※この作品はR-18です。

闘神都市Ⅳ   作:勇者パンスト

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予選1日目

 

 

【朝】

 

 

窓から差し込む薄っすらとした朝光が、部屋の静寂を静かに溶かしていく。

 

 

 

ルートはゆっくりと目を覚ますと、真っ先に隣のベッドへ視線を向けた。ミナモはまだ浅い眠りの中にいたが、ルートが身を起こした気配を感じ取ったのか、ゆっくりと長いまつ毛を揺らした。

 

 

 

「……ん……ルート? おはよう……」

 

 

 

「おはよう、ミナモ。体調はどう? ちゃんと眠れた?」

 

 

 

ルートは優しく声をかけながらベッドの脇へ歩み寄り、ミナモの額にそっと手をかざした。昨夜より熱は下がっており、荒かった息も幾分落ち着いている。

 

 

 

「うん、すごくよく眠れたよ。……いよいよ今日から、予選迷宮に行くんだよね?」

 

 

 

「うん。今日は予選迷宮の初日だ。しっかり準備して、迷宮がどんな場所か確かめてくるよ」

 

 

 

ルートは愛剣を確かめ、皮の胸当てのベルトをきゅっと締め直した。その手元を、ミナモは少し不安そうな、けれどまっすぐな瞳で見つめている。

 

 

 

「……気をつけてね、ルート。無理だけは絶対にしちゃダメだよ? 私はここで、ずっと祈ってるから」

 

 

 

「ありがとう、ミナモ。ミナモは何も心配しないで、休んでてね」

 

 

 

ルートはミナモの頭を優しく撫でると、ドアノブに手をかけた。振り返り、柔らかく微笑む。

 

 

 

「じゃあ……行ってくる」

 

 

「うん! いってらっしゃい、ルート!」

 

 

 

ミナモの温かい声に見送られ、ルートは静かに部屋の扉を閉めた。

 

 

 

扉が一枚隔てられた瞬間、ルートの表情から柔らかさが消え、一人の剣士としての鋭い目つきへと変わる。長くて暗い廊下を歩き、1階へと続く木造の階段を一段ずつゆっくりと降りていった。

 

 

 

 

 

【宿1F】

 

 

階段を降り切ると、朝の光が差し込む1階の酒場は昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。椅子が上げられたテーブルの間で、大きなエプロンをつけた看板娘のチエリがパタパタと素早く雑巾がけをしている。

 

 

 

ルートの足音に気づくと、チエリは雑巾をバケツに放り込み、腰に手を当てて仁王立ちになった。

 

 

 

「あ、起きてきたわねバカお兄さん! ……って、なにその格好。その格好で予選迷宮に行く気なの!?」

 

 

 

「うん。行ってくるよ」

 

 

 

「ちょっと待ちなさいよ!」

 

 

 

チエリはぷんぷんと怒りながら駆け寄ってくると、ルートの手に紙包みを押し付けた。まだほの温かいパンと、干し肉の匂いがする。

 

 

 

「これ、朝ご飯! 迷宮でお腹空いて倒れられたら、ミナモちゃんが悲しむんだからね! ちゃんと食べなさいよ!」

 

 

「……ありがとう、チエリ。助かるよ」

 

 

 

「か、感謝なんていらないわよ! 宿泊代のツケに上乗せしとくだけだから! とにかくだよ、ボロボロになって帰ってきたら承知しないんだからね!」

 

 

 

ツンと横を向くチエリの頬が少し赤い。ルートが小さく苦笑していると、カウンターの隅で朝から薄い酒をあおっていたガルドが、低く笑い声を漏らした。

 

 

 

「ハッ、相変わらず愛想のねえ見送りだな、チエリちゃん」

 

 

 

ガルドは重い腰を上げると、どんよりとした目をルートに向けた。

 

 

 

「おい、若いの。予選迷宮の初日は目立つなよ。周りの奴らも興奮して殺気立ってる。まずは生き残って雰囲気を掴むことだ」

 

 

 

「……わかってる。アドバイス、感謝するよ」

 

 

 

「ふん……まあ、死にたくなきゃ、その腰の剣を飾りにしないことだな」

 

 

 

ガルドはヒラヒラと手だけを振ると、再び酒杯に視線を落とした。

 

 

 

「よし……行ってくる」

 

 

 

チエリとガルドの視線を背中に受けながら、ルートは宿『月光亭』の重い扉を押し開けた。朝の冷たい空気が頬を叩き、その向こうに不気味に佇む予選迷宮の影が、ルートの視界に大きく広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

【予選迷宮】

 

 

 

朝の冷涼な空気が残る闘神都市の北区画。そこに異様な威容を誇って聳え立っていたのは、まるで巨人の街への侵入を拒むかのような巨大な城門——「予選迷宮入口」だった。

 

 

 

門の周囲には、一獲千金や命の代償を求めて集まった無数の挑戦者たちが蠢いている。

 

擦り切れた革鎧を着た傷だらけの剣士、怪しげな杖を握りしめる術士、そして目つきのギラついた見るからに凶悪な荒くれ者たち。

 

