※この作品はR-18です。

囮の実力者になりたくなくて!   作:ボルメテウスさん

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アルファの心配事

暗転した視界の奥で、何かが明滅している。

いや、明滅しているんじゃない。世界そのものが揺れているのだ。

 

ドクンドクンと、自分の心臓の音が耳元で鳴り響いているような錯覚。肋骨のあたりに鈍い痛みが残っているのは、さっきの野獣突撃の名残だろうか。

 

ふわり、と身体が浮いた。

地に足がついていない感覚。まるで深い海へ沈んでいくように、あるいは巨大な魚に呑み込まれたように、ただ流されるままになっている。

 

視界の端で、金色の何かが揺れていた。

煌めく糸。淡い光。

それはアルファの髪だった。

 

意識が泥の中をもがくように、ゆっくりと表へ浮上してくる。

どうやら俺は、運ばれているらしい。

 

石造りの天井が、右へ左へと流れていく。

苔むした壁、松明の灯り、闇に沈んだ廊下。それらがスライド写真のように次々と目の前を通り過ぎていく。

 

身体を支えているのは、驚くほど硬い感触だった。

しなやかで、温かく、それでいて鋼鉄のような強度を感じる肩。

アルファの肩だ。

彼女は俺をまるで米袋か木材のように軽々と肩に担ぎ上げ、早足で歩いている。

 

無駄のない、迷いのない足取り。

体勢的にもう逃げようがない。

首のあたりに回された腕の力加減は、気遣いというよりは「絶対に逃がさない」という意思表示のように強い。

 

遠くで、誰かの声がした。

「あーあ、エロゲ死んだかなー」

シドの声だ。まったく緊張感のない、間延びしたトーン。

「いけません! シャドウ様! エロゲ様は不死鳥のごとし! されどデルタの猛攻を受けし傷は深く! ああ、看取るべきはこの私! 聖母のごとく抱擁し……!」

ベータの声だ。何やら高速で意味不明な言葉が紡がれているが、それも急速に遠ざかっていく。

 

俺の意識は、揺れる金髪と硬い肩の感触に占拠されていた。

ガシッ、と強く掴まれた気がした。

扉が開く重い音。

埃と本の匂いがする。俺の部屋だ。

 

その瞬間、身体が宙に放り出された。

支えが消え、重力が俺を捉える。

 

ドサッ!

背中が柔らかいものに叩きつけられた。

ベッドだ。

弾力のあるスプリングが、俺の身体を跳ね返す。

振動が背骨を駆け上がり、空っぽになった肺から空気が漏れた。

 

「うぐっ……」

声にならない呻きが漏れる。

視界がぐるりと回って、天井の木目が焦点を結び始めた。

意識が、強制的に引き戻されたのだ。

 

視界が白く染まり、それからゆっくりと輪郭を取り戻す。

天井の木目。見慣れた自室の匂い。

どうやら生きていたらしい。

(……痛ぇ)

身体を起こそうとした瞬間、肋骨のあたりにキリキリとした鈍痛が走り、思わず呻き声を漏らしてベッドに沈み込んだ。デルタの愛情表現は、物理攻撃に等しい。

 

「目は覚めたようね」

頭上から降ってきた声に、俺はビクリと肩を震わせた。

ベッドの足元。腕を組んで立つアルファがいた。

逆光の中に立つその姿は、まるで降臨した女神……のようには見えない。現れたのは執行官だ。冷酷で、容赦がなく、それでいて恐ろしいほど美しい処刑人だ。

 

碧眼が俺を真っ直ぐに見据えている。その瞳に宿る光は、松明のそれよりも熱く、刃よりも鋭い。

俺は本能的に視線を逸らした。枕元の木の節目や、埃一つない床や、揺れるカーテンとか。見るべきものはいくらでもある。アルファの顔を見るのは、今は火傷しそうで怖い。

 

「……その」

「顔を上げなさい」

低く、有無を言わせない声だった。

「逸らさないで。私を見て」

 

しぶしぶ視線を戻す。

アルファは一歩、ベッドに近づいた。距離が縮まるにつれ、彼女から発せられる威圧感が増していく。組まれた腕の下、豊かな胸元が圧迫され、スライムスーツの黒い光沢が揺らめいている。美しい。だが今は、その美しさが恐怖の対象だ。

