―――入学式当日、早朝。バリカンで髪を刈り髭と眉を剃って洗髪と洗顔と歯磨きをして気合いを入れる。制服に着替える。部屋を出て走って登校する。昇降口でクラス割りと席順を確認し教室にバッグを置いて体育館へ向かう。誰もいない。当然だろう、まだ7時にもなっていない。倉庫に入る。いいモノを発見したので存分に使わせていただくことにした。筋トレをして時間を潰す。黙々とやり続ける。倉庫の外が騒がしくなる。俺も列に並んだ、特進クラスの列に。入学式が始まった。筋トレの続きがしたい衝動をグッと堪えてひたすら時間が流れるのを待つ。答辞になる。隣に並んでいた女子が列から離れる。視界に映る。ドキッとした。美しい黒髪ロングに凛々しい横顔、彼女が壇上に上がって答辞を読む。正面から見ても美しい。声も凛として美しい。スタイルも良いと見た。答辞が終わり目で追う。隣に立つ。どうしよう、物凄くドキドキする。気のせいかいい匂いもする。俺の頭は彼女の事でいっぱいになった。落ち着くために急いで教室に戻って椅子に座り深呼吸した。何度も。隣に誰かが座る。横目で見る。あの彼女だった。どうしよう。「これから1年間よろしくお願いいたします。」とでも挨拶するべきだろうか。これまでの人生でロクに女子との会話すら経験のない自分を呪った。担任の先生らしき人が入ってくる。簡単な挨拶を済ませてひとりひとり生徒の名前を呼んで返事をしていく。
「かみさか…りき…かな? 済まない教えてほしい。」
「神坂莉己(こうさか れいな)と申します。」
「えっ⁉ 君も『こうさかれいな』っていうの⁉ どういう字を書くの⁉」
隣の美人女子が反応した。こうです、とノートに書いて渡した。
「へぇ…これで『れいな』って読むんだ…。『こうさか』はまだわかるけど、この字で『れいな』って名前の人は初めて見た。」
『莉己』 この字でどうやって『れいな』って読むんだよと両親に問い詰めたい気分だった。ちなみに私はこう、と書いてノートを返された。『高坂麗奈』いい名前だと思った。
莉己「いい名前ですね。」
麗奈「そう? 普通じゃない?」
莉己「とっても美人な貴女にふさわしい名前だと思います。」
麗奈「び⁉ じゃなくって⁉ そうやって女子を口説いてるの⁉」
莉己「口説くなんてそんな…ロクに女子と会話もしたことのない根性無しですよ。」
麗奈「まあ…顔立ちは強面って感じだけど物凄い体格してるしモテるでしょ?」
莉己「モテませんよ。女子の友人もひとりもいませんでした。」
麗奈「本当かしら…?」
そこで会話は途切れた。クソ長いホームルームを終えて放課後になる。
麗奈「神坂くん、うーん…違うわね。思い切って莉己くんって呼んでいい? 私の事も麗奈って呼んで。」
莉己「わかりました麗奈さん。」
麗奈「いきなりだけど運動部に入る予定はある?」
莉己「ないです。」
麗奈「じゃあ吹奏楽部行かない⁉ 初心者?」
莉己「はい、ド素人なので見学から始めてもよろしいでしょうか。」
麗奈「うん! じゃあ早速行こう!」
意気揚々と早歩きで進んでいく麗奈さんの後ろについて…音楽室に入った。
麗奈「すみません。」
「見学ですか?」
麗奈「いえ、入部したいんですけど。」
即答だった。経験者なのだろうか。
「そっちの君は?」
俺の方へ向いて問いかけられた。
莉己「初心者のド素人ですので見学させていただいてもよろしいでしょうか。」
「うん、いいよ。好きなだけ見ていって。」
お辞儀をして隅っこに立った。部活が終わるまで見学していった。麗奈さんと一緒に帰ることになった。
莉己「どうでしたか、北宇治吹奏楽部は?」
麗奈「普通…以下だと思う。」
莉己「やはりそうでしたか。」
麗奈「『やはり』って?」
莉己「合奏練習とやらも音程もタイミングもバラバラで『なんだこりゃあ』って思ったので。」
麗奈「ふふっそうだね! 初心者のド素人の莉己くんがそう思うんだからよっぽどだよ!」
莉己「でも何だか燃えてきました。楽器に触ってすらいませんけど俺の演奏で皆さんを驚かせてやる!っていうやる気は起きました。」
麗奈「いいねそれ! 私も演奏で莉己くんを驚かせたい!」
その後、部屋に戻ってネットの動画サイトで初心者向けの動画を観漁って目当ての曲の楽譜をダウンロードしてコピーした。楽譜の読み方も予習しておいた。
翌日、早朝。目が覚める。昨日と同じように吹奏楽について予習をしてから登校した。麗奈さんは…いた。
莉己「おはようございます。麗奈さん。」
麗奈「おはよう莉己くん。入部する気にはなった?」
