「ねえエロゲ」
「何ですか」
「お茶冷めたわね」
「ええまあ。時間経ちましたから」
「温め直してくれる?」
「自分でやってください」
「賓客をもてなすのが——」
「普通でしょ。知ってます。もう聞きました」
ベアトリスは笑いながらやかんに手を伸ばした。また背伸びをする。またドレスがずれる。もう笑うしかない。
だがその笑いが凍った。
ベアトリスが振り返ったからだ。
笑顔じゃない。
真顔だ。
「エロゲ」
「はい」
「一つ聞いてもいい?」
「何を」
「あなた、私のことどう思ってる?」
どう思ってるって。拉致犯だろ。いや拉致犯だけど。アルファの親族だし。でも拉致犯だ。
「えっと。強い人だなと」
「それだけ?」
「天然だなと」
「天然?」
「色々と」
「色々って」
「色々です」
ベアトリスは歩いてきた。やかんを置いて。俺のほうへ。一歩ずつ。ゆっくりと。金髪が揺れる。ドレスの肩紐がまだ片方落ちている。直さない。この人本当に直さない。
「ねえ」
「何」
「近すぎてもいい?」
「え」
ベアトリスが俺の前に立った。見下ろされている。椅子に座っている俺と、立っている彼女。目線の差が俺の視線を強制的に胸元に向ける。
谷間。
深い。
アルファと同じ質量だ。いや比べるな。比べたら失礼だ。どっちにも。
「エロゲ」
「何ですか」
「上を見て」
「上?」
「私の目を見て」
俺は視線を上げた。青い瞳。深い湖の青。アルファの碧眼より暗くて深い。10年間探し続けた人の目だ。
「嘘ついてるでしょ」
「ついてないです」
「ついてる。私の胸見てた」
「見てない」
「十七回」
「数えすぎだろ!」
「嘘よ。数えてない」
「じゃあなんで17って出たんですか」
「適当に言ったの。当たってた?」
「当たってないです!」
「じゃあ何回?」
「0回です」
「嘘」
ベアトリスは膝をついた。俺の椅子の前に。正座するような体勢。俺の目の高さに彼女の顔が来る。距離が近い。近すぎる。
「エロゲ」
「何」
「私ね、10年間一人だったの」
その言葉が、意外な重さを持っていた。
「誰とも話さないわけじゃないけど。誰かに何かを伝えるってことがなかったの。探すだけ。歩くだけ。見つからない。また歩く。それだけの10年だった」
彼女の青い瞳が揺れている。冗談でも誘惑でもない。ただの孤独だ。10年分の孤独が、瞳の奥に溜まっている。
「だからね、こうして誰かと話してるだけでも」
「…」
「なんか嬉しいのよ」
俺は何も言えなかった。
その沈黙を、ベアトリスはどう受け取ったのか。
彼女は微笑んだ。柔らかく。アルファにはない種類の微笑みだ。
そして——
キスされた。
唇が重なった。
柔らかい。甘い。温かい。
アルファのキスは所有の儀式だった。奪うキスだ。
ベアトリスのキスは——
「んっ…」
与えるキスだった。
唇が押し付けられる。柔らかい肉が俺の唇を挟み、ゆっくりと揉むように動く。甘い。花の香りが鼻腔を満たす。
「ん…れろ…」
舌が入ってきた。
ぬるりとした感触。熱い舌が俺の唇を割り、口腔内へと滑り込む。ゆっくりと。急がない。味わうように。
「んっ…ちゅ…れろぉ…」
ベアトリスの舌が俺の舌に触れた。
触れただけだ。触れただけなのに、背筋に電流が走る。彼女の舌は温かくて柔らかくて、ねっとりとした熱を持っている。
「ふぅ…ん…」
彼女の吐息が鼻から漏れる。熱い息が顔にかかる。
舌が絡む。俺の舌を彼女の舌が優しく包み込み、ゆっくりと動き始めた。円を描くように。なめるように。
「ちゅ…れろ…ちゅく…」
