【朝、回想】
――冷たい雨が、薄汚れた路地裏の泥を叩いていた。
「使えない奴はいらねぇんだよ! 飯の分すら盗んで来られない奴に、やる食いもんなんかねえ!」
怒声とともに叩きつけられた硬いパンの屑が、泥水の中に没していく。
物心ついた時から、自分たちの周りには親などいなかった。身寄りのない子供たちが集まり、盗みや浚い物をしてはその日暮らしを繋ぐスラムの底。それが、ルートとミナモが生まれ育った世界の全てだった。
生きるためには、悪さすら「仕事」になる場所。
だが、捨てられた幼いミナモは生まれつき病弱で、走ることすら満足にできなかった。泥棒の片棒を担ぐことも、警備兵の目を引く囮になることもできない。
「おいルート、なんでそんな足手まといをいつまでも庇ってんだよ! そいつを捨てるか、お前も出て行くか選べよ!」
取り巻きの子供たちが冷ややかな視線を浴びせてくる。
その背後で、雨に濡れた大きなボロ布を被った幼いミナモが、小さく肩を震わせていた。青白い唇を震わせ、今にも消えてしまいそうな声で呟く。
「……ごめんね、ルート。私……何の役にも立てなくて…………。」
自分の裾を掴むミナモの指先は、凍えるように冷たかった。
役に立つか、立たないか。そんな歪んだ価値観に曝され、ただ怯える少女。
ルートは無言のまま、泥の中に落ちたパン屑を拾い上げ、ミナモの小さな手の中に押し握らせた。そして、群がる子供たちを冷たい眼光で睨みつけると、迷うことなくミナモの背中を抱え上げた。
「……行くぞ、ミナモ」
「え……? でも、ルート……っ」
「二人でいくんだ。どこか、誰も俺たちを邪魔しない場所へ」
あの頃から、ルートの世界にはミナモしかいなかった。
仲間から追放され、屋根もない廃屋や洞窟を転々としながら、二人は助け合って生きてきた。ルートが食べ物を集め、ミナモがそれを暖める。どんなに身を切るような寒さの夜も、互いの体温だけを頼りに寄り添って生き延びてきた。
(俺が……ミナモを守る。何があっても……)
泥に濡れた誓いが、記憶の底からゆっくりと泡のように浮かんでは消えていく――。
ーーーふと目が覚めると、頬を撫でる朝の光と、微かに揺れるカーテンの影が視界に飛び込んできた。
夢か、とルートは小さく息を吐いた。
まぶたを擦りながら上体を起こすと、すぐ隣のベッドへ視線を向ける。
そこには、白く柔らかい毛布に包まれ、スヤスヤと穏やかな寝息を立てているミナモの姿があった。
長いまつ毛が薄桃色の頬に影を落とし、小さな唇がかすかに蠢いている。昨夜の悪夢のような記憶とは裏腹に、目の前にある彼女の寝顔は、守るべき静けさに満ちていた。
ルートがベッドの端に腰を下ろし、そっとミナモの乱れた前髪を払うと、彼女はくすぐったそうに眉をひそめ、ゆっくりとまぶたを開いた。
「……ん……ふふ……ルー、ト……?」
夢心地の残る掠れた声。ミナモは目を擦りながら、ベッドの中で微笑んだ。
「おはよう、ミナモ。起こしちゃったかな」
「ううん……うわぁ、もう朝なんだね。おはよう、ルート……」
ミナモは体をゆっくりと起こすと、ふわりと胸元まで毛布を引き上げた。昨日よりも顔色がよく、瞳には澄んだ光が戻っている。ルートは胸の奥で安堵の息を漏らし、彼女の額にそっと手をかざした。
「熱も上がってないみたいだ。よかった」
「うん、ルートのおかげだよ。昨日の夜、剣を研ぐ音を聞いていたら、すごく安心してぐっすり眠れたの」
ミナモはそう言って嬉しそうに目を細めたが、ふとルートの腰に提げられた愛剣と革の胸当てに視線を落とすと、少しだけ寂しそうな、けれど気丈な表情に変わった。
「……今日も、予選迷宮に行くんだよね?」
「ああ。今日は地下2階……を探索する。1階よりも少し暗くて広いらしいが、無理はせずに様子を見てくるよ」
ルートは膝の上に置いた愛剣の柄を固く握り直した。昨夜買った安物の研ぎ石で刃を整えたものの、地下2階に潜むであろう猛者や凶悪な魔物を相手にするには、自分の技術も装備も心許ないことは分かっている。
だが、引き返す選択肢など存在しない。ミナモの病を治すための賞金を得るには、この予選を突破し、本戦へと勝ち進むしかないのだから。
ミナモはベッドの上に膝立ちになると、ルートの服の袖をキュッと小さく引っ張った。
「あのね、ルート」
「ん?」
「私……何もできないから、ここで祈ることしかできないけれど……。でも、ルートが帰ってくる場所は、ずっとここにあるからね」
真っ直ぐで、飾りのない言葉。
幼い頃、泥濡れの路地裏で「置いていっていい」と泣いていた少女は、今ではルートの帰るべき絶対の標標(しるべ)となっていた。
ルートの唇に、自然と柔らかい笑みが浮かぶ。
「……ああ。分かってる、」
ルートはミナモの華奢な肩を優しく抱き寄せ、その頭を一度だけ撫でた。
「すぐに帰ってくるよ。だから、待っていてくれ」
「うん! いってらっしゃい、ルート!」
ミナモの弾んだ見送りの声と、弾けるような笑顔。
それを心に深く焼き付け、ルートは静かに部屋の扉を開けた。扉を閉めた瞬間、彼の顔から穏やかさは消え去り、迷宮の深淵を見据える不退転の目つきへと切り替わっていた。
