※この作品はR-18です。

闘神都市Ⅳ   作:勇者パンスト

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プロローグ

 

 

【プロローグ】

 

 

雨音が、路地裏の淀んだ空気を容赦なく打ち据えていた。排水溝から溢れ出た汚水と泥が混じり合い、冷たい石畳を濡らしている。

 

 

 

「はぁっ……はっ……う、く……っ」

 

 

 

その泥水の上に、少女――ミナモが倒れ込んでいた。

 

 

 

華奢な肩が、溺れる者のように激しく上下している。濡れて肌にへばりついた薄桃色の髪。透き通るほど白い皮膚からは、青白い燐光のようなものがゆらゆらと立ち上り、雨の冷たさに溶けるようにして消えていく。生まれつき彼女の体を蝕む奇病――生命力そのものである魔力が、常に体外へと漏れ出し続ける呪われた体質だった。

 

 

 

「ミナモ……! おい、しっかりしろミナモ!」

 

 

 

ルートは膝を泥に突き、彼女の細い身体を抱き起こした。

 

 

 

腕の中に伝わってくる体温は、驚くほどに冷たい。まるで命の火種が、一滴ずつ雨に消されていくかのようだった。

 

 

 

「……あ、ル……ト……」

 

 

 

ミナモの瞼が、重そうにわずかに持ち上がる。焦点の合わない瞳でルートを見上げ、震える唇を開いた。

 

 

 

「ごめん……ね。また……ご迷惑、かけちゃって……。わたし……また、倒れちゃった……?」

 

「喋るな、無駄な体力使うんじゃねぇ! すぐ、すぐに薬を買ってくるから……っ!」

 

 

 

そう叫びながらも、ルートの手は激しく震えていた。

 

 

 

ミナモの命を繋ぎ止めるための「維持薬」。貧民街の路地裏でその日暮らしをする身寄りのないルートとミナモにとって、様々な理由で跳ね上がり続けるその薬は、すでに手の届かない高嶺の花だった。

 

 

 

ポケットの中に手を突っ込む。指先に触れるのは、泥に塗れた数枚の小さな銅貨だけ。明日のパン代すら怪しい端金で、高価な維持薬が買えるはずもない。

 

 

 

「ごめん……ね、ルート……。わたし、もう……いいよ……。私のせいで、ルートが……ずっと辛い思い、するの……見てる方が、苦しい、の……っ」

 

 

 

「バカ言うな! なにが『もういい』だ! 俺が勝手にやってんだよ、勝手にな!」

 

 

 

ルートは歯が折れそうなほど噛み締め、石畳の上に拳を思い切り叩きつけた。

 

 

ドカッ!

 

 

皮膚が裂け、肉が砕け、拳から血が噴き出す。激痛が走る――はずだった。

 

シュワァァァァ……!

 

 

 

次の瞬間、傷口から肉と毛細血管が生き物のように蠢き、嫌な音を立てて再生を始める。一秒も経たないうちに、そこには傷一つない元の皮膚が戻っていた。

 

 

 

「クソッ……! なんでなんだよ……! なんで俺の体は、切り刻まれようが勝手に元通りになるくせに……! お前ひとりの病気すら治してやれねぇんだよ……っ!!」

 

 

 

何度も、何度も地面を殴りつける。

 

 

 

そのたびに肉が壊れ、血が飛び散り、そして何事もなかったかのように修復されていく。

 

 

 

『異常体質:超回復』。

 

 

 

 

痛いのは変わらない。苦しいのも変わらない。ただ「死なない」というだけの呪いのような体質。目の前で命の灯火が消えかけようとしている大切な少女を前に、この無駄な頑丈さが、どれほど無価値で惨めなものか。

 

 

 

 

ルートは無力感と絶望の底で、血の滲む拳を握りしめたまま声もなく慟哭した。

 

 

 

 

「……ヒヒッ、こいつは傑作だな。死ねない男と、死にかかっている女、か」

 

 

 

暗闇の奥から、ねっとりとした声が雨音を割って響いた。

 

 

 

足音が近づいてくる。水たまりを跳ね上げる高級そうな革靴。

 

 

 

現れたのは、雨の中でも濡れないよう魔法の傘を差した、怪しげな男だった。仕立ての良いスーツを着込んでいるが、その目元には怪しい薄笑いがへばりつき、胡散臭い雰囲気を全身から漂わせている。

 

 

 

「誰だ、てめぇ……」

 

 

 

 

ルートが低い声で威嚇するように見上げると、男はポケットからタバコを取り出し、指先に灯した小さな火で火をつけた。紫煙が雨に混ざり込んで消える。

 

 

 

 

「ただのスカウトマンさ。命を切り売りして一獲千金を狙う、愚か者どもを集めるのが仕事のね。……見ていたよ、兄ちゃん。その異常な治癒力、なかなか見ごたえがある。闘技場の見せ物としては、おあつらえ向きだ」

 

 

 

 

「……あぁ?」

 

 

 

「お前さんのそのタフさなら、あそこでも少しは長持ちするかもしれんと思ってな」

 

 

 

 

スカウトマンは薄笑いを浮かべたまま、ジャケットの内ポケットから濡れていない一冊のパンフレット――禍々しい装飾の施された羊皮紙のチラシを取り出し、ルートの足元に放り投げた。

 

 

 

泥水の上に落ちたそれに、ルートの視線が吸い寄せられる。

 

 

 

 

『第〇回 闘神都市大会 開催』

 

 

 

『優勝者には巨万の富と、いかなる望みも叶う試練の権利を』

 

 

 

「闘神都市……大会……?」

 

 

 

 

「そう、命懸けの殺し合いの祭典だ。恐らく、予選の死亡率は過去最高。出場の半分以上が肉塊となって転がり出る地獄さ。……だがね、一戦勝ち上がるごとに手に入る賞金は、そこらの貧民街の奴らが一生遊んで暮らせる額だ。そして優勝すれば……どんな病だって治す魔法や万能薬すら手に入る」

