またここか。
イータの研究所。金属の壁、リベットの並んだ天井、棚に並ぶ怪しげな液体。
俺は拘束台の上に固定されていた。手首、足首、腰、胸。五箇所をがっちりと締め付けられ、指一本動かす余地がない。前回と同じ椅子だ。いや前回より拘束が厳しい気がする。
「イータ。今回の実験の目的を聞いてもいいか」
「魔力吸収。…前回より効率的」
「前回ってガンマと背中合わせにされたあれか? あれ効率的だったのか?」
「…数据的には。…でも改善の余地あり」
「改善って何をどう」
イータは答えない。眠そうな目をゴーグルの下から細め、手元の機械を弄っている。前回と同じ腕時計型の魔導具だ。いや、今回は随分とデカい。椅子の横に据えられた装置から、太い配管が俺の拘束台へと伸びている。
「…今回は制限なし。…エロゲの魔力を全開で流す」
「全開? 制限なしって何が起きるんだ」
「わからない」
「わからないのかよ!」
横で鼻をひくつかせる音がした。
デルタだ。
黒い髪。狼の耳。ぶんぶんと揺れる尻尾。普段なら俺を見るたびに突進してくる獣人の少女が、今日は妙におとなしい。いやおとなしいというより——目が輝いている。
「エロゲ。すごい匂いなのです」
「匂い?」
「魔力の匂い。イータが装置いじるたびに、エロゲから匂いが強くなるのです」
「それは多分俺のせいじゃなくて装置のせいだ」
デルタの鼻は鋭い。魔力量の変化を嗅ぎ分けることができる。今の俺からは、装置の試運転に伴って漏れ出している魔力が、獣人の嗅覚を刺激しているらしい。
「楽しみなのです。エロゲの魔力いっぱい嗅げるのです」
「嗅ぐ目的で来たのかお前」
デルタは拘束台の横に立ち、鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いでいた。尻尾がぶんぶん振られている。犬だ。いや狼だ。どっちでもいい。
「デルタ。ちょっと離れててくれるか。実験中だから」
「ダメなのです。デルタはここにいるのです。エロゲの匂いが一番近いから」
「お前なぁ…」
イータが手を止めた。準備完了らしい。機械のランプが青から赤へと変わる。
「…準備完了。…デルタ、下がって」
「いやなのです」
「危険かもしれない」
「いやなのです!」
デルタは頑固だ。アルファの命令なら聞くが、イータの指示となると優先順位が下がる。七陰の序列意識がそうさせるのだ。
イータは一秒考えた。それから諦めたように頷いた。
「…デルタはそこに。…爆発しても知らない」
「爆発って!」
イータの指が、スイッチにかかった。
「…いく」
カチリ。
スイッチが押された瞬間——俺の身体の中で何かが弾けた。
ドクン!
心臓が跳ねた。いや、心臓じゃない。もっと深いところ。魔力核と呼ぶべきものが、腹の底で爆発したように脈動した。
熱い。熱い。熱い!
全身の血管に魔力が逆流する感覚。指先から足先まで、細胞の一つ一つに魔力が満ちていく。だがそれは出ていく。装置を通じて、俺の魔力が外部へと吸い出されていく。
「ぐっ…あぁぁっ…!」
声が漏れた。痛いのか気持ちいいのかわからない。ただ身体の中身が全部引っ張り出されるような感覚だ。
「…魔力流出。良好。…数値が…計測不能」
「計測不能って!」
イータの声が遠い。装置が唸りを上げ始めた。配管が振動し、俺の拘束台がガタガタと揺れる。魔力が流れるたびに、装置の内部で光が明滅していた。
「…すごい。…エロゲの魔力、止まらない。…制御できない」
「止めろ! 止めてくれ!」
「…無理。…スイッチが効かない」
無効だと!?
装置から煙が上がり始めた。火花が散る。配管の継ぎ目から魔力の光が漏れ出し、室内の空気がピリピリと帯電し始める。
「デルタ! 下がれ!」
俺は叫んだ。だが遅かった。
ブシュゥゥゥッ!