【宿、1階】
木造の階段を一段踏みしめるたび、ミナモのいる穏やかな部屋の温もりが遠ざかり、代わりに冷ややかな現実の空気が足元から這い上がってくる。
1階の酒場に降り立つと、昨夜の賑わいが嘘のように静まり返っていた。朝の薄光が差し込む店内では、カウンターの椅子が整然と上げられ、大きなエプロンをつけた看板娘のチエリがパタパタと雑巾がけに精を出している。
ルートの足音に気づくと、チエリはバケツに雑巾をポイと放り投げ、腰に手を当てて仁王立ちになった。
「あ、降りてきたわね、バカお兄さん! ……って、ちょっと待ちなさいよ。昨日言ったこと、もう忘れたわけ!?」
チエリは眉をひそめ、ぷんぷんと怒りながらルートの元へ駆け寄ってきた。
「昨日は奇跡的に無傷で帰ってこられたから良かったものの、B2Fからは魔物の強さも段違いになるって噂じゃない! なんでそんな、今にも壊れそうなボロい装備のまま平気な顔して行こうとしてるのよ!」
「……これでも昨日、研ぎ石で手入れはしたんだ。それに、無茶はしないとミナモにも約束した」
「そういう問題じゃないの! 男の子って本当バカなんだから……!」
チエリは呆れたように大きなため息をつくと、背中に隠していた小さな紙包みをルートの胸元に半ば押し付けるように叩きつけた。包みからは、出来立ての香ばしいパンと塩気のある干し肉の匂いが漂ってくる。
「ほら、今日の分の朝ご飯! 迷宮の途中で腹ペコになって倒れたら目も当てられないんだから、ちゃんと味わって食べなさいよね!」
「……ありがとう、チエリ。いつも助かる」
「か、感謝なんていらないわよ! ちゃんと宿泊代のツケにきっちり上乗せしておくんだから! とにかくだよ……絶対、無事に帰ってきなさいよね! ミナモちゃんを泣かせたら、私がタダじゃおかないんだから!」
プイッと横を向くチエリの耳たぶが、心なしか少し赤い。ルートが小さく苦笑していると、薄暗いカウンターの隅からダミ声が響いた。
「ハッ……相変わらず素直じゃねえ見送りだな、チエリちゃんよ」
酒瓶を傾けていた元・闘士のガルドが、重い腰を上げて立ち上がった。その隻眼が、鋭くルートの全身を射抜く。
「おい、若いの。今日から予選迷宮地下2階か。1階で浮かれていた連中が、一気に肉塊に変わる場所でもある。……『仕掛け』には特に気をつけろよ。人間、魔物より恐ろしいのは、死体に群がる同類(人間)の罠だ」
「……頭に入れておくよ。助言、ありがとう」
「ふん、生きて戻ったら酒の一杯でも奢れ」
ガルドはヒラヒラと手を振ると、再び酒杯に意識を戻した。
「よし……行ってくる」
背中にチエリとガルドの視線を受けながら、ルートは宿『月光亭』の重い木製扉を押し開けた。
一歩外へ踏み出すと、闘神都市の冷たい朝の空気が頬を叩いた。
朝靄(あさもや)が立ち込める石畳の通りには、すでに無数の人影が蠢いている。これから予選迷宮へと向かう挑戦者たちだ。誰もが重い口を開かず、互いに刃物を突きつけ合っているかのような殺伐とした静寂が通りを支配していた。
湿った風に乗って、焦げた硫黄の匂いと、どこか生臭い血の気配が漂ってくる。
通りを歩く途中、露店が並ぶ区画の角で、怪しげな男が甲高い声を張り上げているのが目に入った。
「さあさあ寄ってらっしゃい! 闘神都市名物、ハニー様の御神体(おしんたい)壺だよ! これを持っていけば迷宮の悪霊も退散、奇跡の生還間違いなし!」
露店には、黄色くて丸い不条理な顔をした奇妙な置物や壺がズラリと並べられている。見習いの闘士らしき男が「本当かよ!?」とすがるように金を払っていたが、ルートは一切足を止めることなく、冷ややかな視線でその横を通り過ぎた。
(壺で命が買えるなら、誰も苦労はしない……)
神頼みも、奇跡も信じない。信じられるのは、自分の腕と、ミナモの元へ帰るという執念だけだ。
さらに進むと、巨大な「予選迷宮入口」の城門が見えてきた。
門の周囲は、朝一番でB2Fへ潜ろうとする荒くれ者たちで溢れかえり、殺気立った気配が渦を巻いている。その中央で隙なく仁王立ちしているのは、警備隊長シュマイゼンだ。
「これより本日の予選迷宮の開放を行う! 再度警告する! 1にルール! 2にルール! 己の実力を過信し、無謀な死を遂げることは最大の愚行と知れ!」
シュマイゼンの厳格な声が響き渡る中、ギギギ……と耳障りな音を立てて重い鉄門が開かれていく。
溢れ出る冷気と、漆黒の闇。
ルートは愛剣の柄を固く握り締め、意を決してその不気味な深淵の中へと一歩を踏み出した。
【予選迷宮地下1階】
門を抜けると、昨日と同じ湿った冷気と発光石の青白い光がルートを迎え入れた。
迷宮の最浅部である地下1階は、すでにルートにとって「通過点」に過ぎない。昨日命がけで切り拓いた道筋と魔物の出現パターンは、すべて彼の頭の中に過不足なく叩き込まれていた。
ヌチャリ……と暗闇から足音を立てて身を乗り出してきたイカマンが、生臭い触手を振り上げる。だが、ルートの足取りは一切緩まない。
「……遅い」
一閃。
相手が攻撃の体勢に入るよりも早く、手入れされたばかりの刃が正確に首元を切り裂く。悲鳴を上げる暇すら与えられず、イカマンはそのままヌチャリと倒れ込み、粒子となって消えていった。
