※この作品はR-18です。

扉の向こう側   作:竿役アストルフォに脳を焼かれた人

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欲望をぶつけてたらいつの間にか3万文字近くなってしまった
分割した方がよかったか…?


中

オルガマリーの部屋が、もぬけの殻だったあの夜から。

 

一度境界線を踏み越えてしまったマシュの足は、消灯時間を過ぎるたび、何かに取り憑かれたように冷たい通路を歩いていた。

けれど、何度足を運んでも、所長室の前に待っているのは二つの結末だけだった。

完全に閉ざされて気配を拒む分厚い扉か、あるいは、もぬけの殻となった底冷えのする暗闇か。

毎夜のように繰り返される空振りと、扉の前で覚える痛烈な失望、そして満たされない飢餓感。

いけないことだと理解していながら、身体の芯に残った熱は引くどころか、夜を追うごとに疼きを増していた。

 

満たされない熱を持て余し、冷たい壁に指先を触れさせたとき――頭の片隅で、ふと、誰かの囁きのような疑問が掠めた。

自問自答のはずなのに、まるで別の誰かにそっと問いかけられたような、冷たく澄んだ違和感。

 

――なぜ、所長はここにいないのか。

――この時間に部屋を空けて、あの人は一体、どこへ行っているのか。

 

一度浮かんでしまったその問いは、冷たい通路の中で澱のように胸の奥へ広がっていく。

いつもなら所長室の前で立ち尽くすはずの足が、通路の分岐点でふと止まった。

 

思い至ってはいけない答え。

けれどその思考の隙間へ、まるで待っていたかのように、かすかな甘い気配が滑り込んでくる。

冷え切ったカルデアの空気の底に混ざり合う、あの微かな残り香。

まるで見えない糸で手招きされ、思考そのものを誘導されているかのように――マシュの足は、無意識のうちに別の区画へと向いていた。

 

召喚されたサーヴァントたちに割り当てられた、居住区画の奥。

 

アストルフォの、部屋の前。

 

そして――今夜。

 

扉は。

ほんの少しだけ。

開いていた。

 

 

 

*

 

 

 

隙間から漏れ出てくる、甘く湿った熱気。

冷え切ったカルデアの空気を押し退けるように漂うその気配に、マシュの心臓が跳ねるように早鐘を打つ。

 

半開きの扉。

薄暗い室内。

ベッドの端に腰掛けている、桃色の髪。

その足元、冷たい床に両膝をついて跪いている、銀灰色の髪。

 

オルガマリーは、マシュに背を向けていた。

 

――服を、着ていない。

 

脱ぎ捨てられた衣服が床に散らばり、剥き出しになった滑らかな背中がサーヴァントの部屋の床に跪いている。

その白皙の素肌は、床の冷たさとは裏腹に、屈辱と激しい興奮によってうなじから肩口、背骨のくぼみに至るまで鮮やかな桜色に火照り、滲んだ汗が薄暗がりの中で艶めかしく光っていた。

ベッドに腰掛けるアストルフォもまた、華奢な白い素肌を完全に晒し、細い太腿を大きく開いている。

その汗ばんだ白い肩は、股間に埋められた頭の動きに合わせるように時折びくりと小さく震え、片手でベッドのシーツをくしゃりと掴みながら、もう片方の手でオルガマリーの乱れる銀髪へと優しく指を滑り込ませていた。

絡みつく毛先を梳き、耳裏から熱く上気した頬へと指先を這わせ、慈しむように、そしてもっと奥へと促すようにそっと撫で下ろしている。

両脚の間に顔を深く埋められ、表情までは窺えない。けれど、撫でられるたびに身悶え、羞恥と熱情に小刻みに跳ねる細い肩の輪郭が、そこで行われていることの生々しさを無言のうちに物語っていた。

 

「…………」

 

声はない。

ただ。

鼻にかかる苦しげで途切れがちな、熱い呼気。

――じゅる、ちゅぽっ、ちゅるっ……。

舌と粘膜が吸着し、空気を巻き込む生々しい音が、静まり返った廊下へ密やかに零れ落ちてくる。

 

マシュは、意味を考えないようにした。

考えれば、裸の所長が今そこで何を咥え込まされているのか。

そして、自分自身がなぜアストルフォの部屋の前まで来て、これほど下腹部を熱く疼かせて立ち尽くしているのかまで、すべてを認めてしまわなければならなくなる。

 

「マリーはかわいいね」

 

静寂を割るように、アストルフォの明るい声が落ちた。

 

「いつもはあんなに偉そうなのに。わざわざボクの部屋まで来て、自分からぜんぶ脱いじゃってさ」

 

足元で跪くオルガマリーの赤く染まった背中が、屈辱と悦楽で大きく跳ねる。

 

「あ、怒った?」

 

返事はない。ただ、口内を塞がれたままの苦しげな「……んむ……っ、ふ……っ」という籠もった吐息だけが漏れる。

 

「えへへ。やっぱりかわいい」

 

からかっている。

それも、何も知らずにではない。

分かっている。

オルガマリーが何に反応するのか。

どんな言葉なら、あのプライドの高い人の呼吸を乱し、喉の奥まで屈服させられるのか。

全部、分かっていて。

それでもアストルフォは、無邪気な子供のように笑っていた。

 

「…………」

 

見てはいけない。そう理性が警告しているのに、マシュの足は扉から離れようとはしなかった。

恐怖などではない。あのもぬけの殻だった夜からずっと、自分自身がこの淫らな光景を期待し、密かに渇望してしまっていたからだ。

扉の隙間から漏れ聞こえる水音を浴びているうちに、マシュの浅い呼吸が、足元で身悶えるオルガマリーの熱い呼気と狂おしいほど滑らかにシンクロしていく。

 

逃げなければならないのに、もっと深く見入ってしまう。

自らの淫らな共鳴に膝を震わせ、どうしようもなく隙間へと身を乗り出しかけた、

 

そのとき――。

 

目が合った。

 

「――――」

 

アストルフォが。

足元で奉仕するオルガマリーの濡れた銀髪に手を置いたまま。

まっすぐ。

扉の隙間にいるマシュを見ていた。

 

昼間の資料棟で見せつけられた、あの時と同じ。

偶然ではない。

扉の向こうにマシュが来ることを、最初から待っていたかのような、底知れない瞳。

 

なのに。

オルガマリーには何も言わない。

 

ただ。

笑う。

 

「えへへ」

 

その笑顔が、誰に向けられたものなのか。

マシュにだけは痛いほど分かってしまった。

 

「……っ」

 

足が、床に縫い止められたように動かない。

アストルフォはマシュから視線を一寸たりとも逸らさないまま、足元で奉仕するオルガマリーの銀髪へと指先を滑り込ませ、愛おしそうにゆっくりと撫で下ろした。

 

そして――扉の隙間にいるマシュの瞳をまっすぐ見つめながら、甘く蕩けるような声で囁く。

 

「マリーは、本当にかわいいね」

 

「――――!」

 

肺の空気が一気に奪われ、息が詰まる。

呼んだ名は「マリー」のはずだった。けれど、その甘やかな眼差しも、唇からこぼれる吐息の熱も、すべてが扉の向こうの自分だけに注ぎ込まれている。

誰に向けられた賞賛なのか。

オルガマリーを褒めているのか、それとも覗き見ている自分を「かわいい」と嘲笑い、誘惑しているのか。

境界線がぐらりと揺らぎ、マシュの全身の血がカッと沸騰するように熱くなった。

 

その言葉に、足元のオルガマリーの身体が羞恥と歓喜に跳ねた。

カルデアの長として、こんな体たらくを見せる自分を恥じ、責め苛む矜持は確かに残っているはずだった。

けれど、頭を撫でられ、甘く肯定された熱い喜びに、抗うことができない。

恥ずかしいのに、たまらなく嬉しい。

そのどうしようもない矛盾に突き動かされるように、オルガマリーの赤く染まった細い背中が小刻みに波打ち、口元の動きが一段、また一段と、抗えない熱に煽られて速度を増していく。

 

「……んむ……っ、ふ……っ、ん、く……じゅるるっ……ず、ちゅぷぷ……っ!」

 

激しさを増していく吸引と水音。

プライドを必死で抱え込みながらも、与えられる快楽と賞賛を手放せなくなったオルガマリーは、口内の熱をもっと奥へ、もっと深くへと擦り合わせ、頭を前後に揺らすピッチを早めていく。

荒くなる呼吸。息を継ぐ間さえ惜しむように、細い肩を激しく上下させて頭を動かす彼女の、痛々しいほど甘美な奉仕。

アストルフォはその乱れる銀髪を優しく梳きながら、マシュに向けて意地悪く目を細め、喉元を小さく鳴らして見せた。

 

――じゅるるる、ずずっ、じゅぽっ、じゅぷぷ、ずちゅ……。

 

狭い扉の隙間から、オルガマリーの熱く乱れた吐息と、口内を満たす唾液を激しく啜り上げる生々しい摩擦音が溢れ出し、冷え切った通路を侵食していく。

きゅっと激しく空気を吸い込むその水音が、まるでマシュの鼓膜へと直接注ぎ込まれるように響く。

自分を見つめるアストルフォの瞳と、その足元でプライドを滲ませながらも狂おしい速度で貪り続けるオルガマリーの姿。

その光景を見せつけられながら、マシュの口内には「知らないはずの味」がじわりと熱く広がり、自らの口を直接掻き回されているような甘い疼きに、膝の力が抜けそうになっていた。

