桜は、結局その提案を受け入れた。
「……管理者……やります」
その言葉を口にした瞬間、彼女の瞳に最後まで残っていた光が消えた。
カズキは満足そうに笑い、まるで子犬でも褒めるように桜の頭を撫でた。
「よく言った。これで本当にお前は俺の妻だ」
その日から、桜は正式な管理者となった。
カズキは女たちを集め、桜を自分の「公認の女」であり、「最高管理者」だと宣言した。
だが、女たちが桜を見る目は冷たかった。
恨み。
憎しみ。
そして嘲笑。
誰一人として、彼女の昇格を祝う者などいなかった。
カズキはそんな視線など気にも留めなかった。
自分が公然と認めた女なのだから、人前で桜の体に触れようが何をしようが構わない。
そんな態度だった。
『自分の女に触って何が悪い』
言葉にしなくても、そう言っているのが分かった。
周囲の女たちは、そんな二人を見ながら冷笑していた。
桜がこの立場にいられるのも、どうせ長くはない。
カズキが飽きれば、いつでも捨てられる。
誰もがそう思っているようだった。
その中には、以前カズキの秘書役をしていたナナミの姿もあった。
彼女もまた、桜を見ながらただ嘲るように笑っていた。
管理者になってから、桜が一般の客を取る回数は大きく減った。
その代わり、新しい女を連れてくる役目は以前より厳しく課されるようになった。
カズキは桜に秘書の名刺まで作らせ、自分の随行秘書としても使った。
時には実家への使いを頼むこともあった。
そこでカズキの妻や子供たちと顔を合わせるたび、桜は奇妙な罪悪感に襲われた。
『この人たちは、私とカズキの関係を何も知らないんじゃないの……?』
まるで、自分が本当に不倫相手にでもなったような気分だった。
実際、彼らは夫や父親が裏で何をしているのか、ほとんど知らないようだった。
家族が知っているのは、カズキが大規模な貿易関係の仕事をしているということだけらしい。
闇金や女を扱う仕事については、完全に隠しているようだった。
カズキには二男二女、四人の子供がいた。
二人の息子は最初の妻との間に生まれ、現在の妻との間には娘が二人いるという。
最初の妻とは十代の頃から付き合い、早くに子供ができた。
その後、結婚生活中の浮気が原因で離婚したらしい。
長男はすでに41歳。
一方、末娘は桜と同じ22歳だった。
兄妹の年齢差はかなり大きかった。
桜は彼らの顔を見るたび、心の中で何度も叫びたくなった。
『あなたたちのお父さんは、ただの貿易会社の社長なんかじゃない』
『闇金業者で、女を食い物にしている男なのよ』
それでも、実際に口にすることはできなかった。
桜は、自分が初めてカズキの家族に紹介された日のことを思い出した。
その日、カズキは彼女を「新しい秘書」だと紹介した。
家族は、
「また秘書が変わったの?」
とでも言いたげな反応だった。
どうやら珍しいことではないらしく、桜にもそれほど関心を示さなかった。
だが桜にとって、その場は耐え難いほど居心地が悪かった。
その時、彼女は普段よりさらに大きな器具を体につけさせられており、まともに椅子へ座っていることさえ辛かったからだ。
カズキは、そんな桜の様子を明らかに楽しんでいた。
「この子は桜。うちの末っ子と同い年だ。今、大学三年生なんだけどな。頭もいいし仕事もできるから、大学に通わせながら秘書として雇うことにしたんだ」
カズキは、さも誇らしげに桜を紹介した。
「本当に苦労して採用した子だからな。家で何か用事があったり、俺に頼みたいことがあったら、この子を通してくれ。俺は忙しくて、家のことまでなかなか手が回らないから」
その説明を聞いていた妻が、桜を心配そうに見つめた。
「でも桜さん、ずいぶん顔色が悪いみたいですけど……大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