周囲には血と鉄、そして極度の緊張から来る粘りつくような汗の匂いが充満していた。

 

 

誰もが隣に立つ者を潜伏する敵のように牽制し合い、空気を切るような殺気が渦巻いている。

 

 

 

 

 

その重厚な鉄門の真ん前に、隙のない重厚な鉄甲冑に身を包んだ一人の男が仁王立ちしていた。

 

 

警備隊長シュマイゼンだ。

 

 

彼は背筋を一切曲げず、鋼の意志を体現したかのような厳格な眼差しで、群がる挑戦者たちを一瞥する。

 

 

 

「これより予選迷宮の開放を行う! 挑戦者諸君、重ねて警告する!」

 

 

 

シュマイゼンの腹の底から響くような重厚な声が、殺気立つ広場の喧騒を一瞬で押し潰した。

 

 

 

「1にルール! 2にルール! 3、4とルールで、5にルール! 闘神都市の定めた規定に違反した者は、即刻脱落とする! また、今回の予選迷宮は異常な環境変化により凶暴化した魔物が蠢いている! 予選だからと高を括るな! 己の命を守るのもまた、全てのルールの基礎と知れ!」

 

 

 

「ケッ、生真面目な堅物がよ……」

 

 

 

「ルール、ルールってうるせえんだよ。迷宮に入っちまえばこっちのモンだ」

 

 

 

周囲の荒くれ者たちが不満げに舌打ちし、嘲笑混じりに毒づく声が聞こえてくる。だが、ルートはその会話に一切耳を貸さず、無言のまま黒ずんだ巨大な入口を見つめていた。

 

 

 

 

(ルールなどどうでもいい。俺がやるべきことはただ一つ……)

 

 

 

手元で愛剣の柄を強く握りしめる。脳裏に浮かぶのは、宿のベッドで静かに自分を待っているミナモの儚げな笑顔だ。どんな危険が潜んでいようと、どんな罠が待ち受けていようと、ミナモの薬代を稼ぎ、闘神大会に優勝することだけが己の全てだった。

 

 

 

 

「——開門っ!」

 

 

 

シュマイゼンの鋭い号令とともに、ギギギ……と耳障りな金属音を立てて重々しい鉄門が開いていく。その隙間から溢れ出てきたのは、光の届かない迷宮内部の冷たい湿気と、獣の臭いだった。

 

 

 

「野郎ども、遅れるなーっ!」

 

 

 

「一番乗りは俺だぁっ!」

 

 

 

門が完全に開くやいなや、溢れんばかりの猛者たちが咆哮を上げながら、暗がりの中へと一斉に雪崩れ込んでいく。怒号と足音が地響きとなって押し寄せる中、ルートもまた意を決し、その欲望と狂気が渦巻く闇の中へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

【予選迷宮内部1F】

 

 

門を抜けた瞬間、肌を刺すような冷気と湿った土の匂いがルートを包み込んだ。

 

 

 

光の届かない予選迷宮の内部は、壁面に埋め込まれた青白い発光石が足元を照らす不気味な空間だった。つい先ほどまで周囲にいた猛者たちの怒号は複雑な構造の奥へと消えていき、残されたのは自分の静かな足音と、暗闇の奥から響く水音だけ。

 

 

 

「これが……予選迷宮……」

 

 

 

ルートは呼吸を整え、背中の愛剣の柄に手を置いた。

 

本戦で挑むことになる『闘神迷宮』とは違い、ここは闘神都市が大会の試験用に管理している別の迷宮だ。仕掛けられた罠や危険度も調整されており、難易度自体はそこまで高くないはずだった。

 

 

 

だが、どんなに難易度が低かろうと油断は禁物だ。ミナモを宿に一人残している以上、さくっと探索を終わらせて無事に持ち帰れる成果を得なければならない。

 

 

 

冷たい石壁に沿って警戒しながら歩みを進めていると、前方の角からヌチャ……ヌチャ……という湿った異音が聞こえてきた。

 

 

 

ルートは足を止め、滑らかに剣を抜き放って身構える。

 

 

 

発光石の光の中にぬっと姿を現したのは、ぬめりけのある不格好な足を生やした奇妙な水生生物——怪異、イカマンだった。

 

 

 

「ヌチャアァァッ!」

 

 

 

イカマンは目玉をぎょろつかせ、生臭い体液を撒き散らしながら、勢いよくルートに向かって突進してきた。長い触手を鞭のようにしならせ、容赦なく襲いかかってくる。

 

 

 

「……生臭いな」

 

 

 

だが、ルートの瞳は冷静そのものだった。

 

 

 

繰り出された触手の軌道を冷静に見極め、最小限の動きでひらりと身をかわす。空を切った触手が壁にぶつかる音と同時に、ルートは一歩踏み込み、流れるような動作で刃を振り抜いた。

 

 

 

「ハッ!」

 

 

 

ズバッという手応えとともに、イカマンの胴体が一直線に切り裂かれる。甲高い悲鳴を上げる隙すら与えず、ルートは返す刀で鋭い突きを叩き込んだ。

 

 

 

一瞬の沈黙の後、イカマンは力なく崩れ落ち、ヌチャリと音を立てて動かなくなった。

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

 

