進め!アシスタント道 作:ろくりん
東京湾から吹き付ける海風が、容赦なく肌を突き刺す十二月末の朝。
日本最大の同人誌即売会、通称『冬コミ』の会場である東京ビッグサイトは、外の凍てつく寒さとは裏腹に、数十万人という人間の欲望と情熱が入り交じった圧倒的な熱気に包まれていた。
開場を告げる館内アナウンスが響き渡った瞬間、地鳴りのような拍手が湧き起こる。それと同時に、まるで決壊したダムのように、無数の参加者たちが目当てのサークルへと一斉に雪崩れ込んできた。
「葛城さん、列の整理をお願いします。最後尾札を高く掲げて、近隣のサークルに迷惑がかからないように誘導を」
「了解です。列の折り返し、作りますっ」
葛城ヨウはスタッフ腕章を腕に巻き、怒涛の勢いで押し寄せるファンたちの波を必死に捌いていた。
秦谷ヒナの主宰するサークルスペースの前には、開場からわずか数分で長大な列が形成されていた。今回の新刊は、サークル史上最大規模となる総ページ数100ページの大作。事前のSNSでの告知から、ファンの期待値は異常なまでに高まりきっていたのだ。
そして、その列に並ぶファンたちの熱気をさらに煽っていたのが、売り子を務めるヒナとユイの姿だった。
「新刊セット、一冊ですね。ありがとうございますっ」
早坂ユイは、新刊に登場するヒロインを模した、露出度の極めて高いセクシーな悪魔風コスプレを身に纏っていた。真冬の会場だというのに、胸元が大きく開いたタイトなビスチェと、お尻の肉がはみ出しかけているショートパンツ。彼女が身を乗り出して本を手渡すたびに、暴力的な質量を持つ巨大な双眸がブルンブルンと揺れ、買いに来たファンたちの視線を否応なしに釘付けにしている。
一方のヒナは、漆黒のゴシックドレスに身を包み、足元はあの三十デニールの黒タイツで完璧に防御していた。首元や手首には、作中の拘束シーンを彷彿とさせるフェイクレザーのベルトが巻かれ、彼女のクールでサディスティックな魅力を限界まで引き出している。
「お買い上げ、ありがとうございます。今回の新刊は、これまでの作品とは全く次元の違う表現に挑んでいます。心して読んでくださいね」
ヒナが黒曜石のような瞳で冷たく、しかし妖艶に微笑みかけると、本を受け取ったファンたちは一様に顔を赤らめ、「最高です、絶対抜きます」「先生、一生ついていきます」と深くお辞儀をして去っていく。
ヨウは列の整理をしながら、その光景を誇らしげに見つめていた。
ファンたちが握りしめているあの分厚い新刊。その中には、ヨウが血と汗と、そして大量の精液を注ぎ込んで描き上げた緻密な背景とモブキャラクターたちが息づいている。ヒナの狂気的な探求心と、ユイの底なしの性欲、そしてヨウの絶倫アシスタントとしての意地。三人の限界突破の証が、物理的な形となって世に放たれているのだ。
「今回の新刊、サンプル読んだだけでもエロさがヤバかったよな」
「ああ、ヒナ先生の作画、また一段と神がかってた。特にあの見開きの絡み構図、人間の関節どうなってんだってくらい複雑なのに、生々しすぎて股間が熱くなったわ」
列に並んでいるファンたちのヒソヒソ話が、ヨウの耳に飛び込んでくる。
(当然だろ。その関節の限界に挑んだ構図のモデルをやったのは、俺なんだからな。それに、その生々しいエロさは、俺たち三人が実際に身体を張って実地検証した成果だ)
ヨウは心の中でガッツポーズを決め、優越感に浸りながら列の誘導を続けた。ブラック企業で自分の名前も残らない無意味な書類を作っていた頃とは違う。今、俺は確かに、この熱狂の渦の中心を担っているのだ。
頒布は凄まじいスピードで進み、高く積み上げられていた新刊の段ボール箱が次々と空になっていく。
「先生、用意していた新刊セット、残りあと三箱です」
「ペースが早すぎますね。葛城さん、列の最後尾に完売間近のアナウンスをお願いします。ユイ、お釣り用の小銭の補充を」
「はーいっ。でも先生、私もう腕がパンパンだよぉ」
三人の息の合った連携で、怒涛の頒布作業は流れるように進行していく。
そして、午後一時を回った頃。
「申し訳ありません、新刊セット、こちらで完売となりますっ」
ヨウが最後尾札を裏返し、『完売御礼』の文字を高く掲げた瞬間、周囲から温かい拍手と、買えなかったファンたちの悔しがる溜め息が入り交じった声が上がった。
100ページの大作、持ち込んだ数千部の在庫が、見事に完売したのだ。
「……終わりましたね。私たちの勝利です」
ヒナが空になった段ボール箱を見つめ、深く、静かに息を吐いた。その横顔には、クリエイターとしてのすべてを出し切った絶対的な達成感と、確かな疲労が刻まれていた。
「やったぁぁぁっ。完売だーっ」
ユイがヨウの背中に飛びつき、その爆乳をむにゅりと押し付けながら歓喜の声を上げる。
「本当にお疲れ様でした、先生、ユイちゃん。最高の冬コミになりましたね」
ヨウもユイの頭を撫でながら、心の底からの笑顔を向けた。
会場からの搬出作業を終え、打ち上げ用の高級寿司の折り詰めを買い込み、三人がタクシーに乗ってタワーマンションの作業部屋へと帰り着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ただいまーっ。あー、もう足が棒みたい。ヒールで立ちっぱなしはキツいよぉ」
