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気づけば天井が見えた。
石造りの天井だ。湿った苔の匂い。鉄錆の匂い。そして何か——薬品的な、鼻の奥を突く刺激臭。
……ああ、またか。
手首に冷たい金属の感触。鎖だ。枷に繋がれている。足首にも同じものが巻きついていて、ジャラジャリと音が立つ。俺は薄く目を開け、息を潛めた。
薄暗い通路。松明の灯りが壁に影を落としている。見取り図を頭の中で組み立て始める。入口からここまで——左に二回、右に一回曲がった。通路の幅は大人二人分がやっと。天井の高さは三メートル弱。壁の石の積み方からして、元は自然の洞窟を拡張したものだろう。
「——計測値どうなってる」
通路の奥から声が聞こえた。低い男の声だ。
「計測不能です。三台目の魔力量計も振り切れて——いや、正確には計測器自体が焼けました」
別の男の声。こっちは少し高い。焦りが滲んでいる。
「三台目か。一台目は針が飛んで、二台目はガラスが割れて、三台目は基盤が焼損。人間の魔力でこうなるか?」
「なりません。少なくとも記録に残っている範囲では——」
「じゃあ何だ。こいつは何なんだ」
俺は目を閉じたまま、耳をそば立てた。
会話から読み取れる情報:ここは何らかの組織の拠点だ。俺の魔力を測るために攫った。計測器を三台以上持っているということは、それなりに規模のある組織だ。研究施設のような設備があるなら、ディアボロス教団の末端か——いや、断定はできない。でも匂いがする。前に攫われた時と同じ、あの特有の薬品臭。
「上層部からの指示は?」
「『生かしたまま確保し、魔力の抽出を優先せよ』とのこと。実験体としての価値が——」
「わかってる。だが計測器がないと抽出も出来んだろう」
「四台目を手配しています。到着まで二日——」
二日。それが期限だ。それまでに助けが来なければ、次はもっと面倒なことになるかもしれない。
俺は鎖を試しに引っ張った。ジャラ、と乾いた音がした。枷はしっかりと嵌まっている。手首の感覚はある。指も動く。締め付けすぎではない——少しだけ遊びがある。この手の枷は、嵌めた人間が急いでいた証拠だ。手慣れた作業ではないかもしれない。
(……人数は)
通路の向こうで足音が二組。さっきの会話の男たちだ。他に——松明の揺れる間隔からして、見張りが最低一名は入口付近にいる。さっき左に曲がった角で、誰かの咳払いが聞こえた。あそこにも一人。
合計、少なくとも四人。もっといる可能性は高い。この通路の奥に部屋がいくつかある気配がしたから、全体では十人前後か。
俺は目を閉じたまま、もう一度情報を整理した。
通路の構造。左二回右一回。通路幅、大人二人分。天井高、三メートル弱。見張り、入口一名、角一名、会話中二名。他に部屋の気配あり。計測器三台破損。四台目到着まで二日。
——よし。
あとは助けを待つだけだ。
* * *
助けは、翌日の夜に来た。
正確には、夜明け前だった。
最初に聞こえたのは悲鳴だった。いや悲鳪というより——獣の咆哮に近い。石壁を震わせるような、腹の底に響く低い唸り声。
ドォォォォォン!
何かが壁を突き破る音。いや、突き破ったんじゃない。叩き潰したんだ。俺は鎖に繋がれたまま身体を丸めた。天井から粉塵が降ってくる。目を開けると、通路の方向から砂煙が漂ってきていた。
ドドドドド——足音。速い。速すぎる。人間の足音じゃない。
「な、何だ——!?」
見張りの声。それから金属が弾け飛ぶ音。枷が鎖ごと壁から引き抜かれたのかと思うほどの衝撃が通路を駆け抜けていった。
「ひ——」
悲鳪。短くて、切れた。
俺は鎖を引きずりながら壁に背を付けた。何が起きているのかわからないが、とりあえず壁際が一番安全だろう。経験則だ。
砂煙の向こうから、黒い影が現れた。
いや——黒い影たち、だ。
先頭を行くのは小柄な影。黒髪を振り乱し、巨大な剣を——いや、あれは鉄塊と呼ぶべきものだ——片手で振り回している。デルタだ。紫の瞳が暗闇の中でぎらぎらと光っている。
その後ろに、もう一つの影。黒いスライムボディスーツに長いコート。フードで顔は見えない。だがその佇まいだけでわかる。
シャドウだ。
「エロゲーーー!!」
デルタが叫んだ。同時に俺の目の前にいた見張り——気絶していたのか、それとも気を取り直したのか——が剣を構え直して立ち上がろうとした。
デルタの爪が横薙ぎに払った。
バゴォッ!
