「うーむ、どうしたものかのぉ」
てこてこと地獄街道を歩いていた夜智王の眼前に、立派な殿舎、地霊殿が見えてきた。
しかし、蜘蛛の少女の所で一刻ばかり仮寝をした結果(どうなったかは読者諸氏の想像にお任せする)
とうに日は暮れ、辺りには闇の帳が落ちている。
初対面の相手を訪れるのには、到底適した時間はではない。
「まぁ、よいか」
まったく良くはないのだが、そう脳天気に決め付けて夜智王は地霊殿へと向かう。
途中、するりと一匹の蛇へと変化し、誰にも見咎められること無く、殿舎へと侵入する。
「(随分と獣臭いな、ここは焦熱地獄跡という話だったのだが)」
実際あちこちに鳥獣の気配を感じる。
まるで不喜処地獄、六大地獄の二番目等活地獄に属する小地獄、鳥獣を苛めたり殺生した罪人が堕ちる地獄のようだった。
獣臭い匂いを避け、ふわりと鼻孔くすぐる良い香り、端的言ってしまえば女の匂いをたどって蛇は殿舎の奥へと奥へと進んでいく。
そうこうしていると、前方に灯りの漏れる部屋があるではないか。
僅かな隙間に蛇頭をつっこみ中を伺う。
「(ほぉ……これはこれは)」
灯台の薄明かりで一人の少女が読書をしていた。
胸元に第三の瞳が見て取れる、サトリである。
小柄な身体相応の幼気な容姿、だがひどく老成した、というよりは濃い憂いを帯びた雰囲気が、少女を大人びて魅せる。
春虎の言う通り、いかにも夜智王好みの少女ではないか。
にゅるん、と室内に侵入した蛇はするすると少女の前に這いよる。
つい、と蛇に視線を向けた少女は、眉一つ動かす。
「誰?」
「お初にお目にかかる、地霊殿の主、古明地さとり殿。ワシは夜智王、見て通りの蛇妖だ」
そう言い、夜智王はいつもの青年の姿に返事、恭しく礼をする。
キザたらしい夜智王の挨拶を、少女は無感動な様子で受け止める。
「いやはや、さとり殿が、こんなに愛らしい方だと知っていれば、鬼共など無視していの一番に挨拶に伺ったのだが」
胡散臭い、それがさとりが抱いた夜智王の第一印象だった。
誰が好き好んでサトリの化け物に会いに来るというのか。
ほぼ本能的に第三の瞳で“見た”
夜智王の心を見た刹那。
ぽんっ!とさとりは赤面し、ふぇ!?と可愛らしい声を上げて狼狽を露わにした。
「どうなされた?お顔が赤いぞ?すっかり冷える季節になったし、悪い風にでも中ったのではないかな?」
いけない、この蛇めが温めてしんぜましょうか?
などと言いながらも、夜智王の頭の内ではまったく違う絵が描かれたいた。
「やっ、やめて!」
「これは失礼、さすがに不躾であったな」
「そうじゃなくて!やめて!変なことを考えるのはやめて!」
この蛇は口では美麗字句を連ねつつ“わざ”と頭のなかで不埒な絵を描いていたのだ。
最初は、外側から見て取れた、さとりの胸を想像してみた。むろん一糸まとわぬ姿でだ。
最初のさとりの反応から、ほぼ大きさは合った、と見たのだろう、あとは形をお椀、釣り鐘、皿、砲弾と変えてみながらつついてみたりして、さとりをからかう。
「あっ、や、やだ、やめて……」
想像の中でそっと抱擁し、接吻し、軽く胸を愛撫する。
耳元に唇を寄せ、甘い声音で愛を囁く。
ごくごく柔らかな笑みを浮かべつつ、心の声でさとりを攻め落とそうとする。
読心能力をもつサトリにしてみれば、それは、実際にそうされているのと変わりのないことである。
男に言い寄られたことなどないのだろう。
赤面し、狼狽し、身悶えるさとり、じわりと眦に真珠のような涙が浮かぶ。
「ああ、すまん、あまりにさとり殿が愛らしかったので、ついからかいたくなってしまってた、泣かんでおくれ」
よほどに女の涙が苦手なのだろう、慌てて謝ってくる夜智王。
困惑と後ろめたさ、謝意がさとりに伝わってくる。
やっと精神的なセクハラから解放されたさとりは、じとぉっと彼女にしては随分感情的な表情で夜智王を睨めつけてくる。
「……あなたは、いやらしい人ね」
「それはまぁ、蛇だからな」
屈託なく蛇は笑う。
妙な人、とさとりは思った、思考と言動にほとんど裏表がない。
その気になれば、表層思考は制御できるだろうに。
心を読まれるのが、怖くはないか、嫌ではないのだろうか?