剣についた青い血をサッと払い、滑らかに鞘へと納める。試験用の迷宮ということもあり、魔物の動きは素直で、手こずるような相手ではなかった。

 

 

 

「よし……この調子で手早く探索を進めよう」

 

 

 

ミナモの待つ宿へ一日でも早く朗報を持ち帰るため、ルートは迷宮の奥へと足早に進んでいった。

 

 

 

【続き】

 

 

 

試験用として管理されているとはいえ、曲がりくねった迷宮の奥へと進むにつれ、通路の空気は少しずつ重みを増していった。

 

 

 

ヌチャ……という湿った音とともに、物陰から再び数体のイカマンが姿を現す。さらにその奥からは、甲殻を鳴らしながらカニのような姿をした魔物がハサミをシャキシャキと威嚇するように打ち鳴らして迫ってきた。

 

 

 

「まとめて来てくれるなら、手間が省ける」

 

 

 

ルートは脚に力を込め、石畳を強く蹴った。

 

 

 

正面から飛びかかってきたイカマンの突進を、身を捻ってかわす。そのまま刃を斜め下から振り上げ、胴体を一刀両断。返す刀で、横から襲いかかってきたカニ型魔物の硬い甲冑の隙間——関節の柔らかい肉目掛けて鋭い突きを叩き込む。

 

 

 

 

ギチッという嫌な感触とともに魔物が崩れ落ちると、残ったイカマンが怯えたように触手を縮めた。ルートはその隙を見逃さず、足元をすくい上げるような鮮やかな横薙ぎで一掃した。

 

 

 

 

パンッ、と乾いた一撃が決まるたび、魔物たちは次々と沈黙していく。

 

 

 

確かに管理された迷宮だけに、襲いかかってくる魔物たちのパターンは単調で、手こずるほどの相手ではない。だが、終わりの見えない一本道を突き進む感覚と、連続する戦闘は確実に体力を削いでいく。

 

 

 

 

(焦るな……一歩ずつだ。)

 

 

 

 

ルートは呼吸を整えながら、倒した魔物が消え去った後に落ちていた小さな魔石や成果物を手際よく拾い上げ、腰のポーチへと放り込んだ。これらも換金すれば、ミナモの滞在費や薬代の足しになるはずだ。

 

 

 

 

ふと剣の柄を握る自分の手元を見つめる。

 

 

 

 

宿のベッドで、静かに自分の帰りを待っているミナモの顔が浮かぶ。

 

 

 

 

「無事で、すぐに帰ってくる」——そう交わした約束が、疲労を覚えかけた身体に再び確かな力を呼び戻してくれた。

 

 

 

 

「よし……もう少し奥まで探索してみよう」

 

 

 

 

ルートは愛剣を握り直し、発光石の青白い光が伸びる迷宮の深部へと、迷いのない足取りで突き進んでいった。

 

 

 

【キャンプまで】

 

 

迷宮の奥へ進むにつれ、青白い発光石の灯りはまばらになり、空気はいっそ不気味なほどに静まり返っていた。

 

 

 

角を曲がったところで、ルートの足がピタリと止まる。通路の床一面に、規則正しく刻まれた細い溝——あからさまなトラップの穴だ。

 

 

 

(ガルドの言っていた『仕掛け』か……)

 

 

 

ルートは慎重に視線を巡らせた。天井には落とし穴の重石らしき影。踏み込めば一発でプレスされる仕組みだ。

 

周囲を観察すると、壁のくぼみに古びたレバーがひっそりと設置されているのが見えた。ルートは拾った石ころを投げつけ、レバーの安全を確認してから素早くそれを引き下げる。ガコン、と重い金属音が響き、床の溝がぴったりと塞がった。

 

 

 

 

 

「よし……突破できたな」

 

 

 

 

胸を撫で下ろした瞬間、天井の暗がりからシャカシャカと嫌な足音が聞こえてきた。

 

 

 

 

現れたのは、試験用迷宮の定番モンスターである大グモだ。人の頭ほどもある巨体と鋭い毒牙を剥き出しにし、粘着質な糸を吐き出しながら落ちてくる。

 

 

 

 

「シィィィッ!」

 

「くっ……!」

 

 

 

 

 

ルートは咄嗟に身を翻し、吐き出された糸を間一髪でかわす。糸が触れた石畳がジワジワと焦げる音がした。

 

 

 

 

間髪入れずに襲いかかってくる大グモに対し、ルートは冷静に間合いを詰める。クモが前足を上げて襲いかかろうとした一瞬の隙——剥き出しになった腹部目掛け、低く滑り込むように剣を突き出した。

 

 

 

ズスッ!

