暗転した視界の奥で、何かが明滅している。
いや、明滅しているんじゃない。世界そのものが揺れているのだ。
ドクンドクンと、自分の心臓の音が耳元で鳴り響いているような錯覚。肋骨のあたりに鈍い痛みが残っているのは、さっきの野獣突撃の名残だろうか。
ふわり、と身体が浮いた。
地に足がついていない感覚。まるで深い海へ沈んでいくように、あるいは巨大な魚に呑み込まれたように、ただ流されるままになっている。
視界の端で、金色の何かが揺れていた。
煌めく糸。淡い光。
それはアルファの髪だった。
意識が泥の中をもがくように、ゆっくりと表へ浮上してくる。
どうやら俺は、運ばれているらしい。
石造りの天井が、右へ左へと流れていく。
苔むした壁、松明の灯り、闇に沈んだ廊下。それらがスライド写真のように次々と目の前を通り過ぎていく。
身体を支えているのは、驚くほど硬い感触だった。
しなやかで、温かく、それでいて鋼鉄のような強度を感じる肩。
アルファの肩だ。
彼女は俺をまるで米袋か木材のように軽々と肩に担ぎ上げ、早足で歩いている。
無駄のない、迷いのない足取り。
体勢的にもう逃げようがない。
首のあたりに回された腕の力加減は、気遣いというよりは「絶対に逃がさない」という意思表示のように強い。
遠くで、誰かの声がした。
「あーあ、エロゲ死んだかなー」
シドの声だ。まったく緊張感のない、間延びしたトーン。
「いけません! シャドウ様! エロゲ様は不死鳥のごとし! されどデルタの猛攻を受けし傷は深く! ああ、看取るべきはこの私! 聖母のごとく抱擁し……!」
ベータの声だ。何やら高速で意味不明な言葉が紡がれているが、それも急速に遠ざかっていく。
俺の意識は、揺れる金髪と硬い肩の感触に占拠されていた。
ガシッ、と強く掴まれた気がした。
扉が開く重い音。
埃と本の匂いがする。俺の部屋だ。
その瞬間、身体が宙に放り出された。
支えが消え、重力が俺を捉える。
ドサッ!
背中が柔らかいものに叩きつけられた。
ベッドだ。
弾力のあるスプリングが、俺の身体を跳ね返す。
振動が背骨を駆け上がり、空っぽになった肺から空気が漏れた。
「うぐっ……」
声にならない呻きが漏れる。
視界がぐるりと回って、天井の木目が焦点を結び始めた。
意識が、強制的に引き戻されたのだ。
視界が白く染まり、それからゆっくりと輪郭を取り戻す。
天井の木目。見慣れた自室の匂い。
どうやら生きていたらしい。
(……痛ぇ)
身体を起こそうとした瞬間、肋骨のあたりにキリキリとした鈍痛が走り、思わず呻き声を漏らしてベッドに沈み込んだ。デルタの愛情表現は、物理攻撃に等しい。
「目は覚めたようね」
頭上から降ってきた声に、俺はビクリと肩を震わせた。
ベッドの足元。腕を組んで立つアルファがいた。
逆光の中に立つその姿は、まるで降臨した女神……のようには見えない。現れたのは執行官だ。冷酷で、容赦がなく、それでいて恐ろしいほど美しい処刑人だ。
碧眼が俺を真っ直ぐに見据えている。その瞳に宿る光は、松明のそれよりも熱く、刃よりも鋭い。
俺は本能的に視線を逸らした。枕元の木の節目や、埃一つない床や、揺れるカーテンとか。見るべきものはいくらでもある。アルファの顔を見るのは、今は火傷しそうで怖い。
「……その」
「顔を上げなさい」
低く、有無を言わせない声だった。
「逸らさないで。私を見て」
しぶしぶ視線を戻す。
アルファは一歩、ベッドに近づいた。距離が縮まるにつれ、彼女から発せられる威圧感が増していく。組まれた腕の下、豊かな胸元が圧迫され、スライムスーツの黒い光沢が揺らめいている。美しい。だが今は、その美しさが恐怖の対象だ。