「心が伝わる、なかなかに素敵だとワシは思うがな」
まるでさとりの思考を読んだかのように夜智王は返事をする。
「百万の言葉を重ねても伝わらぬこともある。押し殺した心を悟れず後悔したこともあった」
蛇の心に浮かんだ慚愧の念。
さとりは、ついと目を背けた。
この蛇の心は猛毒だ、妖怪の癖にあんなに他者を心の奥底まで入れ、喪う度傷つき、それでも悲しい程に他者を欲している。
心を読んでいると、それが自分にまで伝わって来てしまう。
「……あなた、女誑し」
「ああ、何人も泣かせてしまった」
「そういう意味じゃないけど……」
まったくどうかしている、つい先程有ったばかりの怪しい男だというのに、この可哀想な蛇を慰めてやりたい。
そんな気持ちがさとりを支配していた。
逡巡の末、そっと夜智王を手招きする。
何事かと首をかしげた夜智王がさとりの前へとやってくる、手をとりぐいと引き寄せる。
幼子をあやす母親のように夜智王の頭を胸で抱きしめ、優しく撫でる。
「さとり殿はお優しいのだな」
「貴方の悲しい気持ちに感応してしまっただけよ。いやらしい蛇さん」
「少し気恥ずかしいのぉ、これは」
いい格好しいな所のある夜智王にしてみれば、赤裸々に己の過去の後悔を見られあげく。
小柄なさとりに抱きしめられ、慰められるというのはかなり情けない物がある。
「……いやらしい事を考えてる」
「おっと、いかんいかん」
ぐい、と夜智王を押しのけると、胸元を腕で隠し、じとぉっとさとりは夜智王を睨む。
「人の胸を想像するの、やめて」
「はは、すまん、つい……な?」
布越しに感じたさとりの乳房の感触から、ついつい先ほどの想像を補完してしまったのは好色蛇の性《さが》だったのだろう。
「いや、もう少し我慢するべきだったな」
「えっち……ばか……きらい、あっちへいって」
「ワシはすっかりさとり殿が好きになってしまったよ」
「変なこと言わないで……いや、あっちへいって、変な想像しないで!」
「乳がダメというから尻にしたのだが……」
「ばかー!」
さとりの可愛らしい罵倒が夜の地霊殿に響くのだった。
「さとり様?何事ですか?」
騒ぎを聞き付けたのだろうか、一人の老女がひょっこりと部屋に現れた。
視力が衰えているのか、定まらぬ視線をさとり、ついで夜智王に向け。
「まぁ」
と嬉しそうな声をあげる。
「ち、違うわ!」
老女の思考を読んだのだろう、さとりが慌てた声で否定する。
「何が違いましょうか、こんな夜更けに殿方が通って参りますのは、夜這いか求婚かに決まっていますわ」
おお、そう来たか……ま、言われてみれば。と得心する夜智王。
さとりは「否定しなさいよ!」と可愛らしい悲鳴をあげる。
老女はまぁまぁまぁ、と嬉しそうに夜智王に近づくと、じっとこちらを見上げてきた。
「そなた蛇か?」
「そういう貴方様は、ヤチの蛇王様であらせられますか?」
一瞬夜智王は瞳を見開き、すぐに苦笑を浮かべる。
「また古い名を知っておるのだな」
「あなた様の末裔すえ の眷属でございますから。白鱗姫はくりんきでございます、どうぞ白姫しらひめとお呼びくださいまし」
「今は夜智王と名乗っておるよ、こっ恥ずかしいので蛇王はやめてくれ」
「あらあら、では夜智王様、いかがでしょう?私のさとり様は」
「実に愛らしい、持って帰りたいくらいだ」
「っ!」
持って帰ってどうするつもりなのか?
