「近所の冴えないおじさんに、ねちっこく愛撫されて堕ちた人妻」 —冴えないおじさんシリーズ Vol.1— 作:境彩華
葛西彩華(かさい あやか)は、誰が見ても「絵に描いたような幸せな人妻」だった。
今年で二十五歳。肩のあたりでやわらかく揺れる艶やかな黒髪に、陶器のようにきめ細かく白い肌。
切れ長の目元はいつも穏やかで、近所の住人と顔を合わせると、控えめなえくぼを浮かべて上品に会釈をする。
派手なブランド物で着飾ることもなく、淡い色合いの清楚なワンピースやカーディガンを好む姿は、アパートの共用廊下ですれ違う男性たちが思わず息を呑んで振り返るほどだった。
それでも決して気取ったところはなく、近所の主婦たちからも「あそこの奥さんは本当に育ちが良くて品がある」と、嫉妬交じりの陰口ではなく、心からの好意で噂されるような女性だった。
新婚生活を営む部屋は、いつも清潔に保たれていた。
窓辺のレースカーテンは白く澄み、ベランダには手入れの行き届いた季節の鉢植えが並ぶ。
夕方になれば、出汁の優しい匂いと炊きたてのご飯の湯気がキッチンを満たし、彩華はアイロンのピシッとかかったエプロンをつけて夫の帰りを待つ。
夫の翔太は、彼女より三つ年上の二十八歳。
大手専門商社の営業職を務める真面目な男で、清潔感のあるスーツ姿がよく似合っていた。
平日は連日のように終電近くまで働いているが、どんなに疲れて帰宅しても、玄関のドアを開けた瞬間には必ず優しい笑顔を浮かべる。
「彩華、遅くなってごめんね。今日もご飯、ありがとう」
脱いだ靴を揃え、温かいお茶を差し出す彩華に、翔太はいつも深々と頭を下げて感謝を口にした。
休日の過ごし方も、周囲が羨むほど仲睦まじかった。
午前中に二人で並んで近所のスーパーへ買い物に出かけ、重い買い物カゴは必ず翔太が持つ。
精算を終えれば、買ったばかりの食材の入った袋を二人で分け合い、他愛もない世間話をしながらアパートまでの坂道をゆっくりと歩く。
ギャンブルもしなければ、無駄遣いもしない。浮気の気配など微塵もなく、暴力もなければ、声を荒らげるような暴言すら一度もない。
誰がどう見ても、翔太は非の打ち所がない「理想的で優しい夫」だった。
誰もが疑わない、完璧な幸福。
彩華自身も、自分は世界で一番恵まれた妻なのだと、自分に言い聞かせていた。
ただ——一つだけ、埋められない穴があった。
夜の営みが、あまりにも淡白だった。
週末の決まった時間、暗闇の中で行われるそれは、愛の確かめ合いというよりも、義務的な点検作業に近かった。
夫は優しい。優しすぎるほどに「痛くない?」「大丈夫?」と気遣い、彩華を壊れ物のように大切に扱う。だが、そこに息を呑むような熱情や、理性を失うほどの激しさは一切なかった。
「……ん、彩華、もう出そう……」
寝室の明かりを落とした夜、翔太はいつも短かった。挿入して数分もすれば息を荒げ、彼女の中で小さく脈打って終わる。
彩華が腰を動かす暇もない。前戯も、キスをして胸を軽く揉む程度で終わることが多い。
「今日も、ありがとう」
終わった後、翔太は額にキスをして、すぐに寝息を立てる。
彩華は隣で目を開けたまま、天井を見つめる。下半身はまだ熱く、疼いているのに満たされないまま冷めていく。
「……また、か」
身体の芯だけが中途半端に火照り、奥底にある飢えは一滴の水も与えられないまま、カラカラに乾いていく。
(私は、このまま綺麗なお人形のまま年を取っていくのかな……)
もっと強く抱きしめられたい。痛いほどに求められ、自分という女の存在を、剥き出しの欲望で乱暴に塗りつぶしてほしい――。
誰にも言えない歪んだ衝動は、満たされない夜を重ねるごとに、静かに、けれど確実に膨らんでいった。
