※この作品はR-18です。

囮の実力者になりたくなくて!   作:ボルメテウスさん

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逃走失敗

「え、あの、俺、そろそろ行かないと」

 

俺は立ち上がった。ビッグマグロの包み紙をトレイに乗せ、コーラのカップを手に取る。完璧な撤退動作のつもりだった。自然に、何気なくさりげなく。

 

「どこへ?」

 

「えっと、職場が」

 

「職場で何をしてるの?」

 

「後始末…じゃなくて、管理業務です」

 

「へえ。で、何時から?」

 

「えっと、いつからだっけかな…」

 

「今からよ」

 

ベアトリスが立ち上がった。俺の言葉を待たずに。金髪がふわりと揺れ、その動きだけで周囲の空気が一段変わった気がした。マグロナルドの店内にいた他の客たちが、ちらりとこちらを見て視線を逸らす。あの金髪。あのオーラ。エルフの血が見た目にもわかる。

 

「ちょっと、まだハンバーガーが」

 

「もういいでしょ。半分食べてるわ」

 

「残すのはもったいない」

 

「マグロが可哀想? あなたの胃に沈むのが本望よ」

 

「哲学的だな」

 

「行くわよ」

 

ベアトリスが一歩近づいた。俺は一歩下がる。彼女がもう一歩近づく。俺はもう一歩下がる。テーブルを挟んでのチェスみたいな動き、のはずだった。

 

だが、俺の背中が椅子に当たった。

 

ちっ。

 

ベアトリスの口元が微かに動いた。笑ったのだ。獲物を追い詰めた捕食者の笑み。

 

「エロゲ。逃げるつもり?」

 

「逃げてません。ただ、後ろの椅子に」

 

「後ろの椅子に当たったらどうするの?」

 

「引く」

 

「引いてどうするの?」

 

「前進の準備」

 

「なるほど」

 

ベアトリスが腕を伸ばした。

 

その動きは速かった。エルフの身体能力は伊達じゃない。俺が反応する暇もなく、彼女の指が俺の首の後ろ——シャツの襟に——かかった。

 

ぐっ。

 

「あ」

 

「捕まえた」

 

ベアトリスは軽々と俺を持ち上げた。猫の子を掴むように。いや子猫のほうがまだ扱いが丁寧だ。俺は完全に荷物だ。シャツの襟が首を締め、息がしづらい。

 

「はな、離してくれ」

 

「離さないわ」

 

「人権が」

 

「私の質問権のほうが強いのよ」

 

「質問権って何だ!」

 

「答えるまで離さない権利」

 

「それ脅迫だろ!」

 

ベアトリスは俺を引きずり始めた。マグロナルドの床を足先が擦る。ズル、ズルという音が店内に響く。他の客たちが固唾を飲んで見ている。俺は視線を感じながらも、叫ぶことしかできない。

 

「店員! 店員助けて!」

 

カウンターの店員が顔を上げた。俺の必死の叫びを聞いて、しかし店員は気まずそうに視線を逸らした。

 

「お客様、店内でのトラブルは外でお願いします」

 

「トラブルじゃなくて拉致されるんだよ!」

 

「そうですか。頑張ってください」

 

「頑張れって!」

 

ベアトリスは笑った。低く、艶やかに。

 

「この子、言うこと聞くのね」

 

「マグロナルドはお客様第一主義だから」

 

「あなたは客じゃないでしょ、もう」

 

悔しいがその通りだ。ビッグマグロを半分残した客の権利はすでに失われている。

 

俺は店の外へ引きずり出された。王都の大通り。石畳。往来の人が行き交う。だが誰も俺を助けようとしない。金髪のエルフが男一人を引きずる光景は、この街では日常の一部らしい。

 

(この街、治安悪すぎだろ)

 

「ねえ、ベアトリスさん」

 

「何?」

 

「せめて行き先を教えてくれないか」

 

「私の宿」

 

「宿で何を」

 

「話を聞くのよ。あなたが知ってることを全部」

 

「何も知らないって言ってるだろう」

 

「嘘」

 

ベアトリスは振り返らずに言った。俺のシャツの襟を掴んだまま、大股で歩いている。長い金髪が風に流れ、通りの人々が道を譲る。美しい光景だ。美しすぎて誰も止めに入らない。あのオーラの前では正義の味方も尻込みするのだ。

 

「私の顔を見るなり動揺して、私の名を聞いて冷や汗をかいて、親族に触れられて顔色を変えた」

 

「顔色なんて変わってない」

 

「変えてたわ。肉眼でわかるレベル」

 

「そんなに変えてたのか俺の顔」

 

「今も変わってる」

 

「今は首絞められてるからだよ」

 

「それもあるけど、本質的に何か知ってる顔よ」

 

ぐぬぬ、と歯噛みした。だが観念するしかない。この女、アルファと同じくらいたちが悪い。そして確信を持っている。俺が何かを知っていると。

 

俺はもう抵抗をやめた。されるがままに引きずられながら、心の中で一つだけ思った。

 

(アルファ。ごめん。俺、お前の親戚に捕まった)

 

そしてもう一つ。

 

(ビッグマグロ、残してきちゃったな…)

 

後で怒られそうだ。誰にとは言わないが。

 

大通りを抜け、一本裏の小道に入る。ベアトリスは迷いなく歩を進めている。宿の場所を知っているらしい。迷いがない。土地勘がある。この街に来て日が浅いわけじゃない証拠だ。

 

「ベアトリスさん」

 

「何」

 

「妹さんって、どんな人だったんですか」

 

彼女の足が止まった。

 

いや、止まったのは一瞬だけ。すぐにまた歩き出す。だがその一瞬で、彼女の背中に走った緊張が伝わってきた。

 

「...あなたに関係あるの?」

 

「いや、なんとなく」

 

「なんとなく、で妹の話を聞くの?」

 

「聞くだけならいいだろ」

 

ベアトリスは歩きながら、ぽつりと答えた。

 

「優しい人だったわ。私と違って。私よりずっと真面目で、頭が良くて、それでいて不器用で」

 

俺は黙って聞いた。

 

「どんな困難にも屈しない芯の強さがあった。だからこそ、あんなことになったのだけれど」

 

あんなこと。

 

俺は口を挟まなかった。アルファがどんな経緯で肉塊になったのか、俺は正確には知らない。シドも詳しくは話さなかった。ただ「悪魔憑きとして捨てられた」という言葉だけを覚えている。

 

ベアトリスはまた黙った。話す気はないらしい。今のは独り言に近かった。

 

やがて、脇道の突き当たりにある小さな宿に着いた。古い石造りの建物。看板には「眠れる獅子亭」と書かれている。

 

ベアトリスは扉を開け、俺を中へ放り込んだ。石畳の床に俺が転がる。尻が痛い。

 

「いてて」

 

「座って」

 

ベアトリスは椅子を一脚引いて俺に勧めた。断る余地はない。この状況で断ったら、次は窓から放り出されるだろう。

 

俺は椅子に座った。ベアトリスは向かいに座り、脚を組んだ。10年以上表舞台に出ていなかったというのに、この優雅さ。エルフの血は長命で、だからこそ風格もまた濃い。

 

「さあ、話してもらうわよ」

 

ベアトリスはテーブルに肘をつき、青い瞳で俺を真っ直ぐに見た。

 

「私の妹の忘れ形見。そして、あなたとの関係を」

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