 

「マリー」

 

アストルフォが低く呟き、オルガマリーの後頭部をぐっと引き寄せる。

 

「…………っ」

 

その瞬間。

アストルフォの腰と、汗ばんだ白い肩がわずかに跳ねた。

ほとんど同時に、足元で丸められたオルガマリーの赤く上気した素肌も、びくりと大きく震える。

 

――………………。

 

あれだけ激しかった水音が、そこでぴたりと止まった。

 

張り詰めた、静寂。

その静けさの中で。

 

――こく。

 

「――――」

 

息を呑む。

喉を鳴らして何かを飲み下す音が、冷たい廊下に鮮明に落ちた。

それで終わりだと思った。けれど。

短い間を置いて、また。

 

――こく。

 

もう一度だったのか、それともそのあとにも続いたのか。

分からない。数えていたわけではない。

ただ、一度きりではなかった。

静かな部屋の中、ときおり、こく、こくと、小さな嚥下音が落ちる。

 

「…………」

 

意味を考えないようにすればするほど。

昼間に見た、結合部から滴るあの白い雫と、オルガマリーのこぼした「また中に」という言葉が頭の中で結びついていく。

飲み干されているものの正体を想像した瞬間、マシュの口内がじわりと熱く湿り、下腹部の奥がきゅっと切なく収縮した。

 

やがて、オルガマリーが口元を手の甲で拭いながら、ゆっくりと顔を上げる。

その顔は耳の先まで真っ赤に染まり、顎や唇の端には、飲みきれなかった白い雫が艶めかしく光っていた。

 

「……もう……」

 

呆れたような、けれど完全に毒気を抜かれ、熱に蕩けた声。

足元のオルガマリーが息を整えようと目を伏せ、立ち上がろうとした、その一瞬の隙――。

 

アストルフォが、再びマシュへと視線を据えた。

 

「――――!」

 

オルガマリーの視界からは死角になる角度のまま。

アストルフォは扉の隙間にいるマシュを逃がさないようにじっと見据え、自らの濡れた唇の端を、薄紅色の舌先でちろりと撫でてみせた。

まるで、口元に残る熱い雫を味わい直すかのような仕草。

扉の向こうで立ち尽くすマシュ自身の唇をじかに舐めしゃぶっているかのような、冷酷なまでに甘く濡れた眼差しを注ぎ込んで。

 

「――っ、ぁ……!」

 

冷たい刃を突き立てられたかのように心臓が激しく脈打ち、爪先から下腹部へと熱い毒が一気に駆け巡る。

オルガマリーは何も気づいていない。

自分だけに向けられた、あまりにも露骨で淫らな挑発。

視線を絡め取られた瞬間、マシュの唇と口内には熱い痺れがじわりと広がり、下腹部の奥底が激しく収縮して、甘い疼きが全身へと波及していく。

 

立ち上がったオルガマリーは、そのアストルフォの視線にも気づかず、彼の膝の上へ、自ら両脚を開いて跨がった。

 

その、オルガマリーが腰を浮かせて跨がるわずかな隙間――。

薄暗い部屋の照明を浴びて、露わになったアストルフォの股間が、マシュの視界を真正面から捉えた。

 

「――――!」

 

これまでずっと、直視を拒んで曖昧に濁していた「それ」。

華奢で可憐な中性的な容姿にはおよそ似つかわしくない、目を疑うほどに大きく、硬く反り立った獰猛な熱の塊。

ぼんやりとした影などではない、確かな質量と圧倒的な存在感を持った生々しい男性の実態が、マシュの網膜を容赦なく射抜いた。

 

「マリーのほうから来た」

「違うわよ……っ」

「ほんと?」

「…………今は、いいのよ」

 

なんの言い訳かわからない言葉を発しながら、オルガマリーは震える手でアストルフォの肩を支えにし、その脈打つ剛直の上へと、躊躇うことなくゆっくりと腰を落としていく。

 

――くちゅ、じゅぶっ……。

 

押し出されるような湿った摩擦音が、静寂に落ちる。

大きく割られた剥き出しの臀部の隙間、無防備な最深部へ、先ほどマシュの目を奪った凶悪な熱が一寸、また一寸と呑み込まれ、肉壁を押し広げて埋め込まれていく。

その生々しい結合の瞬間を、白く柔らかな臀部の輪郭越しに、マシュは真正面から目撃してしまった。

 

「――っ、ぁ……っ、ん、くぅ……っ!」

 

一番奥まで完全に貫き沈められた瞬間、オルガマリーの背筋が弓なりに反り、首筋を激しく紅潮させて甘い悲鳴が零れ落ちる。

あのアストルフォの獰猛な形を余すところなく呑み込んで震える所長の、赤く上気した背中と、熱を受け止めて強張る臀部の肉感。

 

「――――!!」

 

マシュの頭の中で、張り詰めていた最後の防壁が音を立てて砕け散った。

見えないものとして、ずっと否定し続けてきた現実。

二人が何を重ね、あの凶暴な熱がどこへ埋め込まれていたのかという決定的な真実が、鮮烈すぎる光景となってマシュの瞳と脳裏へ容赦なく焼きつけられる。

見ているだけで、まるで自分自身の内側まであの硬い熱で押し広げられ、最深部を深く抉り貫かれたかのような強烈な錯覚が走り、下腹部の奥がきゅうっと締め付けられるように痺れ切った。

 

――知ってしまった。

――理解してしまった。

あの厳格で誇り高い所長が、夜な夜な一サーヴァントの部屋へ通い、床に跪いて白いものを飲み干し、こうして自分から跨がって腰を沈めているという、決定的な痴態のすべてを。

 

激しい罪悪感と恐怖。

見てはいけないものを見てしまったという戦慄に、指先は冷たく強張っている。

なのに――その恐怖のすぐ裏側で、胸の奥からじわりと熱いものが広がっていくのを止められない。

誰にも知られてはならない秘密の情事を、自分だけがこうして見つめているという背徳の重み。

目の前の熱気に当てられるように、マシュの下腹部の芯が甘く疼き、自分でも理解できない仄暗い昂ぶりに息が浅く乱れていった。

 

――ぺたり、と汗ばんだ素肌が密着し、オルガマリーは耐えかねたようにアストルフォの胸元へとすがりつく。

 

「マリー」

「……呼ばないで……っ」

「いやだよ」

「え……?」

「だって――今のマリー、すっごくかわいいもん」

 

耳元で楽しそうに囁かれた甘いからかい。

その言葉に、オルガマリーの矜持が微かに弾かれた。

これ以上、一方的に弄ばれてたまるものか――。

所長としての意地と自制心を必死にかき集め、主導権を自分の手へと奪い返すように、オルガマリーはアストルフォの肩に手を置き、自ら規律正しく腰を上下させ始めた。

 

自分がペースを握り、支配してやる。

そんな意図を込めて、冷静さを保とうと浅く、整ったストロークを刻もうとする。

 

けれど――アストルフォは、ただ受け止めているだけではなかった。

 

「えへへ。マリー、頑張ってるね」

 

余裕たっぷりの明るい声。

オルガマリーが腰を持ち上げた瞬間、アストルフォは彼女の細い腰骨を両手でしっかりと固定し、降りてくる重力に合わせるように、下から鋭く、的確に腰を跳ね上げた。

 

――ずちゅっ、ぶちゅっ……!

 

「――っひ、ぁ……っ!?」

 

予期せぬ角度から最深部の急所を抉り抜かれ、オルガマリーの口から情けない悲鳴が跳ね上がる。

主導権を握るどころか、オルガマリーが腰を動かすたび、アストルフォは絶妙なタイミングで腰の角度を捻り、内側の最も弱い肉襞をピンポイントで擦り上げていく。

 

「ここ、気持ちいいんだよね?知ってるよ」

「や、め……っ、わたしが……っ、動いて……っ!」

「いいよ? マリーの好きにして。ボクも合わせるから」

 

無邪気に微笑みながら、アストルフォの指先がオルガマリーの火照った腰や背骨を優しく撫で上げ、下からは容赦のない突き上げが繰り返される。

自分のリズムで動かそうとすればするほど、アストルフォの意図通りの場所へと強烈に打ち据えられ、快楽の波に足元をすくわれていく。

 

――ぎし、ずちゅっ、くちゅぷ……!