 

 

 

スカウトマンは煙草の煙を吐き出しながら、ルートを試すように見下ろした。

 

 

 

「どうだね? どうせそのままじゃ。その娘が死んでいくのを指をくわえて見てるか、それとも地獄に飛び込んで、自分の命をすり潰しながら薬代を稼ぐか……選ぶのはお前だ」

 

 

 

ルートは泥に塗れたチラシを、震える手で拾い上げた。

 

 

地獄? 死亡率? 知ったことか。

 

 

 

自分がどれだけ傷つこうが、どれだけ痛みに叫ぼうが関係ない。俺の体が死なないというなら――その死なない体を売って、ミナモの命を買えばいいだけの話だ。

 

 

 

「ル……ト……ダメ、だよ……。そんなあやしいお話し……いっちゃ、ダメ……っ」

 

 

 

腕の中で、ミナモが途切れ途切れの声でルートの服の裾を弱々しく引っ張った。

 

 

 

彼女にも分かっているのだ。その大会がどれほど危険で、血生臭い場所であるかを。

 

 

 

ルートはチラシを指の中で固く握り潰すと、前髪の隙間から、ギラギラとした野生動物のような瞳でスカウトマンを睨みつけた。

 

 

 

「おい、スカウトマン」

 

 

 

「なんだね?」

 

 

 

「その大会に出れば……勝てば、本当に金が手に入るんだな?」

 

 

 

「ああ、絶対だ。生きて戻れればな」

 

 

 

ルートはフッと、血の混じった自嘲気味な笑みを浮かべた。

 

 

 

「なら決まりだ。参加手続きの紙を出しな」

 

 

 

「ルート……っ!」

 

 

 

ミナモが悲痛な声をあげるが、ルートは彼女の背中を、決して壊さないよう強く、優しく抱きしめ返した。

 

 

 

「心配すんな、ミナモ」

 

 

 

ルートのセリフは、いつになく静かで、けれど揺るぎない覚悟に満ちていた。

 

 

 

「俺の体が頑丈なのはな……きっと、今日この時のためだったんだよ。痛ぇのは我慢すればいい。どんだけ切られようが、死ななきゃ俺の勝ちだ」

 

 

 

ルートはミナモの冷たい頬に自分の額を押し当て、力強く言いのけた。

 

 

 

「行くぞ、闘神都市へ。どんな汚い手を使おうが、俺の命を何千回投げ打とうが……お前の薬代を稼ぎ切ってみせる。俺が、お前を絶対に死なせねぇ」

 

 

 

雨の中、スカウトマンが満足そうに「ヒヒッ」と歪んだ嘲笑を漏らす。

 

 

 

命を金に変える地獄の都市へ向けて、死なない男と儚きヒヒインの、泥臭い戦いがここから始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

【闘神都市、コロシアム】

 

 

 

 

巨大な石造りの建築、闘神都市・中央闘技場。

 

 

高い天井を持つドーム状のロビーには、むせ返るような熱気と、男たちのギラギラとした野心、そして血と汗と安酒が混じった独特の生臭さが渦巻いていた。

 

 

一攫千金を夢見る荒くれ者や、己の腕一つで成り上がろうとする剣士たちがひしめき合う中、ロビーの奥に設けられた一際華やかな受付カウンターだけは、別世界のように明るい空気を放っている。

 

 

 

「はーい、次の方どうぞーっ!」

 

 

 

黒を基調とした露出度の高いバニーガール風の衣装に、抜群のプロポーション。

 

頭にはピンと立ったうさぎの耳をあしらった「闘神都市の顔」——看板受付嬢のシュリは、喧騒を切り裂くようなお茶目で通る声と、完璧に計算された弾ける笑顔を振りまいていた。

 

 

この過酷な街で、どれほどの闘士が希望を抱き、そして絶望の底へ落ちていったか。そのすべてをこのカウンターで見届けてきた彼女だが、その立ち姿には微塵の翳りもない。

 

 

 

呼び声に応じて人混みを割って進み出たのは、一組の男女だった。

 

 

 

使い古され、刃こぼれすら目立つ安物の鉄剣を背負った青年——ルート。そして、彼の首に腕を回し、歩くことすら辛そうに身を預けている少女——ミナモだ。

 

 

 

ミナモの顔色は死人のように青白く、息をするたびに細い肩が上下に揺れている。額には脂汗が浮かび、誰の目から見ても重篤な病に冒されているのは明白だった。

 

 

 

「ようこそ、闘神都市へ! 本日は闘神大会予選のエントリーでよろしかったでしょうか?」

 

 

 

 

シュリはカウンターに肘をつき、頬杖をつきながらいたずらっぽくウインクしてみせる。

 

 

だが、その瞳はプロとしての鋭さで瞬時に二人の身なりと状態をスキャンしていた。

 

 

 

「……ああ。予選に出る。紙はこれだ」

 

 

 

 

ルートの声は低く、どこか周囲を威嚇するような切羽詰まった響きがあった。

 

 

差し出されたシワだらけのエントリー用紙には、迷いのない筆致でルートとミナモの名前が書き込まれている。

 

 

 

シュリは手際よく書類を受け取ると、ふと手を止めた。

 

 

 

 

「ふむふむ……エントリー用紙、確認いたしますね〜」

 

 

 

書類から視線を上げ、ミナモの力ない立ち姿と、ルートの擦り切れた装備を交互に見比べる。

 

 

 

闘神都市の大会には、絶対のルールがある。

 

 

 

それは『女性のパートナーを同伴すること』。そして、試合に敗北した場合、そのパートナーは勝者の『所有物』として容赦なく奪われるという残酷な掟だ。

 

 

 

つまり、パートナーは単なる応援者ではなく、血を洗う戦いの「賭け金」そのもの。

 

ゆえに、相手の闘士が戦利品として納得するだけの『価値』がなければ、運営側として登録を受理することはできない。

 