そう答えて立ち上がろうとした瞬間、桜の足から力が抜けた。
転びかけた彼女を、カズキが素早く支えた。
「あら、本当に具合が悪そうじゃないですか」
「いやいや、大丈夫だよ。最近ちょっと仕事が忙しくて、無理させたみたいだ」
「もう。そんなに疲れている人を、わざわざ今日紹介しなくてもよかったでしょうに」
「ちょっと外の空気でも吸わせてくるよ。風に当たれば少しは楽になるだろ」
カズキはそう言って桜を連れ出した。
家族たちは心配そうに、その後ろ姿を見送っていた。
「もう、お父さんってば。あんなに辛そうな人を連れてくるなんて。疲れてるなら休ませてあげればいいのに」
後ろから聞こえてきた娘の言葉が、桜の耳に残った。
だが家の外へ出た途端、カズキの態度は一変した。
「おい、このアマ。何やってんだ!」
低く抑えた声で怒鳴りつける。
「家族の前であんな態度してどうするんだ。お前、自分がどんなことされてるのかバラしたいのか?」
「それが……これ、あまりにも大きくて……少し辛くて……」
「いつもやってるようなもんだろ! 今さら何を言ってんだ。文句でもあるのか?」
あまりにも理不尽だった。
いつも使っている大きさではない。
「もう少し広げる」と言われ、これまで一度も使ったことのない大きさのものを入れられていたのだ。
それをカズキは平然と「いつものもの」だと言い張った。
「申し訳ありません……」
「もういい。それなら近所でも少し歩いてから戻るぞ」
カズキは桜を人目につかない場所へ連れていった。
そこで彼女につけていた器具を外すと、今度は自分自身で桜の体を確かめるように求めた。
まるで、
「これなら問題ないだろ」
と証明するかのようだった。
しばらく桜を弄んだ後、カズキは満足そうに笑った。
「ほら。これならちゃんと入るじゃないか」
そして先ほど外した器具を再び桜へ戻した。
桜は何も言えなかった。
ただ、言われるまま受け入れるしかなかった。
「ここは俺が最初なんだからな」
カズキは満足げに言った。
「ユイのほうも最近、同じように慣らし始めたんだけどよ。あいつもなかなかいいぞ」
桜は息を詰めた。
『ユイにも……?』
またユイだった。
『やっぱり、次はあの子なんだ……』
カズキはそんな桜の表情を見ながら、さらに追い打ちをかけた。
「ちゃんとやれよ。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな」
桜の肩がわずかに震えた。
「次に何か失敗してみろ。どうなるか分かってるだろ?」
彼は薄く笑った。
「お前の前にいたナナミが今どうなってるか、知ってるよな?」
桜は黙ったまま頷いた。
「あの女、毎日のように俺のところへ来てすがりついてきやがる。鬱陶しくて仕方ない」
カズキは吐き捨てるように続けた。
「薬だって、金を払って買えって言ってる。どうせ渡したって踏み倒すんだ。タダでやる理由なんかないだろ」
そして笑った。
「今じゃ女どもからも犬みたいに扱われてるらしいぞ。そろそろ追い出すつもりだ。もう使い物にならない」
桜の背筋に冷たいものが走った。
「俺に見捨てられたら、ああなるんだよ」
カズキは桜の顔を覗き込んだ。
「今、お前がこうしていられるのは俺が守ってやってるからだ。変なミスでもしたら、その瞬間に終わりだぞ」
そして、以前と同じ言葉を口にした。
「俺も最近、お前には少し飽きてきてるからな」
「ちゃんとやります……」
桜はすぐに答えた。
「絶対に失敗しません。ちゃんとできます……」
本気だった。
今、カズキに見捨てられることが恐ろしかった。
この男は飽きれば本当に人を捨てる。
それはナナミを見れば分かる。
そして最近、自分よりユイを求める日のほうが増えていることも知っていた。