 

「あっ……く、ぅ……っ、もう……っ、あぁっ……!」

 

次第に、抗議の言葉すら形を成さなくなっていく。

支配しようとする意地は瞬く間に甘い熱情へと溶かされ、オルガマリーの唇からは、もはや意味のある言葉は零れなくなっていた。

漏れ出るのは、「……ひぅ……っ、ん、ぁ……っ、ふ……っ」という、喘ぎ交じりの細く途切れた吐息ばかり。

顎を上げ、熱に蕩けた瞳でただ空を仰ぎながら、アストルフォに下から突き上げられる衝撃に合わせて震え、翻弄されるだけの肉体へと成り果てていく。

波打つ白い臀部と、結合部から飛び散る濃密な水音が、彼女の完全な敗北を物語っていた。

 

アストルフォは自らの上で言葉を失い、熱い息を漏らし続けるオルガマリーの腰を優しく支えながら――乱れる銀髪の肩越しに、また、マシュのほうを見た。

 

「――――」

 

目が合う。

桃色の髪。楽しそうに細められた瞳。

声すら奪われ、ただ喘ぎの吐息を漏らすオルガマリーを抱きながら、その唇だけが、マシュに向けてゆっくりと音もなく動いた。

 

――マ。

 

呼吸が止まる。

 

――シュ。

 

「――――っ!」

 

名前を呼ばれた。声ではなく、唇の形だけで。

衝撃に耐えきれず、後ずさった足が滑った。

 

かつ。

 

「──?」

 

腰の動きを一瞬止め、オルガマリーが反応する。

マシュは咄嗟に壁の陰へ背中を強く押しつけた。

 

「どうしたの?」

 

アストルフォの声は、あまりにも自然だった。

 

「……今、よそ見してなかった?」

「してないよ?」

「本当に?」

「ほんとほんと」

「……ちゃんと、こっち見てなさい」

「えへへ」

 

悪戯っぽく響くその笑い声は、「次はキミの番だよ」と囁く合図そのものだった。

 

壁の陰に張りつき、冷たい金属の感触にすがりつきながら、マシュは荒い呼吸を殺した。

姿を見ることはもうできない。けれど――視覚を奪われたことで、マシュの感覚は恐ろしいほど研ぎ澄まされていた。

 

通路には、いつも通りの静寂と空調の低い唸りが横たわっているだけだった。

扉が薄く開いているとはいえ、廊下全体に響き渡るような大声ではない。それなのに、なぜか――まるで耳元で直接囁かれ、吹き込まれているかのように、部屋の中の生々しい情事のすべてがマシュの耳朶へ鮮明に流れ込んでくる。

 

――ぎし、ぎし、ときしむベッドの骨組み。

先ほどよりも一段とテンポを速め、激しさを増していく皮膚のぶつかり合う音。

逃げ場のない結合部から絶え間なく湧き上がる、ぐちゅ、じゅぷ、ぶちゅ、という湿った摩擦音。

 

「――あっ、ん、あぁっ……! や、だ……また、奥……っ、あっ!」

 

完全に箍が外れたオルガマリーの泣き声混じりの高い嬌声さえ、まるでマシュの鼓膜を直接撫でるように、艶めかしく届いてしまう。

耳を塞ぎたいのに、両手は金縛りに遭ったように動かない。

なぜ自分にだけ、これほど鮮明に届いてしまうのか。

得体の知れない恐ろしさに震え、指先が凍りつきそうになる。

けれど――その恐怖さえも、耳朶を容赦なく犯す生々しい情事の音と、自身の奥底からどくどくと湧き上がる甘い熱の奔流によって、あっけなくドロドロに溶かされ、塗り潰されていく。

注ぎ込まれる湿った音の粒に思考を奪われ、二人がどのように腰を打ち合わせ、貪り合っているのかが、抗いようもなく脳裏へ鮮烈な像を結んでいく。

 

そして――。

 

ひときわ激しく軋んだベッドの軋みと、オルガマリーの途切れた絶頂の悲鳴。

アストルフォの低く甘い吐息とともに、どぷ、と何かが満ち溢れるような重い水音が落ち、やがて部屋の中は、互いの熱い息遣いだけが重なる静けさへと沈んでいった。

 

最後まで、すべてを聴かされてしまった。

頭の先から爪先まで、二人の情事の音で犯し尽くされたような脱力感。

身体の芯に重く鈍い熱を抱えたまま、マシュは震える膝に力を込め、逃げるようにその場を後にした。

 

 

 

*

 

 

 

翌朝。

 

カルデアの人工光が点灯し、いつもと変わらない日常のタイムスケジュールが始まっても、マシュの身体には昨夜の毒が色濃く沈殿したままだった。

 

自室のシャワーでどれほど洗い流そうとしても、冷たい水で肌を冷まそうとしても、下腹部の奥に居座った甘い痺れと疼きは消えてくれない。

目を閉じれば、すぐにあの光景が網膜の裏で鮮やかに蘇る。

中性的な容姿に似つかわしくない、アストルフォの獰猛で硬い熱の塊。

自ら両脚を開いて跨がり、言葉を失って腰を跳ねさせていたオルガマリーの無防備な臀部と、泣き声のような喘ぎ。

そして――所長の肩越しにマシュを見据え、唇を舐め上げ、無音で紡がれた「マ・シュ」という唇の形。

 

「…………っ」

 

鏡に映る自分の顔は、熱病に浮かされたようにほんのりと朱が差し、瞳の焦点が定まっていなかった。

自分が知ってしまったことの重さに、胃の奥がきりきりと締め付けられる。

けれど、その罪悪感と同じ深さで、あの情事の一部始終を共有してしまったという背徳的な熱情が、マシュの全身の血を甘く痺れさせていた。

 

 

 

*

 

 

 

朝の食堂。

無機質な照明の下、朝食を摂るスタッフたちの微かなざわめきと、カトラリーの触れ合う乾いた音が響いている。

マシュはトレイを持ったまま、いつも座っている端の席へと静かに腰を下ろした。

 

目の前のスープに口をつけることすらできず、手先を膝の上で固く握りしめる。

その視界の端に、二人の姿が入った。

 

オルガマリー・アニムスフィア。

いつものように隙のない所長服に身を包み、背筋を凛と伸ばし、周囲のスタッフに厳しい視線と指示を投げかけている。

その佇まいは、気高く、冷徹で、誰も寄せ付けないカルデアの長そのものだった。

 

けれど――。

マシュの目には、昨夜のすべてが焼きついてしまっている。

 

(あの人が……床に膝をついて……)

(あのアストルフォさんのものを、口いっぱいに咥えて……自分から腰を沈めていた……)

 

普段の厳しい表情を見るほど、昨夜の全裸で身悶え、言葉すら奪われて「……ひぅ……っ、ん、ぁ……っ」と喘ぎ乱れていた痴態とのギャップが、えも知れない生々しさを持ってマシュの脳裏を侵食していく。

厳しい口元も、耳元を隠す銀髪も、服に隠された滑らかな背中も、すべてが昨夜の情事と重なり合い、マシュの喉をからからに乾かせていく。

 

そして、そのオルガマリーの少し斜め後ろ。

 

アストルフォが、何事もなかったかのような屈託のない笑顔で、スタッフたちと言葉を交わしながら歩いていた。

可愛らしい仕草。無邪気な声。

けれどその少年のような身体の奥に、昨夜マシュに見せつけたあの獰猛な肉塊が隠されているのだ。

カルデアの所長を手のひらの上で弄び、夜な夜な快楽の底へと沈めている存在。

 

オルガマリーが歩みを進め、マシュの座るテーブルのすぐ脇を通り過ぎようとした、その瞬間――。

 

アストルフォが、ふと立ち止まった。

 

オルガマリーは気づかず、そのまま先へと歩いていく。

その所長の背中を見送るふりをしながら、アストルフォはマシュへと首を傾げ――。

 

「――――」

 

目が合った。

 

食堂の明るい人工光の中。

大勢のスタッフが行き交う、白日のもとで。

 

アストルフォは、昨夜と同じ、底知れない笑みをその紫色の瞳に宿していた。

そして、通り過ぎるオルガマリーの背中に誰もが注目しているその一瞬の隙を突き、マシュに向けて、そっと自分の唇に人差し指を立てて見せる。

 

――しー、と。

 

内緒だよ、と告げるような、無邪気で、悪魔のような合図。

それだけでなく、アストルフォはマシュの視線を絡め取ったまま、濡れた上唇の輪郭を、舌先でちろりと軽やかに撫でてみせた。

 

「――――ッ!!」

 

息が止まり、頭の芯から血の気が引くと同時に、下腹部へと灼けつくような熱が一気に逆流した。

見られていた。

昨夜の覗き見を、すべて知られている。

それどころか、昼間のこの大勢の人間がいる空間でさえ、アストルフォはマシュと「あの夜の秘密」を共有し、弄び、引きずり込もうとしている。

 

アストルフォは何食わぬ顔で歩き出し、オルガマリーの後を追って食堂の出口へと消えていった。

 

取り残されたマシュは、テーブルの下で震える太腿を強く押し合わせ、激しく乱れる呼気を必死で押し殺していた。

恐怖。背徳。

そして――自分自身を狂わせる甘い熱情が、下腹の奥底でじんじんと脈打っていた。

 

 

 

*

 

 

 

その異変を目撃したのは、食堂でのあの挑発から数時間後――カルデアが最も慌ただしく稼働する、白昼のことだった。

 

通路の先。

歩調を早めるオルガマリーと、その後ろを軽やかについていくアストルフォの姿。

二人は周囲の視線を気にする様子もなく、普段は利用者のいない予備会議室の扉の前で足を止め――滑り込むように、二人きりでその部屋の中へと消えていった。

 

「…………っ」

 

マシュの足が、反射的に止まる。

日中の、多くのスタッフが行き交うメイン通路のすぐ近くだ。

本来なら、所長とサーヴァントが二人きりで人気の少ない会議室へ入っていけば、誰かが怪訝な目を向け、噂話を始めてもおかしくない。

けれど、行き交うスタッフたちは手元の端末や書類に目を落としたまま、誰一人としてあの二人が消えた扉へ視線を向けようとすらしていなかった。

まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように。

 

奇妙な違和感。

けれど、マシュの脳裏を満たしたのは、その不自然さへの警戒ではなく――昨夜見せつけられた、あの生々しい情事の熱気だった。

 

(また、二人で……? こんな昼間に、あんな場所で何をしているのでしょう……?)