見張りは壁まで弾き飛ばされ、そのまま動かなくなった。石壁に亀裂が走っている。俺は思わず目を逸らした。
「エロゲ! 生きてたのです!?」
デルタが俺の前に滑り込んできた。鎖を一瞥し、それから剣の腹で枷を叩き割った。手首に熱が残る。枷が外れた瞬間、血流が戻る感覚がじわりと広がった。
「あ、ありがとうデルタ——」
「ボス! エロゲ見つけたのです!」
デルタは俺の返事を待たずに通路の奥へ向かって叫んだ。
シャドウが歩み寄ってくる。その足音は静かだった。デルタが蹴散らした破片と気絶した男たちの間を、一歩も音を立てずに歩いている。
「……無事か」
低い、芝居がかった声。シャドウの声だ。
「無事。たぶん。計測器三台壊したのは俺のせいじゃないからな」
シャドウはフードの下で微かに笑った気がした。
「……計測器三台?」
「あと、ここから入口まで左二回右一回。見張りは最低四人。奥に部屋がいくつかある。全体で十人前後。四台目の計測器が届くまで二日らしい」
俺は捕まっている間に聞いたことを淡々と並べた。
シャドウは数秒、沈黙した。
「……お前、捕まってる間に何してたんだ」
「聞いてただけ。暇だったから」
シャドウのフードが微かに傾いた。笑っているのか呆れているのか、表情は見えない。
「……そうか」
それだけ言って、シャドウは出口の方へ歩き出した。デルタが俺の腕を掴んで引っ張る。力が強い。肩が抜けそうだ。
「行くのです。エロゲ、自分で歩ける?」
「歩ける。歩けるから腕離してくれ。脱臼する」
デルタはきょとんとして、それからぱっと手を離した。
「エロゲ弱いのです」
「うん。知ってる」
* * *
拠点の古城に戻ったのは、日の出と共にだった。
俺の服は泥と血と薬品の汚れで斑模様になっている。手首には枷の跡が赤く残っていた。デルタに引きずられて森を突っ切ってきたおかげで、制服の裂け目も増えている。
古城の重い扉が開くと、薄暗い廊下の奥から甘い香りが漂ってくる。ミツゴシ商会から届いた物資だろうか。
シドが大広間への扉の前で待っていた。木の枝を肩に担いで、欠伸を噛み殺しながら。
「お、おかえり。三回目だよね今月」
「三度目の正直って言うだろ」
「正直も何も、お前攫われすぎじゃない? 月に二三回ペースでしょもう」
俺は扉を押し開けた。大広間の奥、長い石テーブルの上座にアルファがいた。
金髪が燭台の灯りに揺れている。碧眼がこちらを捉えた。
——その瞬間、俺は無意識に動いていた。
膝が石床に叩きつけられる音が大広間に響いた。見事な土下座だ。角度、手の位置、額と床の距離、すべてにおいて完璧。もはや職人芸の域に達している。
アルファは書類から顔を上げ、その光景を冷ややかに見下ろした。碧眼が細まる。
「何をしているのエロゲ」
椅子の肘掛けに頬杖をつき、長い金髪が肩から流れ落ちる。声には呆れと僅かな苛立ちが混じっているようだった。
「また土下座? 前に来た時もそうやってたわよね。その癖いい加減やめなさい。見ていて恥ずかしいの」
すみません。俺も自分が恥ずかしいです。
シドは俺の横を素通りし、上座の隣にどっかと腰を下ろした。
「アルファ、で会議って何? 僕的にはサクッと終わらせてほしいんだけど」
アルファの視線がシド、そしてまだ額を床につけている俺の間を往復した。
「立ちなさい、エロゲ。報告があるの。あなたに関わることよ」
「はい」
立ち上がると、制服の裂け目から擦り傷が覗いた。アルファの眉が僅かに動いたが、何も言わなかった。
アルファはテーブルの上の書類を一枚、指先で滑らせた。
「単刀直入に言うわ。あなたを狙った組織の正体が判明したの」
書類には複雑な紋章といくつかの名前が記されていた。
「ディアボロス教団の分派よ。目的は……あなたの『魔力』そのもの」
アルファの声が一段低くなった。碧眼から温度が消える。
「前回あなたが攫われた際、連中があなたの魔力を計測していた形跡があるわ。イータの分析では、あなたの魔力量は既存の測定器の上限を振り切っていて正確な数値は不明」
俺は黙って聞いた。内心で頷く。あの計測器が壊れたのは俺のせいじゃない。壊れたんだ。勝手に。
「つまり連中はあなたを生きた魔力タンクとして欲しがっている。何度でも攫いに来るわよ」
シドは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「へぇー」「なるほどな」