 

 

シュリはカウンターから少し身を乗り出すと、視線をミナモへ向けた。

 

先ほどまでのお茶目なトーンを少しだけ抑え、持ち前の『美少女センサー』を働かせる。

 

 

 

 

「なるほど……。大会のルール上、パートナー様は対戦相手への『報酬』になっちゃいますから、一定の審査基準があるんですけど……うん、合格! 私の美少女センサーがビビッときちゃいました!」

 

 

 

シュリはきゅっと口角を上げると、二人を安心させるように華やかな笑顔を浮かべた。

 

 

 

「病弱そうではありますけど、ミナモ様の可憐さと器量は文句なしの満点です! どの闘士も異論なんて挟めないレベルですよ〜。パートナーとして、バッチリ登録基準を満たしてます!」

 

 

 

言葉自体はドライなシステムの確認でありながら、嫌みを感じさせない明るいノリ。

 

 

それでもパートナーを『商品』のように評されたことに、ルートの顔が僅かに歪む。腰の剣に手をかけそうになるのを、必死に理性を総動員して堪えているのがわかった。

 

 

 

「……登録できるなら、さっさと手続きを進めてくれ」

 

 

「はいはい、分かってますよ。……ですが〜」

 

 

 

シュリは少しトーンを落とし、書類を整えながら、大人の包容力を滲ませた瞳で二人を見つめた。

 

 

酸いも甘いも噛み分けてきた彼女だからこそ持ち合わせている、遠回しで温かな気遣いだった。

 

 

 

「……あまり無茶はしないでくださいね? 本戦の舞台となる大迷宮は、現在、過去に類を見ないほど過酷な状況なんです。それに……あなたが負けちゃうと、受付のお姉さん、ちょっと寂しくなっちゃいますから」

 

 

 

冗談めかした口調の裏にある、本気の警告。

 

 

 

ルートはぎゅっと拳を握りしめ、シュリの目を真っ直ぐに射抜いた。その瞳には、泥水をすすってでも生き残ろうとする狂気じみた執念が宿っていた。

 

 

 

「負けないよ。……ミナモを賭けの対象にするなんて考えるだけで吐き気がする。けど、俺にはこれしか方法がないんだ。ミナモの病気を治す高い薬を買うには、このイカれた大会で勝って、金をふんだくるしかないんだよ」

 

 

 

痛いほどの決意。その言葉に嘘や虚勢がないことは、シュリにも痛いほど伝わってきた。

 

 

 

すると、ルートの肩に寄りかかっていたミナモが、細く震える手でルートの袖をそっと引っ張った。

 

彼女はゆっくりと顔を上げ、シュリに向かって儚げだが、決して折れない強い笑みを浮かべた。

 

 

 

 

「……大丈夫です、受付さん。お優しいご心配、ありがとうございます……。でも、私は……ルートのパートナーになります。彼が傷つくのなら、私も一緒に……。自分の意志で、ここに来たんです」

 

 

 

 

息も絶え絶えな声でありながら、二人の間には他者が入り込めないほどの切実で強固な絆があった。

 

 

 

これまで数え切れないほどの闘士たちを見てきたシュリだが、胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。

 

 

ただの欲望で身を滅ぼしていく男たちとは違う。この青年は、ただこの少女を生かすためだけに、自ら地獄の釜へと飛び込もうとしているのだ。

 

 

 

シュリはその重みをしっかりと受け止めると、持ち前のちゃっかりとした明るさで、重くなりかけた空気を一気に吹き飛ばしてみせた。

 

 

 

 

 

「……ふふっ、そこまでの覚悟なら、私から言うことは何もありませんね!」

 

 

 

 

バンッ!

 

 

 

 

威勢のいい音を立てて、エントリー用紙に受領印が押される。

 

 

 

「はいっ! エントリーナンバー七七番、ルート様、ミナモ様ペア! これにて受付完了でーす!」

 

 

 

シュリは書類を仕舞うと、カウンター越しに親指を立て、とびきりの笑顔で二人を送り出した。

 

 

 

 

「予選迷宮は明日からです! 大会中は何かと理不尽なことも多いですが、パパッと勝ってカッコいいところ見せちゃってくださいね。……シュリは影ながら、お二人のこと、すごーく応援してますから!」

 

 

 

「……ああ。ありがとう、シュリさん」

 

 

 

 

ルートは短く不器用な感謝を述べると、ミナモの腰を抱き寄せるようにして優しく支え、安宿が立ち並ぶ裏路地の方角へとゆっくり歩き出した。

 

 

 

喧騒の中に消えていく二人の背中を、シュリはカウンターに頬杖をつきながら見送っていた。

 

 

 

(……あんなにボロボロの装備で、おまけに病気のパートナーを抱えて……。普通の闘士なら、半日もたずに迷宮の底で肉塊になっちゃいますよ)

 

 

 

それでも、ルートのあのギラついた目。絶対に死なないと言わんばかりのあの執念を思い出し、シュリは小さく呟く。

 

 

 

「……お願いですから、二人とも無事に帰ってきてくださいね」

 

 

 

 

欲望の渦巻く闘神都市で、ひとつの泥臭い戦いが、いま静かに幕を開けようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

【移動、宿】

 

 

受付を済ませた闘技場のロビーは、相変わらず挑戦者たちの狂気じみた熱気で満ちていた。

 

 

 

すれ違う男たちの目には、剥き出しの欲望と野心がギラギラと燃え盛り、むせ返るような汗と安酒、そしてどこからともなく漂う血の匂いが空気を重く淀ませている。

 

 

 

 

ルートは、そんな殺伐とした空間からミナモを守るように肩を抱き寄せ、出口へ向かってゆっくりと歩き出した。

 

 

 

 

「大丈夫か、ミナモ。少し歩けそうか?」

 

 

 

「うん……大丈夫だよ、ルート。受付のシュリさん、すごく親切な人だったね」

 