 

「グシャッ……!」

 

 

 

 

確かな手応えとともに愛剣が急貫通する。大グモは短い悲鳴を上げて身悶えし、やがて動きを止めて粒子となって消えていった。

 

 

 

 

連続する戦闘と緊張感に、さすがのルートも額に汗を浮かべた。ふと見渡すと、通路の脇に頑丈な鉄扉で閉ざされた小さな小部屋を見つける。

 

 

中を確認すると魔物の気配はなく、安全な「キャンプスペース」として開放されている場所だった。

 

 

 

 

 

ルートは鉄扉をの内側から頑丈な閂(かんぬき)で施錠し、壁にもたれかかるように腰を下ろした。

 

 

 

「ふぅ……ここで少し休むか」

 

 

 

 

 

革袋の水筒から水を口にし、チエリから持たされた朝食の紙包みを開く。まだほのかに温かいパンを噛み締めると、じんわりと小麦の甘みが広がり、緊張で強ばっていた身体がほぐれていくのが分かった。

 

 

 

 

 

「ミナモ……ちゃんと休めてるかな」

 

 

 

 

静かな小部屋の中で、ルートは愛剣を膝に抱え、静かに息を整えた。宿で帰りを待つミナモの笑顔を思い浮かべながら、午後からのさらなる探索に向けて体力を蓄えていく。

 

 

 

 

パンを食べ終え、息を整えたルートは、腰のポーチから「呼び出しのスクロール」を取り出した。

 

 

 

 

この世界において、冒険者がレベルを上げるには神界の担当者——「レベル神」を召喚し、蓄積された経験値(EXP)を捧げる必要がある。

 

 

 

度重なるイカマンや大グモとの戦闘で、十分な経験値が溜まっているはずだった。

 

 

 

ルートがスクロールの詠唱を呟くと、狭い小部屋に淡い紫色の光が溢れ出した。

 

 

 

光が収まると、そこには空間を歪めて現れた豪華なデスクと、そこに腰掛ける一人の少女の姿があった。

 

 

 

「はぁーい。 レベルアップのお時間よ、冒険者さん!」

 

 

 

現れたのは、淡い紫色の髪をなびかせた可憐な少女——レベル神のカリンだった。

 

 

 

彼女は神官服を着ているが、そのデザインは露骨なほど計算し尽くされている。裾には深々とスリットが入っており、デスクの上で組み替えられたスラリと伸びる生脚が、青白い光の中で眩しく主張していた。

 

 

 

「私はレベル神のカリン! ……ふふ、何よ。私の足、そんなにじろじろ見ちゃって。男の人って本当にわかりやすいんだから」

 

 

 

カリンは自慢の脚線美をアピールするように、わざとらしく足を組み替え、あざとく微笑んで見せる。

 

 

 

 

「ほら、もっとレベル上げたいでしょ? 頑張ってEXPをいっぱい稼いでくれたら、次回はもっと近くで見せてあげちゃうかもね?」

 

 

 

 

語尾にハートマークがつきそうな営業トークを繰り出し、魅惑的な笑顔を向けてくるカリン。しかし、ルートの瞳は至って冷静だった。まったく動じた様子もなく、静かに言葉を返す。

 

 

 

 

「……レベルアップの手続きを頼む。早く、少しでも強くなりたいんだ」

 

 

「えっ……? あ、はい……」

 

 

 

 

男たちが鼻下を伸ばすいつもの反応を期待していたカリンは、ルートのあまりに真面目でドライな返答に、出鼻をくじかれたようにパチクリと目を叩いた。

 

 

 

「こ、コホン! ……まあいいわ! えーっと、ルート様ね。……うん、規定のEXPはバッチリ溜まってるわ。それじゃあ、レベルアップの儀式を行うわね」

 

 

 

 

カリンはデスクから立ち上がると、すっとルートの目の前に進み出た。

 

 

 

 

「じゃあ……その、頭を下げて……身体に触れるからね……」

 

 

 

 

さっきまでの自信満々な営業スマイルはどこへやら、いざ一対一の距離まで近づくと、カリンの足取りはどこかぎこちない。

 

 

 

ルートが言われた通りに姿勢を低くすると、カリンの細く柔らかい手がルートの肩に触れた。

 

 

 

「ん……っ……レベルアップの祝福を……」

 

 

 

 

小さな手から温かな光が溢れ、ルートの身体にじんわりと力が満ちていく。カリンの甘い香りと、薄い布越しに感じる吐息の近さに、ルートの呼吸がわずかに乱れた。

 

 

 

 

すると、カリンの耳たぶが途端に真っ赤に染まる。

 

 

 

 

「っ……! ちょ、ちょっと、変な目で見ないでよね! これはただの業務! 業務の一環なんだからっ!」

 

 

 

 

言葉の上では必死に強がって見せるカリンだったが、露骨に視線を泳がせ、赤くなった顔を誤魔化すように慌ててルートから距離を取った。

 

 

 

 

「ふ、ふん! レベルは無事に1上がったわ! これで満足かしら!?」

 

 

 

胸元に手を当てて息を整えながら、カリンはプイッと横を向く。

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

ルートがまっすぐにお礼を言うと、カリンはチラリとこちらを盗み見つつ、どこか誇らしげに顎を上げた。

 

 

 

 

「べ、別にお礼なんていいわよ。それが私の仕事だし……。とにかく! またEXPが溜まったら呼び出しなさいよね。じゃあねっ!」

 

 

 

 

光の粒子とともに、カリンはデスクごと神界へと送還されていった。

 

 

 

 