俺達はそれを聞いて、相変わらず凄い設定だと思う。いや、俺としてはもっと切実な問題がある。性奴隷にもなりかけたんだぞ。
「聞いてるの? あなたの命が狙われてるって話よ?」
アルファはテーブルに手をつき、身を乗り出した。
「前回はデルタが間に合ったから良かったものの、次もそうとは限らないわ。連中はあなたの魔力の器としての純度に目をつけてる。もし実験体にされたら——」
言葉を切り、アルファは唇を噛んだ。
シドは欠伸を噛み殺しながら、ひらひらと手を振った。
「まあまあアルファそんな怖い顔しないでよ。エロゲが死ぬわけないじゃん。こいつ攫われるたびにちゃっかり情報持って帰ってくるし」
アルファの碧眼がシドを射抜いた。
「……あなたもう少し真剣に聞いたら?」
「まぁ、戦闘能力のない俺には囮ぐらいしか出来ないからさ」
俺は言った。
アルファの目が見開かれた。一瞬、呼吸すら止まったように見えた。
「囮……ですって?」
声が震えていた。怒りなのか何なのか——俺にはわからない。ただ石テーブルを掴む指先が白くなるほど力が込められているのは見えた。
「あなた、自分が何を言ってるの? 囮ということはわざと捕まるということよ。連中の手の中に自分から飛び込むということよ」
「だって攫われても助けてくれるから」
アルファの唇が微かに開き、そして閉じた。
沈黙が落ちた。燭台の炎が揺れて、影が壁を這った。
「……認めないわ」
アルファの声は静かだった。だが静かすぎて、逆に怖かった。
「あなたを囮にする方案は認めない。リスクが大きすぎる」
「でも——」
「いい? 聞きなさい」
アルファは腕を組んだ。碧眼が俺を真っ直ぐに捉えている。逃げ場がない。
「あなたが毎回持ち帰る情報がどれほど有用か、私は把握しているわ。前回の拉致で得た拠点図が、イータの分析と一致した。前々回の会話記録から、教団の末端組織の構造が判明した。あなたが偶然聞き留めた人名三つが、ゼータの偵察ルート決定に直結した」
俺は目を瞬かせた。……そうだっけ? いや確かに言われた通りに覚えてはいたけど、あれはただ暇つぶしに聞いてただけで。
「だからこそ——あなたを無駄に危険に晒すわけにはいかない。あなたの価値は情報収集だけじゃないの」
アルファの声が僅かに柔らかくなった気がした。いや、気のせいかもしれない。
「条件をつけるわ。三つ」
指が一本ずつ立てられる。
「一つ。単独行動は禁止。常に護衛を配置する。二つ。攫われた場合でも自ら動かない。覚えるのは耳に入ってきたことだけ。決して相手に探りを入れるような真似はしない。三つ——」
アルファは言葉を切った。碧眼が俺を射抜く。
「万が一、四台目の計測器が届く前に救出できなかった場合。その時は私が直接乗り込む。待機じゃない。即座よ」
シドが口笛を吹いた。
「おー。アルファマジだ」
「当然よ。これでも七陰の長をしているの」
アルファは書類をトントンと揃えた。
「それと、これに伴い七陰全体に警戒態勢を敷くわ。ベータ、ガンマ、デルタには既に通達済み。ゼータにはあなたの護衛任務を一時的に解いて偵察に回させる」
シドが椅子をぎしりと鳴らした。
「ゼータの護衛外すの? あいつ泣くよ? 泣くわよ」
「でも私は七陰の長として、戦力を偏らせるわけにはいかない。敵の拠点が判明するまでエロゲの護衛は——」
アルファは一瞬言葉を切った。
「私が直接やるわ」
「えっ、そうなの、わかった」
シドが椅子から身を起こし、にやりと口角を上げる。
「へぇー。第一席自ら護衛ね。それ戦術的判断?」
アルファはシドを一瞥した。
「当然よ。私が最も効率よく動ける。他の六人にはそれぞれ役割があるもの」
* * *
その時だった。
大広間の奥の扉が勢いよく蹴り開けられた。
黒髪を振り乱したデルタが息を切らして飛び込んできた。紫の瞳がぎらぎらと光り、鼻をひくつかせながら俺の方へ一直線に突進してくる。
「エロゲーーー!! 生きてたのですーーー!!」
そのまま全力疾走で突っ込んでくる獣人を誰も止めようとしなかった。
「ごげぶぅ!?」
デルタの全身が胴体に直撃した。獣人の膂力による抱擁、いや突撃である。身体ごと石床を滑り壁際まで押し込まれた。肋骨が悲鳴を上げているに違いない。
