進め!アシスタント道 作:ろくりん
夏の厳しい日差しを遮る厚手の遮光カーテンが引かれた作業部屋には、高性能なパソコンの冷却ファンが立てる低い唸り音と、三つのペンタブレットが画面を擦るカツカツという乾いた音だけが響いていた。
時刻は午後二時を回ったところだ。午前中の補習を終えて帰宅した秦谷ヒナが放った「では、作業を開始します」という号令とともに、タワーマンションの一室は完全にプロの修羅場へと変貌を遂げていた。
葛城ヨウは、自分用に割り当てられたサブデスクの前に座り、液晶タブレットの画面を真剣な眼差しで見つめていた。彼のミッションは、ヒナが描いた人物の線画に合わせて、背景を作画し、トーンを貼り、ベタを塗ってページを完成させることだ。
先ほどまで、まさにこの部屋の床に敷かれたマットレスの上で、後輩アシスタントの早坂ユイと激しく肌を重ね合わせていた事実が、まるで遠い昔の幻のように感じられる。部屋の空気はピンと張り詰め、エロティックな熱気は微塵も残っていない。
ヨウは共有サーバーから、自分が担当するページのデータを開いた。
画面に表示されたのは、未完成とはいえ、圧倒的な画力で描かれた男女の絡みのシーンだった。女の子の柔らかな太ももに指が食い込む描写や、快楽に歪む表情の生々しさ。そして何より、ヨウ自身が昨日の初日にモデルとしてヒナと密着した際に得られたであろう、肉体と肉体がぶつかり合う重力感が見事に二次元の線として昇華されていた。
普通であれば、こんな汁気たっぷりのエロ原稿を大画面で見せられれば、健康な成人男性であるヨウの股間はたちまち熱を持ち、作業どころではなくなってしまうだろう。
しかし、現在のヨウの精神状態は、驚くほどに澄み切っていた。
まるで、標高三千メートルの雪山で冷たい風を全身に浴びているかのような、絶対的な静寂と透明感が彼の脳内を支配している。
無理もない。午前中にユイの爆乳と底なしの性欲によって、ヨウは体内の欲望という欲望を一滴残らず絞り取られてしまったのだから。彼の男性ホルモンは一時的な枯渇状態にあり、代わりに脳内では一種の覚醒物質がドバドバと分泌されていた。
いわゆる、完全無欠の賢者モードである。
「なるほど。この構図なら、背景のパースは三点透視で、カメラは少し下からの煽り気味に取れば、女の子の胸のボリュームと太ももの肉感がさらに際立つな」
ヨウの口から、無意識のうちに極めて冷静かつ論理的な分析が漏れた。
スケベな雑念が一切排除された脳は、目の前のエロ原稿を単なる幾何学的な図形と、光と影の集合体としてのみ認識していた。ヨウは左手でキーボードのショートカットキーを流れるように叩きながら、右手のペンを液晶画面に滑らせた。
カチャカチャカチャッ、カツッ、シャッ。
ブラック企業で三年間、毎日深夜まで大量のデータを処理し続けて培われたブラインドタッチとツール操作の速度が、賢者モードの圧倒的な集中力と見事な化学反応を起こしていた。
定規ツールを使って正確なパース線を引き、背景となる室内のベッドや本棚の輪郭を迷いなく描き起こしていく。線画が終われば、瞬時にトーンを選択して投げ縄ツールで範囲を指定し、影を落としていく。女の子の肌の柔らかさを表現するための、トーンの削り作業も、手首のスナップを利かせて魔法のような速度でこなしていった。
そのあまりの作業スピードと、キーボードを叩く尋常ではない打鍵音に、隣のデスクで作業をしていたユイが目を丸くして振り返った。
「うわ、アッシーくん。手元、早送り見てるみたい。すごいスピードで背景ができていくんだけど」
ユイは自分の作業を止め、ヨウの液晶タブレットの画面を覗き込みながら感嘆の声を上げた。彼女の豊満な胸がヨウの腕に微かに触れていたが、今のヨウは全く動じることはない。ただひたすらに、ピクセル単位でのクオリティの追求に没頭していた。
「ユイちゃん、手が止まってるよ。先生のペースについていくなら、俺たちアシスタントがここでモタモタしている暇はないからね。このコマのベッドのシーツのシワ、もう少し密度を上げておくよ」
「え、あ、うん。わかった」
いつもならヨウをからかって遊ぶユイも、ヨウから発せられる職人としての凄まじいオーラに気圧され、素直に自分の席に戻ってペンを握り直した。
部屋の奥のメインデスクで作業をしていたヒナも、ヨウの異常なペースに気づき、手を止めてこちらに視線を向けていた。彼女の黒曜石のような瞳が、ヨウの画面に次々と描き出されていく精密な背景を捉え、わずかに驚きの色を浮かべる。
数十分後。ヨウは担当していた見開き二ページの背景と仕上げ作業を完全に終え、ペンを置いた。
「先生、指定されたページの作業、終わりました。共有フォルダにアップしたので確認をお願いします」