玄関のドアを開けるなり、ユイはブーツを脱ぎ捨てて部屋の奥へとふらふらと歩いていく。
ヨウも荷物を置き、大きく伸びをした。
「いやあ、大激戦でしたね。でも、ファンのみんなが喜んでくれてる顔を見たら、あの地獄の修羅場も報われた気がします」
「ええ。私たちの探求は間違っていなかった。それを証明できたことが何よりの収穫です」
ヒナもコートを脱ぎ、いつもの定位置であるメインデスクの椅子に深く腰を下ろした。
ヨウは寿司の折り詰めをテーブルに並べ、冷蔵庫からお茶を取り出した。本来ならここでお酒でも飲んで盛大に打ち上げと行きたいところだが、三人の体力はすでにマイナスに振り切っている。
「それじゃあ、とりあえず新刊完売を祝して、乾杯しましょうか」
ヨウの掛け声で、三人は静かに紙コップを合わせた。
高級な大トロやウニを口に運ぶが、連日の徹夜と当日の肉体労働で疲弊しきった胃腸は、数貫食べただけであっという間に満たされてしまった。
「……美味しいんですけど、もうお腹いっぱいかも」
ユイが箸を置き、とろんとした目で虚空を見つめている。
「そうですね。脳が休息を最優先に求めているようです」
ヒナも静かにお茶をすすり、目を細めた。
食事が終わると、部屋に心地よい、しかし強烈な気怠さが沈殿し始めた。
普段の彼らであれば、ここからがお約束の展開である。原稿が無事に終わった解放感と、イベントの興奮を引きずったまま、誰からともなく誘いをかけ、熱く淫らな『お疲れ様えっち』へと突入していく。
それが、葛城ヨウの思い描く、完璧なアシスタント生活のサイクルだ。
ヨウは深呼吸をし、残っている力を振り絞って、二人の美少女に視線を向けた。
「あのさ、先生、ユイちゃん。原稿も終わったし、イベントも大成功だったし。その……打ち上げの続きというか、俺たち、まだ大事なことしてないよね」
ヨウがスケベな期待を込めて切り出す。
しかし。
「大事なことって……何」
ユイが完全に半分寝ているような状態で、首を傾げた。
「いや、だから、その。お疲れ様っていう意味を込めて、スキンシップというか、ね?」
ヨウが自分の股間をチラリと視線で示すと、ヒナが静かにため息をついた。
「葛城さん。あなたのその底なしの性欲と絶倫ぶりには、クリエイターとして常に敬意を払っています。しかし」
ヒナは椅子から立ち上がり、フラフラとした足取りで部屋の中央に敷かれたマットレスへと向かった。
「今回ばかりは、無理です。100ページの修羅場と、限界突破のドーピング、そして本日のイベント対応。私の肉体は、快楽を受け入れるだけのエネルギーすら残っていません。今すぐ横にならなければ、生命活動に支障をきたします」
ヒナはそのまま、ゴシックドレスの窮屈な衣装も着替えることなく、マットレスの上にバタリと倒れ込んだ。そして、数秒後にはスゥ、スゥと規則正しい寝息を立て始めたのだ。
「えっ、先生。そのまま寝ちゃうんですか。着替えとか、お風呂とか」
ヨウが驚いて声をかけるが、ヒナは全く動かない。完全な熟睡状態だ。
「あー……私も、もう限界。おっぱい重いし、眠いぃ……」
ユイもヒナに続くようにして、セクシーな悪魔風コスプレのまま、マットレスの上にダイブした。彼女はヒナの背中に抱きつくようにして丸くなり、あっという間に夢の世界へと旅立っていった。
取り残されたヨウは、ポツンと部屋の真ん中に立ち尽くした。
ベッドの上には、極上のコスプレ衣装に身を包んだ、大好きな美少女が二人も無防備に寝転がっている。普段なら、男として絶対に飛びかかっているシチュエーションだ。
よし、俺だけでもこの役得を。
ヨウは自らのズボンに手をかけようとした。
しかし。
「……あ、あれ」
自分の下半身に、全く力が入らない。
ヒナのドーピング要求で絞り尽くされ、ユイのお風呂えっちで限界を超え、さらに昨夜の徹夜マルチタスクえっちで完全に精魂を使い果たしたヨウの分身は、美少女の無防備な寝姿を目の前にしても、ピクリとも反応しなかったのだ。
「うそだろ。俺の絶倫ちんこが、完全に沈黙してる……」
ヨウは自らの股間を見下ろし、乾いた笑いを漏らした。
そうか。俺も、限界だったんだ。
アドレナリンで無理やり動かしていた肉体が、イベントの終了とともに完全にシャットダウンのスイッチを押されたのだ。
エロへの執着よりも、ただただ眠りたい。この柔らかい布団に倒れ込んで、意識を手放したい。
その抗いがたい圧倒的な睡魔に、ヨウもついに白旗を揚げた。
「……まあ、たまには健全な夜も悪くないか。二人とも、本当にお疲れ様」
ヨウは部屋の照明を落とし、二人の美少女が寝ているマットレスの空いているスペースへと潜り込んだ。
右にはゴシックドレスのヒナ。左には悪魔風コスプレのユイ。
いつもなら絶対に手が伸びてしまう距離だが、今夜ばかりは誰も相手に触れようとはしない。ただ、三人の温かい体温だけが布団の中で混ざり合い、過酷な冬の戦いを乗り越えた者だけが共有できる、深い安らぎの空間を作り出していた。
ヨウが目を閉じると、一瞬にして意識が真っ暗な底へと沈んでいく。
冬コミという巨大な魔物を打ち倒した彼らは、エロティックな行為すら忘れるほどの疲労と達成感に包まれながら、川の字になって泥のように眠るのだった。
明日からまた始まる、果てしないエロと同人制作のサイクルのために、今はただ、この勝利の爆睡を貪るしかない。