ただでさえ胸の中にあった不安が、本人の口から「飽きた」「代わりはいくらでもいる」と言われたことで、一気に現実味を帯びて襲ってきた。
桜は必死で平静を装った。
家族の前へ戻らなければならない。
短いスカートを履かされ、下着を身につけることまで禁じられていた彼女は、自分の異変を悟られないか不安で仕方なかった。
それでも笑顔を作った。
この日、二人はしばらく外を歩いた後、再び家へ戻った。
桜はカズキの家族に、できる限り明るく振る舞った。
すべてはカズキに嫌われないためだった。
『捨てないで』
口には出さなかったが、心の中ではただそれだけを願っていた。
家族は、
「外の空気を吸ったら、だいぶ元気になったみたいね」
と笑っていた。
その言葉に桜も笑い返した。
だが心の中は、焦げつくような恐怖でいっぱいだった。
桜が秘書として働いている間、カズキはこれまで通り質のいい薬を与え続けた。
桜もまた、それを失わないために必死だった。
そして「公認の女」とされてからというもの、カズキの要求はさらに過酷になっていった。
もう完全に自分のものだ。
だから何をしてもいい。
カズキは、そう考えているようだった。
桜は彼にとって、いわば公認の玩具になった。
思いつく限りの要求を試し、彼女がどこまで自分に従うのか確かめる。
そんな日々だった。
桜は見捨てられないため、何でも笑って受け入れるようになった。
ユイに自分の居場所を奪われるわけにはいかなかった。
カズキの家を訪れてから二週間ほど経った頃。
ナナミがついに追い出されたという話を耳にした。
桜は、その話を聞いただけで身震いした。
噂では、カズキはナナミから回収できなかった金のことで激怒していたらしい。
「何があっても全額取り戻す」
そう喚き散らしていたという。
それからしばらくして。
今度はカズキが、桜の実家へ行こうと言い出した。
ある日、桜を見るなり笑顔で言った。
「久しぶりに実家へ顔を出してみるか」
桜の家は、地元ではそれなりに知られた家だった。
代々裕福で、周辺にも多くの土地を所有していた。
だからこそ、桜は嫌な予感を覚えた。
『どうして、私の家に……?』
カズキは当然のことのように答えた。
「お前は俺の女なんだから、義父さんや義母さん、それに妹たちへ挨拶するのは普通だろ?」
断ることなどできなかった。
桜は仕方なく両親へ電話をかけ、カズキと一緒に帰省することになった。
家族には、カズキを、
「大学へ通いながら仕事を教えてもらっている会社の社長」
と紹介した。
カズキはいつものように、初対面とは思えないほど図々しく、そして親しげに話しかけた。
「桜さんがうちの会社へ来てくれて、本当に助かってるんですよ」
笑顔を浮かべながら、桜の両親へ語る。
「仕事はできるし、会社への貢献も大きい。今日は出張でたまたまこの近くを通ったんですが、桜さんが実家はこの辺だと言うものですからね。しばらく帰っていないとも聞いていましたし、ご挨拶も兼ねて寄らせてもらったんですよ」
さらに母親を見ると、わざとらしいほど感心した顔をした。
「いやあ、桜さんがあまりにも美人だから、誰に似たのかと思っていたんですが……お母様だったんですね。本当によく似てらっしゃる」
そして妹たちにも目を向けた。
「妹さんたちも本当に綺麗だ。三姉妹そろって美人とは。お母様が美人だからでしょうね」
両親は、カズキの気さくな態度を好意的に受け取った。
さらに彼が財布から金を取り出し、妹たちへかなりの額を小遣いとして渡すと、妹たちは大喜びした。
「ありがとうございます!」
家族は、
「桜は本当にいい社長さんに出会えた」
と喜び、ご馳走まで用意した。
誰も、桜の胸の中が恐怖でいっぱいになっていることなど知らなかった。
カズキもまた、楽しそうに家族へ話を合わせていた。
その一方で桜には、カズキの実家へ行った時以上に大きな器具をつけさせていた。