 

「あなた、自分が何を言ったかわかっているの? 『囮ぐらいしか出来ないから』? ふざけるのも大概にしなさい」

 

アルファの声は静かだった。だがその静けさは、炸裂直前のマグマのようだった。

「あなたに戦う力がないのは事実よ。でもそれは、命を安売りしていい理由にならない」

 

「……安売りしてるつもりはないよ」

俺は小さく呟いた。肋骨がまた痛む。でも、今の痛みは物理的なものだけじゃない。

「戦力になれないなら、役に立つ方法を選ぶのは当然だろ。情報を持ち帰るなら、現場に行くのが一番確実だし……」

 

「馬鹿なの?」

遮られた。

言葉が、棘のように喉に刺さる。

 

「単独行動のリスク、攫われた先での危険、その全てを『情報』というたった一つの成果と天秤にかけているのよ。釣り合うわけないでしょうが」

 

アルファはさらに一歩踏み出した。

ベッドの縁に彼女の脚が触れそうになる。見下ろす碧眼の奥に、揺れる感情が見えた。怒り。焦り。そして、もっと深い何か。

 

「自分の命を粗末にする人間は嫌いよ。ましてや、それを仲間のためにだなんて自己犠牲の押し売りはもっと嫌い」

 

「押し売りって……」

「違うと言えるの? 『助けてくれるから』なんて、私たちをどんな立場に置くつもり?」

 

言葉に詰まった。

確かに、あの発言は無責任だったかもしれない。自分が助かることしか考えていなかった。助けてくれる仲間の、その手を汚すことだってあるのに。

俺はまた目を逸らそうとした。でも、アルファはそれを許さなかった。

 

「目を逸らさないでと言ったはずよ」

 

伸びてきた手が、俺の顎を掴んだ。柔らかい指先だが、力は強い。顔を無理やり上向かされた。

至近距離。アルファの息遣いがかかるほどの距離。

碧眼が俺を射抜いている。逃げ場がない。

 

「あなたは囮なんかじゃない。私たちの大事な……」

言葉が途切れた。

彼女は一瞬、唇を噛み、何かを堪えるように目を細めた。組んでいた腕が解かれ、ベッドのマットレスの上に片手がつかれる。

「……もういい。とにかく、二度とあんな無謀な真似は許さない。絶対に」

 

重苦しい沈黙が落ちた。

部屋の空気は重く、張り詰めている。俺は縮こまったまま、何も言えずにただ彼女の碧眼を見上げることしかできなかった。

 

「……はぁ」

長い、深いため息が漏れた。

アルファは目を閉じ、組んでいた腕を解いて、額に手を当てた。その肩から、力が抜けていく。

 

沈黙が、粘度を増していた。

重い。空気が、水銀のように重い。

俺はベッドの上で縮こまったまま、どうにかしてこの場から逃げ出す算段を脳内で巡らせていた。だが、肋骨の鈍痛と、目の前に立つ黄金の執行官の存在が、どんな脱出ルートも容赦なく塞いでいく。

 

アルファはため息をついた後、ゆっくりと顔を上げた。

閉ざされていた瞼が開き、再び碧眼が俺を捉える。

だが、さっきまでの燃えるような怒りの色が——どこか違って見えた。

 

「……」

 

彼女は何も言わなかった。ただ、じっと見つめている。

その視線が、熱を帯び始めている。

肌を灼くような、粘着質な熱だ。

ドクンと、俺の心臓が跳ねた。恐怖ではない。もっとどうしようもない、原始的な警鐘が鳴っている。

 

アルファが動いた。

一歩。いや、半歩ほどの距離を詰める。

ギシッ、とベッドのスプリングが悲鳴を上げた。彼女の手が、俺の顔のすぐ横、枕の脇に置かれたのだ。

黒いスライムが覆う指先が、シーツを微かに沈ませる。

 

距離が、近い。

あまりにも近い。

覗き込むように傾けられた顔から、ふわりと甘い香りが漂ってくる。彼女自身の匂いだ。思考が溶けていくような、脳髄を直接撫でられるような芳香。

 

