俺は家に帰った。
「お帰り、シン」
玄関を開けると、母さんがいつものように迎えてくれた。
「……ただいま」
それだけ言って、俺は自分の部屋へ向かった。
この世界で、俺の味方は母さん一人だった。
父さんも悪い人じゃない。
でも、俺のことを理解してくれているのかと聞かれれば、よくわからない。
学校ではいじめられている。
友達もいない。
好きな女の子には、取り返しのつかない傷をつけてしまった。
――俺には、何もなかった。
ベッドに横になる。
明日、学校に行きたくない。
いや。
学校どころじゃない。
生きていることそのものが、つらかった。
目を閉じる。
あの悪魔の言葉を思い出す。
――その女の子の傷を消してあげようか?
本当に、あいつの言葉を信用していいのだろうか。
そもそも、あれは夢だったんじゃないのか。
そう思った瞬間だった。
部屋の中が、突然暗闇に包まれた。
「……なんだ?」
真っ暗だ。
だが、完全な闇ではない。
ところどころに、小さな光が浮かんでいる。
星のような光。
「……なんだ、ここ?」
足元もない。
壁もない。
天井もない。
俺はただ、暗闇の中に浮かんでいた。
「宇宙……?」
「よぉ。待たせたな」
突然、隣から声がした。
振り向く。
そこにいたのは、昨日の黒い人影だった。
「あなたはいったい……?」
「ああ、俺か?」
黒い影は少し考えるような仕草をした。
「俺は悪魔……らしい」
「らしい?」
「俺自身も、よくわかってないんだよ」
悪魔はあっけらかんと言った。
昨日の恐ろしい存在とは、少し印象が違う。
「それで……何の用?」
「お前に話がある」
悪魔はそう言うと、俺の前に浮かんだ。
「俺はいろんな世界を旅してる」
「……いろんな世界?」
「ああ。そして、俺はこの世界に入りたい」
「この世界って……?」
「ナルトの世界だ」
「……ナルト?」
あいつの世界?
なぜ、わざわざ「ナルトの世界」と呼ぶのかはわからなかった。
「だが、俺には身体がない」
悪魔は自分の身体を眺めるように言った。
「だから、お前の身体をくれ」
「……俺の?」
「ああ」
普通なら、そんな話をされたら恐怖するだろう。
でも俺には、どうでもよかった。
カナコの傷が消えるのなら。
俺の身体なんて、どうなってもいい。
そもそも俺は、一度死んでいる。
いや――
正確には、死んだはずだった。
「条件は?」
俺が聞くと、悪魔は少し意外そうな顔をした。
「お前から条件を出すのか?」
「一つだけ」
「なんだ?」
「俺の命を差し出せばいいんだろ?」
悪魔は笑った。
「違うよ」
「え?」
「お前に俺の力を与えるんだ」
「……力?」
「ああ。その代わり、お前は戦い続ける」
悪魔の声が、少しだけ低くなる。
「辞めることはできない」
「……」
「それでもいいか?」
意味がよくわからなかった。
戦い続ける。
辞められない。
そんな条件が何を意味するのか、俺には理解できない。
でも――
「もちろんだよ」
即答した。
「それで……彼女の傷は、本当に治るんだな?」
悪魔はニヤリと笑った。
「お前、その女のことが好きなのか?」
「っ……!」
図星だった。
「違うよ!」
思わず声が大きくなる。
「俺が傷つけたんだ。だから、その責任を取りたいだけだ」
嘘ではない。
それも俺の本当の気持ちだった。
「そうか」
悪魔は意味ありげに笑う。
「だがな――傷は消えない」
「……なんだと?」
胸の奥が凍った。
「約束が違う!」
「傷は消えない」
悪魔は淡々と言った。
「だが、移すことはできる」
「……移す?」
「そうだ」
「それは……俺に?」
「ああ」
一瞬、俺は呆然とした。
そして――
「なんだ。驚かすなよ」
ほっとした。
「ぜひ頼む」
「……」
「俺に傷を移してくれ」
迷いはなかった。