一人取り残された小部屋で、ルートは己の手に力を込めた。全身を巡る新たな力——確実に強くなっている手応えがある。

 

 

 

 

「よし……探索を再開しよう」

 

 

 

 

ルートは愛剣を握り直し、ミナモの待つ地上へ一刻も早く朗報を持ち帰るため、再び予選迷宮の奥へと足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

【遭遇】

 

 

 

レベルアップによる確かな力強さを全身に感じながら、ルートはさらに予選迷宮の深部へと足を進めていった。

 

 

 

青白い発光石の光が途切れ、薄暗闇が支配する幅の広い空間に出た時のことだ。静まり返った迷宮の奥から、けたたましい悲鳴と、気味の悪い下品な笑い声が聞こえてきた。

 

 

 

「きゃああああっ!? なにこれ、離してぇぇぇっ!?」

 

「グヘヘヘヘ……! 赤くて丸い俺様の粘着ボディからは逃げられんのだーっ!」

 

 

 

 

ルートが壁の影からそっと様子を窺うと、広場の隅で異様な光景が繰り広げられていた。

 

 

 

そこにいたのは、闘神都市の名物モンスターであり、冒険者たちの間で恐れられている『アカベー』だ。

 

赤くテカテカと光る巨大な球状の粘液ボディを波打たせ、迷宮に迷い込んだと思われる一人の女の子にべっとりとまとわりついている。

 

 

 

 

「嫌ぁっ! 服が……溶けちゃう……っ!」

 

「グヘヘ、無駄無駄! 揉めば揉むほど俺様の粘着力は増すのだーっ!」

 

 

 

アカベーの強酸性の身体は、女の子の衣服をジュワジュワと惨めに溶かしていた。露わになった白い胸元や太ももに粘着質なボディを擦り付け、容赦なく揉みしだいている。

 

 

女の子は涙を浮かべ、必死に抵抗するものの、一度捕まったら逃れられないアカベーの圧倒的な密着力に完全に身動きを封じられていた。

 

 

 

「な、誰か助けてぇぇぇ! お願い、誰でもいいからぁっ!」

 

 

 

 

絶叫する女の子と、さらに嬉々として触手を伸ばすアカベー。

 

 

 

 

ルートはその惨状をチラリと視界に収めると、一切の足踏みをすることなく、静かにその場を横切ろうとした。

 

 

 

(申し訳ないが……助ける余裕はない)

 

 

 

冷酷になろうとしているわけではない。ルートは冷静に己の力と敵の脅威度を推し量っていた。

 

 

アカベーは物理攻撃が極めて通りにくいうえ、一度捕まれば装備はおろか肉体まで溶かされる危険な相手だ。先ほどレベルが1上がったばかりの今の自分では、正面から挑んでも返り討ちに遭う確率が高い。

 

 

 

「あ…………っ!?」

 

 

 

 

すがるような視線を向けてくる女の子と一瞬だけ目が合ったが、ルートは視線を前に戻し、歩調を緩めることなく暗闇の中へと姿を消した。

 

 

 

 

(俺が倒れたら、ミナモはどうなる? 確実に生き残り、勝ち進むことだけを考えろ)

 

 

 

 

背後から響く女の子の叫び声とアカベーの下品な高笑いを背中に受けながら、ルートは愛剣の柄を固く握りしめた。

 

 

ミナモの待つ地上へ無事に帰るため、ルートは一切の情を捨て、迷宮のさらに深い闇へと足を進めていくのだった。

 

 

 

 

 

【B2Fの入口発見】

 

 

冷たい湿気を含んだ風が、不気味な暗闇の奥から微かに吹き抜けてくる。

 

 

 

足元を照らしていた青白い発光石の灯りは、この通路の先でプツリと途絶えていた。行き止まりと思われた暗がりの中に刻まれていたのは、さらに深部へと沈んでいく重々しい石造りの階段——B2Fへと続く降り口だった。

 

 

 

階段の先を覗き込むと、そこには光の届かない漆黒の闇が広がり、深淵が挑戦者を呑み込もうと静かに口を開けて待っているようだった。

 

 

 

 

(この先が、地下2階か……)

 

 

 

ルートは階段の手前で足をとめ、息を殺してじっと闇の奥を見つめた。

 

 

 

先ほどレベルアップを果たしたとはいえ、度重なるモンスターとの戦闘や罠の解除、そして緊張の連続によって、精神も着実に削られている。

 

 

 

 

ここは闘神都市が管理する試験用の予選迷宮であり、本戦の『闘神迷宮』ほど凶悪ではない。

 

 

だが、階層を下るごとに魔物の凶暴性が増し、仕掛けの罠が牙を剥くという原則に変わりはないはずだ。

 

 

精神疲労の蓄積した状態で無謀に下層へと進めば、一瞬の隙が命取りになりかねない。

 

 

 

(今日の探索は、ここまでにしておこう)

 

 

 

 

何かあれば、明日の探索に重大な支障が出る。

 

何より、宿の冷たい部屋で、自分の帰りをただじっと信じて待っているミナモの姿が脳裏をよぎる。これ以上長居をして無用なリスクを冒すわけにはいかない。

 