1日目の探索で体得した間合いと無駄のない動き。連続して襲い来るカニ型や他の魔物に対しても、ルートは最小限の身のこなしで刃を滑らせ、瞬く間に撃破していく。昨日なら足を止め、慎重に間合いを測っていた局面でも、今のルートには迷いがなかった。
「ふぅ……」
途中、壁のくぼみや床の細かい溝に視線を走らせる。
昨日一度解除したプレス型の罠や落とし穴も、レバーの位置と安全な足場を完全に把握しているため、立ち止まることすらなくスムーズに通り抜けることができた。
周囲で右往左往し、罠の餌食になりかけている他の挑戦者たちの怒号や悲鳴が遠ざかっていく。
(1階の構造は頭に入った。時間をかける必要はない……)
ミナモの待つ宿へ一刻も早く、そして一銭でも多くの成果を持ち帰るため、ルートは一切の無駄を削ぎ落とした足取りで地下1階を高速で踏破していく。
やがて、青白い発光石の光が途切れ、薄暗闇の空間が現れた。
昨日、探索の区切りとして足をとめた場所――地下2階(B2F)へと続く、重々しい石造りの階段だ。
階段の前に立った瞬間、肌を刺す空気の質が明らかに変わった。
上層の生ぬるい湿気とは異なり、地下深くから吹き上がってくる風は重く、冷たく、不気味なほどに死の匂いを孕んでいる。深淵の闇が、まるで意志を持っているかのように、階下へと続くステップを黒く塗りつぶしていた。
ガルドの言っていた言葉が、ルートの脳裏をよぎる。
『1階で浮かれていた連中が、一気に肉塊に変わる場所でもある』
ルートは立ち止まり、息を深く整えた。腰の鞘から愛剣を静かに抜き放つと、研ぎ石で手入れしたばかりの刃が薄闇の中で鈍く光を反射する。
(ここからが……本番だ)
ミナモの笑顔を胸の奥に強く思い浮かべ、ルートは迷いのない足取りで、地下2階へと続く漆黒の階段を一歩ずつ降りていった。
【予選迷宮地下2階】
階段を降り切った瞬間、ルートの肌を舐めたのは、粘りつくような濃密な死臭だった。
地下2階――そこは地下1階とは完全に切り離された、別次元の異界だった。
天井は遥か高くへと伸び、足元をかすかに照らす発光石の光は泥を含んだ紫色の異様な輝きを放っている。壁面は濡れた肉のように赤黒く湿り、どこか遠くで巨大な何かが蠢くような地鳴りが重く響いていた。
「……空気が重いな」
ルートは愛剣の柄を握る手にぐっと力を込めた。息を吸い込むたび、肺の奥が鉄の味で痺れるような感覚がある。
通路のあちこちには、半ば風化した人間の骨や、潰れた甲冑の残骸が打ち捨てられていた。ついさっきまで地上で威勢を張っていたであろう挑戦者のものらしき、まだ新しい血だまりも見受けられる。
カサ……カササッ……。
物陰から姿を現したのは、B1Fにいたものとは比べ物にならない巨大な甲殻を持つ『カニ型の魔物』だ。鋭利な鋏(はさみ)を威嚇するように打ち鳴らし、硬質な甲殻をギチギチと軋ませながら、音もなく間合いを詰めてくる。
「ハッ……!」
ルートは低く踏み込み、一気に剣を繰り出した。1日目のように魔物の関節を正確に穿つ一撃――しかし。
ガキィィンッ!
甲高い金属音が暗闇に響き渡り、ルートの手首に強烈な痺れが走る。
刃は魔物の硬い甲冑に浅く食い込んだだけで弾かれ、逆に相手の太い鋏が刃膜を削りながらルートの頬をかすめた。
(硬い……! B1Fの魔物とは、骨の太さも皮膚の密度もまるで違う……!)
冷や汗が背中を伝う。一筋縄ではいかない。技量だけで覆すには、自分の装備もステータスも圧倒的に不足していた。ルートは泥臭く間合いを直し、じりじりと後退しながら魔物の隙を窺う。
だが――ルートが集中を極限まで高めていたその時、頭上の暗がりから微かな「不自然な音」が聞こえた。
ーーカチリ。
静寂の迷宮に似つかわしくない、緻密な精巧な金属の作動音。
(罠か……!?)
ルートが咄嗟に視線を走らせた瞬間、通路の曲がり角の陰から、ゲヒヒという下品な嘲笑が漏れ聞こえた。
「ゲヒヒ! 引っかかりやがったな、ボロ剣の貧乏人がぁっ!」
通路の陰から顔を覗かせたのは、へこんだ兜を被り、歪んだ笑みを浮かべた男――悪徳仕掛け人、ゲスリだった。その手には、怪しい魔導式の起動スイッチが握られている。
「おいおい、そんなナマクラでB2Fの魔物と戦おうなんて命がいくつあっても足りねえぜ? だからよぉ、俺様がもっと楽に死ねる『特等席』を用意してやったんだよ!」
ゲスリがスイッチを押し込むと同時に、ルートの足元の石畳がガコンと音を立てて激しく跳ね上がった。
バチバチバチッ!
跳ね上がった石畳の下から噴き出したのは、強烈な紫色の麻痺毒ガスと、床底に隠されていた巨大な檻の開放装置だった。
ガチャリ、と重厚な鉄格子が跳ね上がる音と同時に、暗闇の底からヌチャヌチャと足音を立てて這い出てきたのは――ぬめりけのある巨大な単眼と、無数の不気味な触手をうごめかせる不快な異形。『闘神都市』に生息する悪名高き怪異、るろんただった。
しかも、1体ではない。1、2、3、4……なんと5体ものるろんたが、生臭い体液を撒き散らしながら狭い通路を隙間なく埋め尽くしていた!