夫を愛しているはずなのに、自分の肉体だけが、別の場所で誰かの強い視線と熱量を求めて蠢いている。
その暗い空虚に風が吹き抜けるたび、彩華の胸の奥は、疼くような寂しさで満たされていくのだった。
彼女は夫を嫌いになったわけではない。むしろ、大切に思っている。
だからこそ、外で誰かと寝る気にはなれなかった。不倫は自分の中で「してはいけないこと」だった。
その代わりに、彼女は別の方法を選んだ。
その夜。夫が寝室で眠っている間に、リビングルームで美咲はスマートフォンを手に取り、顔を隠すための黒いマスクと帽子を身につける。
照明は最低限にし、カメラの位置を調整する。ドア一枚隔てた寝室からは、何も知らない夫の穏やかな寝息が微かに聞こえていた。
見つかればすべてが終わる――その薄氷を踏むような緊張感が、かえって美咲の身体の芯を甘く熱く疼かせる。
そして、配信サイトに接続する。
「……今夜も、見てくれてる人いるかな」
画面の向こうに、徐々に視聴者数が増えていく。
《待ってたよ》《今夜も最高》《早く始めて》
暗闇の中、青白く光るスマートフォンの画面を、欲望に濡れたコメントが勢いよく埋め尽くしていく。
誰も彼女の素顔を知らない。ただ、「人妻」というタグと豊かな胸、白い太もも、そして自ら指を沈めていく仕草だけが画面に映っている。
けれど、深夜の暗闇で無数の視線に晒され、求められているこの瞬間こそが――今の彼女にとって、唯一「女として生きている」と実感できる真実の居場所だった。
「はぁ……んっ……」
彩華は自分の指で、ゆっくりと内側をかき回した。配信されているという事実が、背中に電流を走らせる。
誰かに見られている。誰かが、自分のこの姿で興奮している。その想像だけで、普段の何倍も熱くなった。
「もっと……見て……」
声は控え目に、微かに漏らす。指の動きは速くなり、腰が勝手に浮く。達する瞬間、彼女は枕に顔を埋めて小さく、長く喘いだ。
配信を終えると、いつも虚しさが残る。
でも、その虚しささえも、日常の一部になっていた。
一方、その頃——
隣の部屋、というより隣の家で、山本健二は画面を見つめていた。
四十七歳。頭頂部はかなり後退し、残った髪も薄い。体は全体に細く肌は青白く、少し疲れた印象がある。
加齢臭を自分でも自覚していて、市販の消臭スプレーを欠かさない。女性にモテた経験など、生まれてから一度もなかった。
普段の健二は、深夜の商業ビルで働く清掃員だった。 誰もいないフロアで黙々とモップをかけ、自分より二回りも年下の若い警備員に顎で使われながら、重い廃棄物を淡々と運び出す日々。
世間から見れば、社会の片隅に埋もれた「無害でくたびれた中年男」そのものだった。
だが、作業着を脱いだ六畳間の姿見の前でだけは、まったく別の顔があった。
四十代後半特有の贅肉などどこにもない。
浮き出た鎖骨から広背筋にかけての無駄のない傾斜、引き締まった腹筋。
かつて自分の肉体を資本にして人に見せる仕事をしていた頃の習慣は、今も消えていなかった。
誰に見せるわけでもないのに、毎朝の腕立て伏せと、ミリ単位で関節を伸ばすストレッチだけは欠かさない。深夜の重労働を平然とこなせるだけの体力と、研ぎ澄まされた体の使い方だけが、透明人間のように生きる健二に残された密かな誇りだった。
彼が彩華を意識したのは、彼女がこの家に引っ越してきた日からだった。
挨拶を交わす程度で、最初はただの隣人だった。
ある朝、ゴミステーションで偶然鉢合わせたことがあった。
部屋着にカーディガンを羽織った彩華が、両手で重そうに資源ゴミの袋を抱えて、カラス除けのネットの前で手間取っていた。
見かねた健二が「それ、持ちますよ」と声をかけ、彼女が両手で抱えていた大袋を右手ひとつで軽々と持ち上げ、ネットの奥へ滑り込ませた。
