進め!アシスタント道 作:ろくりん
蛍光灯が寿命を告げる不快な羽音を立てて明滅する深夜のオフィス。葛城ヨウの視界は、パソコンのモニターに表示された無機質なエクセルのセルの羅列で完全に埋め尽くされていた。
時刻は午前三時を回ろうとしている。フロアには冷房の送風音が単調に響き、時折誰かがキーボードを強く叩く音や、重いため息が重なっては消えていく。空気はひどく淀み、安いインスタントコーヒーの匂いと、長時間の労働で染み付いた体臭、そして絶望感がないまぜになったような独特の悪臭が漂っていた。
ヨウは充血した目を擦り、デスクの上に乱立する栄養ドリンクの空き瓶を忌々しげに睨みつけた。入社して三年。就職氷河期の荒波を乗り越え、やっとの思いで潜り込んだIT企業は、絵に描いたようなブラック企業だった。みなし残業という名の定額使い放題プランで深夜までこき使われ、休日は上司からの理不尽な呼び出しで無惨に潰れる。睡眠時間は削りに削られ、食事といえばコンビニの栄養ゼリーを三分で胃に流し込むだけの日々。
当然、二十代の健康な青年として謳歌すべき恋愛や、友人との飲み会などに割く時間など一秒たりとも存在しなかった。ヨウの若さと気力は、会社の利益という名の底なしのブラックホールに容赦なく吸い込まれ続けている。持ち前の体力と、無駄に有り余っている精力のおかげでなんとか肉体は持ちこたえていたものの、限界はすぐそこまで迫っていた。
マウスを握る右手が、自分の意志とは無関係に微かに痙攣している。胃の中では、先ほど流し込んだブラックコーヒーと胃酸が最悪の化学反応を起こし、不快な酸意となって食道をせり上がってきていた。
俺の人生、このまま終わるのか。
ふと、モニターの右下に表示された日付を見た瞬間、ヨウの頭の中で張り詰めていた太い糸が、プツリと音を立てて切れるのがわかった。
こんな薄暗い部屋で、誰の役に立っているのかもわからない数字の羅列と死ぬまで睨めっこをして、気がつけば髪も抜け落ちたボロボロのおっさんになって孤独に死んでいく。そんな未来が、はっきりと脳裏に浮かんだのだ。絶対に嫌だ。俺はもっと、柔らかくて温かくて、いい匂いのするものに囲まれて生きていきたい。
ヨウは静かに、しかし決然とした動作でパイプ椅子から立ち上がった。周囲で幽鬼のような顔をして作業を続けていた同僚たちが、何事かと虚ろな視線を向けてくる。ヨウはそんな視線を一切気にすることなく、引き出しの奥底にずっと忍ばせていた白い封筒を取り出した。そして、フロアの奥のデスクで腕組みをしたままいびきをかいている部長の席へと真っ直ぐに歩み寄り、その顔の真ん前に退職届を勢いよく叩きつけた。
荷物をまとめることもなく、ヨウはそのままオフィスの重い扉を開けて外に出た。生ぬるい夜の空気が頬を撫でた瞬間、三年ぶりに新鮮な酸素が肺の奥深くまで入り込んできたような気がした。
翌朝。カーテンの隙間から差し込む強烈な真夏の太陽の光で、ヨウは目を覚ました。
アラームの暴力的な電子音に急かされることのない、自然な目覚め。それだけで涙が出そうなくらいの感動だった。ベッドから跳ね起き、勢いよくカーテンを開け放つ。青々とした空に入道雲がそびえ立ち、セミの鳴き声がまるでヨウの新たな門出を祝福するファンファーレのように響き渡っていた。
強烈な解放感とともに、ヨウは己の進むべき道を改めて模索し始めた。彼には、学生時代から誰にも言わずに密かに情熱を注いでいる趣味があった。絵を描くことだ。それも、ただの風景画や肖像画ではない。女性の柔らかい肌、挑発的な視線、重力に逆らう豊かな胸の膨らみ、そして熱を帯びた息遣いまで伝わってくるような、官能的なイラストを描くのが三度の飯より好きだった。
授業中もノートの端に理想の女の子を描き溜め、いつか自分の作品で世の男性たちを興奮の坩堝に叩き込みたいという壮大な野望を抱いていたのだ。しかし、現実は甘くない。すぐに同人作家として独立して食っていけるほどの知名度も実力もないことは、彼自身が一番よくわかっていた。
まずはプロの現場に潜り込み、技術と業界のノウハウを直接肌で学べばいい。
ヨウは押し入れの奥から使い古したペンタブレットとノートパソコンを引っ張り出し、埃を払って起動させた。数年ぶりにペイントソフトを開き、勘を取り戻すように何本かの線を引いてみる。最初はガタついていた線も、次第に滑らかさを取り戻していく。女性の太ももの柔らかな曲線、胸の重力を感じさせる下乳のライン。よし、いける。ブラック企業で魂は削られても、スケベな絵を描く執念だけは全く鈍っていなかった。
さっそくスマートフォンを開き、SNSでアシスタントの募集を探し始めた。タイムラインをスクロールしていくと、ふと見慣れたアイコンが目に留まった。現在、エロ同人界隈で飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集めている超売れっ子作家、秦谷先生のアカウントだ。