見えてしまったのだろう。
さとりのただでさえ蒸気していた顔が、いよいよ真っ赤に染まり、今にも頭から湯気を吹き出しそうになる。
ほほほ、とその様子を見て、白姫は楽しそうに笑う。
老いてなお、社交的で言動に艶めいたものが見えるのは、さすがに蛇らしい、といえば蛇らしい。
「この婆ばばとしたことが、とんだ野暮を、お邪魔虫でした」
「ち、ちがっ!違うわ!白姫の誤解よ!」
なんとか正気に返ったさとりが慌てたように否定する。
「さとり様」
「な、何?」
「婆は嬉しいのですよ、ようやくさとり様の魅力に気がついて通う殿方がいらっしゃたんですから」
さとり様もまんざらではなさそうでございますし、と実に白姫は嬉しそうだ。
顔を真っ赤にし、「違うわ!」「何をいっているの!」と否定するさとりだが、白姫はまったく取り合わない。
「ましてそれがヤチの蛇王様なら、私の可愛いさとり様の旦那様として申し分ございません。まぁ、こうしてはいられません、早速祝言の準備をしませんと」
「白姫、お願い人の話を聞いて!?」
「かわいいかわいいさとり様、大丈夫ですわ、万事この婆にお任せください」
お燐!?お空!?と誰かを呼びつけ、白姫は嫌がるさとりをガン無視して話を進めていく。
大阪のおばちゃんのようなバイタリティに夜智王も成り行きに任せた方が無難だな、と諦念の心持ちであった。
「うにゅ?白姫かあさん呼んだ?」
「白姫かあさん、こんな時間に何なの、今日は色々あったから寝むいんだけど……」
背中に黒翼を生やした長身の少女と、頭に猫耳の赤毛の少女。
いずれも愛らしい美少女がやってきた。
黒翼の方がお空、猫耳がお燐というらしい。
ふむ、惜しいな、と夜智王は内心で残念がる。
黒翼の少女の豊かな胸部も、容姿もいかにも夜智王好みだったが、一つは天敵たる鳥妖であること。
何より、白痴とまでは言わないが、がんぜない幼女のような、ひらたくいえばバカっぽい感じがいかにも残念だった。
ああいう手合いに手を出すと、大抵ろくなことにならない。
しかも、内に強い神性を帯びている、あれはヤタガラスではないだろうか?
そんなことを考えていると、ぱっとさとりが夜智王の視線に割り込んでくる。
「見ないで」
精一杯の虚勢であろうか、夜智王を睨み付けてくる。
どうやら、二人の少女はさとりにとってとても大事な存在らしい。
そんな少女達でいやらしい想像をするな、ということらしい。
やきもちかの?とくつくつと夜智王は笑った。
「そんなんじゃないわ……」
「まぁそういうことにしておこう」
「違うし……」
「さぁ、さとり様、まずは湯浴みを、それからお召し替えですわ」
「やだ、白姫、ほんとにちょっと、待って……」
いやいやと首を振るさとりを、白姫は有無を言わせず引きずっていく。
いやぁぁぁ、とさとりのか細い悲鳴が尾を引いて遠ざかっていく。
「まるで野分だな」
「白姫かあさんの、おかん台風だねー、ああなったら誰も止められないよ」
黒翼の少女は他人事のように言う。
ついと夜智王に視線を向ける。
「空だよ!みんなはお空って呼ぶの」
「夜智王だ、みての通り、蛇だ」
お空は地獄烏だよ!と元気に返事を返してくる。
愛らしいが、やはり、いかんせん容姿と釣り合っておらんな、と夜智王内心でしきりに残念がる。
「私は火焔猫燐、どうぞお燐とお呼びください夜智王様」
さとり様の準備が整うまでのお相手を勤めます。
どこか慇懃な様子でお燐は、ちょいスカートをつまみ上げて礼をする。
ふむ、警戒しておるのか、主思いなのだな。と夜智王はお燐を見やる。
「酒肴の準備を致します、庭でも眺めてお待ちください」
にこりと笑顔で返したお燐は、夜智王に興味津々なお空をひっぱって一旦下がる。