 

心臓が早鐘を打ち、喉がからからに渇く。

引き返さなければならない。関わってはいけない。

そう理性が警告を発するのに、マシュの頭には、これまで何度も自分を誤魔化してきた都合のいい言い訳が浮かび上がっていた。

 

(……確認、するだけ。所長が危険な目に遭っていないか、状況を確かめるだけ……)

 

すでに自分自身でも嘘だと分かっている言い訳を盾にして、マシュの足は吸い寄せられるように、ひっそりと静まり返った会議室の扉へと向かっていた。

 

 

 

*

 

 

 

扉の前に立つ。

ほんのわずかに、数ミリだけ隙間が空いていた。

昨夜と同じ。まるで、マシュが来ることを誘っているかのように。

 

息を殺し、隙間に視線を這わせて薄暗い室内を覗き込む。

けれど――声も、物音もしない。

中央に並ぶ長いテーブルと整然と並んだ椅子。脱ぎ捨てられた衣服も、絡み合う二人の影すら見当たらない。

 

(見間違い……? でも、確かに二人がここへ入っていくのを……)

 

狐につままれたような困惑に押され、マシュは自ら扉を押し開き、薄暗い部屋の中へと一歩、足を踏み入れてしまった。

 

「……所長?」

 

返事はない。

 

「……アストルフォさん?」

 

誰もいない。

埃っぽい静寂が横たわるだけの、完全な空室。

 

その瞬間――背後で、かちり、と扉が閉まる音が静かに落ちた。

 

「やっほー、マシュ」

 

「――――っ!」

 

心臓が跳ね上がり、反射的に振り返る。

そこには、プロジェクタースクリーンの影から姿を現したアストルフォが、一人だけで立っていた。

 

「アストルフォさん……? 所長は……」

「いないよ?」

「でも、私……」

「見た? マリーとボクが入ってくところ」

「……はい」

「本物じゃないよ」

 

無邪気な笑顔のまま告げられた事実に、マシュの思考が凍りつく。

 

「……幻……?」

「うん。でも、マシュは来たね」

 

アストルフォは楽しそうに目を細め、音もなく一歩、距離を詰めてくる。

 

「気になった? 確認したくなった?」

「……違います」

「マシュってさ、気になると、ちゃんと見に来るんだね」

「……いつから」

「ん?」

「いつから……知っていたんですか。私が、見ていたことを……」

「えへへ」

 

はぐらかすような、けれどすべてを見透かした笑み。

アストルフォはそれ以上答えず、ただ静かに――一歩、足を踏み出した。

 

す、と距離が縮まる。

続いて、もう一歩。

無機質な会議室の床を滑るように、音もなく詰め寄ってくる桃色の気配。

 

「…………っ」

 

マシュの喉が、引き攣るように小さく鳴った。

逃げなければならない。

罠に嵌められ、密室で二人きりにされている。

本来なら、警戒を最大に引き上げ、恐怖に身を竦ませるべき状況だった。

 

なのに――。

身体を駆け巡っているのは、冷たい恐怖などではなかった。

 

近づいてくるアストルフォの身体から漂う、あの甘く湿った残り香。

昨夜、扉の隙間から浴びせられた、あの淫らな熱気と同じ匂い。

吸い込んだ瞬間、熱い気体が肺を満たし、爪先から頭の芯へと甘い痺れが一気に駆け上がっていった。

 

心臓が痛いほど脈打ち、呼吸が熱く濁っていく。

恐ろしいのではない。

追い詰められ、間合いを奪われていくその一瞬一瞬に――肌の表面を甘い痺れが撫で上げ、この距離の消失をどこかで受け入れてしまっているのだ。

 

自分でも認めたくない、仄暗くドロドロとした衝動。

それが熱病のように全身の感覚を鈍らせ、マシュの足を床に縫い止めていた。

 

アストルフォはマシュのすぐ目の前で足を止め、逃げ道を塞ぐことも、強引に触れることもしないまま、至近距離からその爛々とした紫色の瞳で見上げてくる。

 

「マシュ」

 

「……はい」

 

小さく返事をしてから、マシュは自らの絶望的な事実に気づいてしまった。

扉の鍵はかかっていない。

身体を拘束されているわけでもない。

逃げられないのではない。

 

自分は――まだ、ここから逃げ出そうとすらしていないのだと。

 

「嫌?」

 

耳のすぐ傍に落ちる、吐息交じりの甘い声。

けれど、まだ触れてはいない。

マシュの意思を確かめるように、アストルフォは至近距離でわずかに首を傾げた。

 

「…………」

 

言葉が出ない。

マシュは無意識のうちに、自分自身をかばうように両腕を胸の前で小さく縮こまらせ、ぎゅっと身を竦めていた。

拒絶の「嫌」も、受け入れる肯定の言葉も、喉の奥に張りついて音にならなかった。

ただ、浅く乱れた呼気だけが、二人の狭い隙間に零れ落ちる。

 

その沈黙と防衛の姿勢をどう受け取ったのか。アストルフォはふっと薄く目を細め、静かに両手を持ち上げた。

 

華奢で、白く滑らかな二つの手のひら。

それが、マシュの両の肩口へと、羽が触れるような軽やかさで同時に置かれる。

 

「――――っ」

 

触れられた瞬間、マシュの肩がびくりと小さく跳ねた。

布地が隔てているのに、掌と指の腹を通じてアストルフォの体温が、左右からじわりと芯まで染み渡るように伝わってくる。

昨夜、オルガマリーの銀髪を梳き、熱い肌を撫でていたあの指先の熱。

 

「どう?」

 

至近距離から、ふっと落とされた甘い声。

 

「え……?」

 

何を聞かれているのか分からず、マシュの喉から困惑混じりの掠れた声が零れ落ちる。

けれどアストルフォはその困惑に答えることもなく、ただ楽しそうに目を細め、両の指先の重みだけを左右対称に滑らせ始めた。

 

両肩から、胸の前で縮こまる二の腕の外側へ。

防衛線を引いていたはずの輪郭を軽々とすり抜け、薄い皮膚の下に潜む敏感な神経の束だけを的確に手繰り寄せていくような、迷いのない精密な軌道。

布地を擦る微かな衣擦れの音を立てながら、腕の内側をなぞり、ふっと胸元と腕の隙間――防衛を固めているはずの、敏感な両腋のきわどい窪みへと、滑らかな指先が躊躇いなく滑り込む。

くすぐったいような、皮膚の裏側の神経を直接なぞられるような刺激に、マシュの背筋がぞくりと粟立った。

そのまま、両脇腹の柔らかなカーブへ。

指の腹でくびれの起伏を確かめるようにゆっくりと下り、やがて、薄い布越しに下腹部――お腹のあたりで、左右の手のひらが寄り添うようにして、ぴたりと動きが止まった。

 

「……っ、く……」

 

喉の奥で短い息を詰まらせる。

アストルフォの両手は、ただお腹の上に静かに置かれているだけだった。

揉むわけでも、強く押しつけるわけでもない。

けれど、その指先がわずかに沈み込み、呼吸に合わせて上下するお腹の柔らかな起伏を、指の腹ひとつひとつでじっくりと確かめているのが分かってしまう。

その静止が、かえってマシュの意識をその一点へと異常なほど集中させてしまう。

じらすような沈黙。

両の掌から伝わる熱が、マシュの腹部の皮下へとじわじわと染み込み、内側の熱を掻き立てていく。

 

耐えかねて身を竦ませようとした、その瞬間――。

ふっとお腹の上から指先が浮き、マシュは小さく息を吐きかけた。

 

けれど、その微かな安堵すらも束の間。

離れたはずのアストルフォの両手は、逃げ道を塞ぐように左右の腰骨を包み込み、布越しに肉の柔らかな窪みへと指の腹を沈めた。そのまま、両腕が背中側へと深く回り込み――。

 

(抱きしめ、られる……?)

 

ぎゅっと抱擁されるのだと、マシュの身体が一瞬身構え、息を呑む。

けれど――その予想はあっけなく裏切られた。

身体を閉じ込める腕の力など込められることはなく、アストルフォの両手は抗えない熱を塗り込むように背骨の溝をゆっくりとなぞり上がり、強張る背筋を掌で押し撫でながら、ただ滑るように最初の両肩へと戻っていったのだ。

下から突き上げられるような甘い悪寒と、宙吊りにされた期待の残滓に、マシュの背中がびくりと小さく跳ねた。

 

息を呑む静寂のなか、マシュの唇からかすかな細い吐息が零れ落ちるのと同時に、アストルフォの両手が再び動き出す。

 

両肩から、縮こまる腕へ。

二の腕を通り、胸元で塞ぐはずの両腋の窪みをかすめ、脇腹をなぞって、またお腹へ。

そこで再び、わざとらしく動きを止める。

マシュの乱れる呼吸と、高鳴る心臓の脈動を指先で確かめるように、じっと熱を注ぎ込む。

 

「どう?」

 

耳元で、再び同じ短い問いが囁かれる。

 

「……な、にが……ですか……っ」

 

身体をなぞられたことで最初の純粋な困惑はすでに薄れ、熱を帯び始めた呼吸とともに、震える声が漏れた。

じらすような沈黙。

両の掌から伝わる熱が、マシュの腹部の皮下へとじわじわと染み込み、内側の熱を掻き立てていく。

そして焦らしの限界で、再び腰骨を捉え、抱きしめる錯覚を与えながら背骨のラインを撫で上げて、また肩へ。

 