座っているだけでも苦しかった。
それでも事前に強く脅されていたため、桜は笑顔を崩せなかった。
下着を身につけることも許されていなかった。
短いスカートのまま、何事もない顔で家族の前に座り続けなければならない。
「下着をつけないこと」
それはカズキの秘書になる際に課された条件の一つだった。
理由など単純だった。
自分が望んだ時、いつでも桜を扱えるようにするためだ。
例外はなかった。
その夜、桜とカズキは両親と一緒に酒を飲んだ。
久しぶりに娘が帰ってきたこともあり、両親はいつもより酒が進んでいるようだった。
しかもカズキは高価な酒を何本も持ち込み、
「せっかく持ってきたんだから全部飲みましょう」
と上機嫌に勧め続けた。
「いやあ、俺じゃお父さんとお母さんには敵いませんね」
カズキが笑う。
「桜さんが誰に似てこんなに酒が強いのかと思ってましたけど、ご両親が二人とも相当いける口なんですね」
父親も笑った。
「ははっ。桜は酒が強いんですか? 全然知らなかったなあ」
そして酔いも手伝ってか、急に親しげな口調になった。
「それに社長さん、そんなにかしこまらないでくださいよ。私よりずっと年上なんですから。普通に話してもらって構いません」
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらうよ。気を悪くしないでくれよ」
「何を言ってるんですか。兄貴、ここを自分の家だと思ってください。もう家族みたいなもんですよ」
四人は酒を酌み交わした。
ただし、カズキ自身は飲んでいるふりをするだけで、それほど口にはしていなかった。
両親の酔いが深くなると、彼はさらに大胆になった。
テーブルの下から手を伸ばし、桜のスカートの中へ触れる。
桜は声を出すこともできなかった。
やがて両親が完全に酔い潰れると、カズキは桜を彼女の部屋へ連れていった。
そこで桜につけさせていた器具を外し、自分のために慣らしてきた彼女の体を、好きなように扱い始めた。
桜が声を漏らさないよう必死に堪えているのを見ると、カズキはますます楽しそうになった。
妹たちが近くで寝ている。
その状況そのものが、彼を興奮させているようだった。
「桜」
途中でカズキが言った。
「予定を変えるぞ。ここに数日泊まっていこう」
桜は耳を疑った。
「お前への休暇だと思えばいい。ゆっくりしろよ」
そして愉快そうに続けた。
「それにしても、お前の母親も綺麗だな。妹たちもみんな美人だし。お父さんは本当にいい妻と娘を持ったもんだ」
桜の胸に強い不安が走った。
この男が何を考えているのか分からない。
むしろ、ここへ長くいればいるほど何かされるのではないか。
そう思えて仕方なかった。
『でも、さすがのカズキでも……ここで何ができるっていうの?』
桜は自分にそう言い聞かせた。
だが当然、カズキが桜の休暇のために滞在を延ばしたわけではなかった。
桜の家にかなりの財産があると知った。
どうすればそれを奪えるか。
そして同時に、自分の欲望まで満たせるか。
カズキが考えていたのは、それだけだった。
ナナミの時も同じだった。
ナナミの家も中流以上の家庭だったが、カズキは使えるものを徹底的に吸い尽くし、最後には一家そのものを崩壊させた。
その結果、ナナミは家族からも追い出された。
今では体を売って生きている。
すべては、桜がカズキのもとへ来る以前から繰り返されていたやり方だった。
次は桜の番だった。
桜が利用価値を失った時、最後に書類を突きつける。
その手順まで、カズキの頭の中ではすでに出来上がっていた。
ナナミの時もそうだった。
カズキは突然、彼女への薬の供給を止めた。
禁断症状でまともな判断ができなくなったところへ書類を持っていき、存在しない借金まで作り上げた。
さらに会社の金を盗んで逃げた横領犯であるかのように仕立てた。