 

 

 

ミナモの顔には疲労が色濃く浮かんでいたが、気丈に微笑んでみせる。

 

 

 

 

「ああ。……だが、あの人が言った通りだ。明日からの予選迷宮は、生半可な場所じゃない。俺たちの想像以上に、危険なんだと思う」

 

 

 

重厚な鉄の扉を押し開けると、闘神都市の眩しい日差しが容赦なくふたりを包み込んだ。

 

 

 

街のメインストリートは、武具屋から響く鍛冶の槌音、怪しげな薬を売り込むダフ屋の怒号、そして日中から客を引く娼婦たちの嬌声が入り乱れ、暴力的なまでの活気に満ちている。

 

 

 

石畳の道を、ルートはミナモの歩幅に合わせて慎重に進む。太陽の光を浴びているというのに、腕に伝わってくるミナモの体温は氷のように冷たく、その足取りは頼りない。

 

 

 

「ごめんね、ルート……」

 

 

 

不意に、ミナモが風に消え入りそうな細い声で呟いた。

 

 

 

「私が、こんな身体じゃなかったら……ルート…、こんな恐ろしい大会に出ずに済んだのに……。私のお薬のために、ルートが傷つくなんて……」

 

 

 

うつむく彼女の小さな肩が、長旅の疲れと病魔のせいか、かすかに震えている。自分が足手まといになっているという自責の念が、ただでさえ弱っている彼女の心をさらに削り取っていた。

 

 

 

ルートは足を止め、人波を避けるように路地裏の入り口へとミナモを導くと、彼女の目線に合わせるように屈み込んだ。

 

 

 

「謝るな、ミナモ」

 

 

 

両手でミナモの細い肩を包み込み、まっすぐにその瞳を覗き込む。

 

 

 

「俺が望んでここにいるんだ。ミナモの病気を治すためなら、俺はどんな泥だって啜る。予選でも本選でも、勝ち抜いて大金をふんだくってやるさ」

 

 

 

「ルート……でも……」

 

 

 

「お前は俺のパートナーだ。闘神大会じゃ、パートナーがいないとリングにすら上がれない…。俺の背中は、ミナモがいるから頑張れるんだ。だから……絶対に、生きることを諦めないで」

 

 

 

ごつごつとしたルートの手のひらから伝わる不器用な熱に触れ、ミナモは青白かった頬に少しだけ朱を差した。彼の強すぎるほどの決意を前に、これ以上弱音を吐くことは許されないと悟ったように、小さく、しかし力強く首を縦に振る。

 

 

 

「……うん! 私はルートのパートナーだもんね。どれだけ辛くても、ルートの隣にいるよ。だから……絶対に無事でいてね?」

 

 

 

「ああ、約束する。俺の頑丈さだけは折り紙付きだからな」

 

 

 

ルートがわざとおどけてみせると、ミナモは小さく吹き出した。

 

 

 

ふたりは互いの絆を確かめ合うように頷き合い、再び歩みを進めた。喧騒のメインストリートを抜け、薄暗く入り組んだ路地裏へと入っていく。

 

 

 

やがて、目的の安宿――古びた木看板に『月光亭』と刻まれた建物の前に辿り着いた。

 

 

 

木製の扉を押し開けると、カウベルがからりと乾いた音を鳴らす。

 

 

 

埃っぽいスパイスの匂いと、煮込み料理の温かい香りが鼻をくすぐった。

 

 

 

 

「いらっしゃーい! 宿泊? それともご飯……って、うわっ! ちょっとお兄さん、その子大丈夫なの!?」

 

 

 

カウンターの奥からドタバタと足音を立てて飛び出してきたのは、身の丈に合わない大きなエプロンをつけ、頭に派手なリボンを結んだ少女――この宿の看板娘、チエリだった。

 

 

 

 

彼女は小柄な体にそぐわない大きな目をこれでもかと見開き、ルートの腕の中でぐったりとしているミナモの青白い顔を注視した。

 

 

 

 

「ああ、体調が悪いんだ。とにかく休ませたい。一番静かな部屋を貸してくれ」

 

 

 

 

「静かな部屋ね、はいはい! 2階の奥が空いてるからそこ使って! ちょっと待って、今すぐ鍵持ってくるから!」

 

 

 

 

チエリはパタパタと慌ただしく奥へ走り、戻ってくるなり真鍮の鍵をルートの手へ強引に押し付けた。そして、改めてルートの擦り切れた安物の服と、背負っている刃こぼれだらけの鉄剣、そしてミナモの細すぎる手首を交互にジッと見つめる。

 

 

 

 

「ねえ……お兄さんたち、まさか闘神大会に出る気?」

 

 

 

「そうだ。さっき受付を済ませてきた」

 

 

 

 

ルートが短く答えると、チエリは頭を抱えて大げさなため息を吐いた。

 

 

 

 

「やっぱり……。はぁーっ、また命知らずが来たよ! あんたね、そんな今にも倒れそうな病気の子を連れて大会に出るなんて、正気じゃないんじゃないの!?」

 

 

 

 

チエリは腰に手を当て、幼い顔をキュッとすぼめて呆れ顔を作った。言葉遣いこそキツいが、その瞳にはあからさまな心配の色が浮かんでいるのが丸わかりだ。

 

 

 

 

「あんたみたいな無茶するタイプ、この街じゃ山ほど見てきたんだからね! 金目当てで無茶して、二人揃ってボロボロになって迷宮から帰ってくるか、最悪……そのまま戻ってこないか……っ」

 

 

 

「俺は死なない」

 

 

 

チエリの言葉を遮るように、ルートは静かに、だが一切の揺らぎがない声で言い切った。

 

 

 

 

「ミナモの病気を治す金を稼ぐまでは、絶対に負けない。どれだけ切り刻まれようが、這いつくばってでも生きて帰ってくる」

 

 

 

 