二度目よりも、三度目。

撫でる速度も、沈める圧力も、マシュから抵抗の意志を削ぎ落とすためだけに計算し尽くされている。

抱きしめられるわけでも、強引に奪われるわけでもない。ただ皮膚の表面に熱い境界線を引き直され続けるだけの残酷な反復に、マシュの思考は輪郭を失い、ドロドロに溶かされていく。

同じ軌道をなぞられるたび、布地越しに刻まれる感触は鮮明さを増し、マシュの皮膚感覚は狂おしいほど過敏に暴かれていった。

 

指先が肩から滑り降りてくるだけで、次に触れられる場所――腕、腋、お腹、腰、背中が、先回りするように甘く疼いてしまう。

お腹の上でじらすように静止されるたび、唇を噛み締めて耐えるマシュの鼻腔から、甘く掠れた熱い呼気が抜けていく。

さらに腰骨を掴まれ、背骨を撫で上げられる悪寒に身をよじらせるたび、下腹の奥底に重く熱い沈降感がじわりと広がり、自分でも信じられないほどの湿りが身体の芯から湧き上がってくるのを自覚させられた。

 

胸の前で自らを守るように固く縮めていたはずの両腕からは、ずるずると力が抜け落ちていく。

もはや防衛の姿勢すら保てず、背筋の芯からこわばりがほどけ、まるでアストルフォの指の動きに合わせて、自分の身体が快楽を受け入れる形へと素直に作り替えられていくような錯覚。

 

そして――四度目。

 

肩から二の腕へと滑り降りてきたアストルフォの手は、しかし、いつものように敏感な腋の窪みへと向かうことはなかった。

お腹へと下りてくるはずの熱を先回りして待ち構えていたマシュの意識は、唐突な軌道の断絶に置き去りにされ、胸の奥がきゅっと冷たく跳ね上がる。

与えられ続けていた甘い反復を、自らが無意識のうちに渇望していたのだと思い知らされるような、残酷な空白。

 

その隙間へ、滑り落ちたアストルフォの指先が音もなく割り込んできた。

 

胸の前で弱々しく身を竦め、縮こまっていたマシュの右手を、下からすくい上げるように捉える。

 

「――――っ!?」

 

布地越しではない、生身の皮膚と皮膚の直接の接触。

しっとりと汗ばんだ熱を帯びる掌がマシュの強張る手の甲を撫で上げ、滑らかな五本の指先が、躊躇いなく指の合わせ目へと深く割り込んできた。

どこに滑り込ませれば相手の防壁を崩せるのかを知り尽くした動きで、一本ずつ、節の隙間を押し広げ、皮膚を擦り合わせながら根元まで貪るように絡みついてくる。

 

息を呑む暇もなかった。

ループを断ち切られた焦燥と、研ぎ澄まされていた触覚に直接注ぎ込まれた熱に浮かされ、マシュの身体は拒絶する暇もなく――割り込んできたその華奢な指を、逃がすまいとするようにギュッと強く握り返してしまっていた。

 

「……っ、ふ、ぁ……」

 

自分で、握ってしまった。

絡み合う指の節々から、アストルフォの脈打つ体温がダイレクトに掌へ流れ込んでくる。

マシュの口元から、情けないほど甘く濁った吐息が漏れた。

守るための姿勢だったはずの両手で、あろうことか相手の指を自ら引き寄せ、絡め取ってしまっているという決定的な裏切り。

 

アストルフォは絡み合う互いの指元をじっと見つめ、悪戯が成功した子供のように甘く目を細めた。

 

「どう?」

 

「……だから……っ」

 

声が震え、弱々しく途切れる。

手を離せばいい。今すぐ指を解いて突き放せばいい。

それなのに、一度絡めてしまった指先はまるで糊で貼り付けられたかのように強張り、解くどころか、掌の熱を求めてさらに力を込めてしまっていた。

 

「…………」

 

二人の間に、静まり返った沈黙が落ちる。

言葉は交わされない。

ただ、胸の前で強く絡み合った互いの指先から、トク、トク、と重なり合う脈動と、逃げ場のない体温だけが絶え間なく流れ込んでくる。

 

じっと繋ぎ合わされた掌を通じて、なぜか身体の奥底――下腹部のさらに深い芯のあたりから、甘く細い痺れがじわりと湧き上がってくるのを感じていた。

痛覚ではない、けれど神経を直接爪先で引っ掻かれるような、微弱な痺れの波。

それが血管を伝って全身へと広がり、マシュの膝の力をじわじわと奪っていく。

無言のまま繋がれているだけで、内側から犯され、暴かれていくような奇妙な感覚。

 

やがて、どれほどの時間が経ったのか。

アストルフォの指先から、ふっと力が抜けた。

 

――するり、と。

 

絡み合っていた指が一本ずつ解かれ、熱を帯びた手のひらがゆっくりと離れていく。

 

「あ……っ」

 

思わずこぼれ落ちてしまった小さな吐息とともに、マシュの胸の奥を突き抜けたのは、解放の安堵などではなかった。

失われた体温。冷たい空気に晒された自分の指先。

なぜ――どうして、こんなにも名残惜しいと思ってしまうのか。

引き止めたい、まだ繋いでいたいというみっともない衝動が指先を微かに震わせ、マシュ自身を激しい羞恥と混乱で苛み立てる。

 

けれど、アストルフォはマシュを突き放したわけではなかった。

 

解かれたアストルフォの手は、これまでのループのように胸の前を掠め、脇腹を滑り落ちて――マシュのお腹の上へと、静かに辿り着いた。

 

けれど。

今度は、そこから腰骨へと回り込むことはなかった。

背中をなぞり上がることも、肩へと戻ることもない。

 

ただ――置かれたまま。

 

「……ん、ぅ……っ」

 

動かない手のひらと、微かに沈められた指先。

布地越しに、マシュの柔らかな腹部をじんわりと押し鎮めるように、アストルフォの手はずっとそこへ留まり続けていた。

 

動かされないからこそ、意識のすべてがその一点へと縫い止められてしまう。

密着した掌から注ぎ込まれる体温は、先ほどまでのループとは比べものにならないほどの密度で、マシュの皮膚の奥、内臓のさらに奥底へと染み渡っていく。

ただそこに手を置かれているだけなのに、下腹部の中心で、名付けようのないドロドロとした熱が生まれ、じくじくと疼くように膨れ上がっていくのを、マシュは抗いようもなく実感させられていた。

 

お腹の上にある手のひらの重みと、じわじわと侵食してくる熱。

二人の視線が、息が触れ合うほどの至近距離でまっすぐに交錯する。

 

アストルフォは紫色の瞳を細め、マシュの表情を覗き込むようにして、これまで何度も繰り返されてきたあの短い問いを、甘く低く落とした。

 

「どう?」

 

「――――」

 

呼吸が止まりそうになる。

どう、と問われても、答えられるわけがなかった。

けれど、頭の芯を痺れさせる熱気と、お腹から湧き上がる疼きに追い詰められたマシュの唇から、無意識のうちに言葉がこぼれ落ちていた。

 

「……分かってるくせに」

 

言ってしまってから、マシュ自身の背筋を、冷たくも甘い悪寒がぞくりと貫いた。

自らの口から滑り落ちた淫靡な響きに、身体の芯が甘く痺れ、内側から熱い鳥肌が粟立つ。

 

(わたし……今、何を……?)

 

分かってるくせに。

それは、自分の言葉ではない。

あの資料棟の薄暗い死角で、壁に押し付けられたオルガマリーが零していた、あの言葉そのものだった。

焼きついて離れない記憶のせいで、この先に待つ展開までもが鮮明に浮かび上がってしまう。

 

暴かれてしまった淫靡な本心と、同じレールへ乗ってしまった背徳の深さに、マシュは顔から血の気が引くほどの羞恥に呑まれ、凍りついたように口を噤んだ。

 

そんなマシュの動揺を、目の前のサーヴァントが見逃すはずもなかった。

 

「えー?」

 

アストルフォは楽しそうに目を丸くし、わざとらしく小首を傾げてみせる。

お腹の上に置かれた指先はそのままに、至近距離からマシュの赤く染まりゆく顔をじっと覗き込んできた。

 

「なあに?」

 

「…………っ」

 

「ねえ、何が分かってるの? ボク、ぜーんぜん分かんないよ?」

 

(……やっぱり……っ)

 

予期していた通りの、無邪気さを装った意地悪な問いかけ。

所長が屈服させられたあの手口で、今度は自分が確実に追い詰められていく。

知っているのに、逃げられない。

むしろ、あのとき覗き見た所長の姿と重なっていく現実に、下腹部の奥底がじくじくと甘く痺れ立ってしまう。

 

「……アストルフォ、さん……」

 

マシュの喉から、懇願とも抗議ともつかない掠れた声が零れた。

恥ずかしさで今すぐ床に崩れ落ちてしまいたいのに、お腹に当てられた指先からじわじわと流れ込んでくる熱のせいで、身体の芯はますます痺れ、その場から逃げることすら許されない。

 

「ほら、マシュの口から教えてよ」

 

アストルフォはふふっと低く喉を鳴らし、息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。

 

「ボクが何を分かってて、どうしてほしいのか……ちゃんと言ってくれなきゃ、何にもしてあげられないよ?」

 

「――――っ」

 

これ以上ないほど追い詰められたマシュの視界が、羞恥と熱で滲む。

お腹の上に置かれた手のひらは動かず、アストルフォはマシュが自ら境界線を越えてくるのを、楽しむようにじっと待っている。

 