「あなた、自分が何を言ったかわかっているの? 『囮ぐらいしか出来ないから』? ふざけるのも大概にしなさい」
アルファの声は静かだった。だがその静けさは、炸裂直前のマグマのようだった。
「あなたに戦う力がないのは事実よ。でもそれは、命を安売りしていい理由にならない」
「……安売りしてるつもりはないよ」
俺は小さく呟いた。肋骨がまた痛む。でも、今の痛みは物理的なものだけじゃない。
「戦力になれないなら、役に立つ方法を選ぶのは当然だろ。情報を持ち帰るなら、現場に行くのが一番確実だし……」
「馬鹿なの?」
遮られた。
言葉が、棘のように喉に刺さる。
「単独行動のリスク、攫われた先での危険、その全てを『情報』というたった一つの成果と天秤にかけているのよ。釣り合うわけないでしょうが」
アルファはさらに一歩踏み出した。
ベッドの縁に彼女の脚が触れそうになる。見下ろす碧眼の奥に、揺れる感情が見えた。怒り。焦り。そして、もっと深い何か。
「自分の命を粗末にする人間は嫌いよ。ましてや、それを仲間のためにだなんて自己犠牲の押し売りはもっと嫌い」
「押し売りって……」
「違うと言えるの? 『助けてくれるから』なんて、私たちをどんな立場に置くつもり?」
言葉に詰まった。
確かに、あの発言は無責任だったかもしれない。自分が助かることしか考えていなかった。助けてくれる仲間の、その手を汚すことだってあるのに。
俺はまた目を逸らそうとした。でも、アルファはそれを許さなかった。
「目を逸らさないでと言ったはずよ」
伸びてきた手が、俺の顎を掴んだ。柔らかい指先だが、力は強い。顔を無理やり上向かされた。
至近距離。アルファの息遣いがかかるほどの距離。
碧眼が俺を射抜いている。逃げ場がない。
「あなたは囮なんかじゃない。私たちの大事な……」
言葉が途切れた。
彼女は一瞬、唇を噛み、何かを堪えるように目を細めた。組んでいた腕が解かれ、ベッドのマットレスの上に片手がつかれる。
「……もういい。とにかく、二度とあんな無謀な真似は許さない。絶対に」
重苦しい沈黙が落ちた。
部屋の空気は重く、張り詰めている。俺は縮こまったまま、何も言えずにただ彼女の碧眼を見上げることしかできなかった。
「……はぁ」
長い、深いため息が漏れた。
アルファは目を閉じ、組んでいた腕を解いて、額に手を当てた。その肩から、力が抜けていく。
沈黙が、粘度を増していた。
重い。空気が、水銀のように重い。
俺はベッドの上で縮こまったまま、どうにかしてこの場から逃げ出す算段を脳内で巡らせていた。だが、肋骨の鈍痛と、目の前に立つ黄金の執行官の存在が、どんな脱出ルートも容赦なく塞いでいく。
アルファはため息をついた後、ゆっくりと顔を上げた。
閉ざされていた瞼が開き、再び碧眼が俺を捉える。
だが、さっきまでの燃えるような怒りの色が——どこか違って見えた。
「……」
彼女は何も言わなかった。ただ、じっと見つめている。
その視線が、熱を帯び始めている。
肌を灼くような、粘着質な熱だ。
ドクンと、俺の心臓が跳ねた。恐怖ではない。もっとどうしようもない、原始的な警鐘が鳴っている。
アルファが動いた。
一歩。いや、半歩ほどの距離を詰める。
ギシッ、とベッドのスプリングが悲鳴を上げた。彼女の手が、俺の顔のすぐ横、枕の脇に置かれたのだ。
黒いスライムが覆う指先が、シーツを微かに沈ませる。
距離が、近い。
あまりにも近い。