「ゲヒヒ! るろんたの大群とご対面だぁっ! 1体でもB2Fの闘士を噛み殺す奴らが5体! 麻痺ガスで動けねえ体に触手を叩き込まれて、肉を削ぎ落とされる絶望を味わいな!」
「ルロロロロロ……ッ!」
るろんたは一斉に死角を消し去るように扇状に広がり、血走った巨大な単眼をルートへと向けた。鞭のようにしなる鋭利な触手が一斉にしなり、空気を裂く絶望的な音とともに、退路を断たれたルート目掛けて同時に襲いかかってくる――!
ヒュンヒュンヒュンッ!
空気を切り裂く不穏な破砕音が狭い通路に激しく響き渡る。5体のルロンタが一斉にしならせた無数の触手は、逃げ場のない弾幕となってルートへ襲いかかった。
「くっ……!」
ルートは間一髪で麻痺ガスの範囲から飛び退き、愛剣を構えて極限の集中で刃を振るった。
バシュッ! ズバッ!
鋭い一閃が迫る触手を数本叩き切る。だが、B1Fでの連戦と手入れ不足、そして先ほどの硬い甲殻を持つ魔物との交戦によって、貧乏なルートが使い続けてきた愛剣の刃はすでにボロボロだった。
研ぎ石の手入れなど吹き飛ぶほど刃こぼれを起こし、切れ味は目に見えて落ちている。
「ルロロロロッ!」
切れ鈍った剣では触手を断ち切りきれず、絡みつくような肉の弾力に刃が持っていかれた――その一瞬の隙を、モンスターは見逃さなかった。
ドス物凄い速度でくり出された太い触手の先端が、ルートの死角からその腹部を正確に貫いた。
ドグシャアアッ!
「ガハッ……!?」
劇的な激痛と鈍い破壊音が腹の底で跳ね跳ねた。鋭利な触手は無情にも皮の胸当てを突き破り、ルートの腹部を右から左へ、一直線に深く引き裂いて吹き飛ばす。
ドサッ……!
石畳の上に倒れ伏すルート。腹からはおびただしい量の鮮血が溢れ出し、真っ赤な血だまりを急速に広げていく。
引き裂かれた肉の隙間からは内臓すら覗く、誰が見ても即死レベルの致命傷だった。手に握られていた愛剣は、衝撃で半ばから刃こぼれし、完全に切れ味を失っていた。
「ゲヒヒヒッ! ハハハハハッ! 終わりだ、終わりだぁっ!」
壁の影で高物見見物していたゲスリが、お腹を抱えて不快な笑い声を響かせる。
「惨めだねえ! 貧乏人が調子に乗ってB2Fに潜るからそうなるんだよ! るろんたの餌になって肉の一片も残さず食われちゃいな――」
ゲスリの嘲笑が、ダンジョンの奥へ高らかに響き渡る。ルロンタたちも勝利を確信したように、血の匂いに歓喜してズルズルとルートの肉体へ群がりかけ――。
(シュワァァァァァ……! ズズズズッ……!)
不意に、迷宮の静寂を切り裂く不気味な「肉の蠢く音」が響いた。
「……え?」
ゲスリの笑い声がピタリと止まる。
倒れていたルートの腹部から、赤黒い肉芽がバブルのように泡立ち、不気味な勢いで蠢き始めたのだ。引き裂かれた筋肉、壊された内臓、裂けた皮膚が、まるで時間を巻き戻すかのように互いを引き寄せ合い、粘着するように接合していく。
ほんの数秒。血みどろだった腹部は、一瞬にして傷一つない真っ白な肌へと「復元」された。
「……てぇな」
「ひっ……!?」
ルートは溢れた己の血の海の中から、ゆらりと、何事もなかったかのように立ち上がった。
超回復。傷は跡形もなく癒えている。しかし、体中にこびりついた返り血と、感情を一切失った冷たい瞳が、彼を人間ではなく「異形のバケモノ」のように際立たせていた。
「な……ななな、なんだアイツはあぁぁっ!?」
壁の陰で見ていたゲスリの顔から血の気が引く。ガタガタと膝を震わせ、目の前の光景が理解できずに絶叫した。
「腹が……腹が裂けてただろ!? 腸が飛び出てただろ死んでたろ死んでたはずだろ!! なんで傷が消えてんだよ!? バケモノ……バケモノだあああッ!?」
るろんたたちも異様な気配に圧され、巨大な単眼を怯えに揺らして一歩後退る。
ルートは手元を見た。手にあるのは、もはや刃すら潰れ、全く切れない鉄の塊と化したボロ剣だ。B2Fのるろんた5体を相手にするには、あまりにも絶望的な武器。
普通なら、ここで撤退を選ぶ。だが――。
(……手ぶらで帰れるか……!)
「ルロォッ!?」
恐怖に耐かねた1体のるろんたが触手を振り下ろす。ルートはその攻撃を避けることすらせず、肉を切らせて骨を断つ勢いで肉薄した。
刃の潰れた剣を、ただの「重い鉄棒」として振り上げる。
「オオオアアアアッ!」
ドカァンッ!
切れないのなら、叩き潰すまで。
ルートは全身の体重と執念を乗せ、なまくらになった剣をるろんたの単眼目掛けてフルスイングで叩きつけた!
「ギニャアアアッ!?」
潰れた刃が肉を削るのではなく、鈍器のような衝撃となってるろんたの頭部をグシャリと押し潰す。
激痛に暴れる魔物の頭部へ、ルートは一切の情赦なく、二度、三度と切れない剣を力任せに叩きつけ続けた!
