―――翌日、早朝。目が覚める。時計を見る。午前5時半になろうかという時間。起き上がって歯磨き洗顔を済ませて制服に着替えて走って登校する。まだ6時にもなっていないだろうが滝先生が出勤していることを祈った。職員室へ向かう。滝先生は…いた。
莉己「おはようございます。お疲れ様です。滝先生、音楽室の鍵を受け取りに参りました。」
滝「早いですね。はい、どうぞ。」
莉己「ありがとうございます。では行ってきます。」
音楽室へ入り楽器を用意する。『ultra soul』の楽譜をじっと見つめる。昨日記憶した音符の位置と合っているか確認する。マウスピースに息を吹き込む。イントロは繊細に…音の強弱をつける。エレキギターパートは力強く、ボーカルパートはもっと力強く吹く。最後のエレキギターパートだけ素早く滑らかに指を動かし吹き終える。正面に見慣れた女子の制服姿、目線を上に向ける。鎧塚先輩だった。
莉己「あっ⁉ 鎧塚先輩⁉ 失礼しました⁉ おはようございます⁉ 」
みぞれ「ずっと呼んでたんだけど…凄い集中力だね…⁉ 私も負けてられないと思った…⁉」
莉己「恐縮です。」
お辞儀した。
みぞれ「そんなに畏まらなくていいよ…。もっと自信を持って…⁉」
莉己「自信…ですか。ありがとうございます。善処します。」
みぞれ「『善処』じゃなくて自信を持って…⁉」
莉己「はい⁉ 頑張ります⁉」
鎧塚先輩は一応納得したようでいつも座ってる位置に座って準備を進める。その間に俺は原曲に近づけるよう試行錯誤しながら吹きまくった。トントンと肩を叩かれる。目を向ける。鎧塚先輩だった。
みぞれ「合わせてもいい…⁉」
莉己「はい、よろしくお願いします。」
一緒に合わせた。楽器は違えど好きな曲を誰かと一緒に吹くのは楽しかった。間奏を先輩が吹くのを聴く。先輩は上手だ。聴いてるだけでわかる。最後に一緒に吹き終わる。ひと息つく。
みぞれ「どうだったかな…?」
莉己「先輩は上手ですね。俺も先輩みたいに上手くなりたいです。」
みぞれ「君も上手だよ…。もっと自信を持って…。」
莉己「はい、かしこまりました。」
みぞれ「さっきも言ったけど畏まらなくていいよ…。」
莉己「はい、かしこ…じゃなくって…えーと…わかりました。」
それからも一緒に吹き続けた。時間はあっという間に過ぎていった。
みぞれ「もう時間だね…。戻ろう…。」
莉己「はい、今準備します。」
楽器ケースを戻し音楽室に鍵をかける。
莉己「それでは失礼いたします。」
みぞれ「うん…また…。」
急いで職員室へ走って向かった。滝先生へ鍵を返す。
莉己「お待たせしました。鍵をお返しします。」
滝「昨日よりもいい音でしたよ。これからが楽しみですね。」
莉己「ありがとうございます。もっともっと頑張って滝先生の求めるレベルに到達したいと思います。」
滝「それでしたら神坂くんはそのレベルに達していますよ。もっと自信を持ってください。」
莉己「えっ⁉ ほ、本当ですか…⁉」
滝「今すぐにやれと言われても困るでしょうが自信を持つことが重要ですね。これからも頑張ってください。」
滝先生が微笑む。何だか形容しがたい感情に包まれた。
莉己「えっ⁉ あっ⁉ ありがとうございます⁉ ありがとうございます⁉ 失礼いたします⁉」
何度もお辞儀して職員室を後にした。いつの間にか教室についていた。麗奈さんに挨拶する。
莉己「おはようございます…⁉ 麗奈さん…⁉」
麗奈「おはよう。何だか興奮気味だけど何かあったの?」
莉己「鎧塚先輩や滝先生に褒められっ放しで何だか夢みたいです…⁉」
麗奈「えっ⁉ 滝先生に⁉ どんな風に⁉」
莉己「朝練が終わった後に先生に『昨日よりもいい音でしたよ。これからが楽しみですね。』って言われて俺が『もっともっと頑張って滝先生の求めるレベルに到達したいと思います。』って言ったら『それでしたら神坂くんはそのレベルに達していますよ。もっと自信を持ってください。』とか『今すぐにやれと言われても困るでしょうが自信を持つことが重要ですね。これからも頑張ってください。』って言われました。今でも信じられません。」
麗奈「そうだよ⁉ 滝先生の言う通りだよ⁉ 莉己くんはもっと自信を持つべきだよ⁉ 何でそんなに自信ないの⁉」
莉己「だって…⁉ まだ吹奏楽始めて3日そこらの1年生の小僧ですよ…⁉ 自信持てって言われても無理でしょう…⁉」
麗奈「何言ってるの⁉ 日数も年齢も関係ない⁉ 物凄い速度で成長してる男子がいるだけだよ⁉私は莉己くんと同じ楽器じゃなくって本当に良かったと思ってる⁉」
莉己「えっ、そうなんですか?」
麗奈「そうだよ⁉ 私なんて小学生からトランペットやってるのよ⁉ それで急に莉己くんみたいなトランペット奏者が現れたら私のプライドはボロボロよ⁉ 同じ楽器の同級生や先輩には同情してるわよ⁉」