装置のパイプが破裂した。白い蒸気と魔力の光が一斉に噴き出す。同時に俺の身体からも、制御できない魔力が溢れ出した。
ドォォォォン!
爆発。
装置が弾け飛び、俺の拘束台もろとも後方へと吹き飛ばされた。身体が宙を舞う。背中が床に叩きつけられる。拘束具が外れる音がした。いや、壊れた音だ。
「ぐはっ…!」
肺の空気が全部抜けるほどの衝撃。視界が白く染まり、耳がキーンと鳴る。
俺は床に倒れたまま、数秒間動けなかった。全身の魔力が空っぽになったような感覚。指一本動かす力が残っていない。
(…死ぬかと思った)
だが死んでいない。残念ながら。いや幸運にか。
「…いた」
イータの声がした。爆発に巻き込まれたはずなのに、声は冷静だ。いや爆発に巻き込まれながらも平然としているのだ。このエルフ本当に頑丈だな。
俺はなんとか顔を上げた。
煙が晴れかけている。割れた配管から蒸気が漂い、床には破片が散乱している。イータは壁際まで吹き飛ばされたようだが、ゴーグルを直しながら平然と立ち上がっていた。服は破れ、肌に火傷のような跡があるが、本人は気にした様子がない。
「…装置全損。…データは取れた。…でも」
イータの眠そうな目が、一点を見つめていた。
「…デルタ」
デルタ。
俺はその名前で我に返った。爆発の時、デルタは装置のすぐ横にいた。一番近くにいた。
「デルタ! 無事か!」
俺は身体を起こそうとした。だが腕に力が入らない。這うようにして上半身を起こすのが精一杯だ。
煙の向こう。イータの視線の先。
何かがいた。
いや、誰かがいた。
黒い影。煙の中に立つ、人型の影。
赤い光が漏れ出している。影の周囲に、禍々しい赤い魔力が、霧のように漂っていた。
煙が晴れていく。
見えた。
長い黒髪。狼の耳。尻尾。
見慣れたデルタの輪郭だ。だが——
「…え」
俺は自分の目を疑った。
デルタの服が変わっていた。普段のスライムスーツではない。赤い差し色の入った禍々しい黒い装い。闇を凝縮したような黒色の衣装が、デルタの身体を覆っている。
爪が伸びていた。指先から鋭く長い鉤爪が生え、金属の床を歩くたびにガリガリと音を立てている。牙も見えた。口元を微かに開いた隙間から、普段より遥かに鋭くなった犬歯が覗いている。
そして瞳が——赤い。
元の紫色の瞳が、禍々しい深紅に染まっていた。瞳孔が獣のように縦に細まり、焦点が定まっていない。
周囲に漏れ出す赤い魔力が、物理的な圧となって空気を歪めている。近づくだけで、身体が勝手に身構えるほどの威圧感。
デルタだ。間違いなくデルタだ。耳も尻尾も髪色も変わっていない。
だが——
「誰だ」
俺は呟いていた。無意識に。自分の声だとは思えなかった。
同じだった。
隣でイータが、同じ言葉を口にしていた。
「…誰」
二人の声が重なった。
デルタは——いや、目の前の存在は——ゆっくりと顔を向けた。
赤い瞳が俺を捉えた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その瞳が揺れた。
耳がぴくっと動いた。鼻がひくついた。俺の匂いを嗅いだのだ。慣れた匂い。何度も突撃して、何度も抱きついて、そのたびに嗅いできた匂い。
一瞬だけ——元のデルタが内側にいた。
だが次の瞬間、赤い瞳が再び暗く沈み、威圧感が倍増した。
低い唸り声が、喉の奥から漏れ始める。
「…グルルル…」
それはデルタの声だった。でもデルタじゃない。
俺とイータは、同時に同じ言葉を呟いていた。
「「誰だ…?」」
煙の中で、赤い瞳が鈍く光った。