ドスッ! ガツッ! ドグシャッ!
「死ね! 死ねッ!」
肉と体液が飛び散る惨劇。一対五の圧倒的不利など、泥臭い殺意と死なないタフネスの前には意味をなさなかった。
飛びかかる触手に身体を削られようが、超回復の肉体が即座に修復し、ルートの足を1歩たりとも止めさせない。
刃が完全にひしゃげ、ただの鉄くずになっても、ルートは血みどろになりながら最後の1体まで叩き殺し、肉塊へと変えていった。
静寂が戻った通路。
5体のるろんたの残骸の中、血と体液に塗れたルートが、呼吸を荒らげながらゆっくりと振り返る。
その冷酷な視線が、物陰でガタガタと震えていたゲスリを捉えた。
「ヒッ……ヒイイイッ!?」
ルートが一歩、足を踏み出す。
たったそれだけの動作に、ゲスリは「次は自分が叩き潰される」という本能的な恐怖に直面した。股間から温かい液体が漏れ出し、石畳に水たまりを作る。
「こ、来ないでくれぇぇぇっ! バケモノ! 悪魔! 助けてくれえええっ!」
ゲスリは悲鳴を上げながら失禁し、這いずるようにして暗闇の奥へと逃げ去っていった。
ルートは逃げていく影を追うことなく、潰れた剣を握りしめたまま、その場に力なく膝をついた。傷は塞がっても、激痛の記憶と精神的な疲労までは消えない。
「……ハァ……ハァ……」
血に汚れた手で、乱戦状態で倒したカニ型の魔物やるろんたたちが遺した高価なドロップ素材を泥臭く拾い集める。
(剣は……もう使えないな。だが……これで……新しい武器が買える……)
ルートはボロボロの身体を引きずりながら、換金所とミナモの待つ地上を目指し、不気味なB2Fに背を向けた。
【予選迷宮入口】
重々しい鉄門を潜り抜け、地上へと踏み出した瞬間、闘神都市の夕刻の風がルートの全身を撫でた。
しかし、その風が運ぶのは清涼感ではなく、彼の体表に固まりかけた黒赤い血の強烈な生臭さだった。
B2Fの激闘と『超回復』の代償。傷自体は不気味なほどの速度で完全に塞がっていたが、ズタズタに引き裂かれた革の胸当て、血と体液でドロドロに汚れた服、そして半ばから不自然に歪み、完全に刃の潰れた愛剣が、彼が潜り抜けてきた地獄の壮絶さを無言で物語っていた。
広場にいた挑戦者たちが、あまりの異彩と血臭に気圧され、サッと引き潮のように道を開ける。その異様な光景の中、一人の男が重厚な鉄甲冑の音を響かせ、まっすぐにルートの元へと歩み寄ってきた。
警備隊長シュマイゼンだ。
彼の手元にある鋼鉄の槍が、夕日に鈍く照り返す。シュマイゼンは隙のない眼光でルートの全身を頭から足元まで厳しく値踏みし、やがてその視線を、ルートの手にある全滅した鉄の塊――ひしゃげた愛剣で止めさせた。
「……随分と凄惨な面下げで戻ってきたな、挑戦者よ」
腹の底に響くような、重く厳格な声。シュマイゼンは眉間に深いシワを刻み、腕を組みながら低く問いかけた。
「その血の量、そしてその無惨な剣の有り様……地下2階へ足を踏み入れたな?」
「……ああ」
ルートは乾いた喉を鳴らし、短く答えた。溢れ出た己の血と魔物の体液が混ざり合い、視界がかすむ。
「B2Fの最深部近くで……仕掛けと、魔物の群れに襲われた。なんとか戻ってきたが……この有様だ」
ルートが差し出した愛剣の残骸を見つめ、シュマイゼンは重い溜め息を吐き捨てた。
しかし、その瞳に浮かんでいたのは呆れではなく、どこか生真面目な彼らしい深みのある懸念だった。
「だから言ったはずだ。金は命を繋ぐ防壁であり、武器は己の命を預ける唯一の相棒だと。B2Fの魔物は、B1Fの比ではない。皮も骨も硬く、仕掛けの質も一気に跳ね上がる。そこへそんな手入れ不足の鈍器同然の剣で突っ込むなど、己から死地に首を突っ込むようなものだぞ」
シュマイゼンの厳格な叱責が飛ぶ。しかし、彼はルートの全身に目をやり、ふと不審そうに目を開いた。
「……だが、これほどの血を浴び、服も鎧もズタズタになりながら……怪我一つ負っていないのはどういうことだ? 運良く攻撃を掠めさせただけというには、血の量が尋常ではないが」
シュマイゼンの鋭い問いに、ルートの背筋が一瞬凍りつく。自分の体に秘められた『不気味な超回復』――それをこの生真面目な警備隊長に悟られるわけにはいかない。
「……運が良かっただけだ。間一髪で致命傷を避け、泥臭く叩き切って逃げ延びた。この血のほとんどは……返り血だ」
ルートが冷たい瞳のまま感情を殺して答えると、シュマイゼンはしばし沈黙し、深く探るのをやめるように小さく首を振った。
「……まあいい。生きて戻った、それが全ての『ルール』の帰結だ。死人に弁明の機会はないが、生者には次がある」
シュマイゼンはルートの腰にあるポーチ――B2Fのルロンタたちが遺した高価な素材でズシリと重みを増している革袋を指差し、強い口調で命じた。
「その素材を今すぐ換金所に持ち込め。B2Fの素材なら、まともな装備を整えるに十分な金になるはずだ。そしてその足で武具店へ行け。その折れ曲がった鉄くずで明日も迷宮に入ってみろ、次は確実に命を落とすぞ」
「……わかってる。この武器じゃもう、まともに戦えない」