そして薬が欲しいナナミ自身に、書類へ判を押させた。
その書類を家族へ持っていき、
「娘が起こした問題なのだから責任を取れ」
と迫ったのだ。
家族にとってナナミはすでに恥ずべき存在だった。
それでも娘である以上、完全に見捨てることもできなかった。
そうして家族の財産まで奪った後、カズキは何事もなかったようにナナミを捨てた。
やがて桜も、同じ道を歩かされることになる。
実家に滞在した数日間、カズキは毎日のように酒宴を開いた。
桜だけでなく父親も母親も、何度も泥酔するまで飲まされた。
持ち込まれた酒は度数の高いものばかりだった。
だが家族はカズキを完全に信用していたため、疑うこともなく飲み続けた。
カズキが滞在を延ばした理由の一つは、桜の母親であるメイへ近づくためでもあった。
実家から戻った後、カズキはしばらく忙しく動き回っていた。
何か準備していることが多いようだった。
そして桜に与えられていた「特別扱い」も、長くは続かなかった。
二ヶ月ほどすると、カズキの関心はほぼ完全に19歳のユイへ移った。
まだ若く、世間慣れしていない雰囲気と純真そうな目を持つ彼女を、カズキは桜の目の前で抱き寄せた。
そして、わざと聞こえるように言った。
「お前はもうちょっと……くたびれてきたな」
桜の顔を見る。
「体もだいぶ擦り減ってきた。努力しろって言ってるのに、最近は大して努力もしないしな」
桜の心臓が凍りついた。
それから彼女は、以前以上に必死でカズキの機嫌を取るようになった。
夜は積極的に彼を受け入れ、新しい女もさらに多く連れてこようとした。
だが、カズキの態度は少しずつ冷たくなっていった。
桜を呼ぶ回数そのものが減った。
呼ばれても、以前のような執着はない。
簡単に済ませると、すぐ別の女のもとへ行った。
そして三ヶ月目。
ついにカズキは決定的な一言を口にした。
「お前、もう管理者は終わりだ」
桜の顔から血の気が引いた。
「また下へ戻れ」
桜はその場でカズキにすがりついた。
だが、もう遅かった。
結局、彼女もナナミと同じ道を辿った。
最底辺の店へ回された。
それから、本当の地獄が始まった。
数日後には、ユイが桜の後を継いでカズキの秘書となり、「妻」と呼ばれる立場まで与えられた。
桜はすべてを失った。
しかも周囲の女たちは、桜を殺したいほど憎んでいた。
管理者だった頃、彼女は女たちを騙して連れてきた。
命令し、管理し、客へ回した。
その記憶がまだ生々しく残っていたからだ。
ユキは桜を見るたびに唾を吐いた。
ほかの女たちは廊下でわざと肩をぶつけたり、突き飛ばしたりした。
食事へ汚物を混ぜられることもあった。
シャワー中に冷水を浴びせられることもあった。
桜は完全に孤立した。
誰も彼女と目を合わせようとしなかった。
客の割り当ても苛烈になった。
カズキは、ほかの女たちが嫌がるような乱暴な客ばかりを桜へ回した。
金払いも悪く、酒に酔い、暴力を振るい、無茶な要求ばかりする男たちだった。
桜の体は急速に壊れていった。
腰も脚も、まともに動かせない日が増えた。
顔や体から痣や傷が消えなくなった。
しかも薬の量まで減らされた。
禁断症状が強くなり、夜になると吐き、震え、意識が朦朧とする。
それでもカズキは薬を与えなかった。
ただ一言。
「お前が選んだ道だろ」
そう言うだけだった。
いつしか桜は、ヴィラの中でも最も惨めな存在になっていた。
新しく入ってきた女ですら、彼女を見ると、
『ああだけはなりたくない』
という目を向けた。
食事は隅で一人。
シャワーを使えるのも、全員が終わった後。
誰も同情しなかった。
ある深夜。
特に酷い客を立て続けに相手にした後、桜は部屋の床へ倒れ込んだ。
全身が痛み、痣と傷だらけだった。
力を振り絞って手を上げ、自分の顔へ触れる。
腫れた頬。
切れた唇。
