暴食のインキュバス 作:コンバット越前
夜の森がいつになく騒がしく、それはまるで悲鳴をあげている様だった。
悲鳴といっても痛みを訴える以上の、陵辱されている娘が苦しみのあまりにあげるものに近かった。
森に入ってからも悲鳴はやむ事がない。それどころか少しずつ増している様にさえ感じられる。
マーリンは理解した。何者かが霧深き森に足を踏み入れたならず、土足で踏み荒らしているのだと。
森と共に生きる者であるマーリンは深く生い茂る木々の力強さと何処までも続く大地の偉大さをよく知っている。ところが今、少しずつそのすべてが奪われようとしている事を肌で感じられた。
真っ黒な何か。血の香りよりも濃厚な何かが森を荒らしている。
「っ……」
足を早めるとその速度に応じるかの如く枯れ果てた木々や草花が現れる様になった。命を搾り取られ、無惨に朽ちたその様は侵入者がいかにおぞましいかをありありと見せる。
何が近付いている? 背筋が粟立つこの感覚をもたらすのは何者なのか?
様々な憶測が頭の中を駆け巡ったとてこの目で現実を見るまではすべて意味を成さない。マーリンは足を速め、枯れ果てた木々を走り抜け、『中心部』に辿り着く。
「なんだ、これは」
木が、花が、大地さえも朽ちた世界がそこにあった。
緑が失われ、灰と焦げた様な色のみが支配するそこに、『死』が立っている。
最初ソレが何かを理解する事を理性が拒んだ。あまりにも不気味な姿をしているのだ。深紅の体は月明かりに照らされてらてらと光っている。顔に当たる部分には目も、口も、鼻もありはしない。ただただ虚無が広がっている。
『死』を中心にして森は凄まじい速度でその命を終えようとしていた。その足元には草さえなく、枯れた大地がある。
『死』の背中から、何本もの肉のツタが生えてくる。意思を持って動く肉のツタは本体から少し離れ、まだ青い木々や草花、大地に突き刺さるとビクビクと震える。次の瞬間、森にある命達が静かに色を失っていった。
木々から緑が消え、草花は茶に染まり、大地はヒビだらけに。
すべて、最後の一滴まで搾り取られていた。
(命を、吸っている)
マーリンの脳裏をよぎったのは『
だが吸魔の対象は大抵が動物、厳密に言えば人間だ。草花まで枯らしてまで命を吸う存在など聞いた事はない。更に言えば、この様な不気味な摂食方法など聞いた事もない―――!
「―――」
吸魔は虚無が広がる顔をゆっくりと侵入者―――マーリンへと向けた。そこには目などないはずだというのに、確かに凝視されている感覚が寒気を伴って襲い掛かってくる。
視られている。問題は怪物にとって、マーリンはどんな存在なのか、である。
殺意ならまだいい。殺意、敵意は対処できる。理解できる感情だからだ。
「喰イ、モノ」
口もないのに、その声はハッキリと聞き取れた。深淵から漏れ出た様な唸り声である。
「っっ……!!!!」
(やはりそう来たか)
マーリンは躊躇いなく剣を抜く。小柄な体格に合わせ刃は短く、しかし迷いなくソレに向けられた切っ先には震え一つない。
吸魔に動揺はない。興味深そうに首を傾げ、ゆっくりと一歩を踏み出す。
「喰イ、モノォォ」
ぎょろり、と虚無に双眸が現れた。大きく、そして歪んだ、この世ならざる瞳だ。常人ならば視線を受けただけで恐怖のあまり言葉を失う事だろう。