逃げ道はない。

胸の奥で、決して裏切ってはならない大切な人の面影が痛烈に警鐘を鳴らす。

けれど、身体の奥底から湧き上がる狂おしい疼きと熱は、もはや理性で堰き止められる限界を超えていた。

 

マシュは耐えかねたように視線を伏せ、震える唇を微かに開いた。

 

「……触って……いいですから……」

 

自分から許しを与えるような、精一杯の強がりを含んだ呟き。

だが、そんな中途半端な逃げ道をアストルフォが許すはずもなかった。

 

「ん?」

 

アストルフォは紫色の瞳を細め、いたずらっぽく眉を寄せてみせる。

 

「『いいです』じゃ、ないよね?」

 

「……っ、ぁ、ぅ……」

 

「マシュが、どうしてほしいのか。……ちゃんと言えるでしょ?」

 

許すのではなく、乞えと。

すべてマシュ自身の欲望だと認めろと、逃げ道を完全に塞ぐように迫ってくる。

耳元に落ちる甘い吐息に全身が粟立ち、マシュは真っ赤に染まった顔を隠すように、アストルフォの胸元へと額を押し当てた。

両手で彼の衣服をぎゅっと掴み、自らの意志で、最後の決定的な言葉を絞り出す。

 

「……触って…………ください……」

 

「うん」

 

アストルフォの唇が、満足そうに満面の笑みを描いた。

 

「よくできました」

 

甘く、残酷な称賛の言葉と同時に、お腹の上に留まっていたアストルフォの手が、一気に縛めを解かれたように動き始めた。

 

「――――っ、ぁ……!」

 

先ほどまでの緩やかな循環とは、まるで圧力が違っていた。

布地を隔てていることすら忘れるほど軽やかに、けれど恐ろしいほど迷いなく、指先がマシュの肉体の急所を次々と拾い上げていく。

背中に回された腕がぐっと力を込めて引き寄せ、互いの身体を布地越しに、骨の凹凸すら伝わるほど隙間なく密着させる。

合わせられた下腹部に触れる、どこか熱を持った硬い感触に息を呑みながらも、マシュはそれを意識の底へ必死に押し込めた。

 

片手は背骨の深い窪みをなぞり、腰のくびれを肉ごと鷲掴むように強く引き絞る。

そしてもう片方の手は、ためらうことなく胸元へと這い上がっていった。

 

衣服の上からでも分かる、豊かに張った柔らかなふくらみ。その下縁に指の腹を深く沈め、重みを掬い上げるように包み込む。じわりと布地を押し潰すように圧が加わり、指先で肉の弾力を確かめるように揉み解す円運動が描かれるたび、柔らかな肉が手のひらの隙間から零れそうに形を変える。

そして――器用に尖らせた指先が、布地の中心で硬く尖りきった芯を捉え、服越しにじっくりと押し潰し、転がすように擦り上げた。

 

「――っ、ひ……ぁ……っ! アストルフォ、さ……ん……っ、そこ……っ!」

 

電撃のような痺れが頭蓋を突き抜け、マシュの喉から引き攣るように裏返った声が零れ落ちる。

指先で弾かれるたび、下腹部の中心を直接掴まれたような疼きが走り、全身の毛穴が熱い汗を滲ませていく。

 

「すごいね、マシュ。身体じゅう、こんなに熱くて……ここも、すっごく尖ってるよ?」

 

耳元に落ちる囁きすら、湿り気を帯びて熱い。

胸元を執拗に弄んでいた指先は、布地をじっとりと擦りながら肋骨の起伏をなぞり、呼吸に合わせて激しく波打つお腹を撫で下りていく。

そして――迷うことなく、布地が幾重にも重なる下腹部のさらに下、太腿の付け根のきわどい合わせ目へと滑り落ちた。

 

「――――っ、だめ……っ、そこは……っ!」

 

マシュが思わず両脚を閉じようと身をよじらせるが、アストルフォの膝と手のひらはその隙間に強引に割り込み、逃げ場を完全に塞いでいた。

布地の縫い目が集まる、もっとも狭く、もっとも熱を帯びた中心部。

そこへ、アストルフォは手のひらをぴったりと押し当てたあと、細くしなやかな指先を、布の重なり合う狭い溝の奥へと沈め込んでいく。

 

「――ぁ、く……っ、ぅ……!」

 

服越しであるにもかかわらず、そこだけが異常なほど熱を孕み、じっとりと湿り気を帯びて布地を重く張りつかせているのが、指先の沈み込みを通じて残酷なほど伝わってしまう。

アストルフォは逃がさないように、その秘められた窪みの熱を指先でなぞり、衣服の繊維を擦り合わせながら、もっとも奥深く、もっとも敏感な一点を押し広げるように圧をかけて擦り上げていく。

自身すら把握していなかった感覚の抜け道をあらかじめ熟知しているかのような指先の緩急に翻弄され、衣服の内側から湧き上がる熱い湿りが、布地をじっとりと重く染め上げていく。

 

――じゅちゅ、くちゅ、じゅぷ……。

 

「――――っ!?」

 

まだ、布地の上から擦られているだけのはずだった。

それなのに、耳の奥で、あの夜に扉の隙間から浴びせられた生々しい水音が鮮明に蘇り、鼓膜を直接撫でるように響き渡った。

幻聴なのか、それとも自分の溢れ出る熱い蜜が布地を濡らし、指先と擦れ合って立てている現実の音なのか――境界線すら曖昧に溶けていく。

 

(あのときの……所長の……っ)

 

互いを貪り合っていた二人の淫らな光景と、耳朶を犯し尽くした湿った摩擦音。

それが今、自分の秘所をまさぐるアストルフォの指先の感触と完全に重なり合い、恐ろしいほどの速度でマシュの理性を焼き尽くしていく。

恥ずかしいはずなのに、あの音を思い出すたび下腹部の奥がじくじくと痺れを増し、自分自身を狂わせる蜜が止めどなく溢れ出してしまう。

 

「だめ……っ、だめです、アストルフォさん……っ、こんなの、もう……っ!」

 

懇願してしまったはずなのに、あまりの熱さと溢れ出る快楽の波に耐えかねて、形ばかりの拒絶が唇からこぼれ落ちる。

身体をよじりながらも、その声には一切の拒絶の力はなく、熱く湿った吐息となってアストルフォの耳元へ縋り付くように届いてしまう。

 

「だめじゃないでしょ? 自分で『触ってください』ってお願いしたんだから」

 

「ふ、ぁ……っ、ん……ぅ……っ、ぁ……!」

 

摩擦の熱と、布越しに伝わる指先の生々しい動き、そして脳裏に響き続ける淫靡な水音が、マシュの身体の奥底に眠っていた感覚を容赦なく掻き乱していく。

執拗になぞられ、沈められるたびに、身体の芯から止めどなく熱い蜜が湧き出し、下着を濡らしていく感触が自分でも分かってしまう。

懇願してしまった身体は、もはや拒絶の術を知らない。

アストルフォの指先が的確に急所を捉えるたび、マシュは彼の肩に爪を立てて顔を埋め、羞恥と快楽に翻弄されてびくびくと小さく跳ねることしかできなかった。

 

「――っ、ぁ……――――っっ!!」

 

声にならない絶叫が喉の奥で弾け、マシュの体がひときわ大きく震えた。

布越しに与えられ続けた執拗な指先の摩擦と熱が、限界を迎えた堤防を決壊させる。

下腹部の奥底が激しく波打ち、頭の芯が真っ白に弾け飛ぶような強烈な快楽の波が、爪先から指先までを一気に駆け抜けていった。

 

びくん、びくんと小さく痙攣を繰り返す身体。

膝の力が完全に抜け落ち、床へ崩れ落ちそうになるマシュの身体を、アストルフォの腕がしっかりと抱きとめ、支えていた。

 

「はぁ……っ、ぁ……ふ、ぅ……っ……」

 

激しい呼気が、アストルフォの首元に熱く吹きかかる。

服越しだというのに、下半身の奥底は熱い湿り気を孕んで重く沈み込み、全身の皮膚がじんじんと熱い余韻に痺れていた。

身体から力が抜け、ただアストルフォの胸に全体重を預けて立っていることしかできない。

 

やがて、狂おしいほど甘い波がゆっくりと引き、濁っていた意識が少しずつ輪郭を取り戻し始めたとき――。

 

マシュは、ふと顔を上げた。

 

目の前。

自分を抱きとめたままのアストルフォの顔が、息がかかるほどの至近距離にあった。

 

いたずらっぽく細められた紫色の瞳。

すっと通った鼻筋。

そして――微かに濡れ、艶やかな笑みを湛えた薄い唇。

 

「――――」

 

吸い寄せられるように、マシュの視線がその唇へと縫い止められた。

離そうと思っても、視線が動かない。

昨夜、所長の肌を貪り、愛を囁いていたあの唇。

自分に甘い命令を下し、ここまで身体を狂わせた張本人の唇。

胸の奥で、まだ満たされていない渇きが、ごくりと喉を鳴らさせる。

 

「どうしたの?」

 

誘うような、甘く柔らかな声。

アストルフォはマシュの視線に気づいていながら、わざと首を傾げてみせる。

そして――視線が釘付けになっているその唇の端から、薄紅色の舌先をちろりと覗かせ、見せつけるように艶めかしく上唇をなぞり上げてみせた。

 