「ちょっと、待っててね~」
ぺこりと頭を下げて退出するお燐と、腕をぶんぶん降るお空。少女二人に手をひらひらさせて見送る。
「しかし、妙な事になったな……」
どうしたものか、と夜智王は首をひねるのだった。
すぐに準備が整った、と言われ夜智王は別室へ通された。
一膳、簡単な肴と酒が用意されている。
急でしたので、とお燐が畏まるが、気にするなと夜智王は返した。
「ねぇ夜智王様……だっけ?」
お燐が酌をしてくれるので、礼を言ってまず一杯飲み干す。
おぬしらも飲むか?と問うた所、お空が何やら聞きたいらしい。
「様はいらんぞ」
「ふぅん?じゃぁ夜智王さん、本当にさとり様とケッコンするの?」
「こら、お空」
お燐が嗜めるが、お空の方は気にせず、目を輝かせて夜智王の返事を待っている。
「さとり殿の事は好ましいと思うが、いささか祝言を挙げるのは急だろう」
ワシは構わんが、さとり殿が可哀想だ。
「だが、まぁ今宵は白姫に付き合うしかなさそうだな」
実に嬉しそうだったからな、水を差しては少々不憫というものだ。
「白姫かあさんも随分興奮していましたから、それが無難でしょうか」
よろしくお願いします。とお燐は言って、空になった夜智王の杯に酒を満たす。
夜智王が手をつけないので肴を勝手にツマミながら、お空が問う。
「ねぇ、夜智王さんはさとり様に心読まれても平気なの?」
「まぁ、さほどに困ることは無いな。もともとワシは隠し事が下手だ、あまり変わらんよ」
「へぇ、夜智王さんって変な妖怪だね」
「お空!」
いたっ!いたいよぉ!とお空が悲鳴を上げる、どうやら夜智王には見えないようにお空の尻をつねっているらしい。
その様子に夜智王はくつくつと愉快そうに笑いながら、また一杯酒を干す。
一方でお燐は、恐ろしく肝の座った妖怪だ、と夜智王を評した。
豪胆で知られる、旧都の鬼でさえさとりに積極的に相対する者はいないというのに……
「夜智王様、本当は地底に何をしにいらっしゃったのですか?」
お燐のばかぁ!と喚くお空をそっちのけで、探るように問う。
「遊びに来ただけだよ、まぁスキマに一つ仕事を頼まれたのもあるがな」
それより地上に間欠泉が湧きでたのは、やはりお主らのしわざか?と逆に夜智王は問う。
はい、とお燐は返し、事の顛末を語り始めた。
◆
白姫に引きずられ湯殿に放り込まれたさとりは、頭の天辺から足の指の爪先までぴかぴかに磨きあげられ。
もはや聞き入れられないと悟ったのか、ぐったりとした様子で白姫のされるがままになっていた。
「やはり御髪はもっと伸ばしておくべきでしたねぇ」
濡れ髪を乾いた布を何枚も使って水気を取る。
短目に揃えられたさとりの髪を櫛けずりながら、白姫はそんなことを言う。
「ねぇ白姫」
「わかっておりますよ、夜智王様が夜這いにも求婚に来たことでないことくらい、婆は承知してございます」
白姫の心を読んだのか?さとりは黙り込む。
「年甲斐もなくはしゃぐ婆に合わせて下さって、お優しい方……ですからさとり様」
「いや」
わざわざサトリの化け物に会いにくる物好きなどそうは居ない、得がたい好機であると説く白姫だが、さとりはにべもなく拒否の言葉を吐く。
「婆に孫を抱かせてくれるとお約束は反故でございますか」
「う……」
「子の生めない婆に幼い頃のさとり様はそう約束してくださったに……婆はそれだけを楽しみに生きて着たのにきたのに!」
ううっ、感極まったように泣き出す白姫。
嘘泣きではなかった、ただいささか自分に酔っているというか、自己暗示気味に泣き出したのがさとりには分かる。
分かるが……
「助けてこいし……」
こうなると手のつけられない白姫。
そんな白姫のあしらいが上手かった妹に助けを求めるさとりだった……
