少し残酷な描写があります
「
悍ましい悪魔の低くはっきりした声。
「きゃああああっ」
甲高い悲鳴に振り返ると、ヤルダバオトの背が見えた。
「くうっ……ッ、邪魔だーーッ!」
兵達を掻き分け、手を伸ばした。太い腕に下半身を掴まれ、苦痛に歪む美しい顔。喘ぎ。そして、恐怖に染まった瞳。
届け。届け。届け。
手は空を掴み、鮮血が鎧に飛んだ。
「やめ、ろ……やめろ……」
どうすればいい。どうすればカルカ様は助かる。地面に叩きつけられ、だらりと垂れた腕、滴る血。
「やめろーーーー!」
喉が枯れるほどの叫び。
「っっはぁ。はぁっ……はぁ、はぁ、ハァッ」
薄暗い部屋。ベッド。そばに置いた聖剣。
「はーっ、はーっ……はぁ……はーっ……」
耳障りな荒い息。ぐしゃりと胸元を掴んだ硬い手。
朝だ。
最近は眠れなかった。だがそのままでは問題だ。だから医者に薬を出して貰い、眠りに入っている。ぐっすり眠れる分、いつも最悪な夢を長時間見させられることとなる。
カルカ様が不在の聖王国を私が支えなくてはならない。カルカ様の意志を継いで。
「団長。ちゃんと食事をとっていますか?」
私にそう声をかけたのはグスターボだった。
「あぁ、とっている」
嘘をついたつもりはないのにため息を吐かれた。以前より食事量が減ったと言われたような気もしたが、違いがよく分からなかった。睡眠薬のせいかとも思ったが医者に「そんな副作用はない」と言われた。
少しだけ鎧がぶかぶかになった。
訓練場に立つ。腕を鈍らせ無い為に。部下との打ち合い。剣をぶつからせる。体が怠い。それでも腰を落とし、足を踏ん張った。腕を振り上げ、切りつけた。だが、一瞬の隙を突かれる。
「……っ!」
後ろに下がる。私は剣を下ろした。ぼーっとする私をよそに部下は拳を握って喜んでいた。
視界が刹那、歪む。すぐにクリアになった。けれど音も何もかも置き去りにして私はどこか遠くに立っている感覚がした。
──────
「初めまして。わたし、カルカ・べサーレスと申します」
「ええと、レメディオス・カストディオです」
淡い水色と白のドレスを摘み上げた王女様の前で肩を張った。王城の広間。煌びやかなシャンデリアの下。
「七歳のお誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。そんなに緊張しないで? ケーキは食べたかしら?」
「は、はい、一ホール食べました」
「え……ふふ、ふふふっ」
手で口元を押さえるカルカ様。
「え? だめでしたか」
「いいえ、とても嬉しいわ。皆さんに喜んで欲しくて私がお願いしたの。もっとたくさん食べてね」
目尻の涙を拭い、カルカ様は微笑んだ。
「はい、カルカ様。カルカ様の分もとってきます」
「え、いいのよだからそんなに気を遣わなくて……」
「カルカ様!」
少し離れたところから若いメイドの呼ぶ声がする。
「あら……そろそろお別れを」
「逃げますよ!」
「ふぇ、?」
白い手首を握った。くい、と引っ張ってテーブルクロスに潜った。
「ええ!? レメディオス!?」
「しずかに」
「むぐぅ」
カルカ様の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で反対側のテーブルクロスを捲った。黒い燕尾服と豪奢なドレスを纏った人々の奥に通路を見つける。そこを一瞬で通り抜けるルートを頭の中に作る。あとは、走り抜けるだけだ。
「行くぞ、カルカ様」
先程より強く手を引いた。大人達の脚の間を縫うように駆け抜けて行く。
広間とは打って変わって静まり返った廊下を通り過ぎる。メイド数人に気付かれたがそれも撒く。広間から遠いバルコニーに駆け込む。カルカ様は息を整えてから言った。
「こ、こんなこと、していいの?」
「だって、あそこにいてもつまらなかったし、カルカ様が寂しそうな顔をしていたから」
