約束の時間五分前に喫茶店に着いた。
遅刻はしない。クレアさんに「最低」呼ばわりされるのは御免だ。俺の人生において「最低」という評価は既に何度か貰っているが、婚約者にまで言われるのは心に来るものがある。
「あ、来てたの」
クレアが入ってきた。時間ぴったり。いや、俺の方が五分早いだけで彼女も時間通りだ。
「おはようございます」
「おはよう。五分前じゃない。早いね」
「遅刻したら最低なんで」
「そう。よろしい」
クレアは少し満足げに頷いた。微かだが頬が緩んでいる。機嫌は悪くない。だが——
「で、どこ行くの」
「え、決めてないんですか」
「私が決めると思った? 女性に決めさせる男は」
「最低ですねわかってます」
「わかってるなら早く決めて」
早速厳しい。俺は脳内でデートプランを組み立てた。というか組み立てる暇がなかった。昨日までベアトリスに搾り取られていたのだ。デートプランどころじゃなかった。
「あの、散歩とか」
「散歩」
「散歩です」
「デートで散歩」
「ダメですか」
「ダメじゃないけど。味気ない」
「じゃあ散歩してカフェ」
「今カフェにいるけど」
「じゃあ別のカフェに」
「同じカフェ巡り? それデート?」
「デートです。立派なデートです」
「…ふう」
クレアはため息を吐いた。だが、そのため息には呆れよりも諦念に近い響きがあった。「この人に任せたら何も始まない」と悟った種類のため息だ。
「じゃあ行きましょうか。散歩に」
「あ、はい。あの、クレアさん靴紐緩んでますよ」
「え、どこ」
クレアは足元を見た。確かに緩んでいる。俺は膝をついて紐を結び直した。何気ない動作。ただの親切。たぶん。
「直しました」
「…ありがとう」
クレアの声が少し上ずった気がした。いや気のせいだろう。俺は立ち上がり、店の扉を開けた。
「お先にどうぞ」
「…うん」
クレアは俺の前を通った時、微かに頬を赤らめていた気がする。いや気のせいだ。風のせいだ。ミドガルの風は頬を赤くする。知ってるか? 知らないけど。
* * *
散歩は意外と悪くなかった。
王都の大通りを歩き、裏道に入り、市場を通り抜け、噴水広場に出る。クレアは最初は無言だった。腕を組み、背筋を伸ばし、俺の半歩前を歩いていた。
「クレアさん、そこの店クレープ美味しいですよ」
「クレープ? 甘いものでしょ」
「甘いものは正義です」
「正義って何」
「俺の中での正義です」
「あなたの中での正義がクレープなの」
「クレープとカフェオレです」
「…ふう」
またため息だ。だが今度のはさっきより柔らかい。呆れの中に微かな笑いが混じっている。
「一つくらいなら食べてあげてもいいわ」
「じゃあ奢りますよ」
「奢ってくれるの」
「当たり前でしょ。俺が誘ったんだから」
「…そうね。じゃあお言葉に甘えて」
クレアはクレープ屋の前に立った。イチゴとクリームのクレープを一つ注文する。俺も同じものを頼んだ。
二人でベンチに座って食べた。噴水広場。水の音。子供たちが走り回っている声。平和だ。
「美味しい」
「でしょ」
「…うん。美味しい」
クレアはクレープを一口かじるごとに頬を緩めていた。さっきまでの厳しい顔が嘘みたいだ。甘いものを食べると人が変わるタイプなのか。可愛いな。いや可愛くはない。可愛くはないが。まあ可愛い。
(いや何言ってるんだ俺)
「何笑ってるの」
「笑ってないです」
「口角が上がってる」
「クレープの味がいいからです」
「嘘。私を見て笑ってた」
「見てないです」
「見てた」
「見てない」
「…ふう」
三度目のため息。だが今度のは呆れじゃない。何か別の響きがあった。
クレアはクレープを食べ終わり、ベンチの背もたれに寄りかかった。空を見上げている。青い空。白い雲。ミドガルの空は綺麗だ。
「ねえエロゲ」
「何ですか」
「あなたって不思議な人ね」
「不思議?」
「普通じゃない。何かこう、普通の男子学生とは違う感じ」
「普通の男子学生ってどんなんですか」
「もっとこう、自分を大きく見せようとするじゃない。あなたは全然そういうのがない」
「ないですね。大きく見せても何もいいことないんで」
「それが不思議なのよ。男ってそういう生き物でしょ」
「俺は違います」
「…そう」
クレアは空を見上げたまま何か考えているようだった。
その時だった。
俺の中で何かが動いた。魔力が。微かに。普段は意識しないほど小さな波動。だが確かに動いた。