喫茶店のベルが鳴った。
俺は席に着き、目の前の椅子を眺めていた。
クレア・カゲノー。
正式に決定。俺の知らぬ間に。誰が決定したのか。いや、家同士の何かだろう。エロゲ家なんて聞いたことがないが。
まあいい。どうせいつものことだ。俺の人生は俺の知らぬ間に決まることが多すぎる。攫われるのも、実験台にされるのも、拉致されるのも、全部俺の知らぬ間に決まってた。婚約くらいどうってことない。
(いやどうってことないのか?)
「お待たせ」
声がして、俺は顔を上げた。
クレアさんは、そのまま座った。
「久し振りね、けど、まさかこんな形で会うとはね」
クレアは素直に謝った。そして向かいの席に座った。背筋を伸ばして。礼儀正しく。
「で、手紙。見た?」
「見た。見たけど」
「見たけど?」
「婚約って何がどうなったのか全然わからなくて」
「ああ。私も」
クレアは言った。
「私も今日初めて聞いた。手紙で」
「へ?」
「だから、私も今日初めて聞いたの。あなたと婚約するんだって」
クレアの青い瞳が細められた。眉が微かに下がる。苛立ちだ。
「家の親父が。勝手に決めた。私の意思は一切聞かずに」
「ああ。うちもたぶん同じだ」
「あなたも?」
「俺も今日手紙来て初めて知った。クレアさんって名前も今日知った」
「…ふう」
クレアはため息を吐いた。
「あの人たち本当に勝手だわ」
「あの人たちって」
「親同士。私の親とあなたの親。どこで繋がったのか知らないけど、勝手に話を進めて勝手に決めて勝手に手紙を送る。当事者の意思は無視」
「無視だな」
「無視よ」
クレアはカップを取った。コーヒー。ブラック。砂糖もミルクも入れない。一口飲んで、眉をひそめる。
「苦いな」
「苦くないコーヒーなんてコーヒーじゃないですよ」
「そうなんだけど。やっぱり苦いものは苦いわ」
「じゃあ砂糖入れたらいいのに」
「入れたら負けな気がして」
「何に負けるんですか」
「知らない。でも負け」
クレアはまたコーヒーを飲んだ。やっぱり眉をひそめる。
俺は自分のカフェオレを一口飲んだ。甘い。いいね、甘いのは。平和の味がする。
「で、エロゲ」
「何ですか」
「あなたはどうするの」
「どうするって」
「婚約。受けるの? 断るの?」
直球だった。クレアは直球しか投げないタイプらしい。
「どうするも。俺が決めることじゃないだろ。家が決めたんだから」
「諦めるの? あっさりと」
「あっさりっていうか。俺に拒否権あるのか」
「あるでしょ。あなたの人生よ。あなたが決めていいはず」
「クレアさんは自分の人生自分で決めるタイプですか」
「当たり前でしょ。自分の人生を他人に決められるなんて許せない」
「強いな」
「強くないよ。普通だよ。普通の感覚」
クレアは言い切った。迷いがない。真っ直ぐだ。この人、本当に真っ直ぐだ。
俺は少しだけ羨ましくなった。俺はと言えば、攫われても「またか」と諦めて、実験台にされても「仕方ないか」と受け入れて、拉致されても「慣れた」と流すタイプだ。自分の人生を自分で決めるなんて、考えたこともなかったかもしれない。
「でも、まあ」
クレアは視線を落とした。カップの縁を指でなぞる。
「あなたが悪い人じゃなさそうなのはわかった」
「どうして」
「喫茶店でカフェオレ飲んでる人でしょ。悪い人はブラック飲ぶ」
「俺ブラックも飲みますけど」
「あなたはカフェオレ頼んだでしょ」
「まあ、それはそうですが」
「だからセーフ」
根拠があまりに薄い。だがクレアはそれで納得している様子だ。
「それで」
クレアが顔を上げた。
「一つ提案があるんだけど」
「何ですか」
「デート」
「は?」
「デートよ。婚約するなら、せめてお互いのことを知らないと」
「いやでも婚約自体どうするか」
「とりあえずデート」
「とりあえずって」
「形だけでも。家にも顔を立てないといけないし」
「家の顔」
「私たちがちゃんと接触してるってことを示せば、親たちも安心するでしょ。その上で、もし無理だと思ったら断ればいい。両方とも」
なるほど。合理的だ。見た目は真っ直ぐのお嬢様だけど、頭は回るタイプらしい。
「わかりました。形だけでも」
「うん。形だけでも」
クレアは少し安堵したように肩を緩めた。その緩み方が、さっきまでの苛立ちが嘘みたいに柔らかい。
(あれ。苛立ちなくなった? デート提案しただけで)
「じゃあ来週。日曜日。午前十一時。ここで」
「ここですか」
「いい店でしょ。コーヒー以外は」
「コーヒー以外は確かに」
「じゃあ決まり。遅刻しないでね」
「遅刻しませんよ。何時頃来いとかあるんですか」
「指定はないけど、遅れたら許さない」
「厳しいな」
「当然でしょ。女性を待たせる男は最低」
「最低にはなりたくないので遅れません」
「よし」
クレアは立ち上がった。椅子が床を擦る音。
「じゃあ、エロゲ。よろしく」
「ああ。こちらこそ。よろしく」
クレアは手を差し出した。
俺は握った。細い指。だが力はある。握手の強さが、この人の真っ直ぐさを表している気がした。
「手、温かいわね」
「え」
「私冷え性だから。温かい手は嬉しい」
「ああ、それはまあ」
「じゃあ」
クレアは手を離した。青い瞳が一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——俺の顔を見上げた。
何か言いたげな目だった気がする。だがすぐに視線を逸らし、背を向けて、店を出ていった。
ベルが鳴る。扉が閉まる。
俺は残ったカフェオレを飲み干した。
(デートか)
(クレアさんか)
(アルファにバレたら殺されるな)
天井を見上げた。喫茶店の天井。温かい色の木目。平和な光景だ。
俺はため息を吐いた。
(婚約って何だよ)
答えは出なかった。出るはずもない。俺の人生はいつも他人が決めるから。
だが今回は、少しだけ自分で動く必要があるらしい。
デート。形だけでも。
(まあいいか。カフェオレくらい奢ってもらえば)
俺は席を立った。財布を出す。中身を確認する。