莉己「そんな…買いかぶり過ぎですよ…⁉」
麗奈「あーもう⁉ どうしてそんなに自信持てないのよ⁉」
莉己「それは…俺はただ今までやられた分をクソ兄貴にやり返しただけなのに、あんなに揉めてたクソ両親も何もなかったかのように俺を責めて俺を追い出して、京都に来たのも北宇治を選んだのも俺の意思ですけどこんなの俺の人生じゃないですよ⁉ これからいつか悪いことが起きるって俺は怖いんですよ⁉」
麗奈「人生楽あり苦ありって言うじゃない⁉ 今まで莉己くんは苦労してきた⁉ だからこれからいい思いしたって絶対に正しいよ⁉ 絶対に間違ってない⁉ それから予言…いいえ、運命と言ってもいいわね⁉ ひとつ必ず当たること言ってあげる⁉ 今年の府大会コンクールメンバーに莉己くんは選ばれる⁉ これだけは絶っっっっ対に当たる⁉」
莉己「外れたらどうするんですか?」
麗奈「好きにすればいいわよ⁉ じゃあ当たったらどうするの⁉」
莉己「それこそ麗奈さんの好きにすればいいですよ。俺は知りません。」
麗奈「わざと手を抜いてコンクールメンバーから外れるなんてことしたら一生恨むからね⁉」
莉己「そんなことはしません。同級生や先輩への侮辱行為は絶対にしません。」
麗奈「そう…ならいいけど。」
周囲を見渡す。教室中の生徒の視線が俺と麗奈さんに突き刺さっている。少々冷静さを欠いていたようだ。麗奈さんもどうして俺なんかのために怒ってくれるのか。聞きたかったが好きな人がいる女子に聞くのも何だか間抜けに思えて聞くのは止めた。
昼休みに入った。
莉己「ではちょっと行ってきます。」
麗奈「お弁当食べてるところ1度も見たことないんだけど。」
莉己「不思議と食欲が湧かないんですよね、朝も。」
麗奈「えっ⁉ じゃあ…晩御飯だけ⁉ その体格で⁉」
莉己「はい、晩御飯はしっかり食べてます。」
麗奈「それは当然だよ⁉ 病院で検査受けた方がいいんじゃない⁉」
莉己「うーん…そうは言われましても、どこが痛いとか具合が悪いとかそういうのはないですからね。」
麗奈「具合が悪くなったらすぐに言うように。わかった⁉」
莉己「はい、では行ってきます。」
麗奈「……。」
それから体育館倉庫へ向かい黙々と筋トレをこなした。視線を感じた気がするが物音も何もしないので無視した。昼休みが終わるまでやり切って授業には遅刻したが「筋トレしてました」とひと言伝えて席に着いた。
麗奈「遅刻してまで筋トレすることはないんじゃない?」
莉己「すみません、ある程度疲れていないと不安でしょうがないです。」
麗奈「不安って何が?」
莉己「夜眠れるかどうか不安です。アパートに帰って着替えて頭がフラフラになるまで体を追い込んでようやく眠れるってくらいです。」
麗奈「いつ布団に入ってるの?」
莉己「午後11時30分くらいです。」
麗奈「いつ起きてるの?」
莉己「大体…朝5時過ぎですね。」
麗奈「平均睡眠時間は5~6時間ってことだね。……これ見て。」
スマホを渡された。画面を見る。
5時間睡眠の影響
睡眠負債の蓄積: 日中に眠気や集中力の低下がなくても、疲労や注意力不足が知らぬ間に脳と体に蓄積します。
生活習慣病のリスク: 慢性的な短時間睡眠は、肥満、高血圧、糖尿病、心臓病などの発症リスクを高めることが分かっています。
免疫力・精神面への負担: 免疫機能の低下や、うつ病のリスク増加につながることが指摘されています。
莉己「……何ですか、これ?」
麗奈「見ての通りだよ。私、莉己くんの異常なマイナス思考の原因わかっちゃった気がする。莉己くんには悪いけど今まで話したこと、滝先生と松本先生と部長と副部長に報告させてもらうよ。何かが起きる前に対処はさせてもらうからね。悪く思わないで。」
莉己「貧乏学生に金のかかること、させないでくださいね。」
麗奈「そう思うならもっと健康的な生活することだね。」
莉己「……。」
無言でスマホを返す。反論できなかった。今まで出来たことが出来なくなった自覚はある。それが食事や睡眠に影響を与えていることも自覚している。これからもっと出来なくなることが増えるだろうという恐怖もある。だが自分は健康だ、異常者ではない、と口に出す勇気もなかった。たぶん麗奈さんの言うことが正しいのだろうと黙るしかなかった。
放課後、部活の時間になった。いつもなら麗奈さんと一緒に音楽室へ向かうところだが途中で分かれた。内心面倒なことになったとため息をつきたくなった。これから先、合奏練習の成果を滝先生にご判断していただいた上でサンライズフェスティバルに向けて練習しなければならないというのに邪魔になるような事しないでほしいなぁというのが本音だった。
