風間シン、八歳。
木ノ葉隠れの里にある忍者アカデミーでは、今日もいつも通りの一日が始まっていた。
「おい、風間!」
背後から声が飛んでくる。
振り返ると、何人かの男子がこちらを見て笑っていた。
「今日の任務、お前が足引っ張るなよ」
「どうせ何もできないんだから、カナコの邪魔すんなよ」
シンは何も言い返さなかった。
言い返したところで、どうせまた笑われる。
自分は昔からそうだった。
運動も苦手。
忍術も得意じゃない。
成績もぱっとしない。
そして何より、気が弱い。
だから、いじめられる。
それでもシンには、一つだけ密かな楽しみがあった。
少し離れたところにいる少女。
森野カナコ。
可愛くて、真面目で、何事にも一生懸命。
勉強もできるし、忍術の成績だって悪くない。
シンが密かに想いを寄せている女の子だった。
もちろん、本人に告白したことなんて一度もない。
そんな勇気はなかった。
今日もカナコは、仲間たちと楽しそうに話している。
その隣には、もう一人の問題児がいた。
「俺が一番最初に敵を見つけるってばよ!」
うずまきナルト。
いつも騒がしく、失敗ばかりしている少年。
シンはそんなナルトのことを、少しだけ気にしていた。
理由は簡単だった。
自分と似ているからだ。
ナルトも周囲から馬鹿にされている。
だからシンは、誰にも見られていないところで、何度かナルトを助けたことがある。
落書きを消してやったり。
壊された道具をこっそり直してやったり。
ナルト本人は、誰がやったのか知らない。
それでいいと思っていた。
――今日までは。
「それじゃあ、今回の任務について説明するぞ」
イルカが三人の前に立った。
「今回の任務は、アカデミー初期の実地訓練だ。場所は里の外れにある古い地下洞窟。危険な任務じゃない。基本的な探索と、簡単な罠の解除が目的だ」
「楽勝だってばよ!」
ナルトが胸を張る。
「油断するなよ、ナルト」
「わかってるってばよ!」
シンは黙って話を聞いていた。
そして、ちらりとカナコを見る。
カナコは真剣な顔でイルカの説明を聞いていた。
――俺も、何かできるところを見せたい。
それだけだった。
たった、それだけ。
だから洞窟に入ってからも、シンは必死だった。
先頭を歩こうとした。
罠を見つけようとした。
何か役に立とうとした。
そして――
「シン、待て!」
イルカの声が響いた。
目の前にあった床。
そこに細い線が走っている。
罠だ。
頭ではわかっていた。
でも、その瞬間、シンの視界の端にカナコが映った。
――今だ。
ここで俺が罠を解除できたら。
カナコに「すごい」と思ってもらえるかもしれない。
「俺がやります!」
「待て、シン!」
イルカが叫ぶ。
だが、シンは止まらなかった。
一歩。
踏み込んだ。
カチッ。
小さな音がした。
「……え?」
次の瞬間。
壁が開いた。
無数の刃が飛び出した。
「伏せろ!」
イルカの声。
ナルトが叫ぶ。
シンはとっさに振り返った。
その先にいたのは――
「カナコ!」
飛来した一本の刃が、少女の顔を横切った。
鮮血が飛んだ。
「…………」
時間が止まったようだった。
カナコの頬から、赤い血が一筋流れていく。
「カ……カナコ……?」
シンの声が震えた。
少女は何が起きたのか理解できないように、自分の頬に触れた。
指先についた赤。
それを見て――
泣いた。
「……痛い……」
その言葉が、シンの胸を突き刺した。
――俺のせいだ。
全部。
俺が勝手に動いたから。
俺が、カナコにいいところを見せようとしたから。
俺が――。
「ごめん……」
シンは呟いた。
何度も。
「ごめん……ごめん……」
それから数日。
カナコは学校に来なくなった。
シンは誰にも責められなかった。
イルカも怒鳴らなかった。
ナルトも何も言わなかった。
だからこそ、余計につらかった。
誰かに殴られたほうが楽だった。
罵られたほうがよかった。
全部自分のせいなのだから。
そしてある夜。
シンは木ノ葉の外れにある崖の上に立っていた。
眼下には暗闇。
風が冷たい。
「……カナコ」
小さく名前を呼ぶ。
もう一度、あの笑顔を見たい。
でも、自分がその顔に傷をつけた。
自分が生きている限り、あの傷を見るたびに思い出す。
「……ごめん」
シンは目を閉じた。
一歩、前へ。
身体が宙に投げ出される。
風が耳元を切った。
落ちていく。
どんどん地面が近づいてくる。
――これでいい。
俺なんか、いなくなればいい。
そのときだった。
「ねえ」
「……え?」
声がした。
誰もいない。
なのに、確かに聞こえた。
「なんで自殺なんかするの?」
シンは目を開けた。
空中で身体が落下している。
その隣に――
黒い影のようなものが浮かんでいた。
「誰……?」
「僕? 悪魔だよ」
「……悪魔?」
「そう」
悪魔は、まるで世間話でもするような気軽さで言った。
「せっかく生きてるのに、もったいないじゃない」
「……俺が生きてても意味なんかない」
「どうして?」
「俺のせいで……好きな子に一生残る傷をつけた」
シンはこれまでのことを話した。
自分が馬鹿にされていたこと。
カナコにいいところを見せたかったこと。
イルカ先生の制止を無視したこと。
そして、カナコの顔に傷をつけてしまったこと。
悪魔は黙って聞いていた。
「なるほどね」
しばらくして、悪魔が言った。
「じゃあ、その女の子の傷を消してあげようか?」
「……え?」
「その代わり、お前をもらう」
シンは考えなかった。
「いいよ」
「本当に?」
「俺のことなんか、どうなってもいい」
悪魔が笑った。
「面白いね、お前」
「だから……カナコの傷を消してくれ」
「取引成立だ」
その瞬間。
世界が白く弾けた。
――そして。
ドサッ。
「……痛っ」
シンは地面に転がった。
「…………?」
ゆっくり目を開ける。
そこは崖の下だった。
身体中が痛い。
だが――
生きている。
「……あれ?」
シンは呆然と空を見上げた。
「俺……飛び降りたよな?」
崖の上は遥か遠くにある。
どう考えても、普通なら助かる高さじゃない。
「……なんで?」
答える者はいなかった。
ただ、どこからか悪魔の笑い声だけが聞こえた気がした。
「ククク……」
シンはまだ知らなかった。
この日を境に、自分の人生が大きく変わっていくことを。
そして――
あの取引が、世界そのものを巻き込むことになるなど。
このときのシンには、知る由もなかった。