「まったく答えになってないわ」
カルカ様は文句を言いつつも笑った。
「いいんだ。たまには」
私が人差し指を立てて言うと、カルカ様はまた柔らかく笑った。
「たまには、ね……ふふふ」
「カルカ様は、どうして寂しいんですか」
バルコニーのベンチに座る。
「……私、心からお友達と呼べる人が……いないの」
カルカ様も隣に座った。
「それも、どうして……?」
「だって、私……王女だもの」
カルカ様は笑った。下手くそな笑顔だった。
「……王女じゃないカルカ様は、すごく素敵ですよ」
「まぁ……嬉しいこと言ってくれるのね」
「あ、カルカ様……ほら、月が綺麗ですよ」
頭上を指さす。深い闇に、青白い満月が浮かんでいた。辺りの森が風でざわつく。
「本当だ……。ねえ、レメディオス。こうやって、誰かと一緒に見ると、特別に綺麗ね」
「む、ロマンチックなことを言いますね、カルカ様は」
「そう? でも、本当にそう思ったの」
夜風にカルカ様の髪がふわりと流された。
名前しか知らない王女様の横顔。やはりどこか寂しそうで、どこか幸せを噛み締めているようだった。
「団長!」
「レメディオス団長!」
「…………?」
戻った意識に引っ張られ、ぐるりと足元が回転した。ふらつくと、部下達が寄って来る。
「団長!! 大丈夫ですか?」
肩を支えられて、私は悟った。
私はもう、まともに戦えない。
カルカ様を守れなかったどころか、もう国を守る力すら残ってない。
「大丈夫だ……少し、立ち眩みがしただけだ」
気遣う部下たちの手を振り払い、私は足を引きずるようにして訓練場を後にした。
もう剣は振るえない。体を動かす気力すら、この空っぽの身体には残っていない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。剣が駄目なら、せめてカルカ様の遺志だけでも守り抜かなければ。
数日後に行われた復興会議。
円卓を囲む貴族や神官たちの顔は、どれも酷く疲弊し、そして冷え切っていた。
「まずは北部の難民キャンプへ物資を回すべきだ。誰も飢えさせてはならない。それが……カルカ様が望んだ、誰も傷つかない国としての在り方だ」
私がそう声を絞り出すと、会議室はひどく重い沈黙に包まれた。
やがて、ひとりの貴族がため息とともに口を開いた。
「レメディオス団長。現実を見ていただきたい。今の聖王国に、全員を救うような備蓄も余力もありません」
「しかし、それでは民を見捨てることに──」
「見捨てるのではありません。生き残るための取捨選択です。そもそも……」
貴族は忌々しげに目を細めた。
「あのように甘い理想ばかりを追っていたからこそ、我が国は悪魔につけ込まれ、このような惨状を招いたのではないですか」
「なんだと……っ!」
椅子を蹴立てて立ち上がった。だが、腰の剣に手を伸ばそうとした瞬間、先日の訓練場での無力な自分の姿がフラッシュバックする。
周囲からの視線は、怒りではなく、哀れみと呆れに満ちていた。
グスターボが慌てて間に入ったが、私の耳にはもう何も届かなかった。
誰も、カルカ様の理想を信じていない。
守るべき民や貴族でさえ、あの方の優しさを「甘さ」と切り捨てている。
そして私には、それを力で覆すことも、言葉で説き伏せる知恵もないのだ。
逃げるように会議室を飛び出し、気がつけば私は、主を失った執務室に足を踏み入れていた。
分厚いカーテンが引かれ、薄暗い部屋。もう誰も座ることのない豪奢な椅子。
どうしてこんなに無力なのだろう。
フラフラと机に近づき、ふと、乱雑に積まれたままになっていた書類の束に目がいった。整理しなければならないと思いながら、手がつけられていなかったものだ。
その一番下に、見覚えのある美しい意匠の小箱が埋もれていた。
手が震えた。ゆっくりと蓋を開ける。
中に入っていたのは、私が以前、野営の夜に「綺麗ですね」と何気なく呟いた名もなき青い石をあしらった、不器用な作りの首飾りだった。