莉己「はい、吹きたい楽器も決まりました。アルトサックスという奴で間違いないと思います。」
麗奈「何か理由でもあるの?」
莉己「音域が広いらしいので、好きな曲とかカラオケで歌えない曲とか思いっきり吹きたいです。」
麗奈「どんな曲が好きなの?」
莉己「B'zというユニットはご存じですか?」
麗奈「うん。」
莉己「そのユニットの…もう…ありとあらゆる曲を吹きたいですね。吹きたい曲だけで3年間終わっちゃうかもしれません。」
麗奈「そんなに多いの?」
莉己「デビューしてから30年以上経ってますからね。」
麗奈「早く聴きたいな、莉己くんが吹く曲。」
莉己「俺も早く上手くなって吹きたい曲を自由に吹いて麗奈さんに聴いてもらいたいです。」
放課後になった。
麗奈「それじゃあ莉己くん本当にいいんだね⁉ 音楽室行くよ⁉」
莉己「はい! 行きましょう!」
ふたりで張り切って音楽室へ向かった。副顧問の松本美知恵先生なる御方が入って来た。
「明日から顧問になる滝先生がいらっしゃるので詳しいことはその時に聞くように。では高校生らしい態度と高校生らしい服装で今後も部活に励むように。以上だ!」
莉己「ありがとうございました!」
俺だけが返事をしてしまった、恥ずかしい。
「は~い。」
手を叩きながらひとりの先輩の女子が前に出る。見るからに優しそうで和やかな雰囲気が漂う。
「では楽器の振り分けに移ります。私は部長の小笠原晴香です。担当はバリサクなのでサックスパートの人は関わることも多いと思います。じゃあ…。」
「はい! はーい! 低音やりたい人!」
晴香「まだ早い! じゃあ初心者もいると思うのでまずは楽器の説明からします。その後各自、希望の楽器のところへ集まってください。ただし希望の多い楽器は選抜テストになります。」
それからトランペット、トロンボーン、クラリネット、フルート、パーカッション、そして部長が持つバリトンサックス…でいいのだろうか、胸が高鳴る。そしてユーフォニアム、チューバと楽器説明が終わった。迷わずアルトサックスの場所へ向かった。部長直々に教えていただいた。
晴香「指の運びはリコーダーに似てるから馴染み深いんじゃないかな。」
莉己「なるほど…ありがとうございます。」
実際に吹かせていただいた。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。音の強弱、高音低音の出し方等々。基礎中の基礎から教えていただいているその時―――
鮮やかなトランペットの音色が音楽室に響き渡った。顔を向ける。麗奈さんだった。彼女曰く個人レッスンも受けているらしい。納得がいった。ただの経験者ではない。かなりの上級者と見た。そしてそのまま部活は終わった。昨日と同じく麗奈さんと一緒に帰る。
莉己「麗奈さんって迷わず入部したから経験者だとは思ってたましたけどかなり上級者なんですね⁉」
麗奈「そうね、そこらの奏者には負けないって自信はあるわね。」
莉己「俺、ずっとずっと頑張って麗奈さんみたいに上手くなりたいです⁉」
麗奈「じゃあ私はもっともっと頑張って上手くなるから!」
莉己「こりゃあ麗奈さんを追いかけてる内に3年間終わっちゃうかもしれませんね…⁉ とにかく頑張ります⁉」
麗奈「ふふっ頑張ってね! 陰ながら応援してる!」
眩しい笑顔を俺に向けてくれる。見惚れそうになる。慌てて目を逸らした。途中で分かれ道になってそこで分かれた。手を振って見送った。その後走って帰った。例によって初心者向けの動画を観漁った。眠くなるまで脳内トレーニングを繰り返した。
翌日、早朝。目が覚める。歯磨き洗顔を済ませて初心者向けの教本をダウンロードしてからコンビニでコピーして走って学校へ向かう。まだ6時過ぎだが松本先生がいらっしゃることを祈った。松本先生は…いた。
莉己「おはようございます。お疲れ様です。松本先生、朝練をしたいのですが音楽室の鍵をお借りしてもよろしいでしょうか。」
松本「ああ…早いな。ほら、頑張れよ。」
莉己「はい、頑張ります。」
一礼して音楽室の鍵を開けて楽器室へ向かった。確か…この辺りだと昨日仕舞った楽器ケースを探して開ける。金色の光沢が眩しい我が相棒に会った。早速音楽室に戻って椅子に座る。教本のコピーを1ページ1ページめくりながら確認する。ネットで観た動画と大体合ってる。後は実際に吹くのみ。
