下町の商店街の一角に、ひっそりと暖簾を掲げる大衆食堂『食事処ゆきひら』。
そこは、のちに料理界の常識を次々と塗り替えていくことになる少年・幸平創真の、すべての原点となる場所であった。
創真の幼少期からの日常は、店主である父・城一郎との壮絶な「料理対決」の連続であった。
幼い頃から包丁を握り、あらゆる食材と向き合い、工夫を凝らしたメニューで父に挑み続けた創真。だが、料理人としてあまりにも高い壁である父の背中は遠く、その対戦成績は500戦近く挑んで全敗。一勝すら挙げられぬまま、敗北の悔しさと工夫の面白さを身体に叩き込まれて育ってきた。
「へへッ、次こそは参ったと言わせてやるからな!」
どれほど負けても折れることなく、失敗すらも次の美味さへの糧へと変えていく粘り強さと不屈の精神。
そして、「美味いものを食わせて客を笑顔にする」という大衆食堂の意地。それこそが、創真の血肉となり、いかなる逆境をも突き破る強靭な土台となっていたのである。
一方、創真が足を踏み入れる前の『遠月茶寮料理學園』は、料理界の頂点に君臨する絶対的な権威と伝統の象徴であった。
名門料理店の跡取りや政財界の御用達、幼少期から英才教育を受けたエリートたちが集い、わずかな脱落も許されない厳格な実力主義が支配する場所。そこはまさに、凡人が足を踏み入れることすら叶わない、選ばれし者たちのための中庭であった。
中でも学園の象徴として君臨していたのが、「神の舌(ゴッドタング)」を持つ少女・薙切えりなをはじめとする、気高く美しい才能たちである。
幼少期から完璧な美味のみを求められ、妥協を許さぬ絶対的な味覚によって周囲をひれ伏させてきた彼女たちは、高嶺の花として誰に心を許すこともなく、ただ孤高の頂に立ち続けていた。
完璧ゆえの孤独と、料理という道がもたらす重圧。伝統と格式に縛られた遠月学園は、どこか冷ややかで隙のない緊張感に満ちていたのである。
そんな、外界から隔離された完璧なる料理の聖地へと、下町の泥臭い定食屋のバンダナを巻いた一人の少年が飛び込んでいくことになる。
父との500戦近い敗北で培った無鉄砲な挑戦心と、どんな相手にも物怖じしない不敵な笑顔。
それまで誰も踏み込めなかった高嶺の花たちの世界に、下町の熱風が吹き込もうとしていた。
まだ誰も知らない。
この少年が持ち込む型破りな料理と温かい情熱が、学園の歴史を激しく揺るがし、冷ややかだった少女たちの心をどれほど甘く、情熱的に解きほぐしていくことになるのかを。
「おあがりよッッッ!」
威勢の良い決め台詞とともに、男として、そして料理人として限界を超えて突き進む創真の物語。
そして、彼を囲む愛しき乙女たちと織りなす至高のフルコースの幕が、いま静かに上がろうとしていた。
(序章 お終わり)