秦谷先生の描く作品は、とにかくエロい。ただ露出が多いだけでなく、肉感的な身体の描写、特に胸の重みや太ももの食い込みの表現、そして女の子が快楽に堕ちていく際の生々しい表情の描き方が神がかっており、ヨウ自身も幾度となくお世話になった偉大な作家の一人だった。その秦谷先生が、急募でアシスタントを探しているというのだ。
ヨウは迷うことなく、自身のポートフォリオサイトのURLとともに、ありったけの熱意とブラック企業で鍛え上げられた体力と徹夜耐性を猛アピールするダイレクトメッセージを送信した。すると、驚くことに数十分後には返信の通知音が鳴り響いた。
メッセージを開くと、そこには極めて事務的な短い文章で、明日、面接を兼ねて仕事場に来てほしいと記されていた。あまりのトントン拍子な展開に拍子抜けしつつも、ヨウは画面に向かって力強くガッツポーズを決めた。ついに、憧れのエロ同人業界への第一歩を踏み出すのだ。
翌日の午後。容赦ない真夏の太陽がアスファルトをじりじりと焦がし、陽炎が揺れる中、ヨウは指定された住所へと歩を進めていた。
場所は都内でも有数の高級住宅街。立ち並ぶマンションはどれも重厚なエントランスを備えており、とても同人作家の修羅場が繰り広げられている仕事場があるとは思えないような、洗練された静謐な雰囲気を醸し出している。額から滝のように流れ落ちる汗をタオルで拭いながら、ヨウはスマートフォンの地図アプリと目の前の巨大なタワーマンションを交互に見比べた。
間違いなくここだ。オートロックの自動ドアの先には、高級ホテルのロビーのような大理石が敷き詰められた空間が広がり、心地よい冷房の風が外へと漏れ出している。ヨウは緊張でカラカラに乾いた喉をゴクリと鳴らし、インターホンのボタンを押した。
「はい」
スピーカーから聞こえてきたのは、高く澄んだ、それでいてどこか冷たさを感じさせる若い女性の声だった。
「あ、あの。アシスタントの面接に伺いました、葛城ヨウと申します」
「開けます。八階の八〇二号室まで来てください」
短く用件だけを告げると、カチリと通話が切れた。同時に自動ドアが静かにスライドして開く。ヨウはエレベーターに乗り込み、八階のボタンを押した。滑らかに上昇していく箱の中で、ヨウは秦谷先生の人物像を勝手に想像して荒ぶる心拍数を落ち着かせようとしていた。
あれほど濃厚でマニアック、かつフェティッシュなエロを描き出すのだ。おそらく、酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富な恰幅の良いベテラン男性か、あるいは業の深い年上の女性に違いない。先ほどの声は、きっと奥さんか、マネージャーのような雑務をこなすアシスタントの一人だろう。
八〇二号室の前に到着し、小さく深呼吸をしてから、シャツの乱れがないかを確認してインターホンを鳴らす。すぐに鍵の開く音がして、重厚なドアが内側からゆっくりと開かれた。
「どうぞ、入って」
ヨウは用意していた丁寧な挨拶の言葉を完全に飲み込み、そのまま玄関先で石像のように固まってしまった。
目の前に立っていたのは、ベテランの男性でも年上の女性でもなかった。艶やかな黒髪を腰のあたりまで長く伸ばした、現役の女子高生だったのだ。真っ白なブラウスに、紺色のプリーツスカート。夏服の制服は彼女の清楚で整った顔立ちにこれ以上ないほど似合っている。
しかし、ヨウの長年培ってきたスケベな本能と絵描きとしての観察眼は、彼女の顔の美しさよりも先に、その制服の下に隠された均整の取れたプロポーションに完全に釘付けになっていた。
身長は百六十センチに満たないくらいだろうか。小柄ながらも、ブラウスの胸元は布地を内側から力強く押し上げるようにして確かな膨らみを主張している。ボタンとボタンの間にわずかに生じる布の引っ張り具合から推測するに、控えめに見積もっても八十台半ば。いや、形が理想的なお椀型だからこそもっと大きく見えるのかもしれない。そこからキュッと引き締まったウエストの信じられないほどのくびれを経て、プリーツスカートの下には、安産型とも言える豊満なヒップのラインが布越しにありありと主張しているのがわかる。
ヨウの脳内で、瞬時に彼女のスリーサイズが弾き出された。バスト八十四、ウエスト五十六、ヒップ八十五。間違いない、二次元からそのまま抜け出してきたかのような極上のプロポーションだ。
「あの、突っ立ってないで早く中に入ってもらえますか。冷気が逃げるので」
ジロジロと舐め回すように見つめるヨウに対し、少女は表情ひとつ変えずに、温度を感じさせない淡々とした声で言い放った。そのクールな視線に射抜かれ、ヨウは慌てて我に返った。
