暴食のインキュバス 作:コンバット越前
吸魔と呼ばれる生物も雌雄に分かれている。メスはサキュバス、オスはインキュバスと名付けられている。
ただこの二つはあくまでも雌雄別々の姿が見られた為にそう名付けられただけで、大抵の個体が自らの性別さえも自在に切り替える事ができてしまう。故に詳しく知る者はあくまでも種族としての名を差し、吸魔と呼ぶのだ。
だが……大昔の伝承にこう記されている。吸魔の中にはハッキリと男女どちらかに偏って生まれる者がおり、強大な力と無尽蔵の欲望を孕んだ禍々しき存在になりうる、と。
「……よもや、君がそれではあるまい」
魔術師マーリンが視線を向ける先、吸魔とされる子供は部屋の中心で椅子に縛り付けられ、ぼろ切れを纏った姿で小鹿の様に震えている。彼の周りには万が一に備え、二重の結界が施されている。マーリンの指先一つで内部にいる者に対して苦痛を与える、簡易的な檻というわけだ。
森に現れた異常個体の正体、それはまだ年齢で言えば10代前半の少年だった。少女の様に体は細く、しかし砂金の様に綺麗な髪色と美しい緑の瞳。このまま大人になれば道行く人々が振り返る美しい顔立ちになるだろう。
しかし彼は吸魔である。まさか、と言い切りたいところであるが事実として吸魔が持つ特性の一つである魅了の魔術を無条件に発動し、マーリンの感覚を狂わせている。
詳しく調べるべく研究用の小屋に連れ帰ったものの、中で暴れられては困るわけでマーリンは少年を拘束していた。
「おい、君。私の言葉はわかるか?」
少年が警戒しているのはすぐにわかった。マーリンは落ち着かせようと両手を上げ、武器を持っていない事を示す。が、彼は首を左右に振り、全力で嫌がる素振りを見せた。身動きができないとなれば当然の話である。
結界のおかげであの甘い匂いは断ち切られている。だが一度でも嗅いでしまえば影響が出続ける様で、マーリンの体は継続して異常な昂りに襲われていた。
気味が悪い、そう呼ぶべきだろう。何せいつまで経っても下腹部の滾りが収まらず、魔術で感覚を鈍らせているものの当初は股からの愛液が止まらなかったのだ。
(吸魔は魔術とは別に他者を誘惑する為の分泌物を肉体から放つというが、これは少しおかしい。何か仕組みがあると見た)
命を失いかけたのだがマーリンは目の前にいる存在が一体どんな経緯で生まれた存在なのか、それを確かめたい探究者としての衝動に駆られていた。
吸魔としては異質な生命であればどんなものからでも命を吸い尽くそうとする食欲、そして他者を惑わす色香。研究してどうにかなるわけではないが、それでも解き明かさずにはいられない性を持っていた。
当然、もしも少年がまた怪物へと変身する様であれば今度こそ息の根を止める予定である。
「っ、っっっ」
少年は口をパクパクと動かすが声は聞こえない。何かを訴えかけようとしているのはわかるが、どうやら彼は言葉を発する事が出来ないらしい。恐らく、なんらかの精神的ショックが理由だろう……と、とりあえずマーリンは仮説を立てる。こういう手合いは過去にも何度か見ている。
同時に自分が戦ったあの吸魔は少年が己の力を制御できなかったが故に発生した事であるとも彼女は推測していた。
「落ち着くんだ、もう一度確認する。私が何を言っているのかはわかるか?」
改めて、ゆっくりと語り掛けると少年は首を縦に振る。従わなければいけないと理解してくれた様だ。
「状況を説明しよう。私はマーリン。この森の主にして……魔術師だ。少なくとも今は敵ではない、わかるか?」
「……っ、っ」
少年は不満げに体を揺らす。手足を縛られている状態で何を、とでも言わんばかりの非難が込められた目だ。
と、ここでマーリンは自分の言葉を言い聞かせる為におもむろに服に手をかけ、肩口辺りまで脱いでみせる。少年は突然の脱衣に目を剥いて驚いていたが、しかし肩口に残された傷痕を目にして唖然としていた。