水音が響く。静かな部屋に、唾液の混ざり合う音だけが満ちていく。
俺は——何もできなかった。
手が出ない。抵抗できない。というか抵抗する気が起きない。この舌の動きが、あまりにも心地いいからだ。
アルファのキスは暴力的な支配だった。強引で容赦がない。
ベアトリスのキスは——慈しみだ。
舌で俺の舌を愛でる。愛玩動物を撫でるような手つきで、舌を舐め回す。
れろ…れろぉ…ちゅぷ…
「んっ…はぁ…」
唇が離れた。
銀色の糸が伸びて、ぷつりと切れる。
ベアトリスの唇が濡れている。唾液で光っている。青い瞳が俺を見つめている。
「…若いわね」
「は?」
「味が。若いエロゲの味。久しぶり」
「味って何を味わってるんですか!」
「キスよ。キスの味」
「キスに味なんてないだろ!」
「あるわよ。あなたのは甘い。若い甘さ」
「甘くないです! 普通です!」
「自分じゃわからないものよ」
ベアトリスは舐めた。自分の唇を。俺の唾液がついた唇を。舌先でゆっくりとなぞるように。
「…もう一回いい?」
「ダメです」
「なんで」
「さっきので十分です」
「十分じゃないわ。私10年分足りないの」
「10年分って何だよ!」
「キスよ。10年間誰ともキスしてないの。だから10年分足りない」
「それ俺のせいじゃないですし」
「あなたが補ってくれるでしょ」
「なんで俺が!」
「だって私の質問に答えてくれないから。罰として」
「罰がキスってどこの拷問です?」
「気持ちいいでしょう?」
否定できなかった。
気持ちよかった。認めたくないが否定できない。アルファのキスは支配感が強すぎて疲れる。でもベアトリスのキスは優しくて溺れそうになる。
「ふふ。黙ったわね」
「黙ってないです」
「顔が紅くなってる」
「紅くなってないです」
「鏡見る?」
「いいです!」
ベアトリスはまた膝をついた。今度はもっと低い位置。俺の股間に顔を近づけるような位置だ。
待て。
待て待て待て!
「ベアトリスさん近いです! 近すぎる!」
「そう?」
「はい! もっと離れてくれ!」
「なんで?」
「なんでってそれは」
「私ね昔から距離感おかしいって言われるの。ごめんなさい。つい近くに行く癖があって」
ベアトリスはまたキスしてきた。
今度は角度が違う。斜め下から。彼女の顔が俺の股間に近い位置にあるのにキスしてくるから必然的に上を向いた唇が俺の顎から唇へと這ってくる。
ちゅ…ぺろ…
今度は唇だけじゃない。顎を舐める。頬を舐める。首筋を舐める。
「ひっ…!」
首筋に熱い舌が這った瞬間反射的に声が出た。
ベアトリスの舌が俺の首筋をゆっくりと這う。蛇のように。温かくて湿った舌が皮膚の上を滑っていく。
「んっ…れろ…ちゅぴ…」
時々吸う。軽くキスマークを付けるみたいに。だが強くはない。跡をつけないように。それでも首筋が濡れていく。
ベアトリスは俺の耳元まで舌を這わせてきた。
ちろ…ちろ…
耳朶を舐める。尖ったエルフの舌が軟骨をなぞる。熱い。敏感な部分に直接送り込まれる熱と感触。
「あ…っ」
また声が出た。
俺は手で口を押さえた。
ベアトリスは舌を動かしながら俺の顔を見上げている。
青い瞳が潤んでいる。
欲情の色だ。
天然じゃない。これは天然じゃない。理性がある。確信がある。この人はわかっている。自分が何をしているか。そして俺がどう感じているか。
「ふふ…可愛い声」
「うるさいです」
「照れてる?」
「照れてない」
ベアトリスは耳元から唇を離した。そして真正面から俺を見つめた。
「ねえエロゲ」
「何」
「続きしてもいい?」