その眼光のあまりの鋭さと、狂気じみた執念に当てられ、チエリは一瞬毒気を抜かれたようにぽかんと口を開けた。

 

 

 

 

「……ふんっだ! 威勢だけは一人前ね、バカお兄さん!」

 

 

 

チエリは照れ隠しのようにぷいっと横を向くと、バンッと音を立ててカウンターを叩いた。

 

 

 

 

「宿泊代は本来なら前払いだけど……まあ、あんたたちのその悲惨な顔に免じて、今日は特別にツケにしてあげるわよ! 賞金稼いだら、きっちり利子つけてふんだくってやるからね!」

 

 

 

 

さらに、チエリはエプロンのポケットから小さな薬草の包みを取り出すと、ルートの手に力任せに押し付けた。

 

 

 

 

「な、なんだこれ?」

 

 

 

 

「あたしが薬草を煮詰めて作った、チエリ特製の気休めシロップ! ほんっとーに気休め程度だけど、熱さましにはなるからミナモちゃんに飲ませてあげてよね! ……か、勘違いしないでよ? うちの部屋で倒れられたりしたら、縁起が悪くて商売あがったりなんだからねっ!」

 

 

 

 

顔を真っ赤にして早口でまくしたてるチエリの不器用な優しさに、ルートは少しだけ目元を緩めた。

 

 

 

「……ありがとう、助かるよ。チエリ」

 

 

 

「名前で呼ぶな馴れ馴れしい! ほら、ミナモちゃん辛そうじゃない! 早く部屋に行ってあげなさいよバカ!」

 

 

 

 

チエリに背中をポカポカと叩かれながら、ルートはミナモを抱き抱えるようにして2階へと続く古びた階段を上り始めた。

 

 

 

 

「……バカお兄さん」

 

 

 

 

ふたりの姿が階段の踊り場に消えるのを見届けた後、チエリは誰にも聞こえないほどの小さな声でぽつりとつぶやく。

 

 

 

「……絶対、ミナモちゃんを死なせたりしたら、許さないんだからね……」

 

 

 

 

木造の軋む音だけが響く静かな宿屋に、闘神都市には似つかわしくない、ささやかな祈りが溶けていった。

 

 

 

 

 

 

【宿、部屋の中】

 

 

チエリから受け取った真鍮の鍵を鍵穴に差し込み、回す。かちゃり、と寂しい金属音が響き、ルートは2階の一番奥にある部屋の扉を静かに押し開けた。

 

 

 

 

立ち込めていた埃っぽい空気が流れる。部屋の中央に置かれた古びた木製ベッドは、長年の使用で少し傾いていた。ルートは抱え込んでいたミナモの体を壊れ物を扱うようにゆっくりと降ろし、ギシギシと軋むシーツの上にそっと横たえた。

 

 

 

 

「ふう……ありがと、ルート。ベッド、すごく……柔らかくて、気持ちいい……」

 

 

 

 

それまで張っていた緊張の糸が切れたのだろう、ミナモは小さく息を吐き出し、力なくベッドへ沈み込んだ。

 

 

 

 

「無理に喋るな。まずは身体を休めろ」

 

 

 

 

ルートはチエリから渡された気休めのシロップの小包を開け、部屋の木机にあった水差しからコップへ水を注ぎ、そこに数滴垂らした。ほんのりと甘い薬草の香りが立ち上る。

 

 

 

 

「飲めるか?」

 

 

 

「うん……」

 

 

 

 

コップを口元へ運んでやると、ミナモは小さく喉を鳴らしてゆっくりと飲み干した。呼吸がわずかに落ち着き、青白かった唇に僅かな生気が戻る。ミナモは少しだけ息を整えると、視線を壁の小さな小窓へと向けた。

 

 

 

 

夕闇が迫りつつある薄暗い室内にも、窓の隙間から街の狂乱がかすかに飛び込んでくる。遠くで聞こえる剣と鉄の打擲音、酒に酔った男たちの怒号、そして街全体を包み込む、どろりとした不気味な熱気。

 

 

 

 

 

「……すごい街だね、闘神都市って。外を歩いている人たち、みんなギラギラした目をしてて……なんだか、胸がキュッて痛くなっちゃった」

 

 

 

「ここは勝ち残った奴だけが全てを奪い取る街だから。命の値段が一番安い場所だ。集まる奴らも、まともな命の使い方ができない連中ばかりだよ」

 

 

 

 

ルートはパイプ椅子を引き寄せ、ギシと音を立ててベッドの脇に腰を下ろした。

 

 

 

 

手元にあるのは、さきほどシュリから手渡された『エントリーナンバー77』と記された受付票だ。インクの匂いが残るその紙片を、ルートはじっと見つめた。

 

 

 

「……本当に、エントリーしちゃったんだね」

 

 

 

ミナモが伏し目がちに、感情を滲ませて呟いた。

 

 

 

この過酷な大会において、パートナーとは勝利した男に与えられる『戦利品』であり『景品』と同義だ。試合や過酷な迷宮探索に直接同行するわけではなく、ただ試合に無事に勝って戻ってくるのを控え室で祈り待つ存在。

 

 

 

「形式上のことだよ。…ミナモは心配しないで、普段はここで体を休めててな」

 

 

「うん……。でも、一緒に行けない分、ルートが迷宮でどれだけ痛い思いをするのかって考えると……すごく、すごく怖いの」

 

 

 

 

ミナモの瞳に、自分自身の不甲斐なさと、ルートへの押し潰されそうな心配が溢れ出す。本来ならベッドで静養しているべき自分の病のせいで、ルートは明日から死と隣り合わせの地獄へと単身で挑むのだ。

 

 

 

「心配すんなって」

 

 

 

ルートはミナモの細い手を包み込むように、ギュッと力強く握りしめた。

 

 

 

指先はまだ氷のように冷たく、病魔の影がその身体を蝕み続けていることを痛烈に思い出させる。

 

 

 