吸魔は目の前に現れたマーリンを食料と見なしている。欲求のままに動く手合いがいかに危険かは森の獣を見ているのでよくわかる。問題なのは獣と比べる意味などまるでない、怪物そのものな点だ。
吸魔のだらりと下げられた腕がピクリと動き、マーリンは反射的に体を捻っていた。敵の狙いが自分の急所である頭部、および胸部なのは明らかだった。
風を切る高い音に続き、木々の裂ける音が森に響く。
吸魔の腕は鞭の様に細くしなり、先端が刃の様に鋭く尖り、そして残像が残る程の速度で振るわれたのだ。
「なんなんだ、お前は」
思わずマーリンは吸魔へと問いかける。そもそも彼女は目の前の怪物をその名で呼んでよいものかさえ疑問を感じてしまう。何故ならば吸魔とは確かに特異な存在であれど、ここまで歪み果てた存在ではないはずだからだ。
吸魔―――サキュバス、ないしはインキュバスと呼ばれる生命体は珍しい存在であり、魔の者は人間に極めて近い外見を持っている。異なる点は角、翼、そして尻尾である。
が……眼前のそれらしき生物は生命を吸い取るというその一点以外、すべてが異常だった。
「腹ガァ、減ッタァ、喰いモノォ」
それは自我なのか、もしくは人の模倣なのか。
再び吸魔の腕がしなる。マーリンは同じ手は決して通用しないと判断し、迎え撃つ形で剣を構えていた。
金属が弾ける音に続き、彼女の全身をビリリと振動が駆け巡る。ただ防いだだけだというのに既に膂力の差は明らかだった。
「喰いモノォ、喰イものォ……!!」
飢餓状態にある吸魔が己を見失い、醜い本性をさらけ出す事は珍しくない。だがこの個体は別だ。本能のままに動いているだけのはずが恐ろしいまでの嫌悪感を抱かせる。
剣を握る手に汗がにじんだ。
(逃げてしまおうか、いっそ)
マーリンは冷静に分が悪い事を認識している。吸魔とやり合う事はなんら問題ではない。むしろその点に関して負けるつもりはない程だ。
問題は、異常個体とでも呼ぶべきこの吸魔が果たして素直にやられてくれるのかという部分にある。無傷で勝つ事は間違いなく不可能と言えよう。
なので踵を返して逃げても良い。森を犠牲にする形になるが、それでも自らの命を優先するのは生物としてあるべき姿なのだ。
逃げる事には慣れている。逃げて逃げて、逃げ続けている人生なのだから。
(脇に村がなければ、の話だが)
森から少し離れたところにそれなりに大きな村がある。時折顔を出しては食べ物や薬を買う場なのだが、もしここでマーリンが逃げれば吸魔は腹を満たす為にまずは森を、次は『食事』がたんまりある村を狙うだろう。そしてその次は何処へ行く? 食欲のままにすべてを殺し尽くす?
見捨てても良い。見捨てて10年程我慢すれば後悔は消える、はずなのだが、不思議とマーリンは踵を返すどころか吸魔と改めて向き合っていた。
「おい、化け物。私の言葉はわかるか?」
「喰いモノォ……!」
「わかるはずもないか。では言っておくぞ。ここで死ね」
マーリンは駆けた。素早く、風の様に吸魔へと迫る。
禍々しい腕がしなり、斬撃が襲い掛かる。だが速度は先程のものとなんら変わりない。
吸魔は戦いに慣れていない。己の力を全力で振るう事以外の戦法を理解していない。そこを突く。
(こちらはざっと100年は生きている! 経験では負けんぞ!)
