自室に戻ると、ゼータがいた。
窓辺に座り、足をぶらぶらさせながら窓の外を見ている。白銀の短い髪が月明かりに揺れている。
「やっ、エロゲ。なんだか大変だったようだね」
振り返りもせずに言った。気配を感じ取ったのか、あるいは最初から俺の帰りを待っていたのか。
「まあ、色々あってな」
俺はベッドに腰を下ろした。体が重い。全身が気だるい。ベアトリスとの一件で体力も魔力も大幅に消耗している。
「大変ってレベルじゃなかったけどな」
「ふうん」
ゼータは興味なさそうに鼻を鳴らした。いつもの反応だ。俺のトラブルなど日常茶飯事なのだ。彼女にとって俺が攫われようが蹂躙されようが、事件に巻き込まれようが、それは「いつものこと」でしかない。
「で、何があったの」
「長い話になるぞ」
「短くして」
「エルフの女に拉致されて、宿に連れ込まれて、尋問されて、それから……まあ、色々だ」
「ふうん」
ゼータはもう一度鼻を鳴らした。詳細を聞く気はないらしい。いや、あるのかもしれないが、聞いても「ふうん」で終わるだろう。この猫はそういう生き物だ。
「で、手紙」
ゼータが指差した。俺の机の上に、一通の封筒が置かれている。白い封筒。蝋で封がされている。
「いつ届いたんだ?」
「一時間くらい前。使いの人が持ってきた。王宮からの正式な使者だって」
「王宮? 俺に?」
「うん。なんで王宮からエロゲに手紙なんて来るのかなあ。面白いね」
面白くない。全然面白くない。王宮からの手紙なんて、ろくなことが書いてあるはずがない。
俺は封筒を手に取った。重い。紙の重み以上のものが感じられる。蝋の封蝋には王冠の紋章。ミドガル王家の正式な紋章だ。
「開けるの?」
「……開ける」
俺は蝋を割り、中から便箋を取り出した。ゼータが横から覗き込む。背伸びして。猫みたいに。
「見るなよ」
「いいじゃない。仲間でしょ」
「仲間だからってプライバシーはある」
「エロゲのプライバシーなんてとっくにないよ」
「ひどい言い草だな」
俺は便箋を広げた。
そして——固まった。
文字が目に入ってこない。いや、入ってきてはいるのだが、意味として認識できない。王宮の公用文書。形式張った言い回し。だがその中に、いくつかの単語が飛び込んできた。
「クレア・カゲノー」
「婚約」
「正式に」
「え」
俺は便箋を持ったまま固まった。
横でゼータが便箋を覗き込む。目が動く。読んでいる。
そして——ゼータも固まった。
沈黙が落ちた。
窓の外から夜風の音。どこかで猫が鳴く声。遠くの酒場の喧譟。
だが部屋の中は完全に静寂だった。
「……くっ」
俺は息を吐いた。言葉にならない。
「クレア・カゲノーとの婚約が決まっただって」
俺の声は震えていた。いや、震えていない。震えていないはずだ。震えているように聞こえるのは気のせいだ。
「……はぁ」
ゼータが言った。
それだけだった。
無表情で。相変わらずの無表情で。ただ一言。
「はぁ」
その「はぁ」には何の感情も込められていなかった。驚きもない。怒りもない。困惑もない。ただの「はぁ」だ。
だが——
その「はぁ」の奥に、何かが詰まっている気がした。
猫の奥に、何かが。
俺は便箋を見つめたまま、もう一度息を吐いた。
「はぁ」
俺も同じ言葉を吐き出した。
理由はわからない。ただ、同じ言葉しか出てこなかった。
窓の外で、月が雲に隠れた。部屋が暗くなる。
俺とゼータは、便箋を見つめたまま、しばらく動けなかった。