「――――っ!」

 

湿り気を帯びて光る薄い唇と、一瞬だけ覗いた濡れた舌先の生々しい質感。

昨夜、ぐったりと伏したオルガマリーの頭越しに、見せつけるように向けられたあの舌なめずり。

そして食堂ですれ違いざまに浴びせられた、あの秘密の挑発。

遠くから見せつけられ、脳裏を焼き尽くしていたあの淫靡なサインを、今まさにこの至近距離で、真正面から向けられた瞬間――。

マシュの口内には甘い熱気と唾液がじわりと湧き上がり、意識のすべてがその濡れた唇の感触へと狂おしいほど引きずり込まれていく。

 

「あ……っ、う……ぅ……」

 

言葉が、まともに出てこない。

何を求めているのか、自分でも分かりすぎるほど分かっている。

先輩への誓いも、カルデアでの自分の立場も、すべてを裏切ってしまうという決定的な一線が目の前に横たわっている。

それでも――目の前で濡れた光を放つその唇から、どうしても目を逸らすことができなかった。

 

その赤く染まりきった表情と、迷いと渇望に揺れる瞳をじっと見つめ、アストルフォはさらに顔を寄せた。

マシュの瞳を真正面から覗き込み、耳元ではなく、その唇のわずか数ミリ手前で、決定的な最後の一押しを囁く。

 

「……分かってるくせに」

 

「――――っ!」

 

オルガマリーが零し、そして自分が口にした、あの言葉。

それを今度はアストルフォの口から返された瞬間、マシュの理性の最後の糸が、音を立てて千切れ飛んだ。

 

もう、言い訳はできない。

全部、自分が欲しくて、求めているのだ。

 

マシュはアストルフォの服を掴む両手にぎゅっと力を込め、震える唇を開いて、自ら懇願の言葉を紡ぎ出した。

 

「……キス……」

 

「ん?」

 

「…………キス、してください……アストルフォさん……っ」

 

「うん」

 

アストルフォは満面の笑みを浮かべ、マシュの頬を優しく包み込んだ。

 

「ちゃんと言えたね、マシュ」

 

その言葉が落ちると同時に、二人の唇が、熱く重なり合っていった。

 

「ん、むぅ……っ! ……ちゅ、じゅる……っ、ふ……ぁ……」

 

触れ合うだけの優しい口づけなどではなかった。

アストルフォの腕がマシュの後頭部を強く引き寄せ、強張る唇をこじ開けるように、熱く濡れた舌先が滑り込んでくる。

 

その瞬間、マシュの口内を満たしたのは――かつて扉の隙間から漂ってきた残り香や、頭の中で思い描いていた想像を遥かに凌駕する、圧倒的な質量を持った「本物の味」だった。

 

「……んぅ……っ、れちゅ……っ、ちゅぽ……っ、は、ぁ……っ!」

 

逃げ場を奪うように、口内の隅々まで執拗に這い回る舌の感触。

上顎をなぞられ、舌の根元を絡め取られるたび、熱い電流のような痺れが頭蓋の芯を直撃する。

拒絶するはずの身体は甘い痺れに溶かされ、マシュはすがるようにアストルフォの首元へ腕を回してしまっていた。

 

「……はぁ……っ、んちゅ……っ……アストルフォ、さ……ん……っ、んむ……」

 

互いの口腔を満たす唾液が混ざり合い、アストルフォから流し込まれる蜜のようなそれを「ごくり」と嚥下させられるたびに、喉の奥から食道、そしてその下へと、甘く重い痺れの波がじわりと駆け下りていく。

 

――くちゅ、じゅぷ、と。

静まり返った会議室の中で、舌と粘膜が擦れ合い、互いの唾液を分かち合う密やかな水音だけが、マシュの耳の奥にダイレクトにこだましていた。

鼓膜を揺らすその生々しい響きが、外の世界のすべてを遮断し、マシュの知覚のすべてを支配していく。

 

(あ……頭が……っ)

 

思考が焼き切れていく。

先輩への淡い思いも、カルデアでの責務も、自分自身が誰であるかという輪郭すらも、耳朶を打つ水音と口内の熱さによってドロドロに溶かされ、視界の裏側が真っ白に染め上げられていく。

 

「……ん、ふ……っ、ちゅる……っ、んく……ぅ……っ」

 

息を吸うことすら忘れ、鼻腔に充満するアストルフォの甘い吐息と、口内で激しく貪り合う熱が全身を覆い尽くす。

マシュはアストルフォの背中に回した腕にぎゅっと力を込め、翻弄されながらも自ら甘えるようにその熱い舌へと絡みつき、深く、さらに深く唇を押し重ねていった。

 

 

 

*

 

 

 

どれほどの間、息を奪い合っていたのか。

アストルフォの唇が名残惜しそうに離れた瞬間、互いの口元を銀色に光る細い糸が繋ぎ、ぷつりと切れて消えた。

 

「はぁっ……ぁ……ふ、ぅ……っ」

 

支えを失ったマシュの脚は完全に限界を迎え、床へと崩れ落ちるようにへたり込んでしまった。

荒い呼吸を繰り返し、肩を上下させる。

そんなマシュを見下ろしながら、アストルフォはしゃがみ込み、至近距離からその顔を覗き込んできた。

 

「キスしただけなのに、こんなになっちゃったね」

 

「――――っ」

 

身体をまさぐられた余熱と、深い口づけの痺れに呑まれたこの乱れよう。

すべてを見透かしたようなその言葉に、マシュは耐え難い羞恥に灼かれ、真っ赤な顔を両手で覆うように伏せてしまった。

 

けれど彼は、息をつく暇すら与えてくれない。

 

「ねえ、マシュ。……もう一回、する?」

 

「――っ!?」

 

弾かれたように、マシュは顔を跳ね上げた。

目の前には、いたずらっぽく微笑むいつものアストルフォの顔。

そして――彼の細い指先が自らの唇をぬぐい、そこに付着していたマシュの唾液を、ちろりと淫らに舌先で舐め取っていた。

 

(あ……っ)

 

拒絶すれば済む話だった。

もうやめてくださいと、その一言を言えばいい。

それなのに、喉の奥が引き攣れて声が出ない。

それどころか、マシュの視線はまたしても、艶やかに湿った彼の唇へと吸い寄せられ、釘付けになってしまっていた。

 

マシュの瞳に宿る剥き出しの渇望を逃さず見届けると、アストルフォは満足そうに目を細めた。

 

「マシュが言わないなら――ボクがしたいから、するね?」

 

「あ……っ、アストルフォ、さ……」

 

抗う間もなく、マシュの肩を両手で軽く押された。

力の抜けた身体は無抵抗のまま冷たい会議室の床へと押し倒され、仰向けの姿勢にさせられる。

そのまま、アストルフォの身体がマシュの上にのしかかってきた。

 

「ん、む……っ!」

 

再び塞がれる唇。

だが、今度は口内を貪り尽くす舌の熱だけでは終わらなかった。

仰向けに倒されたマシュの身体を、アストルフォの指先が上から絡め取るようにまさぐり尽くしていく。

衣服の皺を押し潰すように胸元のふくらみを揉み解し、強張る肋骨の隙間から下腹の合わせ目へと、熱を帯びた指が躊躇いなく這い回る。

逃げようとよじる身体の起伏にピタリと吸い付き、跳ねる筋肉の緊張を指先ひとつで甘く溶かしては、快楽を受け入れるだけの柔らかい肉体へと作り替えていく。

 

そして――。

 

「――っ、ぁ、くぅ……っ!?」

 

のしかかられた下半身の重みとともに、下腹部の真上へと、逃げ場のない質量がめり込むように押しつけられた。

 

立って抱き合っていた時から、確かに当たっていた。

身体が密着した結果、偶然触れているだけなのだと、自分に言い聞かせて必死に意識から締め出していた『それ』。

 

けれど――今はもう、偶然の接触などではない。

 

アストルフォ自身の明確な意志をもって、逃げ道を塞ぐように角度を合わせ、マシュの敏感に熱を帯びた中心部へと、体重ごとぎゅうっと深く押し当てられていた。

 

(あ……っ、これ……っ、わざと……っ)

 

重なり合う布地越しに伝わってくる、硬く、太く、どくどくと脈打つような凶暴な熱。

意識しないように誤魔化し続けていた分、真正面から突きつけられた雄としての質量は、暴力的なまでの生々しさを持ってマシュの下腹部を痺れさせる。

昨夜、所長の白皙の肉体を貫き、啼かせていたものの本物の熱さ。

 

(こんな……っ、ただ、乗られているだけなのに……っ!)

