「え、あの、俺、そろそろ行かないと」
俺は立ち上がった。ビッグマグロの包み紙をトレイに乗せ、コーラのカップを手に取る。完璧な撤退動作のつもりだった。自然に、何気なくさりげなく。
「どこへ?」
「えっと、職場が」
「職場で何をしてるの?」
「後始末…じゃなくて、管理業務です」
「へえ。で、何時から?」
「えっと、いつからだっけかな…」
「今からよ」
ベアトリスが立ち上がった。俺の言葉を待たずに。金髪がふわりと揺れ、その動きだけで周囲の空気が一段変わった気がした。マグロナルドの店内にいた他の客たちが、ちらりとこちらを見て視線を逸らす。あの金髪。あのオーラ。エルフの血が見た目にもわかる。
「ちょっと、まだハンバーガーが」
「もういいでしょ。半分食べてるわ」
「残すのはもったいない」
「マグロが可哀想? あなたの胃に沈むのが本望よ」
「哲学的だな」
「行くわよ」
ベアトリスが一歩近づいた。俺は一歩下がる。彼女がもう一歩近づく。俺はもう一歩下がる。テーブルを挟んでのチェスみたいな動き、のはずだった。
だが、俺の背中が椅子に当たった。
ちっ。
ベアトリスの口元が微かに動いた。笑ったのだ。獲物を追い詰めた捕食者の笑み。
「エロゲ。逃げるつもり?」
「逃げてません。ただ、後ろの椅子に」
「後ろの椅子に当たったらどうするの?」
「引く」
「引いてどうするの?」
「前進の準備」
「なるほど」
ベアトリスが腕を伸ばした。
その動きは速かった。エルフの身体能力は伊達じゃない。俺が反応する暇もなく、彼女の指が俺の首の後ろ——シャツの襟に——かかった。
ぐっ。
「あ」
「捕まえた」
ベアトリスは軽々と俺を持ち上げた。猫の子を掴むように。いや子猫のほうがまだ扱いが丁寧だ。俺は完全に荷物だ。シャツの襟が首を締め、息がしづらい。
「はな、離してくれ」
「離さないわ」
「人権が」
「私の質問権のほうが強いのよ」
「質問権って何だ!」
「答えるまで離さない権利」
「それ脅迫だろ!」
ベアトリスは俺を引きずり始めた。マグロナルドの床を足先が擦る。ズル、ズルという音が店内に響く。他の客たちが固唾を飲んで見ている。俺は視線を感じながらも、叫ぶことしかできない。
「店員! 店員助けて!」
カウンターの店員が顔を上げた。俺の必死の叫びを聞いて、しかし店員は気まずそうに視線を逸らした。
「お客様、店内でのトラブルは外でお願いします」
「トラブルじゃなくて拉致されるんだよ!」
「そうですか。頑張ってください」
「頑張れって!」
ベアトリスは笑った。低く、艶やかに。
「この子、言うこと聞くのね」
「マグロナルドはお客様第一主義だから」
「あなたは客じゃないでしょ、もう」
悔しいがその通りだ。ビッグマグロを半分残した客の権利はすでに失われている。
俺は店の外へ引きずり出された。王都の大通り。石畳。往来の人が行き交う。だが誰も俺を助けようとしない。金髪のエルフが男一人を引きずる光景は、この街では日常の一部らしい。
(この街、治安悪すぎだろ)
「ねえ、ベアトリスさん」
「何?」
「せめて行き先を教えてくれないか」
「私の宿」
「宿で何を」
「話を聞くのよ。あなたが知ってることを全部」
「何も知らないって言ってるだろう」
「嘘」
ベアトリスは振り返らずに言った。俺のシャツの襟を掴んだまま、大股で歩いている。長い金髪が風に流れ、通りの人々が道を譲る。美しい光景だ。美しすぎて誰も止めに入らない。あのオーラの前では正義の味方も尻込みするのだ。
「私の顔を見るなり動揺して、私の名を聞いて冷や汗をかいて、親族に触れられて顔色を変えた」
「顔色なんて変わってない」
「変えてたわ。肉眼でわかるレベル」
「そんなに変えてたのか俺の顔」
「今も変わってる」
「今は首絞められてるからだよ」
「それもあるけど、本質的に何か知ってる顔よ」
ぐぬぬ、と歯噛みした。だが観念するしかない。この女、アルファと同じくらいたちが悪い。そして確信を持っている。俺が何かを知っていると。
俺はもう抵抗をやめた。されるがままに引きずられながら、心の中で一つだけ思った。
(アルファ。ごめん。俺、お前の親戚に捕まった)
そしてもう一つ。
(ビッグマグロ、残してきちゃったな…)
後で怒られそうだ。誰にとは言わないが。
大通りを抜け、一本裏の小道に入る。ベアトリスは迷いなく歩を進めている。宿の場所を知っているらしい。迷いがない。土地勘がある。この街に来て日が浅いわけじゃない証拠だ。
「ベアトリスさん」
「何」
「妹さんって、どんな人だったんですか」
彼女の足が止まった。
いや、止まったのは一瞬だけ。すぐにまた歩き出す。だがその一瞬で、彼女の背中に走った緊張が伝わってきた。
「...あなたに関係あるの?」
「いや、なんとなく」
「なんとなく、で妹の話を聞くの?」
「聞くだけならいいだろ」
ベアトリスは歩きながら、ぽつりと答えた。
「優しい人だったわ。私と違って。私よりずっと真面目で、頭が良くて、それでいて不器用で」
俺は黙って聞いた。
「どんな困難にも屈しない芯の強さがあった。だからこそ、あんなことになったのだけれど」
あんなこと。
俺は口を挟まなかった。アルファがどんな経緯で肉塊になったのか、俺は正確には知らない。シドも詳しくは話さなかった。ただ「悪魔憑きとして捨てられた」という言葉だけを覚えている。
ベアトリスはまた黙った。話す気はないらしい。今のは独り言に近かった。
やがて、脇道の突き当たりにある小さな宿に着いた。古い石造りの建物。看板には「眠れる獅子亭」と書かれている。
ベアトリスは扉を開け、俺を中へ放り込んだ。石畳の床に俺が転がる。尻が痛い。
「いてて」
「座って」
ベアトリスは椅子を一脚引いて俺に勧めた。断る余地はない。この状況で断ったら、次は窓から放り出されるだろう。
俺は椅子に座った。ベアトリスは向かいに座り、脚を組んだ。10年以上表舞台に出ていなかったというのに、この優雅さ。エルフの血は長命で、だからこそ風格もまた濃い。
「さあ、話してもらうわよ」
ベアトリスはテーブルに肘をつき、青い瞳で俺を真っ直ぐに見た。
「私の妹の忘れ形見。そして、あなたとの関係を」