「忘れたのか? 俺の取り柄は、死なないことだけだ。どれだけ切られようが、骨が折れようが、勝手に治る。……痛いのはちょっとアレだけど」

 

 

 

「ルート……っ」

 

 

 

「勝って、賞金をふんだくる。ミナモの病気を完全に治す本物の医者も、最高の維持薬も、全部その手で引きずり寄せてやる。だから明日からの予選、サクッと突破してみせるさ」

 

 

 

ルートがわざと不敵な笑みを浮かべてみせると、ミナモの目から一粒の涙が零れ落ち、握られた手の上に落ちた。彼女は嬉しそうに、けれど切なさでいっぱいに微笑んだ。

 

 

 

「……うん。信じてる。私、ルートのこと、ここでずっと信じて待ってるからね……私の、世界で一番強い剣士様」

 

 

 

「ああ、任せとけ」

 

 

 

疲労とシロップの効き目からか、ミナモの瞼が次第に重く閉じられていく。握り返してくる小さな手の力が、少しずつ、穏やかに弱まっていくのを感じながら、ルートは静かに立ち上がり、毛布を彼女の肩までそっと掛け直した。

 

 

 

安らかな寝息を立て始めたミナモの顔を静かに見つめた後、ルートは窓辺へと歩み寄った。

 

 

 

窓の隙間から見下ろす闘神都市の街並みは、すっかり暗闇に呑まれながらも、灯される松明の火と不気味な熱気を激しく放ち続けている。これから始まるのは、迷宮探索と命をかける闘神大会だ。

 

 

 

ルートは背中に背負った愛剣の柄にそっと手を置き、固く握りしめた。濡れたような静かな怒りと、泥臭い闘志が、彼の胸の奥底でフツフツと熱く燃え上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

【宿、1階】

 

 

ミナモの規則正しい寝息を確認してから、ルートはそっと部屋の扉を閉めた。

 

 

 

 

軋む階段を降りて1階へ向かうと、そこは先ほどまでの静寂が嘘のように、熱気と安酒、そして焦げた肉の匂いが充満する荒くれ者たちの酒場と化していた。カウンターの奥では、看板娘のチエリが「ちょっと、そこ! 酒こぼさないでよ!」と甲高い声を上げながら忙しなくジョッキを運んでいる。

 

 

 

ルートが自分の腹を満たすための安い食事を頼もうと空席を探していると、ふいに隅のテーブルから声がかかった。

 

 

 

「おい、そこの新顔。病気の姉ちゃん連れてるやつだろ。こっち座れよ」

 

 

 

 

声の主は、無精髭を生やし、昼間からすっかり酒の匂いを染み込ませた男だった。どんよりと濁った瞳をしているが、テーブルに投げ出されたその腕の筋肉や骨格は、彼がかつて相当な修羅場を潜り抜けた凄腕の戦士であることを物語っている。

 

 

 

「……?」

 

 

 

「俺はガルドだ。ただの飲んだくれさ。ほら、突っ立ってないで座れ。チエリちゃん! こいつにあのクソ硬い肉の煮込みと、パンを適当に見繕ってやってくれ。俺のツケでな!」

 

 

 

 

「ちょっとガルド! あんた自分のツケがどれくらい溜まってると思って……あーもう、わかったわよ!」

 

 

 

 

チエリの呆れ声をBGMに、ルートは警戒しつつも勧められるまま向かいの席に腰を下ろした。ほどなくして運ばれてきた湯気を立てる肉と豆の煮込みに、ルートの腹が正直に小さく鳴る。

 

 

 

 

「食え食え。明日から予選迷宮に行くんだろ? 腹が減ってちゃ生き残れねえぞ」

 

 

「……何故、俺に奢る?」

 

 

 

木のスプーンを手に取りながらルートが訝しげに尋ねると、ガルドは手元の汚れたグラスで安酒を煽り、自嘲気味に笑った。

 

 

 

 

「さあな。昔の自分を見てるみたいで、酒が不味くなりそうだったからさ。……お前、あの娘の薬代を稼ぐために来たんだろ?」

 

 

 

 

「…絶対に優勝して、賞金を手に入れる」

 

 

 

 

迷いのないルートの瞳を見て、ガルドはフッと息を吐いた。

 

 

 

「威勢がいいな。だが、気をつけろ。明日からの予選迷宮は、ただ魔物と戦うだけじゃない。周りにいる焦った連中の『裏切り』にこそ気を張れ。……それと、迷宮の管理をしてるゲスリって小悪党には要注意だ。あいつは参加者が苦しむ姿を見るためだけに、くだらねえ陰湿な罠を仕掛けてきやがる」

 

 

 

 

ガルドの口から語られる情報は、初めて闘神都市を訪れたルートにとってどれも貴重なものばかりだった。ただの酔っ払いではない。この男は、闘神大会の裏も表も知り尽くしている。

 

 

 

 

「…ただの飲んだくれじゃないな。なぜそこまで詳しい?」

 

 

 

ルートの問いに、ガルドはグラスの底に残った酒をじっと見つめた。その目から一瞬だけ、かつての鋭い闘志の残滓が覗く。

 

 

 

 

「……俺も昔、決勝戦まで行ったことがあるんだよ。あの狂った歓声の中で、全てを手に入れられると信じて剣を振るってた馬鹿な男さ」

 

 

 

 

「決勝まで……。なら、どうして今はこんなところで飲んだくれてるんだ」

 

 

 

 

ガルドはグラスをテーブルにコトリと置き、ルートの目を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、深く重い暗い影が落ちていた。

 

 

 

「いいか、若いの。お前があの娘を救いたいなら、何が何でも勝ち上がれ。俺も、お前のその執念には少しだけ期待してる」

 

 

 

 

そこまで言って、ガルドは自嘲するように口角を歪めた。

 

 

 

「そんだけだ……覚えておけ。」

 

 

 

 