マーリンは敢えて斬撃へと走り出し、姿勢をガクンと落としてこれを回避する。そして伸び切った腕目掛けて剣を振るい、見事に斬り落としてみせた。
「ギャアッッ!!」
腕を斬り落とされ絶叫と共に吸魔はもう片方の腕を槍の様に鋭く尖らせ、マーリンへ突き立てんと迫る。逆上した勢いそのままの動きは彼女からすれば待っていたと言う他にない。
迫りくる自分よりも遥かに巨大な体躯を前にしてマーリンは剣を構え、反撃の姿勢を取る。勝負は一瞬、すれ違いざまだ。
差し向けられた槍を華麗に躱し、光の軌跡は夜の闇に走る。小気味良い音と共に吸魔の腕がまた斬り飛ばされていた。
「■■■ッッッ!」
すかさず連撃。その小柄さに似合わない速度で振るわれた剣戟が吸魔へと叩き込まれた。
頭部、首、胸部。いずれも急所。いくら魔に浸りきった存在とはいえ、現世にいるならば致命となる部位に変わりはない。これまでの経験則から判断に誤りはない、そう判断した。
一つミスがあったとすれば、吸魔はマーリンの予想を上回る個体であった事にある。
両腕を斬り落とし、急所に斬撃を与えた。そんな状況で、何かがマーリンの肩を貫いていた。無論、剣を握っている側だ。
「なっ、ぐっ……!!!」
「喰いモノ、くいもの、クイモノ、喰いモォォノォォォォォ!!!」
恐るべき事に吸魔の背中から何本もの肉の槍が生えてきたのだ。一気に三本が襲い掛かり、反射的にその内の二本は回避したが最後の一本だけは見事に獲物を捉えてしまっていた。
認識が誤っていた。何をどうしたらこの様な生命が生まれるというのか。
戦慄はやがて激痛に飲み込まれる。脱出しようにも刺突の衝撃により剣は地面に落ちており、反撃のしようがない。
マーリンは何度かもがこうとしたが、しかし次第に脱力して手足を投げ出すに至った。
勝利を確信した吸魔は歓喜からか体を震わせ、そして虚無の面にヒビが入るかの様に初めて口を開く。
「ギィィィィ、ギィィィ、ギィヤヤヤヤヤヤヤヤ」
軋む音と共に開かれた口にはズラリと乱杭歯が並ぶ。マーリンの肉体など容易く食いちぎり、すべてを腹の中に収めてしまえるだろう。まもなく彼女は吸魔に取り込まれ、その養分となるのだ。
「ギギギギギ、ギィィャガガガガガ!!!」
吸魔が雄たけびをあげながら細い首筋に顔を近付き、柔らかな肉へと歯を立てる―――その瞬間である。
完全に怪物は自分が勝利したと思い込んでいた。敵を仕留めた、と。
自分がその思い込みを利用して勝ったというのに、相手も同じ事をするかもしれないという考えが吸魔にはなかった。
「……たわけ。奥の手は用意しておくものだろうが」
最初、それは火花の様にささやかなものだった。しかし一瞬にして炎が湧き出し、膨れ上がり、吸魔の体を炎上させる。呑気に開いてあった大きな口の内部まで、しっかりと炎はその手を伸ばしていた。
無より発生した炎。それは瞬く間に夜の闇を照らし、悶え苦しみのたうち回る吸魔の姿はまるで火の玉だ。
これこそは魔術と呼ばれる特異現象であり、マーリンはその専門家と言って良い人物である。剣はブラフ。真の武器は虚空に有を生み出す、変幻自在の魔術師だ。
「ギィヤガガガガガガガッ!!!」
炎に体の内側まで焼き尽くされ、吸魔がおぞましい悲鳴と共にのたうち回る。両腕を失い、肉の槍を出そうにも先に炎上を止めなければ意味がない。
そしてその隙を見逃すマーリンではない。肩を貫かれた為に両腕で剣を握る事などできはしないが、片腕だけでもなんとか掴み、切っ先を構える。
「急所を狙った程度で死なんと言うのなら……内側から攻めてやろう」
切っ先に炎が灯る。小さくか弱く見えるが、その中では業火が燃え盛っている。
「お前が森を枯らしてくれていたおかげで森に被害が及ぶ心配はいらない。今ここで焼け死ね―――!!」
剣が地面へと突き立てられる。その先端に込められていた炎は大地の中に注ぎ込まれ、やがてマーリンの念じるがままに勢いを増しながら地中を進む。
森に精通し、森に通る魔力の道を理解している彼女であるからこそ放つ大規模な魔術。それは吸魔の足元から泉の様に湧き出し、炎の柱となって巨体を焼き尽くしていた。
「■■■■―――!!!!」