覗き込むように傾けられた顔から、ふわりと甘い香りが漂ってくる。彼女自身の匂いだ。思考が溶けていくような、脳髄を直接撫でられるような芳香。
「あの、アルファ……?」
俺は無意識に身体をずらした。彼女の手から逃れるように、ベッドの奥へと。
だが、それが逆に煽ったことに気づくのが遅れた。
アルファの瞳孔が、微かに開いた。
怒りは冷めていない。いや、冷めていないのに別の何かへとそのベクトルがねじ曲がっていく。収束していた感情が、爆発寸前の圧力となって碧眼の奥で揺らめいている。
彼女の呼吸が、荒くなった。
服の下、豊かな胸元が上下に揺れ、スライムの摩擦音がくぐもった水音のように響く。
細められた目が、何かを必死に堪えるように歪んでいる。
逃げなきゃ。
本能がそう叫ぶ。
俺はさらに身体を後ろへ退がろうとした。だが、背後はもう壁だ。枕とヘッドボードの僅かな隙間。逃げ場はない。
ズシリ。
またベッドが沈む。
俺の顔の反対側にも、アルファの手がつかれた。
包囲完了だ。
腕と腕の間、狭い空間に閉じ込められた俺と、上から見下ろす彼女。
焦点が、合った。
零距離。吐息が触れ合うほどの距離で、揺らぐ碧眼が俺を射抜いている。
言葉はいらない。その瞳の奥で渦巻く熱情が、今にも溢れ出しそうだ。
逃げられない。
俺は悟った。身体の芯から熱が湧き上がり、逃走の意思を焼き尽くしていく。
両側のマットレスが沈み込み、逃げ場が完全に消えた。
頭上のアルファが、ゆっくりと顔を近づけてくる。
零距離。吐息が触れ合うほどの距離。甘い香りが鼻腔を占領し、肺の奥まで侵食していくようだ。
碧眼が揺れている。怒りと、焦燥と、それからもっとどろりとした熱情が混ざり合い、渦を巻いている。
俺は身動き一つ取れず、ただその瞳に吸い込まれていくしかなかった。
「……聞きなさい」
掠れた声が、耳元で響いた。
普段の冷静で理知的な響きではない。熱を帯び、微かに震える、訴えるような響きだ。
「あなたは、自分の価値をわかってない」
アルファの手が、俺の頬を包み込むように触れた。
火傷しそうなほど熱い指先。優しい手つきなのに、そこには絶対的な拘束力があった。
「戦えない? 囮しか出来ない? ……違うわ」
彼女は首を横に振った。金髪がさらりと流れ、俺の頬を撫でる。
その仕草だけで、心臓が早鐘を打つ。
「あなたは、私が護るの」
宣言だった。
有無を言わせない、絶対的な決定事項。
まるで領土の所有権を主張する征服者のようだった。
その言葉と共に、アルファの身体が重なった。
ズシリ。
覆いかぶさられる重量感。だが、硬い肩や腕とは対照的に、押し付けられた胸元は信じられないほど柔らかい。
黒いスライムスーツ越しでも伝わってくる、驚異的な柔らかさと熱。形を変えて押し潰される豊満な感触に、脳が一瞬真っ白になる。
「ぐっ……」
肋骨が悲鳴を上げたが、抗う術はない。
抵抗する間もなく、俺はベッドに組み伏せられた。
両手首をシーツに縫い付けられ、両脚は彼女の太ももに挟み込まれている。完全な敗北だ。
なのに。
不思議と、恐怖はなかった。
身動きが取れない無力感と、全身を包み込むような圧倒的な温もり。
胸の奥の警戒が、溶けるように崩れていく。
……ああ、駄目だ。このままじゃ、骨まで砕かれて溶かされてしまう。
アルファが、俺の顔を見下ろしている。
乱れた金髪の隙間から、欲望に濡れた碧眼が俺を射抜いている。
乱れた呼吸。火照った頬。潤んだ唇。
もう、逃げられない。
体勢も、心も、すべてが彼女に支配されている。
行為が始まる直前、静寂の中で俺はただ、見下ろされることしかできなかった。