不吉な予言のようなその言葉は、酒場の喧騒にかき消されることなく、ルートの耳の奥に冷たくこびりついた。ルートは無言のまま煮込みを口に運びながら、目の前の「敗れたかつての強者」の姿を脳裏に深く焼き付けた。

 

 

 

 

「……忠告、ありがとう」

 

 

 

木製のテーブルに置かれた、ソースの跡だけが残る皿。ルートはそれを軽く指先で押しやると、軋む丸椅子から静かに立ち上がった。

 

 

 

向かいの席に座る隻眼の男——ガルドは、グラスの縁を指でなぞりながら、視線を上げることもなくふっと鼻を鳴らした。

 

 

 

「あいよ」

 

 

 

 

ガルドはそこで言葉を切ると、残っていた琥珀色の液体を喉の奥へ流し込んだ。氷がカランと乾いた音を立てる。

 

 

 

「死ぬなよ、若いの。この街は、希望を抱いてやってきた奴から順に喰らっていくからな」

 

 

 

背後から投げかけられた、強い安酒の匂いと地を這うような低い声。ルートは振り返らずに短く頷き、喧騒に包まれた安宿の酒場を後にした。

 

 

 

夜の闘神都市は、昼間の華やかな熱狂とは裏腹に、どす黒く怪しい熱気に満ちていた。

 

 

 

冷たい石畳の上を歩くルートの耳に、街灯の光さえ届かない路地の奥から、泥酔した男たちの下劣な怒号や、女たちの妖しく甲高い笑い声が絡みつくように届いてくる。血と酒、そして欲望の匂いが入り混じったこの街の空気は、肺に吸い込むだけで気分が滅入りそうだった。

 

 

 

 

(明日からの予選迷宮……何が起きるか、誰が敵に回るか分からない)

 

 

 

 

歩きながら、ルートの脳裏には宿の粗末なベッドで浅い眠りについているミナモの青白い顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

自分が迷宮に潜っている間、彼女はどうなる? 万が一、容体が急変したら?

 

 

 

 

ギリッと奥歯を噛み締め、不安を振り払うかのように歩調を速める。

 

 

 

 

向かう先は、街のメインストリートを抜けた先にある石造りの巨大な建物——中央病院だ。闘神都市において唯一とも言える、まともな医療設備が整っているとされる場所。いざという時にミナモを託せる場所があるのか、事前に自分の目で確かめておかなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

【中央病院】

 

 

 

重厚なオーク材の扉を押し開けると、外の喧騒が嘘のように断ち切られた。

 

 

 

そこは、強烈な消毒用アルコールの匂いと、耳鳴りがしそうなほどの静寂が支配する、無機質な白い空間だった。

 

 

 

 

「んん? なんだね、君は。こんな時間に急患かね?」

 

 

 

ひたひたと床を鳴らして奥の診察室から現れたのは、ひどくサイズの合っていないダボダボの白衣を羽織った人物だった。丸い瓶底眼鏡の奥の瞳はギラギラと胡散臭い光を放ち、男とも女ともつかない中性的な声が、静かなロビーに異様に響く。

 

 

 

 

この街の医療のトップに立つという、Dr.マゼランだ。

 

 

 

「……いや、急患じゃない。明日から大会に出る闘士だ」

 

 

 

 

ルートは警戒心を解かぬまま、用件を切り出した。

 

 

 

 

「もし俺が迷宮に潜っている間、同行者の具合が悪くなった場合、ここで診てもらえるのか確かめに来た」

 

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間、マゼランは露骨に眉をひそめ、薄っぺらい手をシッシッと払うように振った。

 

 

 

 

「なんだ、見学か。あるいは事前予約のつもりかね? 冷やかしならとっとと帰ってくれたまえ。言っておくがね、我が中央病院はこの大陸でも最高峰の医療施設だ。その門をくぐり、私の高貴な診察を受けるだけでも、目の飛び出るような初診料がかかるんだよ。君のような、いつ死ぬかも分からない一文無しの闘士をタダで診てやるようなボランティア施設じゃないんだ」

 

 

 

 

あからさまに足元を見るような冷笑的な態度。ルートは腰に下げた剣の柄に手が伸びそうになるのを必死に堪え、拳を強く握りしめた。

 

 

 

 

「……金なら、払う」

 

 

 

 

絞り出すような声だった。

 

 

 

 

「大会で勝ち上がって、必ず賞金を用意する。だから……どんな病気でも、アンタなら治せるのか?」

 

 

 

 

ミナモの命を蝕む、原因不明の病。日を追うごとに彼女の体力を奪い、その命の灯火を衰弱させていく恐ろしい症状。それを治せるという確約さえあれば、悪魔に魂を売ってでも金を工面する覚悟があった。

 

 

 

しかし、マゼランは鼻でせせら笑うと、眼鏡の奥の目を三日月のように細めた。

 

 

 

 

「どんな病気でも? ハッ、甘い! 甘すぎるねえ、若いの! 現代医学をまるで魔法か何かのように過信してもらっては困るな」

 

 

 

マゼランは芝居がかった手つきで両手を広げた。

 

 

 

 

「いいかね? この血生臭い街で流行る奇病の類にはね、薬や手術でどうにかなる『病気』と、そうじゃない『呪い』があるんだよ。我が完璧な現代医学をもってしても限界はある! 『あー、これは病気じゃなくて呪いですねえ、残念!』ってな感じでね!」

 

 

 

 

ケラケラと笑うマゼランの姿は、医者というよりは狂人のようだった。

 

 

 

「まあ、どうしてもと言うなら、気休めの高級ビタミン剤くらいならいくらでも処方してあげるがねえ? もちろん、金貨と引き換えに、だが」

 

 

 

誇らしげに言い放つマゼランの甲高い笑い声を聞きながら、ルートの心は急速に冷め切っていった。

 

 

 

(ダメだ……ここは、頼りにならない)

 

 

 

高額な治療費を要求するくせに、命を救う覚悟も、未知の病に立ち向かう矜持もない。ただの金亡者のやぶ医者だ。こんな奴の気まぐれに、ミナモのたった一つの命を預けるわけにはいかない。