「あの、アルファ……?」

 

俺は無意識に身体をずらした。彼女の手から逃れるように、ベッドの奥へと。

だが、それが逆に煽ったことに気づくのが遅れた。

 

アルファの瞳孔が、微かに開いた。

怒りは冷めていない。いや、冷めていないのに別の何かへとそのベクトルがねじ曲がっていく。収束していた感情が、爆発寸前の圧力となって碧眼の奥で揺らめいている。

 

彼女の呼吸が、荒くなった。

服の下、豊かな胸元が上下に揺れ、スライムの摩擦音がくぐもった水音のように響く。

細められた目が、何かを必死に堪えるように歪んでいる。

 

逃げなきゃ。

本能がそう叫ぶ。

俺はさらに身体を後ろへ退がろうとした。だが、背後はもう壁だ。枕とヘッドボードの僅かな隙間。逃げ場はない。

 

ズシリ。

またベッドが沈む。

俺の顔の反対側にも、アルファの手がつかれた。

包囲完了だ。

腕と腕の間、狭い空間に閉じ込められた俺と、上から見下ろす彼女。

 

焦点が、合った。

零距離。吐息が触れ合うほどの距離で、揺らぐ碧眼が俺を射抜いている。

言葉はいらない。その瞳の奥で渦巻く熱情が、今にも溢れ出しそうだ。

 

逃げられない。

俺は悟った。身体の芯から熱が湧き上がり、逃走の意思を焼き尽くしていく。

 

両側のマットレスが沈み込み、逃げ場が完全に消えた。

頭上のアルファが、ゆっくりと顔を近づけてくる。

零距離。吐息が触れ合うほどの距離。甘い香りが鼻腔を占領し、肺の奥まで侵食していくようだ。

 

碧眼が揺れている。怒りと、焦燥と、それからもっとどろりとした熱情が混ざり合い、渦を巻いている。

俺は身動き一つ取れず、ただその瞳に吸い込まれていくしかなかった。

 

「……聞きなさい」

 

掠れた声が、耳元で響いた。

普段の冷静で理知的な響きではない。熱を帯び、微かに震える、訴えるような響きだ。

 

「あなたは、自分の価値をわかってない」

 

アルファの手が、俺の頬を包み込むように触れた。

火傷しそうなほど熱い指先。優しい手つきなのに、そこには絶対的な拘束力があった。

 

「戦えない? 囮しか出来ない? ……違うわ」

 

彼女は首を横に振った。金髪がさらりと流れ、俺の頬を撫でる。

その仕草だけで、心臓が早鐘を打つ。

 

「あなたは、私が護るの」

 

宣言だった。

有無を言わせない、絶対的な決定事項。

まるで領土の所有権を主張する征服者のようだった。

 

その言葉と共に、アルファの身体が重なった。

ズシリ。

覆いかぶさられる重量感。だが、硬い肩や腕とは対照的に、押し付けられた胸元は信じられないほど柔らかい。

黒いスライムスーツ越しでも伝わってくる、驚異的な柔らかさと熱。形を変えて押し潰される豊満な感触に、脳が一瞬真っ白になる。

 

「ぐっ……」

 

肋骨が悲鳴を上げたが、抗う術はない。

抵抗する間もなく、俺はベッドに組み伏せられた。

両手首をシーツに縫い付けられ、両脚は彼女の太ももに挟み込まれている。完全な敗北だ。

 

なのに。

不思議と、恐怖はなかった。

身動きが取れない無力感と、全身を包み込むような圧倒的な温もり。

胸の奥の警戒が、溶けるように崩れていく。

……ああ、駄目だ。このままじゃ、骨まで砕かれて溶かされてしまう。

 

アルファが、俺の顔を見下ろしている。

乱れた金髪の隙間から、欲望に濡れた碧眼が俺を射抜いている。

乱れた呼吸。火照った頬。潤んだ唇。

 

もう、逃げられない。

体勢も、心も、すべてが彼女に支配されている。

 

行為が始まる直前、静寂の中で俺はただ、見下ろされることしかできなかった。

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