決着の確信があった。炎の中でもがき苦しむ吸魔はやがてその身を炭の塊へと変え、そして静かに倒れ伏す。
マーリンは貫かれた肩に手を当て、ぶつぶつと呪文を囁く。すると温かな光と共に肉の槍が開けた穴は少しずつ塞がり始めた。これも魔術の一つ、大きく体力を消費するがその代わりに傷を素早く塞げるというものだ。
では、と魔術師は剣を手に吸魔の下へと向かう。まだ油断はできない、首を落とし、四肢を断ち切って動けなくなるまで攻撃し続けるのだ。
「いつもならば研究材料にしているが……明らかに厄介だ。ここで、始末する」
吸魔はまだ動く様子はない。気を失っているフリかもしれない。少しの気の緩みが命取りになりかねない。
マーリンは剣を引きずりながらも吸魔に辿り着くと、まず最初に首を断ち切るべく剣の炎を纏わせる。断面を焼き切れば大きなダメージを与えられると踏んだのだ。
そうして思い切り振りかぶり、さぁやるぞと全身に気合を入れたマーリンに思いがけない展開が待ち受けていた。
静かに、吸魔の体が崩れ始めたのだ。炭化していた体表が音を立てて崩壊していく。どうやら全力の魔術攻撃は怪物を完全に焼き払った様だ。
こればかりは流石に安堵せざるを得ない。マーリンはゆっくりと剣を下ろし、まだ生きている実感に重いため息をつく。あまりにも得体の知れない吸魔、できる事ならばその秘密を解き明かしたいところであったが、生きるか死ぬかとなれば倒す他になかっただろう。
「残念だ。詩人の一人か二人がいれば語り継いでもらえた事だろう……村を守った老いぼれエルフの物語を―――ん?」
独りごち、朽ちた森をどうしようかと意識を死骸から逸らそうとした直後、何か見えてはいけないものが視界に映り込む。崩れ落ちていく吸魔の中に人間らしきモノが見えた。否、らしきではない、人間がいる。
ゆっくりとマーリンはしゃがみこみ、吸魔の死骸に触れる。炭化してガサガサとした手触りだが簡単に引き剥がせる。そしてその下には、眠る様に瞼を閉じる人間の子供がいるではないか。
「なんだ、これは。コイツが丸飲みにでもしていたのか?」
それにしては異質な状況だ。ひとまず死骸を剥がせるだけ剥がし、子供を引っ張り出す。ぬるぬるとした粘液に体を覆われており、嫌な臭いが鼻を突く。
「一体なんだっていうんだ……」
ひとまず子供を助け出すと地面に寝かせる。何処の誰かもわからないが介抱をしてやらねば後が怖い、そう思い脈を測ろうと体に触る。どうやらまだ生きているらしかった。
スン、と何か甘い匂いがする。熟れた果実の様なそれは鼻腔をくすぐり、突然マーリンを昂らせた。
「……?」
(なんだ、間一髪生き延びた興奮か?)
最初はそう思っていた。だがやがて甘い匂いがどんどん強くなり、応じる様に彼女の肉体は燃え上がる様に高ぶりを抑えきれなくなっていた。つまりは欲情しているのだ。
マーリンは動揺を抑えられない。意味もわからず体が勝手に何かに反応し始め、その原因がわからない事にただ困惑していた。
何かに魅了され、マーリンという一人の雌は抗う事のない誘惑に体を震わせてしまっていた。
(一体なんだっていうんだ。魅了の魔術? 馬鹿を言え、私は魔術障壁を三重に仕掛けている。それを貫通するなどよほど高位な吸魔でなければ……ありえ、ない)
甘い匂いがし始めたのは子供を助け出し、その肌に触れてからである。
背筋がぞわっと粟立ち、同時にマーリンの秘部は愛液で濡れ始めていた。
「……まさか」
そんな馬鹿な、と断じたいところだが己の肉体は何よりの証拠になる。
じっとマーリンは子供を見下ろす。意識を失い、四肢を投げ出す姿とその正体はまったく結びつく余地はない、はずだった。
(先程まで戦っていた吸魔は、この子供だというのか?)
魔術師マーリンはこの時知る由もないが、子供は確かにインキュバスである。だが彼女の知る『そう生まれてきた』モノではない。ある願いにより、人の身でありながらその内に無理やり魔を混ぜ込む形で作り出された憐れな命なのだ。
この物語は人の身でありながら魔を宿した少年が己の人生を取り戻す為の―――復讐譚である。
吸魔のビジュアルはマーベルのカーネイジです