「あ、すみません。お邪魔します。えっと、秦谷先生の娘さん、ですか」
靴を脱いで上がり框を越えながらヨウが尋ねると、少女は不思議そうに、長い睫毛に縁取られた目を瞬かせて小首を傾げた。
「娘。なんの話ですか」
「いや、俺は秦谷先生のアシスタント面接で来たので。先生は奥の部屋ですか」
少女は小さくため息をつき、艶やかな黒髪をファサリと揺らしてヨウを振り返った。
「私が秦谷ヒナです。あなたが昨日連絡をくれた葛城ヨウさんですね」
ヨウの思考回路が完全にショートした。
この清楚でクール、かつ美少女という言葉を具現化したような現役女子高生が、あの汁気たっぷりでマニアックなエロ同人誌を毎夜生み出している秦谷先生だというのか。脳内のイメージと目の前の現実のギャップが激しすぎて、脳の処理が全く追いつかない。冗談だろうと思い彼女の顔をマジマジと見つめたが、その真剣な黒曜石のような瞳には、一片の嘘も照れも混じっていないようだった。
「あなたが、あの秦谷先生って……嘘でしょ。だって、あの作品のあのエロさは、人生経験が豊富じゃないと描けないような」
「年齢や人生経験と、想像力の解像度は必ずしも比例しません。何か問題でもありますか」
ヒナは全く動じる様子もなく、玄関の廊下を進みながら背中越しに答えた。
「送ってもらったポートフォリオのイラストは見せてもらいました。基礎のデッサン力はしっかりしているし、背景のパースも狂っていない。なにより、女の子の肉付きの描き方と、太もものむっちりとした質感の表現には、並々ならぬ性的な執念のようなものを感じました。即戦力として期待しています」
淡々とした、まるで数学の公式でも読み上げるかのような口調で自分のエロイラストのこだわりを評価され、ヨウは羞恥と興奮が入り交じった妙な気分になった。女子高生に自分のスケベな執念を見透かされているという事実に、下腹部がかすかに熱を持つ。
ヒナに案内されてリビングの奥にある作業部屋に通されると、そこは高級マンションの一室とは思えないほど混沌とした、まさにクリエイターの戦場だった。
壁一面の本棚には、あらゆるジャンルの漫画や専門書、解剖学の資料集、そして大量の成年向け雑誌が所狭しと詰め込まれている。床には無数のラフ画や設定資料が雪のように散乱し、踏まずに歩くのが困難なほどだ。中央に鎮座する巨大なL字型のデスクには、最新型の大型液晶タブレットと高性能なパソコンが複数台稼働しており、排熱のファンの音が部屋に低く響いている。
そして何よりヨウの目を引いたのは、部屋のあちこちに無造作にコルクボードに貼られた、ヒナの最新作と思しきエロティックな原稿のコピーだった。
男女が激しく絡み合う描写、粘液の滴る生々しい結合部、快楽に歪んで舌を突き出す女の子の表情。それらが、目の前にいる涼しげな顔をした女子高生の頭の中から生み出されたものだという事実が、空間の異常さをさらに際立たせていた。
「面接と言っても、もう採用は決めています。とにかく今は人手が足りないんです。夏のイベントまであと一ヶ月を切っているのに、進行が致命的に遅れていて、このままだと新刊を落とします」
ヒナはデスクの前のオフィスチェアに腰掛け、タブレットのペンをクルクルと指先で回しながら言った。その横顔は、まぎれもなくプロのクリエイターのものだった。職人肌というか、ひとつの目的に向かって一切の妥協を許さない凄みのようなものが、彼女の華奢な身体からオーラのように漂っている。
この子は、本気だ。年齢なんて関係ない。本気でものづくりに狂っている人間特有の熱を、ヨウは確実に感じ取っていた。
ヨウはゴクリと唾を飲み込み、姿勢を正した。
「わかりました。俺で役に立てるなら、なんでもやります。ブラック企業で鍛えた体力と徹夜耐性には絶対の自信がありますから。ベタでもトーンでも、背景のパース取りでも、なんでも命じてください」
意気込むヨウに対し、ヒナはタブレットのペンをコトリと机に置いた。そして、くるりと椅子を回転させてヨウと正面から向き合った。彼女の瞳が、ヨウの全身を値踏みするように、頭の先から足の先までゆっくりと動く。
「なんでもやるって言いましたよね、葛城さん」
「はい。指示してもらえればすぐに作業に入れます」
ヨウが力強く頷くと、ヒナはふっと小さく息を吐いた。
「それは助かります。ちょうど今、仕事が行き詰まって手が止まっていたところなんです」
ヒナの視線が、ヨウの顔から真っ直ぐに胸元へと下ろされた。その瞳の奥に、原稿を完成させるためならどんな手段も厭わない、静かだが狂気じみた光が宿っているのをヨウは見逃さなかった。
ブラック企業を脱出し、憧れの同人業界に飛び込んだ初日。まさかここが、前の会社とは全く違う意味での、理不尽と快楽に満ちた修羅場だとは、この時のヨウはまだ知る由もなかった。