先端へと触れながら確かめた。人差し指と中指の間が、他の指に比べてわずかに広がっている。あなたはその部分に指先を当てた。
「オクターブを繰り返すと、こうなります。手が小さいので、ストレッチに時間がかかった」
「四歳から弾いています。物心ついたときにはもう、ピアノの前に座っていました」
あなたはその言葉を聞いて、彼女の指先を静かに握った。彼女は手を引かなかった。
彼女は右手を鍵盤に戻し、ゆっくりと和音をひとつ押した。柔らかく、輪郭のはっきりしない音が広がる。
「これは掌の重さ」
今度は指先を立てて、同じ和音を押した。音の粒が立って、輪郭がはっきりする。
「これは指先。食事の時間は前者を使います。空間が大きくて、音が遠くまで届かないといけないので」
「指先の方が、自分には向いてる気がします。音が見えるので」
あなたは彼女の右手を握ったまま、その細い指を一本ずつ、ゆっくりとほぐすように動かした。
「……何をしているんですか」
あなたは答えず、親指で彼女の指の付け根をゆっくりと押した。
「……そうですね」
彼女は黙って、あなたに手を預けた。指の腱が、あなたの指の動きに合わせてわずかに動く。掌の中に収まる、小さくて強い手だった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。ガラス窓の向こうで、月が波の上を移動していく。波のまばらな光の筋が少しずつ位置を変えていた。月明かりが窓から差し込み、二人の手の上に細く落ちている。
あなたは彼女の右手が弾く隣で、もう一方の手をピアノの端に添えた。今度は右手だけで、伴奏のない旋律だけを、指一本で探るように彼女が弾き始めた。それでも音は揺れながらサロンに広がっていく。彼女の手が一瞬止まりかけ、また続いた。
あなたの指が白鍵の端を、音を出さないように押さえたまま、ゆっくりと彼女の指先に近づいていく。彼女は前を向いたまま弾いていたが、やがて音が止まった。
サロンに静寂が戻った。彼女はピアノの鍵盤を見下ろした。鍵盤の上で、あなたの指が彼女の指に触れている。彼女は手を引かなかった。
あなたは彼女の手の上に、自分の手をゆっくりと重ねた。白鍵の冷たさと、彼女の指先の温かさが、あなたの掌の中でちょうど混ざり合っていた。しばらく、二人はそのままでいた。波の音が窓越しに低く聞こえ、船が外洋をゆっくりと進んでいる。
彼女は視線を鍵盤から上げ、あなたを見た。夜のサロンの薄い光の中で、昼間より顔の輪郭が柔らかく見えた。細い顎、すっと通った鼻筋、少し厚みのある唇。
「……どうしますか」
彼女が言った。
あなたは彼女の手を握り、立ち上がった。