「いいか、これは君が私につけた傷だ。とりあえず塞いだがもしも毒でも仕込まれていれば私は近い内に死ぬかもしれん」
無論虚偽である。早急に毒か呪いの類が傷口から体内に侵入したかどうかを調べ、問題はなしと確認した。
だが少年が自分の行いを覚えていない可能性を考え、敢えて嘘を言ってみる事にしたのだ。効果はてきめんで、彼は意味がわからないと言わんばかりにかぶりを振った。
「っ……っっ!!」
知らない、そう言いたげな顔だ。やはりな、と心中で微笑みながらマーリンは服を着直して相手に罪悪感を抱かせる様にわざと穏やかな口調で続ける。
「覚えていないんだな。君は我を失い、私の森で暴れた。二割近い面積が君の手で朽ち、そして私自身も君に殺されかけたんだ」
「っっ、っな、なっ、なっ!!!」
再び大きなショックを受けたせいだろう。徐々に少年の喉は声を絞り出し始めていた。
「し、しらな、いっ! そん、なのっ!」
「だろうな。アレは異常そのものだった。責めるつもりはないが、現実を受け止めてくれ。君はどういうわけか怪物になっていたんだ」
「かいっぶつっ……」
がっくりと少年はうなだれ、苦し気に呻いた。状況を飲み込みきれていないのは確かだった。
やはりというべきか、森で狂った様に生命を吸い取っていたあの姿は少年自身とはなんら関係のないモノらしい。であればマーリンの知る吸魔とますます話が変わってきてしまう。
突然変異? 違うだろう。自分の行いを理解していない生き物などいはしない。つまりあの姿は、少年も知らない力というわけだ。
「気を落としているところ申し訳ないが君自身の為にも教えて欲しい。自分が何処の誰で、どうして私の森に入り込んだのか教えてもらえるか?」
「わか、らない。僕が誰、かも……ここが、何処なのかも」
「―――ふむ」
少年の言い分を信じるなら、暴走状態のまま森に入り込んだという経緯だ。だが改めて考えてみると食事の為なら人間が山程いる近くの村を襲った方が確実だったはずである。
加えて自分が誰かも覚えていない記憶喪失とは複雑極まる。
と、唸りながら少年は顔を上げた。
「でも、お腹が減っていたのは、覚えてる」
「どうして腹が減っていたんだ?」
「ずっと、歩いてた。食べるものがなくて……お腹が空いて、頭がおかしくなりそうだった」
(……なるほど。自分の生命を維持する為にあのカタチを選んだのか。体力の消耗よりも補給を最優先で動いた結果、見境なく暴れていた。とすると……ああ、理解した)
経緯をまとめるとこうである。
少年は極度の飢餓状態で彷徨い、そして生命の危機を感じ取った本能が彼をどういうわけか怪物に変身させた。
最優先目標は自己保存。その為に少年は手当たり次第に食い散らかしながら移動していたのだろう。
そしてその中で村ではなく森に足を踏み入れた理由、それは……人間よりも生命力のあるエルフ―――つまりは、マーリンを狙ったのだ。
「結論から言おう。君は私の命を狙っていた。私を食らい、自分の養分にしようとしていたんだ」
「そ、そんなの……そんなの……しらないよぉ……」
少年は再びガックリと俯き、続いて小さくすすり泣き始めた。無理もない。本当に本能のみで動いていたのだとしたら彼は自身の肉体に操られていた様なものだ。
そうなると改めて問わなければならない事が一つ。
「教えてくれ。君は何者なんだ? 君自身も理解していない力があるというのなら……何故そんなものを持っている?」
「しらない、しらないんだってぇ―――!」
純粋な疑問。それは少年が吸魔なのか、そうでないのかについてである。
人ではない者達―――それこそマーリンもだが―――は魔力を備えて生まれ落ちる。量は個体によって左右するものの、持っていて当たり前のものと己で理解できる。
しかし少年は何も理解していない。自分が何者なのか、そして自分が持つ力はなんなのか、それさえも。
となれば伝承に伝わる特別な吸魔とは異なる事になる。
(―――まさかとは思うが、『混ざりもの』?)
