目が覚めると、消毒液の匂いがした。
白い天井。白い壁。白いカーテン。
学校だ。ミドガル学園の保健室だ。
(…なんで俺、ここにいるんだ?)
最後の記憶を辿る。確かイータの研究所でガンマと背中合わせにされて——イータに手コキをされて——アルファに怒鳴り込まれて——それから?
それから覚えていない。
俺はベッドから上半身を起こそうとした。肋骨のあたりに鈍い痛みが走る。ああ、まだ治ってないのか。デルタの突撃とアルファの——いや、思い出すのはやめよう。トラウマが蘇る。
「あら。起きたわね」
声がした。
ベッドの横。窓際に置かれたパイプ椅子に、誰かが座っていた。
長い——本当に長い黒髪。腰から先へ流れ落ちる艶やかな黒髪が、椅子の脚を隠すほどに垂れている。白い肌。紫の瞳。薄い黒色のローブの下に深い紫色のドレス。
整いすぎた顔立ち。彫刻作品を思わせる美貌。
(誰だ、この人)
俺は瞬きをした。
見覚えがある。いや、見覚えというよりは——既視感だ。夢の中で見たことがある。何度も。何度も。
「……アウロラ?」
名前が口から滑り落ちた。
俺自身も驚いた。なぜその名前を知っているのか。でも、わかる。この気配、この圧、この逃げ場のない美しさ。間違いない。
「あら」彼女は小首を傾げた。長い黒髪がさらりと揺れる。「私の名前を知っているの?」
「いや……知ってるというか、なんとなく」
「なんとなく、ね」
アウロラは愉悦を含んだ声で笑った。冗談を言うように、だけど目は全然笑っていない。紫色の瞳が俺を値踏みするように見つめている。
「あなた、名前は?」
「エロゲ……です。まあ、名前としては最悪なんですけど」
「エロゲ」彼女が口の中でその名前を転がした。「変わった名前ね」
「言わないでください。聞き慣れてるんで」
俺は枕に頭を戻した。天井の白さが目に染みる。
「で、何してるんですか、保健室で」
「散歩よ」
「保健室で散歩ですか」
「か弱い乙女の気まぐれと思ってちょうだい」
「か弱い乙女が保健室に座ってるって、それは気まぐれというか不審者というか」
アウロラは可笑しそうに唇を綻ばせた。怒る様子はない。むしろ楽しんでいる。
「それで、エロゲ。一つ聞いていい?」
「何をですか」
「あなた、自分の魔力に自覚はある?」
俺は首を傾げた。魔力。俺の魔力。確かに前々から計測器が壊れるとか、イータに実験台にされるとか、そういう話はあった。でも自覚というか、実感というか——特にない。
「自覚はないです。使えないですし」
「使えない?」アウロラの眉が微かに上がった。「使えないのに、この距離で私と会話ができているの?」
「会話? してますけど」
「ここは夢の中よ」
俺は手を見た。手が透明だった。いや、透明というより——輪郭がぼやけている。ベッドの感触も、消毒液の匂いも、全てが半分現実で半分夢だ。
(夢? これが?)
「あなたの魔力が、無意識に私の意識を引き寄せたのよ。夢の中で、私と対話できるほどの距離まで」アウロラの声が低くなった。紫色の瞳が真っ直ぐに俺を見つめている。「それはね、普通の人間にはできないことなの」
「普通じゃないのは自覚してます。計測器三台壊しましたし」
「計測器? そんな玩具みたいなもので測れるわけないでしょうに」
「玩具って」
アウロラは立ち上がった。ローブの裾が床を擦る。近づいてくる。一步ごとに、空気が重くなる。彼女から発せられる魔力の圧が、保健室の空気を変えていく。
(すごいな、この人。アルファとはまた違う。もっと……根底的な圧だ)
彼女がベッドの縁に手をついた。紫色の瞳が、俺を至近距離で覗き込む。
「あなたの魔力、私と同じ匂いがするわ」
「同じ匂い?」
「ええ。古い。深い。底がない」
アウロラの指先が、俺の頬に触れた。冷たい。氷のように冷たい指先なのに、触れられた場所だけ火傷しそうなほど熱い。矛盾した感覚だ。
「正直、驚いているの」彼女は言った。いつもの余裕のある声が、ほんの少しだけ揺れていた。「夢の中で会話ができるだけでも珍しい。けれど、ここまで鮮明に。私の姿を、名前を、声を、正確に認識している。あなたの魔力は——私が知っている限りの人間の中で、最も私に近い」
「近いって言われても、俺、戦えないんですけど」
「戦えないことと、魔力の深さは別の話よ」
アウロラは手を離した。冷たさが消え、名残のような痺れだけが頬に残った。
「それで、アウロラさん。何の用ですか? 夢の中まで来るくらいだから、何か伝えたいことがあるんでしょう」
「ふふ。鋭いのね」彼女はパイプ椅子に戻り、膝を組んだ。「伝えたいこと、というより、警告ね」
「警告?」
アウロラの紫色の瞳が、暗く沈んだ。冗談が消える。彼女の表情から遊びが消え、ただ静かな真剣さだけが残った。
「あなたの魔力が目立ちすぎているの。私のような存在だけじゃない。もっと……下等な連中も、あなたの匂いに気づき始めている」
「下等な連中って」
「ディアボロス教団。もちろん、あなたの仲間が知っている組織とは違う。もっと奥。もっと深いところにいる連中よ」
俺は背筋が冷たくなるのを感じた。夢の中だというのに、恐怖はリアルだ。
「俺、また攫われますかね」
「攫われるだけならまだいいわ。今度は——返ってこられないかもしれない」
沈黙が落ちた。保健室の白い壁が、夢の中であることを忘れさせるほど現実的に見えた。
「あの、アウロラさん」
「何?」
「俺、週に二三回攫われてるんです。もう慣れました」
アウロラは目を丸くした。
「慣れたって、命の話をしているのよ?」
「いや、だって攫われても助けてくれる奴らがいるんで。デルタが突撃して、シャドウがかっこつけて、アルファが怒鳴って。いつものパターンです」
アウロラは数秒、無言で俺を見つめた。それから——笑った。声を出して笑った。肩を揺らしながら、楽しそうに。
「面白い人ね、あなた」
「面白くないです。切実です」