ヨウが静かな声で報告すると、ヒナは無言のまま自分のパソコンを操作し、ヨウが仕上げたデータを開いた。
部屋に緊張感が走る。ヒナは目的のためなら自分の身体すら実験台にするほどの、一切の妥協を許さない完璧主義者だ。アシスタントの仕事が彼女の求める水準に達していなければ、容赦なくリテイクの指示が飛んでくるはずだ。
ヒナは画面を拡大し、背景の線の入り抜き、トーンの削り具合、そしてメインのキャラクターを邪魔しない絶妙なコントラストのバランスを、目を皿のようにして隅々までチェックしていった。
一分ほどの無言の時間が永遠のように感じられた後、ヒナは小さく息を吐き、くるりと椅子を回転させてヨウの方を向いた。
「葛城さん」
「はい。どこか修正が必要ですか」
ヨウが身構えると、ヒナは珍しく、本当に微かではあるが、口元に満足げな笑みを浮かべた。
「完璧です。パースの正確さもさることながら、私が描いた人物の魅力を引き立てるための、背景の情報量の引き算が見事です。しかも、この作業スピード。私が想定していた時間の半分以下で上がってくるとは思いませんでした」
ヒナからの最大級の賛辞に、ヨウの胸の奥で熱いものがこみ上げてきた。
ブラック企業では、どれだけ早く正確に仕事をこなしても、上司から当たり前だと一蹴され、さらなる理不尽な業務を押し付けられるだけだった。しかしここでは、自分の技術が正当に評価され、大好きな作品作りの一部として確実に貢献できている。
「ありがとうございます。俺、絶対に先生の足は引っ張りませんから。どんどん指示をください」
ヨウが力強く答えると、ヒナはコクリと頷いた。
「頼もしいです。では、すぐに次のページのデータを送ります。夏のイベントまで時間がありません。このペースで、一気に遅れを取り戻しますよ」
「了解です」
ヒナからの新たな発注を受け、ヨウは再びペンを握り直した。
作業部屋には再び、ペンが画面を擦る音だけが響き渡る。ヨウの脳内は依然としてクリアなままで、次々と送られてくるエロティックな原稿を、凄まじい速度で完成品へと昇華させていった。
しかし、人間という生き物は、いつまでもその特殊な精神状態を維持できるわけではない。
数時間後。窓の外の景色が徐々にオレンジ色に染まり始めた頃、ヨウの完全無欠な賢者モードに、わずかな綻びが生じ始めた。
疲労によって脳内の覚醒物質の分泌が落ち着き、代わりに、午前中に絞り取られたはずの男性ホルモンが、若い肉体の回復力によってじわじわと再生産され始めたのだ。
視界の端に映る、ユイのキャミソール姿。彼女がペンを動かすたびに、ショートパンツから伸びる健康的な太ももが艶かしく揺れ、豊満な胸の谷間が影を作っている。
そして、部屋の奥に座るヒナ。彼女は制服のプリーツスカートを履いたままだが、椅子の上であぐらをかくように座り直したため、スカートの裾から真っ白な膝頭と、太ももの内側がチラリと見え隠れしていた。
ヨウの視線が、無意識のうちに二人の身体のパーツへと吸い寄せられていく。画面の中の二次元のエロから、現実の三次元の生々しい肉体へと、彼のスケベなアンテナが再び強力な電波を受信し始めていた。
なんだか、急に部屋が暑くなってきたな。
ヨウがごくりと唾を飲み込み、ズボンの下で微かな熱を取り戻し始めた自らの下半身を持て余していると、不意にユイが立ち上がり、大きく伸びをした。
「んーっ。疲れたぁ。ねえ先生、そろそろ休憩にしない。私、アイス食べたいな」
ユイのキャミソールが上に引っ張られ、お腹の白い肌が露わになる。ヨウの視線がそこへ釘付けになっていると、ヒナがタブレットから顔を上げ、冷ややかな視線を向けてきた。
「ユイ、あなたはまだ担当ページのベタ塗りが終わっていませんよね。アイスはそれが終わってからです。葛城さんはどうですか」
「えっ。あ、はい。俺は今送られたページ、あと五分で上がります」
ヨウが慌てて画面に向き直ると、ヒナは容赦のない言葉を紡いだ。
「さすが葛城さん、素晴らしいペースです。では、休憩はなしで。そのページが終わったら、すぐに見開きの大ゴマの背景をお願いします。今日は徹夜になりますから、覚悟しておいてください」
「て、徹夜ですか」
「はい。夏の修羅場はここからです。葛城さんのその絶大な集中力と、なんでもやるという言葉を信じていますからね」
ヒナの言葉に、ヨウは引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
賢者モードが切れかかり、煩悩にまみれ始めたヨウの脳裏に、ブラック企業での過酷な徹夜作業の記憶が蘇る。しかし、ここは薄暗いオフィスではない。左右には極上の美少女がおり、描いているのは男の夢が詰まったエロ同人誌なのだ。
エロと労働が表裏一体となったこの異常な職場で、葛城ヨウのアシスタント道は、まだ始まったばかりだった。