 

 

 

ルートは深く息を吐き出すと、足元をしっかり踏みしめ、B2Fへ続く暗い階段に静かに背を向けた。

 

 

 

 

腰のポーチに手をやると、今日一日で倒したモンスターから得た魔石や換金用の成果物が、ズシリと心地よい重みを伝えてくる。

 

 

これらを換金すれば、ミナモの当面の薬代や、チエリの所の宿代の足しにはなるはずだ。

 

確かな収穫と、レベルアップによる手応え。初日の予選探索としては、十分すぎる成果と言えた。

 

 

 

 

「……帰るか」

 

 

 

静かに呟いたルートの声は、湿った迷宮の壁に吸い込まれて消えていった。

 

 

 

 

ルートは腰の愛剣の柄を握り直し、警戒を怠ることなく、来た道を慎重に引き返し始めた。

 

 

立ち込める霧のような冷気の中を、地上——そしてミナモの待つ宿『月光亭』を目指し、確かな足取りで迷宮の暗がりを歩み進めていった。

 

 

 

 

 

【街、ダンジョン入口】

 

 

 

 

淀んだ空気と暗闇から抜け出し、予選迷宮の巨大な鉄門を潜り抜けると、夕暮れに差し掛かりつつある闘神都市の生ぬるい風がルートの全身を包み込んだ。

 

 

 

周囲の広場には、同じように迷宮から生還した挑戦者たちの姿があった。だが、朝方の殺気立った威勢の良さはどこへやら、その多くは疲労困憊で地面に座り込んでいたり、魔物から受けた浅からぬ傷を押さえて呻き声を上げていたりする。

 

 

 

 

そんな中、息を乱すこともなく、静かな足取りで広場を後にしようとするルートの姿は、ある一人の男の目に留まった。

 

 

 

 

「おい、そこの新顔。少し待て」

 

 

 

 

低く重厚な声に呼ばれルートが足を止めると、そこには朝方と同じように隙のない鉄甲冑に身を包んだ警備隊長シュマイゼンが立っていた。

 

 

彼の鋭い眼光が、ルートの全身——特に目立った怪我のない身体と、腰に提げた膨らんだポーチを値踏みするように見つめている。

 

 

 

「随分と涼しい顔で戻ってきたな。初日だが、どこまで潜った?」

 

 

 

「B1Fの最深部……B2Fへと続く階段の前までだ。そこで引き返してきた」

 

 

 

ルートが淡々と事実を告げると、シュマイゼンは一瞬だけ目を丸くし、やがて厳格な顔つきを崩してフッと鼻で笑った。

 

 

 

「ほう……B2Fの入り口まで辿り着きながら、欲を出さずに戻ってきたというのか。大した判断力だ」

 

 

 

 

シュマイゼンは腕を組み、周囲でうめく負傷者たちを顎でしゃくってみせた。

 

 

 

 

「ここにいる馬鹿共を見ろ。予選迷宮だと高を括り、自分の実力も見誤って下層へ突撃した挙句、無様に命からがら逃げ帰ってきた連中だ。帰ってこられただけマシだが、中には欲をかいて二度と太陽を拝めなくなった奴らも数え切れん。……己の限界を知り、勇気を持って引き返す。それこそが、この狂った街で生き残るための最大の『ルール』だ。見事な判断だったぞ、挑戦者よ」

 

 

 

 

生真面目な彼なりの、最大限の賛辞だったのだろう。思わぬ称賛にルートが少し驚いていると、シュマイゼンはルートの腰のポーチと、鞘に収まった使い込まれた愛剣を指差した。

 

 

 

 

「そのポーチの膨らみ……素材をそこそこ持ち帰ったようだな。なら、すぐに街の換金所へ行け。そして、その金でまともな武器と防具を新調することだ」

 

 

 

「武器の購入……」

 

 

 

「そうだ。今はまだB1Fだからその使い古された剣でも通用しただろうが、B2F以降は魔物の皮膚も骨も格段に硬くなる。生き残りたいなら、装備への投資を絶対に惜しむな。金は命を繋ぐための防壁だと思え」

 

 

 

シュマイゼンの言葉には、これまで数え切れないほどの挑戦者たちの死を見届けてきた者特有の、重い説得力があった。ルートは腰の愛剣にそっと手を触れ、静かに頷いた。

 

 

 

 

「……忠告、ありがとう」

 

 

 

 

ルートが短く礼を言うと、シュマイゼンは満足げに深く頷き、再び他の挑戦者たちの監視と誘導へと戻っていった。

 

 

 

 

換金所と、新しい武器。腰のポーチの重みを確かめると、それはミナモの命を繋ぐための希望の重さでもあった。

 

 

ルートは夕日に赤く染まり始めた闘神都市の街並みを見据え、宿へ帰る前に素材を金に換えるべく、賑わう商業区画へと力強い足取りで向かっていった。

 

 

 

 

 

【換金所と武器屋】

 

 

シュマイゼンと別れたルートは、言われた通りに闘神都市の商業区画へと足を向けた。

 

 

 

 