 

 

 

「……もういい。よく分かった」

 

 

 

ルートは氷のように冷ややかな一言を投げつけると、きびすを返した。

 

 

 

「おいおい、待ちたまえ! ビタミン剤の予約はいらないのかね!?」

 

 

 

背後で喚くマゼランの声を完全に無視し、ルートは中央病院の重い扉を乱暴に開け放った。

 

 

 

外に出ると、冷たい夜風が火照った頬を強く叩いた。

 

 

 

見上げれば、漆黒の夜空を切り裂くように、巨大な闘技場とそれに連なるダンジョンの影がそびえ立っている。

 

 

 

ルートは背中の愛剣の柄を、手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめた。

 

 

 

(やっぱり……人は誰もあてにならない。自分でどうにかするしかないんだ。…ミナモ。)

 

 

 

とにかく、明日からの予選を勝ち進む。賞金を手に入れ、必要ならばどんな手段を使ってでも、ミナモを治す方法を自分で見つけ出す。

 

 

 

頼れるものは己の剣の腕と、ミナモを絶対に救い出すというどす黒いほどの執念だけ。

 

 

 

ルートは決意を新たに、再び喧騒と欲望の渦巻く暗い路地へと足を踏み入れた。ただ一人、彼女の待つ宿屋を目指して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【宿、部屋】

 

 

重い病院のオーク材の扉を静かに閉め、冷たい夜風に吹かれながら幾筋もの暗い路地を辿り、ルートは宿の部屋へと戻った。

 

 

 

鍵穴に鍵を差し込み、カチャリと静かに回して扉を開ける。室内を照らすランプのほの暗い光の中、ベッドの上で体を起こしていたミナモが、パッと表情を明るく咲かせた。

 

 

 

「あ、ルート……おかえりなさい。遅かったから、ちょっと心配しちゃった」

 

 

 

「少し街の様子を見て回っていたんだ。……体調は? 」

 

 

 

ルートはパイプ椅子を引き寄せてベッドの脇に腰を下ろすと、ミナモの額にそっと大きめの手を当てた。チエリがくれた気休めのシロップが効いたのか、氷のように冷たかった肌にわずかな温もりが戻り、熱も幾分下がっているようだ。

 

 

 

「うん、チエリちゃんのお薬のおかげかな。すごく楽になったよ。……ねえ、ルート。街はどうだった? 何かあったの?」

 

 

 

心配そうに覗き込んでくる透明感のある瞳に、ルートは固くなっていた表情を少しだけ緩め、今日一日の出来事を順を追って話し始めた。

 

 

 

 

「1階の酒場で、ガルドという男に会ったんだ。元は決勝戦まで行った凄腕の闘士らしいよ。明日から始まる予選迷宮について、色々と教えてもらったんだ。予選は勝ち負けの勝負じゃなくて、ただ予選迷宮に入れるだけで危険がいっぱいあること……それに陰湿な罠を仕掛ける仕掛け人や、周りの参加者の裏切りに気をつけろってね」

 

 

 

「決勝戦まで行った人……すごいんだね。でも、裏切りだなんて……やっぱり予選から厳しい世界なんだね」

 

 

 

ミナモは少し身を縮こまらせて呟いた。不安を覆い隠そうとする彼女の小さな姿に、ルートは手を取り、その細く華奢な手を優しく包み込みながら握り直す。

 

 

 

「それから……念のために中央病院へ行って、医者に会ってきたんだ」

 

 

 

「病院に? 私のために……?」

 

 

 

「うん。でも……あの医者はダメだな。高額な金を要求するわりに、気休めの薬しか出せないような奴だった。あんな奴に任せるわけにはいかないよ」

 

 

 

「ふふ、ルートったら……」

 

 

 

ルートが苦々しい顔で吐き捨てると、ミナモはくすりと小さく花が綻ぶように笑った。その柔らかく可憐な微笑みに、ルートは拍子抜けして首を傾げる。

 

 

 

「何かおかしい?」

 

 

 

「ううん。ルートが私のために、一生懸命走って探してくれたのが嬉しくて。……ありがとう、ルート。でも、無理はしないでね? 私はルートが側にいてくれるだけで、すごく安心できるんだから」

 

 

 

「ミナモ……」

 

 

 

「明日はいよいよ予選迷宮に入れる初日だね。私はここで待つことしかできないけど……ずっと、ルートが無事に帰ってくるのを祈ってるから」

 

 

 

ミナモは握られたルートの大きな手に、ぎゅっと自分の両手を重ね合わせた。その体温は決して強くはないけれど、ルートの胸の奥底にある凍りついた焦燥を、確かに優しく溶かしていく。

 

 

 

「ああ。絶対に無事で、すぐにミナモの元へ戻ってくるよ。だからミナモは、ここでしっかり身体を休めていてね」

 

 

 

「うん、約束ね」

 

 

 

かたく約束を交わすと、ミナモの瞼がふたたび重そうに落ちてきた。一日中の移動と緊張、そして体力の消耗が限界を迎えたのだろう。

 

 

 

ルートはミナモを優しくベッドに横たえ、薄い毛布を胸元までそっと引き上げた。やがて部屋の中に、安らかな規則正しい寝息が聞こえ始める。それを見届けてから、ルートは静かに立ち上がり、部屋のランプの火を小さく落とした。

 

 

 

暗がりの中、ルートは壁に立てかけた愛剣の柄を固く握りしめた。冷たい鉄の感触が、手のひらを通じて静かな闘志を呼び覚ます。

 

 

 

 

窓の外では、夜の闇に呑まれた闘神都市の不気味な熱気が、絶え間なくうごめき続けている。明日から始まる予選迷宮――ミナモの未来と笑顔を取り戻すための最初の地獄へ向け、ルートは静かに目を閉じ、覚悟を深めていった。

 

 

 

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