◆
「ヤチ様?」
たっぷりと半刻経った頃。
すでに時刻は深更、地上ならば冷たい夜気が忍び寄ってくる所だが、地霊殿は直下の灼熱地獄の“余熱”で暖かいくらいである。
冬中ここで過ごしたいのぉ、などと思いながら手酌で飲っていた夜智王のもとに白姫が帰ってきた。
「まぁまぁ、二人とも」
「疲れているのだろう、勘弁してやれ」
夜智王の膝を枕にお空とお燐が寝ている。
呆れた様子で二人をたたき起こそうする白姫を夜智王は止める。
「お空はともかく、お燐を上手に手懐けましたわね」
「火車には、わしの“穢れ”が心地よいのだろうさ」
並の月人ならば視認することすら厭うだろう、夜智王の纏う死穢は永く生きた証だ。
蛇の強い生命力は、穢れを呑み込み死を遠退ける、しかしそれゆえにその身が纏う死穢は強くなる。
火車のお燐にしてみれば、夜智王は生きている死体のように魅力的であるはずだ。
「その調子でさとり様もよろしくお願いいたしますわ」
「のぉ白姫、あまり主をいじめるものではないぞ」
「あら、人聞きの悪いおっしゃりようですこと」
ころころと白姫は笑う。
「年頃の娘をからかうのは母親の特権ですわ」
「ひどいのぉ」
「だってさとり様があんまりにもかわいいのですもの」
わからんでもないがなぁ、と半泣きで赤面するさとりを思い返せば、とても愛らしく、ついついそんなさとりが見たくていじわるしたくなる。
「(ま、それだけでもないか……)」
「にゃ……はうっ!ややや夜智王様!?ひっ!とんだ不調法を」
話し声で目を覚めたのだろう。お燐が慌てて飛び起き、夜智王は思考を中断する。
「気にするな、可愛らしい寝顔だったぞ」
お空が起きるから静かにな、とお燐の頭を撫でながらさとす。
「か、かわいい……にゃにをいってるんですかぁ」
ふにゃ、とした表情になったお燐だが、横でにやにやする白姫に気がつき、ううううと唸る。
「さて、すまんがお空を頼むl」
お燐にそっと膝からおろしたお空を託す。
幸せそうな寝顔の地獄烏は起きる気配もない。
待ちかねたように「こちらへ」先導する白姫、夜智王はではまたな、とお燐に笑いかけて部屋を去っていく。
「……さとり様、いいなぁ」
さとりが聞いたら泣きそうなことを思うお燐であった。
◆
「こちらです」
よろしなに、と声をかける白姫。
どうしたものか、と思いつつ夜智王は寝室に入ると、紗で囲われた寝所に布団お化けが一匹居るのが見えた。
さとりだろう、逃げ場のない彼女なりの、最後の抵抗だろうか。
くつくつと笑う夜智王。室内にはふわりと甘い香りが立ち込めている、媚香の類いだろうか?
雰囲気はあるが、さとりが可哀想なので夜智王は香炉を部屋の外へと追い出し、緩やかに上下している布団お化けに近寄る。
「さとり殿?」
返事が無い。
「かわいそうに」
そっと布団を剥がすと、せっかくの化粧を涙で崩した、だが愛らしいさとりの寝顔が現れる。
半刻白姫に弄り倒された疲労もあったのだろう、布団をかぶって恐怖に震えながら半べそかいているうちに眠りに落ちてしまったのだろう。
よしよしと幼子をあやすように頭を撫でてやると、くすぐったそうにさとりは身をよじる。
「白姫の気持ちもわからんでもないがなぁ」
起きているときの憂いの濃い無表情とは対照的な無垢な寝顔。
例え羞恥に染まる赤面でもいい、半べその泣き顔でもいい。
この少女の心を動かし破顔させるためならばなんでもする。
吾が愛し子と慈しんだ少女ならば、なおさらだろう。
「こんな格好では寝違えてしまうぞ?」
乱れた髪を整えるようにさとりの頭を撫でる。
くしゃり、とさとりの寝顔が歪む。
「おや」
酢でも飲んだような顔、嫌な夢でもみているのだろうか?