うーむ…初心者向けの曲はあっさりクリアしてしまった。メトロノームとやらがないのでテンポが合ってるかが気になるが時間を持て余してしまった。ここは思い切って…バッグを漁る。ある曲の楽譜を眺める。飽きるほど聴いた、脳内に刻み込まれた曲と音符を一致させる…よし、吹いてみることにした。指は滑らかに動いた。一応楽譜は眺めているが脳内の曲に合わせるように指が素早く動く。吹き終えてしまった。視界に女子の制服が映る。同級生とは違うスカーフ…ということは先輩で間違いないだろう。
莉己「あっ⁉ 失礼しました⁉ おはようございます⁉ 先輩⁉」
慌ててお辞儀した。
「君…本当に初心者のド素人…?」
莉己「はい⁉ 初心者のド素人です⁉」
「それ…楽譜? 見せて…もう1回吹いてもらっていい?」
莉己「かしこまりました。」
脳内で曲をイメージする。音符と一致させる。よし…覚悟を決める。吹き始めた。先輩の耳にはどう聴こえているだろうか。気になった。それでも吹き続けた。吹き終えた。
莉己「いかがでしょうか。」
「…エレキギター?の早弾きの部分は苦戦してたけどそれ以外は完全に楽譜通りだった…⁉」
莉己「そこは課題ですね。」
「私も何だかやる気出てきた…⁉ 私、鎧塚みぞれ、2年生、よろしく…。」
莉己「よろしくお願いします。鎧塚先輩。」
それ以降、特に先輩と会話をするわけでもなく延々とひとつの曲を吹きまくった。肩をトントンと叩かれる。目を向ける。鎧塚先輩だった。
みぞれ「もうホームルームの時間になるよ…。戻ろう…。」
莉己「あっ⁉ 失礼しました⁉ 急いで楽器仕舞って鍵かけます⁉」
素早く楽器ケースを所定の位置に戻して先輩が音楽室に出たのを確認して鍵を閉める。走って職員室に向かう。松本先生は…いない。他に先生は…いた。
莉己「あの…申し訳ございません。お手数ですが吹奏楽部の副顧問の松本先生に音楽室の鍵を返していただませんか?」
「はい、わかりました。もしかしてサックスをずっと吹いていたのは貴方ですか?」
莉己「はい、そうだと思います。」
「楽譜はありますか?」
莉己「少々お待ちください…こちらです。」
何かを確認するかのようにじっと眺めながら1ページずつめくっていく。
「これは…イントロとボーカルパートとエレキギターパートをひとりで吹いたのですか?」
莉己「はい、表現できるだけのことはしたつもりです。」
「中学からの経験者ですか?」
莉己「いえ、昨日から教えていただいて吹き始めた初心者のド素人です。」
「……ということは今日で2日目ですか?」
莉己「はい。」
「それにしてはいい音を出していましたよ。」
莉己「ありがとうございます。」
一礼した。楽譜を返していただいて改めて一礼して職員室を出た。教室に入る。麗奈さんは…いた。
莉己「おはようございます。麗奈さん。」
麗奈「おはよう。いい音出してたね。2日目の初心者のド素人とは思えないくらいに。」
莉己「ありがとうございます。職員室でも知らない先生に褒められました。」
麗奈「どんな先生?」
莉己「男性の教師で眼鏡をかけていて身長は…180㎝は超えていると思います。落ち着いた物腰でイケメンと言っても差し支えない…30歳は超えていそうな先生でした。」
麗奈「えっ⁉ それって…⁉」
莉己「知っている先生ですか?」
麗奈「かもしれない…⁉ 他に何か言ってた⁉」
莉己「俺が吹いてた曲の楽譜をじっと見て…『中学からの経験者ですか?』って聞かれていえ、昨日から教えていただいて吹き始めた初心者のド素人ですって答えて『それにしてはいい音を出していましたよ』って褒められたのでありがとうございます。ってお礼を伝えました。」
麗奈「そうでしょそうでしょ⁉ 先生と考えることが同じで嬉しい⁉ 楽譜見せてもらっていい⁉」
莉己「はい、どうぞ。」
楽譜を渡す。さっきの先生と同じくじっと楽譜を眺めながら1枚1枚めくっていく。
麗奈「いや…これを吹き始めて2日目でやっちゃうのは正直凄いよ…⁉」
莉己「恐縮です。」
放課後になった。音楽室の机出しは1年生の義務らしいので張り切って運ぶ。机を逆さにして2個同時に運ぶ。1年生の女子から好奇の視線が突き刺さる。この運び方は誰にでも出来るわけではないらしい。もう運ぶものはないかと廊下から確認していると
「おや、またお会いしましたね。」
莉己「……あっ⁉ あの時の…⁉ もしかして正顧問の先生ですか⁉ 申し遅れました、神坂莉己と申します。よろしくお願いいたします。」
「顧問の滝昇です。よろしくお願いします。」
爽やかな好青年然とした笑みを浮かべて挨拶してくださった。こうして俺の吹奏楽部生活は本格的に始まった。