そして、何も映さなくなった自分の目。
桜は掠れた声で呟いた。
「……なんで私……管理者になるなんて言ったんだろう……」
あの選択は、彼女に何一つ救いをもたらさなかった。
むしろ一度管理する側へ回ったことで、再び落とされた時には、
「裏切り者」
そして、
「失敗作」
二つの烙印を同時に押された。
カズキは桜を徹底的に利用した。
そして価値が落ちたと判断した瞬間、ゴミのように捨てた。
もう桜には、ほとんど希望が残っていなかった。
毎日痛みに耐え、夜になれば客を取り、翌日にはまた同じ一日が始まる。
そんな生活だけが続いた。
心はとうの昔に擦り切れていた。
残っているのは、苦痛を感じ続ける体だけだった。
東京の華やかな光は、その日も遠くで輝いていた。
だがその裏側で、桜は誰にも見向きもされず、少しずつ壊れていった。
そんなある日。
カズキが珍しく桜を呼び出した。
そして普段は与えない質のいい薬を目の前へ置いた。
同時に、何枚もの書類を差し出した。
「ここに署名しろ。それから指印と判子もな」
内容は、自分が背負ったことになっている借金と、存在しない横領金についての支払い念書だった。
だが桜には、もう書類を読む気力すらなかった。
内容を気にできるほど、精神が残っていなかった。
カズキに言われるまま、署名しようとした。
桜は床を這うようにカズキの足元へ近づいた。
禁断症状と痛みで全身が震え、指一本まともに動かせない。
ペンを握らされても、紙の上に震えた線を残すだけだった。
カズキはその様子を見て笑った。
桜の髪を軽く掴み、顔を持ち上げる。
そして目の前で一錠の薬を揺らした。
「桜。よく聞けよ」
ゆっくり言った。
「今のお前が念書を書いたら、どんな字になると思う?」
桜は焦点の合わない目で彼を見た。
「震えて、読めたもんじゃないだろ」
カズキは笑った。
「そんなものを明治出の立派なご両親が見たら、一発でおかしいって気づくだろうな」
さらに続けた。
「『娘がどこかに監禁されて、無理やり書かされたんじゃないか』って警察へ駆け込まれたら、俺が面倒なんだよ」
薬を桜の唇へ軽く当てた。
「俺はそんなことをしたいわけじゃない」
カズキは優しく諭すような声で囁いた。
「ご両親には、自分たちの意思で金を出してもらいたいんだ」
そして薬を口の中へ押し込んだ。
「だから飲め。少し休めば震えも止まる。頭もすっきりする」
薬を飲み込んでしばらくすると、桜の震えは嘘のように静まっていった。
さっきまで全身を襲っていた苦痛が遠のき、代わりに奇妙な平穏が広がる。
カズキは満足そうに笑い、もう一度ペンを握らせた。
「ほら。もう震えないだろ?」
桜の手を見る。
「いつもの綺麗な字が書けるな」
そして、一文ずつ読み上げた。
「今から俺が言う通り、丁寧に書け」
桜はペン先を紙へ置いた。
「『私が会社の公金を横領しました。両親に責任を取ってほしいです』」
カズキはゆっくり続けた。
「お前自身の字で、はっきり書くんだ」
桜の手が動いた。
「そうすれば、お前の親はお前を憎みながらも、娘を前科者にしたくなくて、家を売ってでも金を作るだろうからな」
「書け、桜」
桜は薬による奇妙な多幸感の中で涙を流しながら、恐ろしいほど整った字で、自分の家を崩壊させる念書を書き続けた。
その後数日間だけは、カズキの機嫌が良かった。
質のいい薬も渡された。
桜はそれを頼りに、どうにか毎日を耐えた。
だが、やがて薬は底をついた。
そして桜は完全に崩れた。
そんな彼女を見て、カズキは露骨に顔をしかめた。
近くにいた女たちへ言う。
「おい。こいつ、もう捨ててこい」
そして冷たく付け加えた。
「二度とこの辺へ近づかせるな」
桜は女たちに引きずられるように建物の外へ放り出された。
それを「解放」と呼べたのかもしれない。
だが、外へ出た桜には何も残されていなかった。