夕闇が迫る中、煌々とランプの明かりが灯り始めた換金所は、一日の探索を終えた冒険者たちでごった返していた。

 

 

ルートが列に並び、イカマンやカニ型魔物の甲殻といった素材をカウンターに提出すると、無愛想な係員が手際よく査定し、小さな革袋に硬貨を入れて突き出してきた。

 

 

 

チャリン、と鳴る確かな重み。決して大金とは言えないが、チエリの宿代とミナモへの薬代、そして当面の活動資金には十分な額だ。

 

 

 

 

ルートはその足で、通りからカンカンと鉄を打つリズミカルな音が響く武具店『鋼の拳亭』の前で足を止めた。店の前では、エプロン姿の少女——看板娘のミルキーが、鼻歌交じりに看板の拭き掃除をしているところだった。

 

 

 

 

ルートの足音に気づいたミルキーはパッと明るい笑顔を振りまき、元気よく声を張り上げた。

 

 

 

 

「いらっしゃい! ……って、うわあ、見るからにお金なさそうなクソ貧乏なお客さんだー!」

 

 

 

 

愛くるしい満面の笑みから飛び出したのは、とんでもない暴言だった。

 

 

 

 

あまりのストレートな物言いにルートが目を瞬かせていると、奥の熱気がこもる工房から、腕組みをした髭面の頑固オヤジがぬっと顔を出した。

 

 

 

 

「おいミルキー、客に向かってなんて失礼な口の利き方だ! ……まあ、どう見ても事実だけどな!」

 

 

 

 

「でしょー? お父さん。うちの店、一見さんお断りじゃないけど、お金ない人には冷たいよ?」

 

 

 

 

ダミ声で怒鳴る父親も結局は娘に同調し、親子揃って遠慮というものを知らなかった。

 

 

 

 

だが、ルートはそんな扱いに怒ることもなく、ただ静かに自分の使い込まれた愛剣と、手に入れたばかりのなけなしの資金を天秤にかけた。

 

 

 

 

(シュマイゼンには新しい武器を買えと言われたが……俺の全財産では、B2Fを余裕で抜けるような業物はまだ買えそうにないな。中途半端な安物を買うくらいなら、まずは今の剣の手入れだ)

 

 

 

 

「……刃こぼれしにくい、一番安い剣の研ぎ石はあるか」

 

 

 

 

ルートが淡々と用件を告げると、ミルキーは「やっぱり貧乏だ!」とケラケラ笑いながら、カウンターの奥から小さな石をごそごそと取り出してきた。

 

 

 

 

「はいはーい、銅貨3枚ね! 研いでも大して切れ味は変わらない、気休め程度の商品だよ!」

 

 

 

 

商売人とは思えない正直すぎる謳い文句とともに、ミルキーは可愛い顔でちゃっかり代金をひったくるように奪い取ると、ザラザラとした砥石をポンと投げるように渡してきた。ルートはそれを見事に片手でキャッチし、静かにポケットへと押し込む。

 

 

 

 

用は済んだとばかりに背を向けたルートの背中に、ミルキーが不意にトーンを変えて声をかけてきた。

 

 

 

 

「お兄さん、明日も予選迷宮に行くんでしょ?本線のほうの今年の迷宮、マジで類を見ないほど荒れててヤバいらしいから気をつけなよー」

 

 

 

 

振り返ると、ミルキーは商売用の笑顔の奥に、少しだけ真剣な色を滲ませていた。

 

 

 

 

「……死んだら、装備の買い取りもしてあげられないからね!」

 

「ああ。死ぬつもりはない」

 

 

 

 

商魂たくましい、だがどこか憎めない不器用な気遣いの言葉に見送られ、ルートは小さく口角を上げた。

 

 

 

砥石の硬い感触をポケット越しに確かめながら、ルートは完全に夜の帳が下りた闘神都市の通りを歩き出す。

 

 

胸の内で灯るのは、早くミナモに会いたいという焦燥と温かさだった。ルートは帰路を急ぎ、ミナモの待つ宿『月光亭』へと歩みを速めた。

 

 

 

【宿、部屋】

 

 

夜の帳が完全に下りた闘神都市。外の喧騒が嘘のように静まり返った『月光亭』の階段を上がり、ルートは自室の扉を静かに開けた。

 

 

 

部屋の中は薄暗く、小さなランプの灯りだけがぼんやりと揺れている。ベッドの上で毛布にくるまっていたミナモが、扉の開く音に気づいてゆっくりと身を起こした。

 

 

 

「あ……ルート。おかえりなさい」

 

 

 

「ただいま、ミナモ。遅くなってごめんね。ずっと一人にさせて寂しかっただろう。体調はどう? どこか苦しいところはない?」

 

 

 

ルートは荷物を置き、急いでベッドの脇へと歩み寄った。ミナモの額にそっと触れると、ひんやりとした心地よい体温が伝わってくる。熱がぶり返している様子はなく、ルートはほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 

 

「うん、大丈夫。チエリちゃんが途中で様子を見に来てくれて、お水も替えてくれたから。……それより、ルートこそ怪我はない? 予選迷宮、どうだった……?」

 

 

 