そして、そこに添えられた小さな便箋。
【いつもありがとう、レメディオス。
一人で無理ばかりするあなただから、たまにはお洒落をして、私とお茶でも飲んで休んでちょうだいね。
あなたが傍にいてくれるから、私は──】
文字はそこで途切れていた。
「あ……あぁ……」
ぽたり、ぽたりと、乾いていたはずの目から止めどなく水滴が落ちて、便箋のインクを滲ませた。
「あああぁぁぁっ……カルカ様っ……カルカ様……っ!」
泣き崩れた。
すべてが終わったのだと、ようやく理解した。
国は立ち行かず、民はカルカ様を忘れ、私には剣を振るう力もない。
カルカ様のいないこの世界で、これ以上息をしていく意味が、どこにあるというのだろう。
私はゆっくりと立ち上がった。
意識が途切れ途切れだった。
馬を走らせた。
どこへ行くかも決めずに。やがて、どこかも分からない暗い森に着いた。
馬から少し離れ、木漏れ日を見上げた。
腰に提げた聖剣は、あの方がくださったものだ。あの方の純白の理想そのものだ。
私のこんな汚い血で、この剣を汚すわけにはいかない。
自分で買った何の変哲もないただの短剣。それを取り出し、最後の力を振り絞って握りしめた。首元に近付ける。別に怖くは無い。むしろ、早く──会いに。
力を込めた。
けれど、痛みは来ない。背後から、不意に手が伸びてきた。
その手が、私の首に当てられた短剣の刃を、素手で力強く握りしめたのだ。
「え……?」
ピタリと動かなくなった剣。
ぽた、ぽた。
刃を握りしめた細い指の隙間から、赤い血が滴り落ち、私の服を汚した。
状況が理解できず、息を呑む。誰だ。
「遅くなってしまってごめんなさい、レメディオス」
背後から降ってきたその声に、私の心臓は跳ね上がり、呼吸が止まった。
聞き間違えるはずがない。幻聴だとしても、あまりにも鮮明で、優しくて、愛おしい声。
短剣から手が離れる。
私は弾かれたように振り返った。
そこにいたのは、深い黒のローブに身を包んだ女性だった。
フードの奥から覗く、見慣れた淡い金糸の髪。優しげで、それでいて芯の強い瞳。
「カルカ……様……?」
声が震えた。
嘘だ。だって、あの時、私はこの目で見た。あの悪魔に、無惨に……。
しかし、目の前に立つ彼女は、どこも欠けてなどおらず、ただそこに立っていた。刃を握った手から血を流しながら、困ったように微笑んでいる。
「だめよ、レメディオス。自分を傷つけちゃ」
「あ、あぁ……あぁっ……!」
手から短剣が滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
膝から崩れ落ちる。カルカ様のローブの裾を掴み、私は子供のように泣きじゃくった。
「カルカ様、カルカ様っ! 申し訳ありません、私、私が弱かったからっ! お守りできなくて……ずっと、ずっと、お側にいたかったのにっ……!」
堰を切ったように泣き言が溢れ出す。鼻水も涙も止まらない。みっともないと分かっていても、既に遅かった。
カルカ様は何も言わず、草むらに座り、ただ私の頭をそっと撫でてくれた。その手は、ひどく温かかった。
ひとしきり泣き喚き、しゃくりあげながら、私はぼやける視界で彼女を見上げた。
「ぐすっ……黄泉から、私を……迎えに来て、くださったんですか……?」
鼻水を垂らしながら尋ねる私を見て、カルカ様は目を丸くした後。
「くふ、ふふふっ」
上品に、けれど心からおかしそうに笑い出した。
「……カルカ様?」
「ごめんなさい。でも、あなたがそんな風に泣くのは久しぶりに見たから」
くすくすと笑いを沈めながら、カルカ様は私の頬の涙を指で拭った。
「迎えに来たのは本当よ。でも、黄泉からじゃないわ。私、生きて戻ってきたの」
「生き、て……?」
「そう、少し長くなるのだけれど……話、聞くかしら?」