ルートはひしゃげた愛剣の柄を静かに見つめ、ゆっくりと頷いた。1日目の甘い考えは、B2Fの地獄と『超回復』の痛烈な激痛によって完全に打ち砕かれていた。ミナモの待つ宿へ確実に生きて帰るためには、相応の「刃」が必要不可欠なのだと、身を以て理解していた。
「この素材を金に換えて、買いに行くよ。B2Fの魔物も殺せる、まともな武器を」
「結構だ。命を大切にする者だけが、この狂った大会を勝ち抜く権利を得る。……行け、挑戦者よ。明日も無事な姿でこの門を潜ることを祈っているぞ」
シュマイゼンは厳格に胸を張り、一本筋の通った警礼を送った。
「忠告、ありがとう」
ルートは短く言葉を残すと、血臭の漂う体を引きずりながら、夕暮れの街並みへと足を踏み出した。向かうは商業区画の換金所、そして――あの賑やかな少女と頑固オヤジの待つ武具店『鋼の拳亭』だ。
【鋼の拳亭】
商業区画の喧騒を抜け、無事にB2Fの貴重な素材を換金所で硬貨の山へと変えたルートは、ずっしりと重くなった革袋を手に武具店『鋼の拳亭』の看板をくぐった。
店内に足を踏み入れた瞬間、香ばしい金属と油の匂い、そして鍛冶炉の温かい熱気がルートを包み込む。
カウンターで帳簿を付けていたミルキーが、ドアベルの音に跳ね起きるように顔を上げた。
だが、血みどろでボロボロの服を纏い、手に半ばから折れ曲がって無惨に歪んだ剣を抱えたルートの姿を見るやいなや、その大きな目を丸くし、次の瞬間には怒りで頬を真っ赤に膨らませた。
「ちょっとぉ! 言わんこっちゃないじゃないのぉーっ! 駄目だって、あの気休めの安物砥石じゃB2Fの魔物には太刀打ちできないって、昨日あれほど言ったじゃないのっ!」
ミルキーはドタバタとカウンターを飛び出し、ルートの前に立ちはだかると、両手で腰を叩いてプンプンと激しく怒鳴り散らした。
「見てみなさいよその剣! 刃はボロボロ、柄は歪んで、完全に鉄くずじゃない! もしかして手ぶらでB2Fに突っ込んで、そのまま魔物にボコボコにされて命からがら逃げてきたんでしょ!? 本当に生きてるのが奇跡なんだからねっ!」
「……すまない。忠告通りだったよ、ミルキー」
ルートは苦笑いを浮かべ、素直に頭を下げた。1日目の自分の無知と見通しの甘さを反省しつつ、腰からずっしりと重い革袋を取り出し、カウンターの上へと置いた。
じゃらり、と金属同士が擦れ合う重厚な音が店内に響く。
「……だが、手ぶらで帰ってきたわけじゃない。B2Fの素材を換金して、まとまった金を作ってきた。これで……B2Fの魔物にも通る、まともな新しい武器を買いたいんだ」
ミルキーはカウンターの上の革袋と、ルートの真剣な眼光交互に見つめ、呆れたようにハァと大きな溜め息をついた。
「もう……本当に無茶するんだから。でもまあ、ちゃんと生きて戻って、自分の足で買いに来たのは褒めてあげるわよ」
ミルキーが溜め息を吐きながら新しい剣を選ぼうとしたその時――店の奥の鍛冶場から、ズシン、ズシンと重い足音が響いてきた。
奥の幕を押し開けて現れたのは、頑固オヤジの店主だった。鍛冶仕事の煤(すす)で黒く汚れた頑丈な腕を組み、鋭い眼光でルートの手元にある折れたボロ剣を見つめている。
オヤジは無言のままルートに近づくと、その不骨で分厚い手でルートの手から折れた剣をひったくるように奪い取り、じっくりと検分した。
「……刃こぼれどころの騒ぎじゃねえな。無理な力をかけ続け、限界を超えて叩き折った痕だ。お前さん、この鉄くずで魔物の硬い皮や骨を力任せに殴りつけたな?」
「……ああ。刃が通らなくなっても、叩きつけるしかなかった」
ルートが答えると、オヤジは鼻でフンと冷たく笑い、折れた剣をゴトンと粗雑に作業台の上に放り投げた。その厳しい視線が、まっすぐにルートの目を射抜く。
「……小僧。お前さんにとって、武器ってのは一体なんだ?」
「え……?」
不意の問いかけに、ルートは言葉を詰まらせた。
物心ついた頃から、自分には身寄りも親もなく、路地裏の泥の中で生き延びることだけが全てだった。
剣など、生きていくための「ただの道具」であり、安ければ安いほどいい。基本は拾った物を使い、切り詰めて余った金でミナモと飯を食べさせることしか考えてこなかった。
ルートの迷いを透かして見たように、頑固オヤジは低く、重みのある声で言い放った。
「言っておくがな、武器ってのは削り節や消耗品の砥石じゃねえんだ。迷宮の中で、お前さんの命を一番近くで守り、命を預ける唯一の『相棒』なんだよ。貧乏だから、金がないからって……自分の命の値段(武器)まで安く見積もるんじゃねえ」
「……っ」
オヤジの言葉が、ルートの胸の奥底に鋭く突き刺さった。
自分の命を安く見る――まさにそれこそが、今日B2Fで自分を死の淵へと追い詰めた原因だった。
不気味な『超回復』があるからとどこかで甘え、粗末な武器で死地に飛び込み、結果として激痛と苦しみの中でミナモを失いかけたのだ。
ミナモを守るためと言いながら、自分の命をぞんざいに扱っていたのだと、ルートは痛烈に思い知らされた。
オヤジは固まったルートの肩を、ドンと強く叩いた。