いつも通りパート練習に励む。部長はいない。部長に代わって斎藤葵先輩に指導していただいている。麗奈さんは『滝先生と松本先生と部長と副部長に報告させてもらう』と言っていた。纏めて話をしているのだろうか、早く部長が来てほしい、そう願った。願いは通じた。部長が入って来た。
晴香「神坂くん、ちょっといい?」
莉己「はい。」
音楽室を出て部長についていく。無言の間が続く。ある教室の扉をノックする。
晴香「神坂くんを連れてきました。」
「入っていいぞ。」
松本先生の声がした。扉を開けて部長の後に入る。滝先生も座っていた。副部長もいた。後は…トランペット奏者で楽器紹介した…名前が思い出せない。3年生の先輩がいた。
松本「高坂麗奈からお前について話は聞いた。どうか彼女を恨まないでやってほしい。」
莉己「恨んではいません。日頃から俺なんかのために気を遣っていただいて感謝しています。」
滝「『なんか』などと言わないでください。貴方は吹奏楽部の大切な部員のひとりです。」
莉己「ありがとうございます。」
松本「気を悪くしないで聞いてほしい。お前には鬱病と不眠症の兆候がある。私が付き添うから一緒に精神科へ行かないか?」
莉己「どのようなお考えで鬱病と不眠症の兆候があるとご判断されたのですか?」
松本「例えば…その短く刈り上げた坊主頭と剃った眉毛だな。お前の素行はとても良い、模範的だ。その一方で不良生徒に見紛う外見をしている。だが制服に乱れはない。ひとつのことに執着する割に他のことには無頓着だ。興味がないのだろう。違うか?」
莉己「考えたこともありませんでした。」
滝「部屋では何をしているのですか?」
莉己「部活から帰ったら急いで着替えて外に出て走り込みや筋トレで汗まみれになった体をシャワーで洗い流して晩御飯を食べて寝て歯磨き洗顔をして髭と眉を剃ってバリカンで髪を刈るだけの場所です。掃除は1回もしていません。」
松本「自分の身は綺麗にするが部屋は放置しているのか。そのことをどう思う?」
莉己「何も考えていませんでした。」
滝「料理はしているのですか?」
莉己「しておりません。」
滝「晩御飯は何を食べているのですか?」
莉己「炊いたご飯を丼に盛って常温のレトルトものと冷蔵庫に仕舞ってある納豆をかけて…それだけです。」
松本「高坂から朝も昼も何も食べていないと聞いたが本当か?」
莉己「はい。」
松本「いつからそうなったか思い出せるか?」
莉己「思い出せません。」
松本「1日1食というのをおかしいと思わなかったのか?」
莉己「考えたこともありませんでした。」
松本先生が俯いてふぅーとため息をつく。滝先生の表情は変わらない。
滝「恐らく家庭内トラブルが原因だと考えられます。心当たりはありますか?」
莉己「俺が小学生の時からクソ兄貴の素行のせいでクソ両親の機嫌がどんどん悪くなって俺は文字通り一睡もできない日が続きました。学校で眠ろうかと思いましたが無理でした。その内、眠るための時間はあるのに実際に眠る時間はどんどん短くなっていきました。その影響かもしれません。今はもう体と頭がフラフラになるまで走り込みや空手の真似事や筋トレして追い込んでからでないと眠れません。でも不思議と吹奏楽部に入ってから独学でインターネットの動画や記事を見て勉強している間は運動せずとも眠れました。」
滝「今はどうですか?」
莉己「部活から帰ってきたらすぐに着替えて運動しまくってます。それでようやく眠気がやってきます。元に戻りました。」
滝「無理して朝練に来なくてもいいんですよ。」
莉己「無理はしていません。朝5時過ぎに目が覚めるともう2度寝は無理なので時間を無駄にするのも嫌なので朝練しているだけです。それに初心者のド素人なのでもっともっと練習しないといけません。」
滝「もう初心者のド素人ではありません。言ったはずですよ。自信を持ってくださいと。」
莉己「……申し訳ございません。」
滝「謝る必要はありません。貴方は努力もしているからこそ途轍もない速度で上達しています。自信を持つ資格くらいはあります。」
莉己「……ありがとうございます。」
松本「そこで…だ。実はもう明日、精神科のある病院に予約を取ってある。私が付き添うから一緒に行かないか?」
莉己「先生さえよろしければお任せいたします。」
松本「では決まりだ。もう練習に戻っていい。」
滝「お大事になさってください。」
莉己「ありがとうございました。失礼します。」
一礼して退室した。部長たちも一緒に退室する。
晴香「本当に大丈夫…?」
莉己「俺自身のことですが俺にもよくわかりません。」
あすか「所謂『自覚症状のない病気』ってやつね。手遅れになる前に対処出来て良かった。」
香織「外見はこんなに健康的なのに人間って本当に分からないね…。」
それから合奏練習に励んだ。他の部員の皆さんは何も聞かなかった。正直ホッとした。