心配そうに見つめてくるミナモの瞳に、ルートは安心させるように柔らかく微笑みかけた。そして、パイプ椅子を引き寄せてベッドの傍らに座り、今日一日の出来事をゆっくりと話し始めた。

 

 

 

 

「予選迷宮は、思っていたよりも順調だったよ。本戦用の迷宮とは違って試験用に管理されている場所らしくてね。イカマンや大グモといった魔物とは戦ったけれど、危ない場面はなかった」

 

 

 

「そうなんだ……よかった。でも、絶対に無理はしないでね?」

 

 

 

「ああ、わかってる。だから今日は、地下2階へ続く階段を見つけたところで、欲を出さずに引き返してきたんだ。そうしたら地上で、シュマイゼンっていう警備隊長に『見事な判断だ』って褒められてね」

 

 

 

ルートが少し照れくさそうに言うと、ミナモは嬉しそうに目を細めてふわりと笑った。

 

 

 

「ふふっ、すごいね。ルートはやっぱり、かっこいい冒険者なんだね」

 

 

 

「ただ慎重なだけさ。それに、迷宮の中で経験値も溜まったから、レベルも1つ上がったよ。。少しだけだけど、確実に強くなれた。明日からはもっと安全に戦えるはずだよ」

 

 

 

「……なんだか、外の世界の冒険のお話を聞いてるみたいでワクワクしちゃうな」

 

 

 

ベッドから出られないミナモにとって、ルートの語る外の出来事は唯一の娯楽であり、外の世界との繋がりだった。

 

彼女が楽しそうに聞いてくれることに喜びを感じながら、ルートは腰のポーチから小さな革袋と、今日買ってきたばかりの砥石を取り出した。

 

 

 

 

「換金所で魔石や素材をお金に換えて、帰り道に武器屋にも寄ってきたんだ。『鋼の拳亭』っていう店なんだけど……そこの看板娘のミルキーという女の子が、ものすごく賑やかでね」

 

 

 

「賑やか?」

 

 

 

「ああ。俺を見るなり『お金なさそうなクソ貧乏なお客さんだ!』って大声で笑われたよ」

 

 

 

「ええっ!? ひ、ひどい……!」

 

 

 

ミナモが目を丸くして怒ったような顔をするので、ルートは思わず声を立てて笑ってしまった。

 

 

 

 

「ははっ、本当にね。でも、どこか憎めない子だったよ。シュマイゼンには新しい武器を買えと言われたんだけど、手持ちのお金じゃまだ良い物は買えそうになくてね。だから、まずはこの剣を手入れするために、一番安い砥石を買ってきたんだ」

 

 

 

 

ルートがザラザラとした砥石を見せると、ミナモは布団からそっと手を伸ばし、その石の表面に触れた。

 

 

 

「……ルートが私のために、一生懸命戦ってくれた証だね。ありがとう、ルート」

 

 

 

「ミナモ……」

 

 

 

「でも、ルートったら……いくら傷がすぐ治るからって、無茶しすぎだよ…?」

 

 

 

「……でもまあ、首が飛んだら死ぬのは俺も同じだから。……死なないように気をつけるよ」

 

 

 

「そういう問題じゃありません! 痛いのは同じでしょ……?」

 

 

 

ミナモの表情が少しだけ翳る。ルートはすかさず彼女の小さな手を両手で包み込み、優しく、けれど力強く首を振った。

 

 

 

 

「私、ルートが頑張ってくれているのに、ここで寝ていることしかできなくて……ごめんね」

 

 

 

「謝らないで。俺は、ミナモがこうして待っていてくれるから頑張れるんだ。絶対に闘神大会に優勝して治すんだ。だから、ミナモは治すことだけを考えて、ゆっくり休んでいてほしい」

 

 

「……うん。約束、だね」

 

 

 

ミナモは安心したように微笑むと、再びベッドへと身を横たえた。

 

 

 

「明日のために…剣の手入れもしないと」

 

 

 

 

ルートはミナモの胸元まで毛布を掛け直すと、椅子に座ったまま愛剣を鞘から抜き放った。買ってきたばかりの砥石に少しだけ水を含ませ、静かに刃を滑らせる。

 

 

 

 

シャッ……シャッ……。

 

 

 

 

部屋の中に、規則的で静かな金属音が響き始めた。そのリズミカルな音は不思議と心地よく、ミナモの緊張を解きほぐしていくようだった。

 

 

 

 

「ルートの剣の音……なんだか、すごく安心する……」

 

 

 

「そう? …………もう眠い?」

 

 

「うん……眠たい……かも……」

 

 

 

 

やがて、ミナモの規則正しい寝息が部屋に溶け込んでいった。

 

 

 

ルートは剣を研ぐ手を止め、ランプの仄暗い光に照らされたミナモの穏やかな寝顔をじっと見つめる。

 

 

 

その細い息遣いを守り抜くためなら、どんな暗い迷宮の底へでも潜ってやると、ルートは心の中で強く誓った。

 

 

 

研ぎ澄まされた刃をそっと鞘に納め、ルートもまた、明日のB2F探索へ向けて静かに目を閉じた。

 

 

 

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