「夢違えが必要かな?」
◆
「わぁ!」
さとり様きれい!と歓声を上げたお空がさとりに駆け寄った。
袿に裳を身に纏い、薄絹のベールで顔を隠したさとりが、白姫の先導で現れる。
「本当におきれいですさとり様」
「あ、ありがとうお燐」
落ち着いた口調とうらはらにお燐の目もまたキラキラと輝きを帯びていた。
妖であろうが人のであろうが、年頃の少女だということだろう。
一方のさとりは、誉めそやされるのも恥ずかしいのだろう。
ベールからかいまみえる顔は、薄化粧をしているにも関わらず、あざかやな朱色に染まっていた。
まとわりついて衣装に触ろうとするお空の耳をつかんで止めた白姫が「いかがですか?」と得意げな表情を夜智王に投げかけてくる。
「実に愛らしい、三国一の花嫁姿だな」
「まぁ夜智王様、そんな月並みな」
「だが、言葉に出さずともさとり殿には通じるであろう?」
夜智王はそう言ってさとりに笑みを向ける、ぼんっ!と首筋まで真っ赤になったさとりがさっとお燐の後ろに隠れる。
「まぁまぁまぁ」
わが意を得たり、と喜色満面で白姫は顔をほころばせると。
「さて、ではおじゃま虫は退散いたしますね」
待って。
そうさとりは言おうとした。
しかし、声が出ない。
眼前に夜智王の顔が有る。近い。
更に近づく。
金縛りにあったように身体が動かない。
どうして?
パニックになるさとり、そんなさとりを夜智王を抱き寄せ、唇が--
「さとり殿?さとり殿?大丈夫か?」
「やち……おう?」
「怖い夢を見られたかな?」
夢?
そうだ、先刻の光景は夢だ。
「夢違えが必要かな?」
「平気……」
心配そうな表情の夜智王こそが悪夢の原因である。
自分の格好を思い出したさとりは布団をもそもそと羽織、きゅっと夜智王を睨む。
「もう眠くは無いかな?」
「そうね、あまり」
では、と夜智王は酒器を差し出した。
「さとり殿も一杯やらぬか?」
自分の隣の円座をぽんぽんと叩いて座るように促す。
「……」
その円座をひっぱって少し離れた所に腰を下ろすさとり。
布団を引きずってみっともないことこの上ない。それでもぎゅっとしっかり布団を握って防御を固める。
まるで穿山甲だな、と思いつつ夜智王はまず自分の酒器を満たす。
「そんなに離れては酌ができんなぁ」
仕方ない。と言わんばかりの微笑を浮かべ、夜智王がさとりの隣へ移動する。
ずるずると衣装を引きずりながらさとりが逃げる。
夜智王が追う。
逃げる、追う、逃げる、追う、逃げる、追う。
「さとり殿」
「やだ、こっちこないで」
ぷるぷると震えるさとりは、いやいやと首を振る。
「わしはおかしなことをしようとは思っておらんぞ?」
心を読めばわかるはずだ、だが。
「……」
さとりは今にも泣き出しそうだ。
「そういえば第三の眼はどうされた」
先ほどの寝姿を垣間見た時に感じた違和感。
さとりの胸元にはその力の源たる第三の眼が無い。
「白姫が……必要無いからって」
この怯えようはそのせいか、と夜智王は合点がいった。
「まぁ、確かに最中の男の考えていることなどは単純だからな。心など読まずとも顔を見れば分かるが」
かぁぁ、とさとりが首筋まで真っ赤に染まる。
想像してしまったのだろう。円座でばしばしと夜智王を殴り始める。
「ばか!えっち!きらい!」
「すまん、すまん、ほれさとり殿落ち着かれよ」
サトリにしてみれば、相対する者の心の声が見えないのは、五感を塞がれたに等しいのだろう。
情緒不安定になるのもしかたがないことだった。
夜智王は涙目で暴れるさとりの腕をそっと掴むと、手を取り握る。
「や……ぁ!」
「ほれ、掌に意識を向けられよ」