「貧乏を理由に武器をケチる奴から真っ先に死んでいく。生き残りたいなら、ミナモちゃんって子のもとへ絶対に帰りてえなら……己の命に見合う相棒を履け」
オヤジはそう吐き捨てると、壁に飾られた無数の武器の中から、一振りの見事な鋼鉄の剣を取り出し、カウンターの上へと叩き置いた。
鈍く研ぎ澄まされた銀色の刃。柄には滑り止めの革がしっかりと巻き付けられ、重心のバランスも絶妙に計算された、B2Fの猛者や重甲冑の魔物をも断ち切る実戦用の逸品だった。
「B2Fの魔物の甲殻も切り裂く『鋼の剣』だ。お前さんが持ち込んだその素材の金で、ちょうどお釣りが出るくらいにしてやる」
ミルキーも隣で優しく微笑み、ルートの背中をポンと押した。
「オヤジの言う通りよ、ルート。これはアンタと、ミナモちゃんの命を守るための投資なんだからね」
ルートは静かに息を呑み、吸い寄せられるようにその剣の柄へと手を伸ばした。
ギチ……と革の質感が手に馴染む。持ち上げた瞬間、これまでのボロ剣とは比べ物にならない一体感と、ズシリとした頼もしい重みが腕に伝わってきた。これなら、切れる。これなら、B2Fの地獄も切り拓ける。
「……ありがとう、オヤジさん、ミルキー。この剣を……俺の相棒にするよ」
ルートが真っ直ぐな瞳で感謝を伝えると、頑固オヤジは照れくさそうにフンと鼻を鳴らし、再び鍛冶場の奥へと背を向けた。
「命拾いしたな、小僧。明日はその剣を折るような無茶はするなよ」
「……ああ。絶対、折らせない」
新しい相棒を固く握り締め、ルートの心にはB2Fへの確かな闘志と、ミナモのもとへ必ず生きて帰るという強固な誓いが宿っていた。
【広場】
夕暮れ時の街は、沈みかける陽の光に赤く染まり、長い戦いの余韻を黒い影として地面に引き伸ばしていた。
刃の重み、鉄と血の臭い、そして骨の奥までこびりついた疲労感。ルートの足取りは鉛のように重く、ただ無心で宿屋へと続く石畳の道を歩いていた。
その静けさを破ったのは、街角の広場から響き渡る、どこか浮かれた、けれど異様な熱を帯びた大声だった。
「さあ! 戦いに疲れた者よ、迷える者たちよ! ハニーの教えを授かるのです!」
広場の中心には、見るからに質の悪い泥で捏ね上げられた、妙に頭の長い奇妙な人形――ハニワの像が祀られていた。
その周囲を囲むのは、同じ形をした泥のお面を被り、怪しい腰つきで踊り狂う信者たちの群れだ。熱狂と狂気が交差する独特の空気が、夕闇の迫る街の一角だけを異様に浮き立たせていた。
「我らがハニワ教(ハニー教)に入信しなさい! 従えばすべてが甘く満たされ、ハニーの偉大なる加護がその身に与えられるでしょう!」
高台に立つ教祖とおぼしき男が、両腕を天高く突き上げながら叫ぶ。男が手に持っていた粗末な杖を振り下ろすと、その先端から一筋の火の矢が放たれ、夜空に向かってひゅっと鋭い音を立てて弾けた。
しょぼい魔法演出ではあったが、信者たちは「おおお! ハニーの御光!」と、地響きのような歓声をあげて伏れ伏す。
通りかかる旅人や市民たちは、関わり合いたくないと言わんばかりに視線を逸らし、足早に立ち去っていく。
ルートもまた、足を止めることなくその惨状を冷ややかに視界の端へと追いやっていた。
戦場で命を削り、本物の死線を潜り抜けてきた男の目には、その狂言じみた演説も、安っぽい火の矢の奇術も、すべてが無知な愚か者を釣るための茶番劇にしか映らない。
甘く満たされる加護などという生ぬるい幻影で、この世の苦痛が消えるはずもなかった。
「ハニホー!ハニホー!」と耳障りな唱え文句を繰り返す泥仮面の男たちを横目に、ルートは胸の奥から湧き上がる不快感を隠そうともせず、短く息を吐き捨てた。
「……なんだあれ」
吐き散らされた言葉は、信者たちの狂乱した歓声にかき消され、誰の耳にも届かない。
ルートは一度も振り返ることなく、泥と狂気で満ちた広場をあとにし、冷たい路地裏へと消えていった。
【路地裏】
石畳の路地裏は、夜の湿気と汚水の臭いが滞留する泥濘(ぬかるみ)の底だった。
頭上を覆う古い建造物の隙間から落ちる月光はあまりに細く、灰色の闇をなぞる程度の役割しか果たさない。
宿へと向かう足取りは重く、影を引きずりながら漆黒の路地を曲がった、その瞬間のことだった。
不快な高音が、湿った空気を引き裂くように響いていた。
金属と石が擦れ合う、規則的で容赦のない音。壁の影に埋もれるようにして蹲(うずく)まる人影があった。
ボロ切れ同然の服を纏った細い背中。
少女と呼ぶにはあまりに危うい輪郭をしたその躯体は、周囲の闇を吸い上げて凝固したかのように動かない。
彼女は、研ぎ石に一枚の鉄片を擦りつけていた。
露店で投げ売りされているような、粗悪で安価な鉄剣。
刃こぼれだらけのその刀身には、赤黒い乾ききっていない血がべっとりとこびりついている。
少女自身の指先もまた傷つき、自らの血と剣の血、そして研ぎ汁の混ざり合った汚濁が、薄暗い石畳の上へポタリと滴り落ちていた。
痛みを感じる神経など最初から焼き切れているかのように、少女の手元に迷いは一切ない。