泣き続ける少年をよそにマーリンは考える。しばらくその姿は確認されていないと聞いている存在について。
だが他に候補はない。少年には残酷だが彼の為にも事実を伝えてやらねばならないだろう。
一拍置き、マーリンはゆっくりと諭す様にこう告げた。
「恐らくだが、君は人間であって人間じゃない」
「……は?」
「人間と我々魔族の間に生まれた混血種だ。不幸に『混ざりもの』などという呼び名をつけられているがね」
〇
人間ではない者達。魔力を持ち、いつの間にやら深淵から湧き出る様になった異種、それが魔族である。
魔族達さえ、自分達が何処からやってきたのかを知る者は少ない。伝承では天上から追放された神の使いの血を引いているだの、地の底に眠っていた者達の末裔だの随分と別れてしまう。
エルフの様に人間に近い価値観の種もいれば、ゴブリンの様に明らかに異常な進化を遂げてしまった野生動物に近い種もいる。
重要なのはそうした魔族と時に恋に落ちた人間が……もしくは、魔族に犯された人間が、混血児を生む事がまれに見られるという部分だ。
「吸魔が人と子を成す事は滅多にないとされている。まぁ大体は方便で、産んだとしてもすぐに食らうそうだ。どうしてかと聞かれると答えに困る。多分……邪魔なんだろう、そういうものが」
「じゃあ、僕はその吸魔の子供?」
「あくまで仮説だ。だが他にあり得ない。君が良ければ体をバラバラにして詳しく聞けるが?」
「……いい」
少年は少しずつ大人しくなってきていた。マーリンを敵ではないと理解した事で警戒心が収まりつつある様だが、状況に混乱して元気がないと考えるべきだろう。無理もない。
結界は既に解除していた。暴走した理由が飢餓だと分かったのであれば食事を与えてやればある程度は制御できる。あの甘い匂いにしても、大事に取っておいた果実やら燻製肉やらで満腹になると収まっていった。
(吸魔が他者を誘惑するのは狩りの為だが、この少年も例に漏れず、か。人間と混ざっているせいで普通の食事でも補える様だな)
これは良い収穫だった。これまでマーリンは吸魔の混血種を見た事は一度もなかったのだが、少年のおかげで生命維持の条件とでも呼ぶべきものの一端を覗き見られた。
生きる為に食う。その為の魅了を経口摂取による栄養補給で補えるならば、彼は少なくとも人間の社会で生きていけるはずだ。
「それで、だ。君……と呼び続けるのは無理があるか、面倒だから私が名付けてやろう。君は今からアルトだ」
「アル、ト」
「ああ、呼びやすくて良いだろう。本当の名前を思い出したならそちらを名乗れば良い。話を本題に戻すとしよう。君のこれからについて、だ」
マーリンは一拍置き、
「まず魔族との混血種は原則として教会で保護される事が決まっている。教会は流石にわかるな?」
「……うん」
「基本的に混血種のほとんどが望まれぬ生を受け、大抵が惨い目に遭う。差別を受けるか、頭が魔に引っ張られてお仲間になってしまうかだ。君は見たところ自分の力を制御する事は愚か、記憶さえ曖昧だ。このまま生きていくのは難しい。だから、教会の監視下に置いてもらえ。ここから山を越えた先の街にあったはずだ」
残酷な物言いだとマーリン自身も思いこそすれど、しかしアルトをそばに置いておく事は難しいと冷静に判断していた。
森を枯らしながらひたすらに己の食欲を満たそうとしていた姿を見れば、必要なのは厳重な監視の下での生活だ。教会では混血種を保護し、その力の操り方を教授していると以前に耳にした事がある。
少年は明らかに戸惑いを見せていた。何がどうなっているのか、自分がどんな状況なのかを告げられたとしてまだ幼さの残る年では飲み込めるものではあるまい。
だが、そんな状態でいれば尚更何らかの庇護の下にいる必要がある。
「わかり、ました。僕もその方が良いです」
アルトはゆっくりと頷き、教会へ身を委ねる事を受け入れた。それが一番彼の為になる、そうマーリンも確信していた。
だがその前にやらなければいけない事がある。混血種の吸魔……その肉体を詳しく調べ上げなくてはならない。
「―――とはいえ、だ。君の情報を何も持たないまま教会に連れて行ってしまえば驚かれるだろう。何せ吸魔だからな。あそこには知り合いがいるから手紙を送っておいて、準備が出来てから連れて行く」
「準備って?」
「決まってるだろう。君が何処まで吸魔の力を持っているのかを確かめるんだ。解剖以外でな」