行く場所もない。
金もない。
薬もない。
まともに働ける状態でもない。
結局、路上で体を売るしかなかった。
実家へも連絡した。
だが、なぜか電話そのものを拒絶された。
一度だけ妹と短く話すことができた。
「お父さん、何かあったみたいで倒れたの」
妹はそう言った。
「お母さんも最近ちょっとおかしくて……でも、カズキおじさんが来て、家のことをいろいろ助けてくれてるから……」
桜には意味が分からなかった。
何か言おうとした瞬間、電話の向こうで怒鳴り声が聞こえた。
「もう切れ!」
通話はそこで終わった。
その後、桜が何度電話しても、声を聞いただけで切られた。
「もう連絡してくるな」
「縁を切る」
そうまで言われるようになった。
いつしか桜自身も、実家へ戻ろうという気持ちを失っていった。
それでも彼女は、カズキのいる建物からあまり遠くへ離れなかった。
新宿や渋谷の暗い路地を彷徨いながら客を取った。
理由は一つだった。
『もしかしたら、カズキに会えるかもしれない』
『会えたら、薬だけでももらえるかもしれない』
今になって、桜はナナミの気持ちが痛いほど理解できた。
だがすでに体は壊れ、目からも生気が失われていた。
男たちの多くは桜を無視した。
相手にする者も、わずかな金しか払おうとしなかった。
やがて桜は、ホームレスたちが集まるテント村へ流れ着いた。
そこでもまともな扱いなどされなかった。
それでも、生きるためには僅かな金で体を売るしかなかった。
数ヶ月後。
桜は妊娠していることに気づいた。
父親が誰なのかは分からなかった。
それでも妊娠中も生活は変わらなかった。
体を売らなければ、生きていけない。
やがて汚れたテントの中で子供を産んだ。
桜は、その子だけは手放さなかった。
子供を抱いたままテント村を歩き、客を探した。
生活は完全に崩壊していた。
それでも、その子だけは自分が最後まで生き残った証のように感じられた。
一方、カズキは桜のことなど完全に忘れていた。
彼のそばには今、ユイがいた。
ユイを抱き、新しい女たちを連れてこさせながら、
「あの女はもう終わりだ」
と笑うだけだった。
ユイは桜より若い。
だから、もう少し長く使える。
カズキにとっては、その程度の違いだった。
桜が自分に会いたくて近くを彷徨い、体を売っていることなど知りもしなかった。
桜の家についても、すでにほとんど処理が終わりかけていた。
時折、桜がどうなったかという噂だけは耳に入った。
だがそのたびに笑い飛ばすだけだった。
もう興味などなかった。
彼の関心は、すでに別の女たちへ移っていた。
桜の家では、さらに別の出来事が進んでいた。
桜が薬欲しさに署名した書類を持ち、カズキは今度は「被害者」の顔をして実家を訪れた。
「桜さんが会社の金を横領した」
「こちらも多大な損害を受けている」
そう説明した。
父親はショックで倒れた。
家族は桜の借金と横領金を返すため、土地や財産を次々と処分した。
最後には、生活そのものが立ち行かなくなる寸前まで追い詰められた。
そこで再びカズキが現れた。
今度は、
「困っている家族を助ける恩人」
としてだった。
メイは、カズキを信じた。
桜のせいで自分の会社まで苦しくなっているはずなのに、それでも自分たちを助けてくれる。
そう思っていた。
カズキは落ち込むメイを何度も慰めた。
そしてその慰めが長く続くうちに、二人は関係を持つようになった。
さらにカズキは、メイへ薬まで勧め始めた。
やがてメイも薬から抜けられなくなった。
それは、ちょうど桜が妊娠した頃の出来事だった。
そして時間が経った今、状況はさらに悪化していた。
ある日。
カズキはユイを抱きながら、ふと思い出したように呟いた。
「メイもよかったけどな……」
「ねえ、メイって誰?」
ユイが聞き返した。
カズキはすぐに顔をしかめた。