デルタは首に顔を押し付けたまま、尻尾をぶんぶんと振り回した。何か湿ったものが制服に染み込んでいく。涙か鼻水か区別がつかない。
「デルタずっと心配してたのです! エロゲの匂いが途中で消えて猪の血の匂いだけが残ってて、ボスが『まあ大丈夫だろ』って言うから待ってたのです!」
ぐりぐりと頬を擦りつけられる。獣人のマーキング行為だ。痛い。
「でもメス猫のやつが『偵察に行く』って言い出したから、デルタも行こうとしたのです! そしたらアルファ様にダメって言われたのです!」
アルファが額に手を当てた。
「デルタ、力加減。壊れるわよ」
デルタは首を傾げた。腕を緩める気配はない。
「壊れないのです。エロゲは頑丈なのです!」
シドは椅子の上で足を組んだまま遠い目をしていた。
「頑丈かなぁ……」
そう言われた俺はというと。
「あががっ」
魂が抜けかけている。視界がチカチカする。
アルファは素早くデルタの首根っこを掴んだ。デルタの襟を引いたのだ。
「デルタ、離しなさい。護衛対象を殺したら元も子もないでしょう」
デルタはきょとんとした目でアルファを見上げ、それから腕の中を覗き込んだ。俺の顔色が悪いのは自分でもわかる。尻尾が心配するようにしおれた。
「あ。エロゲ顔色悪いのです」
ぱっと手を離すと、俺は壁にずるりともたれかかった。デルタは鼻をひくつかせ首を傾げる。
「でもデルタのせいじゃないですよ? エロゲが弱いのが悪いのです。デルタ手加減したのです」
シドが立ち上がり、俺の肩をぽんぽんと叩いた。野戦病院の衛生兵みたいな手つきだ。
「おーい生きてるー? モブが死んだら物語が成り立たないんだけどー」
そこへ大広間の入口から新たな足音が近づいてきた。コツコツと規則正しい靴音。銀色の髪が燭台の光を反射する。
ベータが書類の束を抱えて現れた。碧眼が俺を捉えた瞬間、頬が紅潮した。
「あ……エロゲ様……! ご無事でしたか……!」
声が震えていた。
ベータは書類を胸に抱いたまま壁際にずり落ちた俺の前に跪いた。銀髪が揺れ、至近距離で俺の顔を覗き込んでくる。
「ああ……なんておいたわしい……。デルタに力で朦朣とされるエロゲ様、それでも仲間を恨むことなく受け入れる器の大きさ……」
ベータの瞳がとろんと潤んだ。
「こ、これは……囚われ人の理想郷に囚われた姫が魔王の強靭な抱擁で意識を……いえ逆ですね。魔王が姫の腕の中で……ああどちらの構図が素晴らしいか……!」
アルファの目が冷たく光った。
「ベータ」
びくっと背筋が伸びた。
「は、はい! アルファ様! 新作の構想ではありません! 断じて!」
シドが俺の頬を指先でぺちぺち叩いていた。
「おーい気絶すんなよー。これからかっこいいシーン見せようと思ってたのに。陰の実力者が気絶したモブを起こす演出……いやモブは自分で起きるべきか」
手を引いた。
「まあいっか。アルファ続きどーぞ」
アルファは深く息を吐き、気絶しかけた俺を見下ろした。碧眼の中に何か複雑な色が渦巻いているように見えたが、それが何なのか俺にはわからない。
「……これが、私たちの盟友なのよね」
誰にともなく呟いたその声は、呆れと苛立ちと、それから名前のつけられない何かが混ざっているように聞こえた。
【エロゲ】
シドとは前世から続く腐れ縁。測定器の限界を超える魔力を秘めているが、それを扱う才能も戦闘能力もない。異常な誘拐運と窮地での観察力を持ち、攫われるたびに敵の情報を持ち帰る「最強の囮」。
【シド・カゲノー】
陰の実力者を目指す少年にして、シャドウガーデンの盟主。友人の誘拐すら理想的な救出演出の舞台として捉えている。気楽に振る舞っているが、エロゲが簡単には死なないと強く信じている。
【アルファ】
七陰の第一席であり、シャドウガーデンを統率する実質的な指導者。冷静な戦略家だが、自分の命を軽く扱うエロゲには珍しく感情を乱す。心配を戦略的判断で覆い隠し、囮となる彼を守ろうとしている。
【デルタ】
七陰の第四席に属する獣人の少女。嗅覚と本能に優れ、姿を消したエロゲを誰よりも心配していた。再会すると全力で抱きつくほど懐いているが、力加減ができないため、救出対象を自分で壊しかねない。
【ベータ】
七陰の第二席で、小説家としての顔も持つエルフ。傷ついたエロゲの姿を見ると、仲間を恨まない器の大きな人物として勝手に美化する。出来事をすぐ物語の題材へ変換してしまい、たびたびアルファに止められている。