「あ?……え?」
手のひらから、じんわりと暖かな感情が伝わってくる。
「何、これ」
「こうして直に触れていれば、ある程度心は伝わるであろ」
片腕でさとりを抱き寄せ、幼子をあやすようによしよしと頭を撫でる。
「良く、知っているのね」
「まぁ無駄に長生きしておるのでな」
懐かしむような、セピア色の感情とともに、薄ぼんやりと、女の姿が見えた。
恐らくかつて夜智王が会ったことのあるサトリ、それもただならぬ関係だったのだろう。
さとりは、胸の奥にもやっとした感情を覚えた。
この色は知っている、やきもち、という奴だ。
嫉妬という程に強くはないが、ひどく、面白くない。
「どうされた可愛い顔をされて」
ぶすっとむくれた顔になったさとりを夜智王がからかう。
「別に」
「やきもちかな?」
「違うわ」
「まぁではそういうことにしておこう」
ひょい、と夜智王はさとりを抱き上げる。
きゃぁ、と可愛らしい悲鳴をあげたさとりはとっさに夜智王にしがみついた。
男としては細めだが、それでも小柄なさとりにしてみれば逞しい男の胸に抱かれ、どくんどくんと心臓が高鳴る。
「や、夜智王、やだ」
「さとり殿は軽いな、好き嫌いが多いのではないか?」
偏食はいかんぞ?と酒ばかりの蛇が言う。
「……えっちなことしないの?」
重ねあわせた手から伝わってくる感情によこしまなモノが無い。
「それは三日夜目にしようかと思うが、どうかな?」
「っ!」
ぎゅっと瞳をつぶり顔を真っ赤にしたさとりがばしばしと夜智王を叩く。
「痛い痛い!……ほんにさとり殿は幼子の様に無垢で、とても愛らしいな」
「恥ずかしい事言うのやめて」
「ふふ、さて今宵は添い寝で我慢しておこうかな
ここは暖かくて良い。夜智王はぱたぱたと暴れるさとりを抱きかかえ寝所に向かう。
「冬の間はここに居候したいのぉ」
「だめよ……」
「一冬あればさとり殿の頑なな心も溶かせるだろうしなぁ」
明日の朝になったら絶対に追い出す。
さとりはそう決める。
だが、今晩だけは、この寒がりな蛇を温めてあげてもあげよう。
きゅっと重ねた手を握り返す。
「ほんにさとり殿は優しい良い女子だな」
「追い出されたくなかった、もう黙って」
あなたの考えていることは全部わかるんだから、そう言わんばかりにさとりは手に力を込める。
まいったなぁ、という顔をした夜智王は不意打ち気味にさとりの頬に接吻をした。
「おやすみ、さとり殿」
「っ~~~」
おやすみなさい夜智王。
消え入りそうな小声でさとりはそう呟くのだった。
一つの布団で身を寄せ合い、手を握り合って眠る夜智王とさとり。
穏やかな寝顔で夢を見るを二人。
僅かに差し込む月明かりだけの室内。
少女が一人。何の感情もこもっていない瞳で、二人の寝顔を覗きこむような至近距離でじっと見つめている。
胸元には瞳を閉じた「第三の眼」
さとりの妹、古明地こいし。
他者の気配に敏感な夜智王にも気づかせず、少女はずっとその部屋に居た。
寒気すら感じるような、奇妙な光景。
唐突にこいしは軽やかな足取りで部屋を去る。
「変な人」
言うまでもなく夜智王のことだろう。
どう“変”なのか、それはこいしにしか解らない。
まぁ別にいいけど、とこいしは断じた。
お姉ちゃんにも優しくしてくれてるし、そんなに悪い人じゃない。
と
だが
どこかで“見た”ことある気がする。
どこだったかなぁ?
だがこいしはそれ以上深く考えることはなかった。
それよりも今は地上の方に興味が有る。
博麗の巫女、白黒の魔法使い、山の神、弾幕ごっこ。
こいしの心はそちらに向き、夜智王のことなどどうでも良かったのだ。