悪魔が目を丸くする。
「お前……本気か?」
「もちろん」
「……そうか」
悪魔は少しだけ苦笑した。
「あのさ」
「何?」
「それはまだ序の口だ」
「?」
「このあと、お前には修行をしてもらう」
「修行?」
「ああ。そのために、この家からも、この里からも出てもらう」
「……」
「そもそも君、死んでるし」
「……そうだった」
俺は呟いた。
いや。
生きている。
今こうして会話している。
でも、飛び降りたのは事実だ。
本来なら、俺は死んでいた。
「わかったよ」
俺は答えた。
「そもそも、あなたにあげるつもりだった命なんだから」
悪魔は一瞬黙った。
そして――
「……意外とドライだな、お前」
笑った。
「そろそろ行くぞ」
「どこへ?」
「決まってるだろ」
悪魔が歩き出す。
「お前が傷を引き受ける場所だ」
俺はその後を追った。
◆
そこには、少女が眠っていた。
「……カナコちゃん!」
思わず駆け寄る。
ベッドで眠っているカナコ。
その顔を見て、息が止まった。
右半分。
そこには大きな傷が残っていた。
失明しなかったことが奇跡だった。
あんなに可憐だった顔は、痛々しい傷によって大きく変わってしまっている。
これでは――
人前に出ることすら、つらいだろう。
学校に来なくなったのも当然だ。
「……カナコちゃん」
俺は拳を握った。
「ごめん……」
悪魔がカナコの隣に立つ。
そして、彼女の頬に手を添えた。
同時に、俺の頬にも手を添える。
「いいんだな?」
「もちろん」
「後悔しないか?」
「しない」
悪魔が笑った。
「そうか」
次の瞬間――
「ぐっ……!」
焼けるような痛みが走った。
「うあああああっ!」
右半分の顔が、燃えているようだった。
皮膚を引き裂かれるような痛み。
俺は歯を食いしばった。
やがて痛みが引いていく。
「……はぁ……はぁ……」
俺は息を切らしながら、カナコを見る。
「……え?」
傷がない。
さっきまであった大きな傷が、跡形もなく消えている。
可憐な顔。
いつものカナコの顔。
「よかった……」
涙が溢れた。
「よかった……本当によかった……」
俺は眠っているカナコの頬に、そっと触れた。
傷のない頬。
「……これくらい、許せ」
それ以上は何もしなかった。
ただ、彼女が元の顔に戻ったことが嬉しかった。
◆
俺は悪魔と一緒に、自分の部屋へ戻った。
鏡を見る。
「……」
そこには、右半分の顔に大きな傷を負った少年が映っていた。
醜い傷だった。
でも――
「これでいい」
この傷を見るたびに思い出せる。
カナコが元に戻ったことを。
俺は机に向かった。
そして紙を一枚取り出す。
母さん。
父さん。
今まで育ててくれてありがとう。
何もできない息子でごめんなさい。
もう、ここには戻ってきません。
親不孝な息子でごめんなさい。
――そんな内容を書いた。
ある意味、遺書だった。
ペンを置く。
「……行こうか」
悪魔を見る。
「ああ」
俺は一度だけ、自分の部屋を振り返った。
これが最後になる。
そして――
悪魔とともに、木ノ葉の里を出た。
◆
翌朝。
風間シンが行方不明になった。
当然、家族は大騒ぎになった。
だが、学校では――
「逃げたんじゃない?」
「まあ、あいつならありそうだな」
そんな程度で済まされた。
捜索は行われた。
けれど、誰も本気でシンが自ら命を絶ったなどとは考えなかった。
いじめられっ子。
目立たない少年。
いなくなっても、誰も気に留めない。
悲しんでいるのは――
家族だけだった。
そして、誰も知らない。
風間シンが死んだその日。
別の何かが、生まれたことを。
その少年が、これから数え切れないほどの戦いに身を投じることを。
そして――
その旅の先で、世界そのものを変えてしまうことを。
誰も、まだ知らなかった。