 

挿れられているわけでもない。秘所に擦り付けられているわけでもない。

服の上から押し当てられているだけなのに、下腹部に伝わる固い脈動と、口内を荒らし回る舌、全身を的確に弄ぶ指先の刺激が重なり、マシュの頭蓋は一瞬で白濁した。

 

逃げたいはずなのに、下半身は無意識のうちにその熱を求め、腰をわずかに浮かせて布越しに擦り寄せてしまう。

重なる唾液の水音と、下腹部を押し潰される甘い圧迫感。

マシュはアストルフォの背中に必死で爪を立てながら、二度目の、そして最初よりも遥かに深く暗い絶頂の奔流へと、抗うこともできずに呑み込まれていった。

 

 

 

*

 

 

 

背中に伝わる冷たい床の硬さと、頭の芯を焼き尽くしていた熱狂の引き潮。

 

激しく波打っていた呼気が少しずつ整い、白濁していた視界がゆっくりと焦点を結び始めたとき、マシュの上に重なっていたはずの重みは、すでにそこにはなかった。

 

「…………っ、は……ふ……」

 

身体を起こすこともできず、重い瞼をわずかに持ち上げる。

天井の無機質な蛍光灯の光を遮るように、少し離れた位置――会議室の椅子にそのまま腰掛け、こちらを見下ろしている桃色の影があった。

 

アストルフォだった。

衣服の乱れを何事もなかったかのように整え、膝の上に両手を無造作に置き、いつもの調子で椅子に座っている。

先ほどまで狂おしいほどの熱量でマシュの身体を貪り、あの凶暴な熱を押し当てていた張本人とは到底思えないほど、涼しげで、落ち着き払った佇まい。

 

そして――何も言わない。

 

ただ、ふにゃりと柔らかく、けれど底の知れない無邪気な笑顔を浮かべたまま、床に倒れ伏すマシュの様子をじっと見つめていた。

 

「あ……っ、ぁ……」

 

声を出そうとして、喉がひりつくように渇いていることに気づく。

口内にはまだ、貪り合わされた濃厚な体温と唾液の味がじっとりと残り、下着の奥は抗いようのない熱い湿り気を孕んで重く沈み込んでいた。

服越しに与えられた絶頂の痺れが、爪先の末端で鈍く脈打っている。

 

だが――。

感覚が鮮明さを取り戻し、冷え切った会議室の空気が肌を撫でた瞬間。

 

身体の芯を甘く麻痺させていた情欲の濁流が一気に引き去り、代わりに、氷水を喉元から直接流し込まれたような強烈な悪寒が背筋を貫いた。

 

(わたしは……)

 

視界に映る、乱れた自分の衣服。

胸元は押し広げられ、皺だらけになった布地が、先ほどまでの淫らな行為の生々しさを無言で突きつけてくる。

何より、自分自身の口から「触ってください」「キスしてください」と乞い、相手の身体にすがりついて快楽に溺れてしまったという動かしようのない事実。

 

その瞬間、胸の奥底を鋭く切り裂いたのは――大切な先輩、藤丸立香の穏やかな笑顔だった。

 

(先輩……っ)

 

いつも隣で優しく微笑み、信じて背中を預けてくれる先輩。

カルデアの未来を背負い、誰よりもひたむきに戦い続けるあの人の顔が、真っ黒な罪悪感となってマシュの胸を激しく打ち据えた。

 

自分は今、何をしていたのか。

自分を信頼してくれている先輩のいるカルデアで、その白昼の会議室で、一サーヴァントの甘い誘惑に抗うこともせず、自ら快楽を求めて身体を差し出してしまった。

情欲という言い訳の効かない、完全な裏切り。

 

熱病のように全身を満たしていた背徳の興奮は瞬く間に消え失せ、底知れない後悔と罪の重さが、冷たい鉛のように胃の腑へと沈み込んでいく。

 

「…………っ、ぅ……!」

 

耐え難い羞恥と自己嫌悪に押し潰されそうになり、マシュは震える両腕で自らの身体を固く抱きしめ、床の上で小さく丸まった。

奥歯を強く噛み締め、零れ落ちそうになる嗚咽を必死で喉の奥へと押し殺す。

 

――けれど。

これほど激しい後悔と罪悪感に胸を苛まれ、今すぐ消えてしまいたいと願っているはずなのに。

 

冷たい床に押しつけた身体の奥深く、下腹部の中心には――消えることのない、じんじんと疼く甘い熱が、脈打つように確かに燻り続けていた。

 

アストルフォの指先がなぞった皮膚の記憶。

口内を満たしたあの暴力的な体温と味。

そして布越しに押し当てられた、あの圧倒的な熱の質量。

頭では「裏切ってしまった」と激しく拒絶し、泣き喚いているのに、裏切られたはずの肉体はまだあの快楽の余韻に甘く痺れ、身体の芯でドロドロと熱い蜜を湛えたまま疼きを訴えかけている。

 

否定しきれない自らの肉体の浅ましさ。

罪悪感に苛まれながらも、その奥底で確かに熱を欲してしまっているという決定的な歪みが、マシュの胸をさらに鋭く、冷酷に抉り抜いていく。

 

そんなマシュの絶望と自己嫌悪、そして内側の疼きまでもすべて視界に収めているかのように――アストルフォは椅子に腰掛けたまま、身じろぎひとつ見せない。

声をかけることも、からかうこともせず、ただ静かに、楽しそうに細められた瞳でマシュを射抜くように見つめ続けていた。

その沈黙の笑顔こそが、今のマシュにはどんな言葉よりも雄弁に、自らが踏み越えてしまった引き返せない一線の深さを突きつけていた。

 

 

どれほどそうしていたのか、もうわからなかった。

マシュは震える手で冷たい床を押し、軋む身体をどうにか起こした。

 

膝は笑い、下腹部の奥に溜まった重い熱のせいで、立ち上がるだけでも下半身がふらつく。

それでも、これ以上この部屋に留まることの恐ろしさに急き立てられるように、乱れた衣服の合わせ目を引っ張り、胸元の開きを指先で必死に直した。

皺になった布地を撫で下ろし、乱れた薄紫色の髪を手櫛で整えようとするが、胸の奥で燻る自己嫌悪と熱い疼きは一向に収まってくれない。

 

椅子に座ったままのアストルフォは、そんなマシュの身支度を、ただじっと無言の笑顔で見守っていた。

 

身だしなみを最低限整え終えると、マシュはアストルフォと視線を合わせないよう、逃げるように床を見つめたまま、掠れた声で短く告げた。

 

「…………戻ります」

 

「うん」

 

返ってきたのは、あまりにもあっさりとした、屈託のない相槌だけだった。

 

引き止められなかったことに微かな安堵を覚えつつ、マシュは重い足取りで扉へと向かった。

一歩進むごとに、下着の奥に広がる湿り気が擦れ、身体の奥がじんじんと疼く。

早くこの密室を出て、冷たい廊下の空気に触れなければ。

そう思い、壁面のセンサーへと指先を伸ばしかけた――その瞬間。

 

背後から、静かに、けれど逃げ場を塞ぐような声が落ちた。

 

「ねえ、マシュ」

 

「――――っ」

 

心臓が跳ね上がり、マシュの指先がセンサーの手前数ミリで凍りつく。

無視してセンサーに触れ、出ていくべきだった。振り返ってはいけない。

頭の中では警報が鳴り響いているのに、アストルフォの声に抗う力は、今のマシュには残されていなかった。

 

拒絶しきれないまま、マシュは強張る身体を動かし、恐る恐る背後を振り返った。

 

「…………なん、ですか」

 

視線の先。

アストルフォは立ち上がることもなく、椅子に腰掛けたままの姿勢で、マシュを見つめていた。

先ほどと変わらない、ふにゃりとした無邪気な笑顔。

けれど、薄暗い会議室の影を帯びたその瞳の奥には、どこまでも甘く、淫靡な光が爛々と宿っている。

 

アストルフォはマシュの揺れる瞳を逃がさないようにじっと捉え、ゆっくりと、言葉を区切るように囁いた。

 

「三日後の夜」

 

背筋をぞくりと撫で上げる、甘い悪寒。聞くべきではないと本能が警鐘を鳴らす。

 

「もしかしたら」

 

唾を飲み込もうとした喉が、からからに引き攣れた。

 

「ボクの部屋」

 

「…………っ」

 

心臓が早鐘を打ち、下腹部の奥底がきゅうっと切なく収縮する。

 

「開いてるかもね?」

 

「――――ッ!!」

 

息が止まる。

悪魔の囁きのような、決定的な誘惑。

 

あの夜、オルガマリーが床に跪き、すべてを捧げていたあの部屋。

隙間から覗き見て、自らの肉体を狂わせるきっかけとなった、あの場所。

扉が招くように開いている光景が何を意味するのか、マシュに分からないはずがなかった。

 

否定しなければならない。

「行きません」「二度とそんなことはしません」と、きっぱりと拒絶の言葉を叩きつけるべきだった。

だが――。

 

声が、出ない。

喉の奥が引き攣れ、唇が小さく震えるだけで、拒否の言葉は一言も紡ぐことができなかった。

それどころか、その淫靡な約束を提示された瞬間、マシュの下腹部の芯がトクンと跳ね、身体の奥底から新たな熱い湿りがじわりと滲み出すのを自覚してしまったのだ。

 

行かない、と言えない。

拒絶できない。

自分自身が、その「三日後の夜」をどこかで狂おしいほど渇望してしまっていることを、身体が残酷なまでに証明していた。

 

二人の間に、重く濃密な沈黙が落ちる。

無言のまま見つめ合う数秒間。

アストルフォはマシュが否定しないことをすべて理解しているように、満足げに目を細め、ただ静かに微笑み続けていた。

 

「…………っ」

 

その底知れない笑顔に耐えきれず、マシュは弾かれたように視線を切り、センサーを乱暴に叩いた。

シュウ、と空気を抜く微かな駆動音とともに開いた扉の隙間から、冷え切った廊下の光の中へと逃げるように飛び出していく。

 

背後でカチリと音を立てて閉まった重厚な扉。

残されたのは、拭いようのない罪悪感と――三日後の夜に向けて、身体の奥深くでドロドロと燻り始めた、消すことのできない淫らな熱の疼きだけだった。

 




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