「お前は知らなくていい」
冷たい声だった。
「余計なこと聞くな。俺がやれって言ったことだけやってろ」
そしてユイを睨む。
「俺が今可愛がってるからって、ずっとそうしてもらえるなんて勘違いするなよ」
ユイの表情が固まった。
「お前もそろそろ飽きられる頃だからな。分かったか?」
ユイはびくりと体を震わせた。
そして、カズキに気に入られようと必死になった。
最近、彼が別の女にも夢中になっているという噂を聞いていたからだ。
ユイもまた、自分の立場が危うくなっていることを感じていた。
そんなユイを見下ろしながら、カズキは過去を思い返した。
メイ。
桜の母親だった。
桜の父親が倒れ、身動きが取れなくなると、カズキは「助ける」という名目でメイに頻繁に会うようになった。
話を聞き、慰め、必要な金を用意する。
メイの周囲には、ほかに頼れる人間がほとんどいなかった。
やがて二人は関係を持った。
カズキから一方的に迫ったというより、追い詰められたメイ自身が彼へ依存するようになっていった。
父親を入院させる際にも、カズキは費用を立て替えると言った。
「金は余裕ができてから返せばいい」
優しい言葉だった。
ただし、家族全員で保証を分担することが条件だった。
娘たちについても、
「大学へ入り、働けるようになってから少しずつ返せばいい」
と説明した。
メイにとって、その時のカズキは完全に恩人だった。
だから書類を詳しく読むこともなく、言われるまま判を押した。
父親を入院させると、カズキはメイと娘たちを自分の近くへ引っ越させた。
そしてメイとの関係を続けた。
その中で少しずつ薬を勧める。
彼女が依存するまで、それほど時間はかからなかった。
やがて薬なしではいられなくなったメイは、カズキへすがるようになった。
すると彼は態度を変えた。
「欲しいなら、自分で金を稼いで買え」
メイには年齢的にできる仕事も限られていた。
結局、カズキの紹介でデリヘルの仕事を始めた。
客のもとへ出向いて体を売り、その僅かな金で薬を買う。
それだけで精一杯だった。
当然、娘たちのことまで十分に面倒を見る余裕はなくなった。
その役目を、今度はカズキが引き受けた。
小遣いを渡す。
困っていれば助ける。
相談にも乗る。
娘たちは、薬で様子がおかしくなった母親より、むしろカズキを信頼するようになっていった。
だから、桜のすぐ下の妹であるサクラコが大学へ進学する際、カズキが入学金を貸すと言い出した時も、誰も疑わなかった。
サクラコ自身も、その貸付が何を意味するのか知るはずもなかった。
さらにカズキは、
「学校の都合」
「母親の療養」
などを理由に、サクラコを家族と離れて暮らさせるよう仕向けた。
そしてすでに、彼女にも手を伸ばし始めていた。
サクラコをパーティーへ連れていくこともあった。
その頃。
ユイがカズキのそばにいる最中、彼はスマートフォンを手に取った。
そしてサクラコへメッセージを送った。
『サクラコ、薬が欲しいんだろ? だったら早く来い』
その時も、桜はまだ生きていた。
だが彼女の生活は、死ぬことより辛いとさえ思える地獄だった。
夜になればテント村で体を売る。
子供を抱いて路地を歩く。
眠れば、翌日また同じ一日が始まる。
時折、桜は子供を抱いたまま空を見上げた。
そして小さく呟いた。
「……なんで私……こんなふうになっちゃったんだろう……」
彼女の選択は、結局何一つ救いをもたらさなかった。
カズキへ屈服したことで、桜はさらに深く彼の世界へ取り込まれた。
そしてシステムは彼女を徹底的に使い尽くした後、何の迷いもなく捨てた。
今の桜は、心まで壊れたまま、東京の最も暗い片隅で終わりの見えない奈落を生き続けていた。
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