無心。ただひたすらに刃を研ぐ動きだけが、機械じみた精度で繰り返されている。
その光景には、命を刈り取る道具を仕立て直すという生々しい意志だけが満ちていた。
足音に気づいたのか、少女の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと持ち上げられた顔。闇の底から覗く二つの瞳が、こちらの存在を静かに捉える。
互いに視線を交わしたその一瞬、全身の毛羽立つような寒気が背筋を駆け抜けた。
そこには感情の欠片もなかった。
愛憎も、絶望すらも削ぎ落とされ、残ったのはただ一つ。
目的を果たすためならば、己の肉体も、魂も、世界のすべてをも灰にして構わないという純粋なまでの異常性。
逃げ場のない狂気が、澄み渡る刃の輝きとなってその瞳の奥で静かに蠢いていた。
理解してしまった。そして、向こうもまた悟ったはずだ。
言葉など一言も要らなかった。
鏡を覗き込んだかのような錯覚。
自分の中に深く隠していた、同種の「壊れもの」の匂いが、路地裏の不快な臭気すら塗りつぶして生々しく主張し合っている。
おぞましい同類を見出されたという戦慄が、肌を粟立たせる。
少女はただじっとこちらを見つめ返すと、何事もなかったかのように視線を落とし、再び静かに研ぎ石へ刃を滑らせ始めた。
ジャリ、と金属を削る惨憺たる音が路地に再開する。背中にその音を感じながら、一度も振り返ることなく足を速め、夜の闇の奥へと消えていく宿の明かりを目指した。
【宿】
宿屋の木扉を押し開けると、見慣れた温かな明かりと薪の燃える匂いがルートを迎え入れた。
まずは体にこびりついた乾いた血と汚濁を落とすため、裏手にある水場へと向かう。
井戸から汲み上げた冷たい水を桶いっぱいに張り、頭から何度も浴びた。
手拭いで肌を何度も擦ると、黒く固まっていた返り血が赤い筋となって足元へ流れていく。
B2Fで刻まれたはずの無数の傷痕は、『超回復』によってすでに綺麗な皮膚へと戻っていたが、あの恐怖と痛みの感触だけは肌の奥に残っているようだった。
入念に汚れを洗い流し、濡れた髪を拭いながら、ようやく人心地がつくのを感じた。
部屋のドアを静かに開けると、ベッドの上でひざを抱えて待っていたミナモが、弾かれたように顔を上げた。
「ルート……っ!」
「ただいま、ミナモ」
ルートが柔らかく微笑むと、ミナモの表情からピンと張っていた緊張の糸がふっと解けた。無事な姿を目にして安堵したのか、大きな瞳にじんわりと涙が滲む。
ルートは身支度を終えると、自分のベッドの端に腰を下ろし、横になりながら今日一日あった出来事を穏やかな声で語り始めた。
B2Fへ足を踏み入れ、予選迷宮の厳しい洗礼を受けたこと。警備隊長のシュマイゼンに手厳しい忠告をもらったこと。
換金所でまとまった金を作り、あの『鋼の拳亭』で頑固オヤジに「武器は自分の命を預ける相棒だ」と痛烈なお説教を食らいながら、B2Fの魔物にも刃が通る新しい鋼の剣を手に入れたこと――。
危険だった出来事はなるべく伏せ、努めて軽やかな口調で語り聞かせるルートの声を、ミナモは小さく頷きながらじっと聞いていた。
だが、ルートが話を続けるうちに、ミナモの小さな肩がかすかに震え始めた。
ルートが血みどろで帰ってきた時の光景を想像すると、もしもあのまま帰ってこなかったらという恐ろしい思い。
そして、自分が置いていかれてしまうかもしれないという強い不安が、夜の静けさの中で一気に押し寄せてきたのだ。
ミナモの瞳からぽろぽろと大きな粒の涙が溢れ落ち、鼻をすする小さな音が部屋に響いた。
「……ルート……っ」
「ミナモ……?」
ミナモは自分のベッドの上で泣きじゃくり、べそをかきながら、縋るような目で見つめてきた。
「ねえ……そっちの、ベッドに行っていい……?」
消え入りそうな声で甘えてくる少女の姿に、ルートの胸がキュッと締め付けられる。
ルートは何も言わず、掛布団を少しめくって優しくベッドの半分を空け、手を差し伸べた。
「……うん」
ミナモはぽつりと頷くと、裸足で床を滑るように渡り、ルートの待つベッドへと潜り込んできた。
冷えていたミナモの小さな体が、しがみつくようにルートの胸元へと飛び込んでくる。
ルートはその背中に優しく腕を回し、折れそうなほど華奢な体をそっと抱き寄せた。
「……大丈夫。…俺はここにいるよ」
トントンと規則正しく背中を撫でてやると、ミナモはルートの服をぎゅっと固く握り締め、胸に顔をうずめたまま、静かに呼吸を整えていく。
「……どこにも、いかない……?」
「ああ。どこにも行かない。ずっと一緒にいる」
髪にそっと触れながら囁くと、ミナモは安心したように小さく息を吐き出し、やがて規則正しい寝息を立て始めた。
窓の外では、夕闇が完全に溶け去り、深い夜の静寂が街全体を包み込んでいた。
抱きしめたミナモの確かな体温と柔らかいぬくもりを感じながら、ルートもまた、ゆっくりと重くなる瞼を閉じた。
新しい相棒である鋼の剣を枕元に置き、大切な存在をその腕に抱きしめながら、二人は穏やかな眠りの底へと落ちていった。