まくり上げた袖口から、年齢に不釣り合いな太い血管と筋張った前腕が一瞬だけのぞいた。
「わ、力持ちなんですね。助かりました」
ふわりと風に乗って、彼女の甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。 健二は「いえ、仕事で慣れてるんで」と冴えない愛想笑いを返した。
去っていく彩華の、風に揺れる柔らかなスカートと白い足首を見送りながら、健二は胸の奥を強く締め付けられるような痛みを覚えていた。
(……二十歳以上も年下の、しかも人妻相手に、何を考えてるんだ俺は)
薄くなった自分の頭髪と、くたびれたジャージ姿。鏡を見るたびに突きつけられる中年の現実に、健二は激しい自己嫌悪を抱く。
自分のような社会の底辺でひっそり生きる男が、あんなにも眩しく清潔な女性に心惹かれるなど、滑稽を通り越して罪悪感すらあった。
相手にされるはずもないし、してはいけない。
だが、先ほど至近距離で見つめられた瞳の潤みや、向けられた無邪気な笑顔の温もりが、いつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった。
誰にも言えない淡い恋心と、男としての抗えない渇望が、胸の奥底で燻り続けている。
一方、ゴミ出しを終えて自室に戻った彩華にとって、山本健二はどこまでも「親切で無害な、隣のおじさん」でしかなかった。
(見た目はすごく地味で痩せてるのに、意外と力持ちだったな……)
玄関でスリッパに履き替えながら、ふとそんなことを思い出す程度だ。
異性としての意識など微塵もない。ただ、重いものを軽々と持ち上げてくれたあの瞬間、夫にはない、男としてのどこか頼もしい気配を一瞬だけ感じたのは確かだった。
だがそれも、静まり返ったリビングに入り、再び「幸せで空虚な日常」に戻った瞬間には、泡のように消えていた。
夫と並んで歩く姿を見かけるたびに、健二は窓の隙間からそっと目で追った。
彼女が笑うと、なぜか胸の奥がざわついた。
夫の腕に寄り添って笑う彼女を見るたび、あの朝に嗅いだ甘い匂いが蘇り、どうしようもない熱い渇きが身体の芯を突き動かした。
彩華の無防備な親切と、健二の秘められた熱情。
交わるはずのなかった二人の境界線が、数日後、音を立てて崩れ去ることになるなど――この時の彼女は、まだ夢にも思っていなかった。
彼は「顔出しなしの人妻配信」をよく見ていた。
その中に声の質も、顔の輪郭も身体つきも、彩華に酷似した配信者がいることに気づいたのは、数ヶ月前のことだった。
最初は気のせいかと思った。
だが、隣の部屋から漏れる喘ぎ声。配信の時間帯、部屋の構造、時折聞こえる電車の音——すべてが、隣の家と一致する。
「……まさか」
健二は録画を繰り返した。声を聞き、体のラインを追い、確信を深めていく。
ある夜、配信の最中に彩華の家の方から微かに聞こえるはずの「水道の音」が、配信音声にも乗った瞬間、彼は決定的な証拠を得た。
画面の中の女は間違いなく、隣に住む彩華だった。
健二は自分の肉棒を握りしめたまま、長く重く息を吐いた。
「……彩華さん」
声に出した名前は、誰にも聞こえない。彼は画面の中で自らを慰める彼女を見つめながら、自分もまたゆっくりと上下に手を動かした。射出する瞬間、彼の頭の中にあったのは、ただ一つの感情だった。
ずっと、好きだった。
近づけるはずもないと諦めていた女性が、こんな形で自分の前に現れた。健二は射精の余韻の中で、天井を見つめ、静かに決意めいたものを胸に沈めた。
次に彼女が配信する夜——そのとき、どうするか。
彼はまだ、はっきりとは決めていなかった。ただ、このまま何もせずに見続けるだけは、もう耐えられそうになかった。